とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

第一校、終了。

ウイスキー・ロックなどをすすりながら、久々に日記の更新。

ここしばらく日記をアップしていなかったのは校正に追われていたからである。

たしか2週間ほど前の日記でも「夕方まで集中して校正をする(こりこり)」などと書いていた気がする。

が、その実、真っ赤な嘘である。

実際のところ私は、まったく関係ない書き物をしたり、本を読んだり、ごろごろしたりしていたのである。

とはいえ、4月中旬に出版予定が組まれている原稿を放っておくわけにもいかない(たしか元々は昨年9月出版予定だった気がするが、まあ気にしない、しても仕方がないから)。

というわけで、ここ数日は朝から晩までゲラとにらめっこだったわけである。

なかなか校正に取りかかる気になれなかったのは、やはり、この原稿を書いた者としての書き手マインドから、うまく抜けきれなかったからである。

筆者校正とはいわば、自分のバカさ加減をクールに見極める作業である。

訂正が必要な箇所があれば、そんなバカな記述をした自分と取っ組み合いをし、ねじ伏せ、自分で自分を納得させるに足る、新しい記述をひねり出す、そんな工程である。

よほどの自虐趣味でもない限り、気が進むはずがない。

というわけで、私は第一稿が出たあと、しばらく遊び呆けていたわけである。

ようは現実逃避である。

とはいえ、「逃げるは恥だが役に立つ」というのは本当である。

恥ずかしながらも原稿から逃げ、「あははははは」と遊び呆けているうちに、どうやら「書き手」としての私はうまい具合にどこかへ消え去ってしまったようである。

6日前、久々に原稿を「どれ」と眺めてみると、あら不思議。

自分が書いたときには気づかなかった(もしくは、気づきつつも「ふん」と素知らぬふりをしていた)粗や無理筋がくっきりと浮かび上がっているではないか。

さらに同時に、それらの問題箇所に「ふふん、何言ってやがんだ、このバカめ。よし、いっちょツッコミいれたろ」的なマインドになる私が颯爽と登場したのである。

というわけで、この機を逃さず「これ幸い」と校正に入った私は、昨日の正午に第一校を無事終了させ、出版社に送ったわけである。

ふう。

ほっと一息。

修正・訂正・加筆・削除などなど、今回朱を入れた箇所はおそらく全部で300程度、その間胃袋に流し込んだブラックコーヒーは30を下らないはずである。

予定では三校までなので、できれば最後まで「ツッコミいれたろ」マインドを保ちたいものである。

ということで、近況報告的日記でした。

 

 

 

「どうでもいいこと」を「俺が言いたいこと」として真剣に語ることの意味について

金曜の深夜。
いや、土曜の未明というべきか。
外は冷たい雨。
アパートの住民がみな寝静まったであろう時間帯に、キッチンにパイプ椅子を持ち出し、ウイスキーを生(き)でちびちび啜りながら、筒井康隆『文学部唯野教授』を読む。
通読するのは2回目。
大学教授を主人公とし、文学部を舞台としながら、アカデミックな世界の醜聞やみみっちさを茶化す作品である。
と同時に、文学評論論をおさらいできるしっかりとした教科書的側面も持つ。
詳しい内容に関しては割愛。
で、そんな本を読みながら思ったことを以下に述べる(最近、校正の忙しさを口実にあんまりブログをアップしてないしね)。
どうでもいい・くだらないことなので、「あっそ」と思う方は「回れ右」でお願いします。

まだまだ未熟ながらも、33年という年月を生きると、いろいろとくっちゃべったり書き散らしたりすることとなる。
で、その都度の「俺の言いたいこと」を目の当たりにしてきた。
そんな経験がある程度蓄積されると、さすがに気づくことがある。
つまり、私の「俺の言いたいこと」なんて、子どもの頃から結局何一つ変わってなどいないのである。
で、ここからが肝心なところなのだが、そう自覚したうえで、私はなおもこうして「俺の言いたいこと」を書き綴っている。
「俺の言いたいこと」なんて代わり映えしないのに。
もっと言えば、「俺の言いたいこと」なんて、わざわざ書くまでもなく、わかりきっていることなのに。
というのも、私の「俺の言いたいこと」とは畢竟「私には『俺の言いたいこと』がある」というものに帰すのである。
私が文章を書くのは「言いたいことがある」と言いたいからである。
それ以上・それ以外の目的はないのである。
だから、私の「俺の言いたいこと」の正体なんて、私はとうに知っているのである。
にもかかわらず、私がこうして言葉を重ねるのは、なぜだろうか。
それがやっと、いま、わかった。
私は「俺の言いたいこと」が知りたくて言葉を重ねていたのではなかったのだ
つまり私は、「私は『俺の言いたいこと』をどう言えばいいのだろうか」と模索するために、言葉を発し続けてきたのである。
この模索の根底にあるのは、よく言われるような「俺の内面」なんてものへの興味ではない(そんなものはくだらない)。
そうではなくて私は、「みんな」に飲み込まれずかつ「俺」という独善に陥ることない、独立しつつも孤立しない人間として生きるために必要な適切な距離間を知りたいのである。
だからこそ、私は「どうでもいいこと」をさも「俺の言いたいこと」として、真剣に語り続けてきた。
そして、これからも「どうでもいいこと」をさも「俺の言いたいこと」として、真剣に語り続けていくのである。
なるほど。
そうだったのか。
このブログもそんな模索の一環なんだね。
というわけで、みなさん。
おやすみなさい。
良い夢を。

深夜にパスタを茹でる惨めさについて

惨めなものは世にいろいろある。
日付が変わろうとしているまさにその時刻に台所に立ち、パスタを茹でるというのも、なかなか惨めなものである。
勘違いしないでいただきたいが、なにも夜食のために台所に立つことを惨めだと言っているなのではない。
余った冷ご飯でお茶漬けを作るとか、戸棚に買い置きしていたカップラーメンにお湯を注ぐとか、そういう「小腹を満たすため」にちょっとした夜食を準備するなんてことは、誰でも経験することであろう。
それはちっとも惨めなどではない。
むしろそこにはささやかな愉悦さえ感じられる。
しかし、パスタを茹でるとなると話は別である。
パスタを茹でるという行為は日の光の下でなされるべきものなのである。
そこには一点の曇りもない、堂々たるパスタらしさがある。
対して、世間が寝静まった頃合いに鍋にたっぷりの湯を沸かし、塩を適量入れ、パスタを投入し、ガスコンロの前でひとり茹で上がるのを待つ、これはどうだろうか。
やってみるとわかるが、これはなかなか惨めである。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
グラグラと沸き立つ鍋を眺めながら、私はそう考える。
本来ならば今頃は夢の中のはずであった。
休みで逆転してしまった昼夜を再逆転させようと、早めに夕食を済ませた今日の私は、シャワーを浴びたあと、ウイスキーをロックでちびちびやりながら害のない本を読みつつ、ベッドの中で睡魔の到来に備えていた。
それが思えば8時過ぎのこと。
しかし、眠気はなかなか訪れない。
渡辺淳一のエッセイを読み終えた私は、若き日の村上春樹のエッセイに手を伸ばした。
それがたしか9時過ぎのこと。
村上のエッセイを読み終えても、それでも一向に眠くならない。
なぜだろうか。
理由はかんたん。
空腹なのである。
あまりにも早い時間に夕方を口にしてしまったからである。
私は空腹なのである。
何か口にしたいのである(酒以外のものを)。
もちろん、ここで食べるべきではない。
私だってそれはよくわかっている。
時計の針はすでに10時を回っているし、だいたい歯磨きだってとっくの昔に済ませたのだ。
そう自分に言い聞かせ、今晩3冊目となる本(橋本治)のページを繰る。
しかしいくら活字を追っても、やはり一向に眠気が近づく気配は感じられない。
むしろ目は覚める一方である。
2時間経ち、日付が変わる。
まだ眠くならない私。
溶けてしまったグラスの氷。
嘶く腹の虫。
もう、だめだ。
耐えられない。
何か食べよう。
いや、この表現は正しくない。
私はそう気づく。
「何か」などではない。
この数時間、私はうすうす気づいていたのである。
自分の心の隅っこで、ある抑圧された欲望がひっそりと私を待ち構えていたことを。
そいつが睡魔を遠ざけていたのである。
そいつは「何か」などではない。
今ここで私に口にされるべきはパスタでなくてはならないのだ。
私はそのことをごまかしてはならないのである。
そういうわけで、私はこんな時間に台所でパスタを茹でている。
もちろんそれだけで済むはずはない。
パスタソースだって用意したのだ。
まず大蒜を粗めに刻む。
フライパンにオリーブオイルを敷き、刻んだ大蒜と赤唐辛子を1本入れ、弱火で香りを引き出す。
香りが十分にたったら、苦味を出さないようにいったん赤唐辛子を取り出し、鯖の水煮缶を投入する。
くさみ消しのため白胡椒を少々振ったあと、身を細かく砕きながら、油と鯖のエキスを馴染ませ、煮立たせる。
ちょうどパスタがいい感じに茹で上がったので、少量の茹で汁とともに投下し、よく和える。
最後にちょっとだけ醤油で風味付けをし、取り出しておいた赤唐辛子をちょこんと添えれば完成である。
ああ、なぜ私はこんな真夜中に本気を出して和風パスタなど作っているのだろうか。
これが日曜日のランチだったなら、そして一緒にテーブルを囲み「美味しいね」と微笑んでくれる女の子でもいれば、まさに晴れ晴れしく祝祭的な一連の行程だっただろうに。
それがなぜ、同じことを平日の深夜のひっそりと静まり返った台所でやっただけで、こんなにも惨めさを感じさせるのだろうのか。
うう。
こんなに旨いのに(自分で言うのも何だが)。

雑記(2月8日~12日)

8日(月)

晴天。

9時すぎに起床。

高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』(2013年)の製作過程を撮したドキュメンタリー『かぐや姫はこうして生まれた』を見る。

3時間近い長尺のうえ、春の午後のぽかぽか陽気も相まって、途中で眠くなる。

たまらず午睡。

起きると夜9時(!)

これはいかん。

あまりにも一日を無為に過ごしてしまった。

とりあえず運動がてら散歩に出る。

2時間ほど家の周囲をぶらぶらする。

小腹が空いた。

ちょうど屋台があったので夜食(じゃがいも炒めと焼き豆腐)を買う。

締めて10元なり(およそ160円)。

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帰宅。

持ち帰った夜食を口にしたあと、シャワーを浴びて汗を流す。

不思議なもので、今日一日とくに何もしていないのに、まぶたが重くなる。

本を片手にベッドでうだうだしているうちに夢の中へ。

おやすみなさい。

 

9日(火)

昨日と同様9時すぎ起床。

いい天気。

薄雲が出ているものの快晴と言ってよいだろう。

カップスープを飲みながら、養老孟司『養老孟司の人生論』(PHP、2016年)を読む。

天気がいいので、昼前に家を出て1時間ほど散歩。

てくてく。

さて、仕事しなきゃな。

いったん家に戻って支度をして、2時過ぎに大学へ。

キャンパス内の梅がほころび始めている。

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ああ、ほんとうにいい天気!

背中のリュックに入っている原稿なんて投げ出して、春の陽気を身体いっぱいに味わいたい。

そんな誘惑がしつこく「つんつん」してくる。

必死で振り払い、足早にオフィスへ。

机にかじりつき 夕方まで校正を続ける。

カリカリカリカリ……。

2課分片付ける。

ほかの先生方も校正しているのだが、それらはO先生がとりまとめている。

なので、今日済んだ分をO先生へ送信。

今日はここまで。

キャンパスを出る。

夕暮れが綺麗なので、すぐに家へ向かわずにお気に入りの散歩コースを散策する。

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市場へ向かう。

場内をいろいろと物色した結果、本日の夕食は北京ダックに決定。

「北京ダックとは皮だけ味わって他は捨てる料理だ」

そんな誤解をしている日本人もいるが、実際の話、本場では肉もちゃんと食べるのである(アヒル肉っておいしいんだよ)。

ひとり暮らしなので、1羽丸々は多すぎるので、買うのは半分だけ。

注文を受けたおばちゃんが薄く切り分けてくれる。

つけだれ・皮・薬味の白ネギもセットで、お値段は29元(およそ500円)。

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帰宅。

手を洗い、服を着替える。

北京ダックを食べながら、昨日途中まで見た『かぐや姫はこうして生まれた』を再生。

今日は最後まで見る。

今回印象に残ったのは、先行放映される宮崎駿『風たちぬ』(2013年)と合わせて流す予告編の内容に関する、高畑とプロデューサー西村義明のやりとりである。

ものを作るのはただでさえ難しい。

それが高い創造性を求める人たちのチームプレイとなればなおさらである。

お互いに「切った張った」だからね。

高畑と西村の会話は私にそのことを強く印象づけた。

映画の場合、映画を売る側(プロデューサー)としては、少しでも多くのお客さんに劇場に足を運んでもらいたいと願う。

したがって、予告編にはその映画のいちばんおいしいところ・目を引くところを持ってこようと考える。

一方の映画を作る側(監督)は、観客にはまっさらな状態で映画に望んでもらいたいと思うし、その映画の「いちばんおいしいところ・目を引くところ」は実際に映画を見てもらうまで隠しておきたい「隠し玉」なのである。

「隠し玉」を予告編で流されてはたまらない、「隠し玉」なんだから。

『かぐや姫の物語』の「隠し玉」は、まるで閻魔大王のような形相のかぐや姫が疾走するシーンである。

あそこの作画はすごいし、「おお!」と思う。

背景と動画が一体となって躍動している感じが、いわゆる「ジブリらしさ」を裏切っていて、とても新鮮である。

プロデューサー西村としては(ジブリの元締めである鈴木敏夫としても)、これは予告で流したい。

私たちが『竹取物語』やかぐや姫、そしてスタジオジブリに対して抱いている一般的なイメージをひっくり返すシーンであり、私たちに映画館へと足を運ぼうと思わせる強いシーンだからである

しかし、監督高畑は「ええ? あれを流しちゃうの?」と承服しかねる。

「いちばんおいしいところ」や「目を引くところ」は、実際に観客が劇場に来て、椅子に座り、スクリーンと向い合う瞬間まで、とっておきたいわけである。

とっておきたいから「とっておき」なんだから。

それを先に見せちゃうなんて、ありえない。

というわけで、両者の話し合い(というより西村による高畑の説得)は難航する。

結局、高畑が折れる(というよりめんどくなる)。

1分近く沈黙したのち、高畑は「あ、眠くなってきた」と言い放つ。

そして、「まあ、よろしくやってよ」「わかんない、宣伝は」「まあ、それはそれで難しい仕事だし」的なことをごにょごにょと言い残して、その場を去ってしまうのである。

あとにぽつんと残されたのは片付かない表情をしたプロデューサー西村だけ。

その胸中の寂しさ・やるせなさ、いかほどばかりか。

まったく、プロデューサーというのもストレスフルである。

このやりとりのあと、西村は車を走らせながらインタビュアーにこう漏らす。

企画・脚本・絵コンテ、そういうことで現場にへばりついてやってるときには、ぼくは作り手なんですよ。おれ、高畑さんに言ったことあるもん。「これはぼくの映画ですから」って。

高畑さん笑ってね、「そうですよ」って。「自分の映画だって思った人間が多い作品は、やっぱり良い映画になる」って。「これは自分が作った」って思える人間が多い方が、やっぱり良い映画なんじゃないかって。

もちろん、アニメーション映画って、だって画を修正していく作業があるから、独裁的にならざるをえないじゃないですか、高畑さんがよく言うように。でも、そのなかでも、この作品をね、自分の作品だと思って作る人間がいて、世に送り出してくれる人間がいた方が、そういう人間が多ければ多いほど、やっぱりね、映画は良くなるし、映画は当たるんじゃないですかね。 

西村のこのつぶやきを聞いて、私はそれまでの「プロデューサー=映画を売る人、監督=映画を作る人」という安直な捉え方を反省した。

たしかに、プロデューサーは広告主や協賛企業、そして市場を意識しなければならない。

その観点から、作り手である監督に意見をしなければならない立場だし、ときには監督の意向を捻じ曲げることだってあるだろう(宮崎駿監督の「アシタカせっ記」というタイトル案を差し置いて『もののけ姫』というタイトルを独断でマスコミに公表した鈴木敏夫のように)。

しかしそれは、「映画は売れればいい」と投げやりな態度になったり、「売れるような映画を作ろう」と商業主義に走ることと、決してイコールでは結べない。

どうすれば監督が創ろうとしている世界をできるだけ損なわずに、むしろそれ以上に受け手へとパスできるか。

優れたプロデューサーは、そんな問題意識と創意工夫を備えているはずである。

よく言われるように、物語とは作り手の意図や主張をそのまま受け手へと伝達する装置ではない。

村上春樹は川上未映子によるインタビューのなかで、こう語っている。

村上 頭で解釈できるようなもの書いたってしょうがないじゃないですか。物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くも何ともない。読者はガッカリしちゃいます。作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている。
ーーそれが村上さんの小説にとって大切なことであるのはわかるんですけど、でもそれはそれとして、実はこれが何を表しているとか、そのつながりが本当はこういう意味なんだ、みたいなこと、村上さんの中にはない?
村上 ない。それはまったくないね。結局ね、読者って集合的には頭がいいから、そういう仕掛けみたいなのがあったら、みんな即ばれちゃいます。あ、これは仕掛けてるな、っていうのがすぐに見抜かれてしまいます。そうすると物語の魂は弱まってしまって、読者の心の奥にまでは届かない。
   村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』pp.116,117

私は村上の「読者は集合的には頭がいい」という考え方を素敵なものだと思う。

たしかに、なかには「バカな読者」もいれば「自分で考えない読者」もいるだろう。

しかし、だからといって書き手が「バカにでもわかるように書く」「自分で考えられない人間でも理解できるように作る」という道を選択すると、創作の楽しさや物語を受け取る喜びは失われてしまうだろう。

それは啓蒙の道である。

ストーリー・テラーの役割は受け手を啓蒙することではない(というか、啓蒙という発想自体がどうかとは思うが、まあそれはそれとして)。

物語を語る者の役割は、物語に豊かな素材を散りばめておきながらも、物語それ自体を空白として差し出すことにある。

というのも、点在する素材と素材を結びつけ、空白に意味を見出し、物語と自分との関係を構築するのは、それぞれの受け手の仕事だからである。

だから、原理から言えば、優れた物語は受け手の数だけそれぞれの意味を生じせしめるはずである。

村上の言葉を借りれば、「一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいく」はずである。

それは映画でも変わらない。

物語の語り部である監督が優れたストーリー・テラーならば、その映画を受け取った人間はそれぞれ自分なりの意味を見出す。

結果的に、受け手が多ければ多いほど、その物語は豊かな解釈を実現する。

だから作品を供給することを役割とするプロデューサーは、その「媒介者」としての本然からいえば、優れた物語だからこそできるだけ多くの観客に見てほしい=物語の意味や解釈を少しでも最大化させたいと願うはずである。

それは「売れればいい」「投下した資本を回収できればいい」という功利的な動機と表面的にはよく似ているが、創作という観点から見れば全然異なるものである。

西村の「おれは作り手でもある」という自負から、私はそのことを学んだ。

難しいね、ものを作って提供するって。

そんなことを考えていたので頭が冴えてしまい眠れなくなる。

寝ついたのは結局4時過ぎ。

 

10日(水)

11時起床。

空が白く霞んでいる。

旧暦に則れば明日は除夜である。

ということは、中国人の生活感覚ではもう年の瀬もいいところなのである。

しかし、祖国日本を離れて8年目となる私の時間軸は日本的時間軸にも中国人的生活感覚にも属していない。

結果として、私の行動基準と世間一般(日本・中国)的な時間軸には有意なズレが生じてしまうのである。

ということで、世間の皆様型が家族・親族一同と年末行事を楽しんでいる最中、私はとりあえず大学に行く。

まずは雑記を書く。

つぎに校正作業にとりかかる。

「文体」の課の構成がわかりづらい。

構成をいじったり、いろんな人のご意見を伺ったりする。

伺ったあとで、「あ、そうか。中国ではもう年の瀬もいいところなんだ。年末の家族団らんを邪魔しちゃったな」と気づくが、もう遅い。

反省。

反省したので、夕方で今年(旧暦)の仕事納めとする。

 家に帰る。

夕食(ビッグマック)を食べたあと、ぬるめのお風呂にゆっくりと浸かりながら、ドキュメンタリー『スタジオジブリ物語』を見る。

『アルプスの少女ハイジ』の制作に関して語る宮崎駿の言葉が印象に残る。

当時の常識から言うとですね、非常識の極みです。

子ども達には刺激を与えて気を引くように作らなければ視聴率がとれないとか、そういうことが一般常識としてテレビ界に染み通っている時に、それに真っ向から「違う」って言った訳ですよね。

かっこいい。
これを受け手(この場合は子どもたち)への愛と呼ばずに、なんと呼ぼうか。

宮崎こそ、子どもを「子ども扱い」しない、子どもへの愛に満ちた作り手である(あれ、これ前にも書いた気がするな)。

大人たちは簡単に子どもを「子ども扱い」する。

「これは子どもにはまだ難しいだろう」とか、そこから派生した「どうせ子どもはこうしておけば喜ぶだろう」とか。

でも、そこに子どもに対する見下しがどれだけ含まれているか、私たちはよくよく考えるべきだと思う。

私たちの幼少期を振り返れば誰でもわかることだ。
大人たちが子どもを舐めてかかると、子どもたちはその態度から「あ、こいつ私を子ども扱いしてる」と敏感に嗅ぎとる。
話はちょっと逸れるけれども、教科書もそうだ。

たとえば、日本語を教える教材(とくに初級)の中には、流れや内容から見てまったく必要性が感じられないイラストを載せているものがある。

私はそういうものを見かけるたびに怒りすら覚える。

イラストを使うことで学習者の理解を助けるのならば、ばんばん使えばいい。

学習者の学びを援助・促進するためならば手段は選ばない。

それが教育者として求められる臨機応変さだ。

だから、私だってこれまでの授業で、マンガやドラマ、漫才、カルタ、調理器具、楽器などなど、その都度の学習課題に合わせて、いろいろ取り入れてきた。

ときには「マンガで何がわかるのか」とか「アニメなんか底が浅い」という人間もいたが、そういうのは表面的な見かけだけで価値を判断するバカ特有の発想なので、取り合う価値などない。

私は必要性を感じればマンガだってアニメだって教育に取り入れる。

しかしそれは、目の前の個々の学習課題に際して、マンガやアニメを用いることで学生さんをより深い学びへと誘うことができると判断したからである。

決して「どうせ、マンガ・アニメを使っておけば学生は喜ぶんだろ?」と思ったからではない。

前者は教師としてとるべきテクニカルな問題である。

後者は学生を舐めたバカ教師特有の態度である。
「どうせ今の学生はバカだし怠け者だから、流行りのアニメやかわいいマンガでも添えとけば喜ぶんだろ?」

教師自身がバカだからそういう発想が生じるのであって、そういうバカ教師の目にはどんなに賢い学生だってバカとして映ってしまうのである。

おっと、失礼。

熱くなって話がそれちゃった。

話を戻すけれども、「どうせ子どもは気を引くような作り方してないと見ないんだから、こういうふうに作っておけば喜ぶだろうし、数字も取れるんだろ?」という作り手の傲慢さ・愚かさを、子どもは必ず理解する。
そして、そんな傲慢かつ愚かな作品を喜んで受け取る人間などいない。
当たり前だよね。

自分をバカで愚かな人間扱いする作り手が作った作品をぜひとも見たいと思う人間などいないからである。

そして、子どもは大人以上にそういうのに敏感なのである。

しがらみとか世間体とかから自由だから。

そんなの当たり前である。

宮崎駿の愛は、そんな「当たり前」を当たり前に貫いた結果である。

なぜ「数字」を気にする大人たちには、それがわからないのだろうか。

ひとつ思い当たる節があるが、それを書いてしまうといろいろと面倒なので、ここらへんで口を噤むのである(って、もうずいぶん書いちゃったけどね)。

 

長風呂から上がり、ベッドに移動したあと、今度は本を手にとる。

3回目となる村上春樹『国境の南、太陽の西』(1992年)を読む。

最初に読んだときも思ったことだけれど、個人的に村上の長編作品のなかではいちばん「怖い」と思う作品である。

別にお化けがわっと出てくるわけではない(いや、ある意味お化け小説なんだと私は思うけれども、少なくとも「やあ、私はお化けですよ」という形では出ない)。

恐怖心を煽るあからさまな描写があるわけでもない。

しかし、怖いものは怖いのである。

なおかつ、そこに妖しい美しさもある(本作にも登場するデューク・エリントン“The Star-crossed Lovers”のように)。

 それが怖いのである。

「ああ、おいらもひょっとしたらいつかこの『怖く妖しい美しさ』にひょいっと持ってかれちゃうんじゃないかな」とね。

別に私には心当たりなんてないが、その「別に心当たりなんてないが」という自分では決して気づけない自分の心の死角にこそ、いちばん怖いものは潜んでいるのである。

「自分では決して気づけない自分の心の死角」

それが怖いのである。

 くどいね。

 

11日(木)

除夜。

遅くまで本を読んでいたので、11時起床。

村上春樹を読んだ影響か、朝からパスタを茹でる。

プライパンでバジルソースを温めて、茹であがったパスタを投入、余熱でさっと和える。

マグカップにコーンスープ(インスタント)を注ぎ、ちょっと早い昼食を用意する。

本を読みながらゆっくりと食べ終わる頃には12時半。

食器を流しに放り込んだあと、食後のコーヒー片手に校正を進める(たしか昨日「仕事納め」した気がするが、まあいい)。

3時ぐらいに休憩。

散歩に出る。

これも村上春樹を読んだ影響か、昨晩本を読んでいると無性にウイスキーを啜りたくなった。

しかし手元には白酒しかない。

自ら試したからわかることだし、みなさんも自らお試しになればわかることではあるが、白酒と村上作品はまったく合わない。

スーツに裸足で便所サンダルを履くぐらい、合わない(別にどっちかが「便所サンダルだ!」とか「便所サンダルなんてクソだ!」とか言いたいわけではない、いまも履いてるし、部屋履きとして)。

ということで、少し離れたスーパーまで買い出しに行く。

道中、私の前を行く若い男がポケットから取り出した爆竹を一発だけ鳴らす。
あまりに唐突だったのでびっくりする。

というのも、合肥市では3年前から市内での爆竹が禁止されているからである。

中国には年越し前後に至るところで爆竹を鳴らす風習がある。

これは体験すればすぐわかるが、もうね、すごいです。

初めて体験したとき、私は「銃撃戦でも始まったのか」と思った。

それほどすごいのである(まあ銃撃戦なんて体験したことないんだけどね)。

この異国の風物詩、お盆に爆竹を鳴らす風習がある長崎県人である私としては、けっこう気に入っていた。

賑やかだしね。

ところが、近年の環境問題に対する意識向上のせいで、中国都市部では爆竹が禁止されたのである。

違反すると高い罰金が科せられるので、私はこの3年間というもの、合肥市内で爆竹の音を聞いた記憶がない。

ということもあり、目の前で久しぶりかつ突然“バン”とやられて、飛び上がるほどびっくりしたのである。
おい、びっくりさせんじゃねえよ。
それにこそこそ一発だけ鳴らしても意味ねえだろ、この根性無しめ!
やるなら罰金覚悟で堂々とやらんかい。

チキンなうえに中国語が苦手な私は心の中でそう毒づく。

 

気分を変えて川沿いへ。

てくてく歩く。

川に沿って焚き火の後が点々と残っている。

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これは春節(と清明節、日本で言うお盆)恒例の風景である。

この時期になると中国人は交差点や河岸で何やら黄色い紙を燃やす。

これはその痕跡である。

この黄色い紙、名を“纸钱”という。

けっこうリアルに紙幣を模した“冥钞”(ming2chao1)と同じく、死者を祭るときに燃やす紙であり、ようは「あの世」へ送るためのお金である。

中国人はこの“纸钱”を燃やして死者を供養する。

そうすることで、「あっち」の世界で暮らしている死者にお金を送り、生活に困らないよう心配りをするのである。

日本にも食べ物や飲み物を備える風習がありますね。

どちらも死者の安らかな「あの世暮らし」を願うという点では同じ発想だろうけど、それがお金であるところが中国らしいというかなんというか。

まあ、でもたしかに、私が「あっち」の世界に行って、もし「あっち」の世界でも俗世と同じように貨幣経済が発展していて、なおかつ「あっち」の私が「こっち」の私と相も変わらず欲だらけの人間だったならば、ありがたいかもしれない。まあそれはそれとして。

おそらくだが、春節はハレの日なので、「こっち」で暮らす私たちだけではなくて冥界のご先祖様たちにも贅沢してほしいという願いが込められているのだろう。

中国全土が同じような風習を持つのかどうかは知らないが、この「焚き火」、少なくとも合肥ではよく見かける風習である。

なので、この時期になると雑貨屋の店頭には“纸钱”が並び、死者を尊ぶ人々向けに売り出すのである。

では、この“纸钱”、いったいどこで燃やすのか。

ただでさえ広大な国土と多様な文化を有する中国のこと、これも一概には言えないが、一般的には道と道が交差する地点や河岸などの水辺で燃やすことが多いようで、そういった場所には焚き火の痕跡を確認できるのである。

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黄色いほうが“纸钱”、卵の左にある赤いほうが“冥钞”。

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では、なぜ交差点や河岸なのか。

この風習を知ったときから私は疑問だった。

授業中、学生さんたちに尋ねてみたことがあるのだが、彼らもあまり意識したことはなかったようだ。

「灯台下暗し」ではないが、自分たちに馴染みがある風習であるからこそ、その深意に思いを馳せないということはよくあることである。

で、そのときの授業ではいろいろと「あーじゃないか」「こーじゃないか」と盛り上がった。

その上で思ったことだが、おそらくそういう場所は、「こっち」と「あっち」が交わるポイントであり、「此岸」と「彼岸」を隔てるポイントだからだろう。

なるほど(って自分で納得してしまった)。

理にかなっている。

「三途の川」という言葉もあるし、ギリシャ神話でも“Styx”とか“Acheron”とかあるらしい。

長崎でも精霊流しは川や海でやるもんね。

「こっち」(此岸)と「あっち」(河岸)という思想、そして「こっち」の岸に立っている私たちは「あっち」側の岸に行ってしまった人たちとどうコミュニケーションすればいいのかという問題、それは古今東西を問わない発想である。

「集合的無意識」ではないが、人間とはまっこといろいろなことを考えるが根本のところで繋がっているらしい。古来から伝わる風習は私たちにそう教えてくれる。

こういうのを見て、「迷信だ」とか「非科学的だ」とか切って捨てる人がときどきいる。

たしかに、そうやって済ませることは簡単だ(ませた中学生にでもできる)。
だけど、ちょっと待ってほしいと思う。
だって、人間ってそもそも「こっち」と「あっち」に引き裂かれた存在ではないだろうか。

というか、「こっち」と「あっち」に引き裂かれた存在のことを人間と呼ぶのであり、「こっち」(此岸)と「あっち」(彼岸)の間でなんとかして折り合いをつける努力こそが人間的なのではないだろうか。

たとえば、埋葬がそうでしょ。

死んで動かなくなった者は「こっち」の世界にありながら、すでに「あっち」の世界へ旅立っている。

私たち人間は、その「こっちにありながらあっちにいる者」に対して、いかなる態度で臨むか。

私たちは「あっちへ行った者」を「こっち」にとどめ続けることはしないし、すでに「あっち」に行ったからという理由で無視することもしない。

必ず埋葬し、丁重に供養する。

そうしないと「祟る」からである。

「祟る」といっても、「あっち」から死者が戻ってきて悪さをするというわけではない。

「こっち」に残された者たちがきちんと「あっち」に送ってあげなかったせいで、「よし、これでおしまいね」と共同体の成員の死という出来事にきちんと折り合いをつけたという実感が持てず、「こっち」でなにか災いがあったときに「ああ、あのときちゃんと弔ってあげなかったせいだ」と受け取ってしまうということである。

私たち人間は動物の霊を「見る」ことはあるが、たぶん動物界に幽霊はいない(と思う)。

動物界には「こっち」しかないからである(たぶん)。

私たちは(信じるかどうかは別として)「こっち」と「あっち」を区別する存在である。

だから私たち人間は、まるで文をひとつ書き終わるごとに句点を打つように、死の一つ一つごとにきちんと死者を「埋葬」「供養」して弔うことで、「こっち」と「あっち」の間で折り合いをつけるのである。
一見すると正反対に見えるけれど、それは科学だって同じだ。
「既知」(こっちの岸)と「未知」(あっちの岸)の間で折り合いをつける知的営み、それが科学でしょ。

動物たちには科学がない(もしくは発達していない)。

動物たちには「こっち」しかないからである(たぶんね)。
科学者って、すでに馴染みある此岸と、まだ知らない・わからない彼岸の間で思考して、両者の間に橋を通す人間のことでしょ。

科学的人間は、自分たちが既に知っていることではなく、未知(あっち)と自分を取り囲む既知(こっち)のギャップを超えることを生きがいとする。

「今は説明できないことを何とかして説明すること」を重視する。

そういう人種を科学的人間と呼ぶのである。
だから、ほんとうに科学的な人間は「わからない」を惜しまないし、かんたんに「科学的にありえない」なんて言わないのである。

科学的事実なんてのは、「今はそうだ」(昔は違った、将来どうかはわからない)ってだけなんだから。
すべての事象を自分の既知に収斂してものを考える人間や、「あっち」(未知)の存在や彼岸の世界(わかっていない領域)を無視して思考する人間は、人間についてあまりに浅い理解しか持ちあわせていない。

私はそう思う。

それは彼が人間ではなくて「井の中の蛙」だからである。

私はそう考えている。 

 

そんなことを考えているうちに買い出し終了、またとことこと歩いて帰宅。

シャワーを浴びて、夕食を準備する(ホタテのバター醤油炒め・たこ刺し・ウイスキー)。

食後、ベッドに移動して『国境の南、太陽の西』の続きを読む。

いろいろと思ったことがあるけれど、ここで書くと長くなるので、稿を改めて論じる(っていうほどのものではないが)。

 

眠くなって就寝。

 

12日(金)

春節は晴天。

学生さんやお仕事関係のみなさんからの「あけおめメッセージ」にも気づかず爆睡。

1時に起きる(よく寝るなあ)。

とりあえず洗濯を済ませ、日記を書く。

今日は仕事はしない。

ごろごろする。

夕方に散歩へ。

途中の植え込みで新年早々「四葉のクローバー」を発見。

幸先がいい。

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ついでに夕飯の買い出しをする。

生食用サーモンブロックと鮭のアラをゲット。

気づけば夕暮れ。

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7時過ぎに帰宅。

シャワーで汗を流し、夕食。

サーモン刺しを食べながら、Bilibili動画で「ウォッカを飲んで初雪にはしゃぐノルウェイ人おじさん」の動画を見る。

なんのことかわからない方もおられるだろうが、そのままの内容である(YouTubeで検索してもらえばすぐに「あ、これのことだ」とわかります)。

このおじさんの動画を私はなぜだか大好きでよく見るのである。

なんでだろうね。

半裸のおじさんがウォッカをラッパ飲みしながら、ひとりで寒中水泳したり、雪を食べたり、スケートしたりしているだけの動画なんだけど。

しかし、なんだかこのおじさん、いつも心から楽しんでいるように見える。

私だけではなく、たぶんこのおじさんを見た人の多くが「楽しそうだな」と思うことだろう。

肝心なところは、このおじさんは見る者に「楽しそうだな」とは感じさせても、決して「うう、なんでこんなに楽しそうなんだ、くやしい」というような嫉妬の念を掻き立てなどしないということである。

まあ、当たり前と言えば当たり前である。

半裸のおじさんがウォッカをラッパ飲みしながら、ひとりで寒中水泳したり、雪を食べたり、スケートしたりしているだけの動画なんだから。

ふつうは誰も嫉妬しない。

というのも嫉妬という感情は、本来ならば自分も有しているはずの価値あるものごとが他人に専有されていることに対する(ときに理不尽な)怒りなのである。

だから、みんなが嫉妬するであろう「楽しそう」なものごと(莫大なお金とかかっこいいスポーツカーとか社会的ステータスの高い仕事とか)を享受している人間は、そのような「幸せ」を噛み締めているのと同時進行的に、周囲からの怒りを一身に集めているわけである。

その怒りの念は、その時々の局面で「これは重要な話だけど、あいつには教えないでおこうぜ。あいつイケ好かないし」とか、ときには「おい、おまえ調子乗ってんじゃねえよ。放課後に体育館裏に来い」という形で実体化し、結果として「楽しくない」「幸せではない」事態を招いてしまうのである。

唐沢版『白い巨塔』(2003年)のなかで、財前の愛人である花森ケイ子(黒木瞳)がこんな名言を残している。

「この世には誰からも好かれる人間なんていないものよ。だって誰からも好かれる人間を嫌う人間が必ずいるでしょ。世の中の仕組みはみんなそうだと思わない?」

私が言いたいことも同じことである。

みんなが理解できる価値あるものごと=「みんなが羨むこと」を現に享受している人間は、必ずみんなに嫉妬の念を生じさせ、災いを引き寄せる。

結果として、「ずっと幸せ」なんてことはありえないのである。

理不尽ではあるが、世の中の仕組みはそういうものである。

で、話はノルウェイおじさんに戻るけれど、私がこのおじさんを好きな理由はそこである。

私の目には、彼にはそもそも「みんなから好かれる」つもりが微塵もないようにみえる。

たぶん彼は自分が等身大で楽しめることかつ自分が心から楽しみたいこと(なおかつ徹底的に無価値であり無害なこと)を好き勝手にやっているだけなのである。
だから、このおじさんは誰が見ても「楽しそう」ではあるが、このおじさんを見て誰かが「けしからん!なにやってんだ、この不道徳な人間は」と頭から湯気することもないし(無害だから)、「ああ、これこそ私がほんらい手にすべき私らしい生き方だ。それなのに、このおやじはそれを勝手に奪っている、許せない!」などと思う人間もいないのであり、(無価値だから)、このおじさんを見て「わあ、このおじさん大好き」とみんなが思うわけでもないのである。

だって、おじさんが半裸でウォッカをラッパ飲みしながら、ひとりで寒中水泳したり、雪を食べたり、スケートしたりしているだけなんだから。

おそらく、このおじさんの動画を見ている人のほとんどは(生)暖かい目で見守っているだけだろう。
結果的に、このおじさんは「みんなから好かれる人」とも呼べない。

なので、「あの人、みんなから好かれてる、羨ましい! ううう……」と他人に地団駄踏ませることすらないのである。

というわけで、おじさんは他者から向けられる嫉妬や怒りとは完全に無縁なのであり、「楽しそう」「幸せそう」なのではなくて実際に「楽しい」「幸せ」な人生を送っているのである(たぶん)。
「誰がなんと言おうと、おいらはおいらで楽しむさ」

「気分が良くて何が悪い?」(by村上春樹)

私はこのおじさんのそういう生き様を心の底から「かっけー!」と思うのである。
まじで。

誤解していただきたくないので慌てて追記しておくが、私は別に「へん、人に好かれるなんてくだらね」と中学生的なツッパリをするさまを「かっけー!」と賞賛しているわけではない(そのツッパリこそ「人に好かれたい」という潜在的欲求の裏返しである、だっさ)。

そうではなくて、このおじさんが自分の行動を規定する原理を「人から好かれること」に設定していないところを、私は「いいね」と思うである。

 

「おいらはおいらの好きなことをやる」

「人がおいらを好きになるかどうかは、おいらにはどうしようもないや」

「え、そんなおいらが好きだって?」

「まじで?」

「ありがとう」

 

そういうものにわたしもなりたいからである。

 

雑記(2月1日~7日)

2月1日(月)

さよなら1月、ようこそ2月。

新しい月は月曜日から始まった。

9時起床。

ベッドのなかでしばらくだらだらしていたが、気合を入れて起き出し、正午すぎに大学へ。

成績処理も大詰め。

4時過ぎにすべての成績を入力し、提出。

ようやく大手を振って冬休みである。

これで心置きなく仕事(原稿の校正)ができる。

仕事が終わって息つく間もなく「よし、これで仕事ができる」と喜ぶのも変かもしれない。

しかし事務作業は期限・手法・目的があらかじめ定められた仕事であり、教科書作りは私の自由裁量による仕事なのであって、その違いは、私にもたらす悦楽の度合いに雲泥の差をもたらすのである。

もちろん、空いた時間には好きなことをして遊ぶのである。

ベッドでごろごろしながら小説を読んだり、ゆっくりと料理を作ったり、ギターをぽろぽろと爪弾いたり……。

それが2月いっぱい続く(と書いたあとに学校から開学が1週ほど伸びる可能性があるとの通知)。

ぐふふふふふ。

楽しみだな。

何をしようかな。

あれもしたいし、これもしたいぞ。

とりあえずお腹が空いたので、7日連続となる「あの店」へいって麺を食す。

ごちそうさまでした。

腹ごなしに1時間ほど歩いて帰宅。

シャワーを浴びてお酒を飲んでいるうちにまぶたが重くなってきたので、おやすみなさい。

 

2日(火)

冬休み初日。

空気は冷たいが暖かな陽光差す朝。

7時半に空腹で目が覚める。

味噌汁(ナス・たまねぎ・キャベツ)を温め、生卵を落としたところに、茹でた“うどん”をぶちこみ、食す。

うまし。

分厚い初稿が机の上で「ねえ、まだ?」と朱入れを待っているが、とりあえず今日一日は仕事をしないことにする。

あんまり根を詰めすぎるのは良くない。

ギターをてろてろ弾いたりニュースを見たりする。

そうしているうちに、あっという間に正午。

タブレットと本を数冊持って喫茶店へ。

とりあえず先週の雑記録をアップして、 夕方まで本を読みながら過ごす。

そのあと家に帰って少し仮眠。

6時過ぎに起きだし、ちょっとご飯を食べ、シャワーを浴び、映画を見たりギターを弾いたりしているうちにまた眠くなったので、また寝る(ぐうたらだなあ)。

 

 3日(水)

10時起床。

 眠い。

意識していなかったけれど、疲れていたのだろう。

1学期分の疲れがどっと湧き出している気がする。

なので、今日も一日ごろごろして休むことに。

乾麺タイプの“うどん”を茹でて食べたあと、本を読んだり楽器を触ったり、うたた寝したりして過ごす。

気づけば夕暮れ。

まずい。

さすがに自堕落すぎる。

ということで、久しぶりに(およそ10ヶ月ぶりか?)ロードバイクに跨り、『ろんぐらいだぁす』を見ながら30分間ローラーを回す。

今年は12日が春節なのだが、一般的に春節を過ぎるとどんどんと春の暖かさが増し、自転車日和が続く。

そのころにスイスイと長距離を走れるように、今のうちから脚を鍛えておかねば。

シャワーを浴びて汗を流したあとは、街へ。

居酒屋で瓶ビール(朝日)を飲み、チキンサラダをつつきながら、店内のテレビで流れている『孤独のグルメ』をぼぉっと眺める。

リラックス。

1時間ほどでお感情。

大学近くの“小吃街”へ。

 “小吃”とは、日本語でいうと「スナック」「おやつ」のことで、串焼きやフライドポテトなどの、小腹を満たすためのちょっとした食品を指す。

“小吃街”とは、そんな食べ物を売っている屋台街のことであり、中国を歩けばあちこちで目にする。

中国的な食品だけではなくて、回転焼き(今川焼き)や、たこ焼き、寿司など日本由来の食べ物も売られている。

なかなか活気があって、ぶらぶら見て歩くだけでも楽しい。

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f:id:changpong1987:20210206165001j:plain“小吃街”ではたいてい「臭豆腐」(chou4dou4fu)なるものが売られている。

これは発酵させた豆腐を焼いたり揚げたりしたもので、文字通り臭い。

ほんとうに臭い。

どれぐらい臭いかというと、中国に来たばかりで「臭豆腐」なるものを知らなかった私に思わず「この辺、公衆トイレでもあるの?」と口走らせたほどである。

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こちらは鉄板串焼きの屋台。

看板に書かれている“鱿鱼”はスルメイカ、“章鱼”とはタコのこと(ちなみに合肥は内陸なので、ここに住む方々はときどきイカとタコの区別がついていないことがある)。

ぶらぶらするのも疲れたので、20分ほどで切り上げて帰宅。

シャワーを浴びて寝床に潜り込むとたちまち眠くなる。

日付が変わるころに夢の中へ。

 

 4日(木)

爆睡である。

なにしろ12時に起きたんだから。

12時間睡眠。

しかし身体の疲れがとれ、頭が秋空の如くすっきりした。

雲一つない。

というわけで、大学に行く。

いろいろな雑用を済ませてから、校正作業にとりかかる。

6時まで作業。

帰りに“凉菜”と“卤菜”を売っているお店で夕食を買う。

中国語の“凉菜”とは「冷菜」のことで、つまり火を通していない冷たい食品のことである。ここでいう“凉菜”とは、ジャガイモやらサツマイモから作った“皮”と呼ばれる麺状の食品や生野菜を調味料で和えた料理のこと。

一方の“卤菜”とは、肉や卵などを醤油や料理酒、各種スパイスで作った“卤水”で煮込んだ食品を指す。”猪舌”(豚タン、“口条”とも)がお気に入りなので、ひとつ買って帰る(お店の人がその場で細く切ってくれる) 。

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帰宅して夕食を済ます。

満腹。

腹ごなしに夜のお散歩。

家の周りを歩く。

途中でよさげな生ビール工房を発見する。

中国では最近こういう小さな生ビール工房がけっこうあちこちにオープンしている。

店の中に大きな金属製の樽が備え付けてあり、そこから注いだ自家製生ビールを500mlから2ℓ単位で売るのである。

試飲もさせてくれるので、飲んでみる。

うん、美味しい。

白ビールを500mlだけ買う。 

こんどからちょくちょく来てみよう。

 

5日(金)

9時起床。

夜のうちに雨が降ったらしく、地面が濡れている。

カップスープとヨーグルトで朝食を済ます。

霧のような小雨が降り出すなか、傘を差さずに大学へ。

とうに冬休みに入っているので、外国語学院のビルには誰もいない。

コーヒーを淹れ、初稿の校正にとりかかる。

先週プリントアウトしておいた原稿を赤ペン片手に読み、問題がある箇所にカリカリと書き込む。

昼過ぎに休憩したほかは休みことなく作業を続ける。

5時過ぎに切り上げ。

雨は止み、街が暮色に包まれている。

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昨日と同じく、途中で“凉菜”と“卤菜”を買って帰宅。

白酒と一緒に頂く。

ほどよく酔いが回ったのでシャワーを浴び、さっさと寝る。

おやすみなさい。

 

6日(土)

9時過ぎに起床。

外はみごとに晴れ渡った青空。

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今年の暦だと、春節は来週12日である。

私はこの季節こそ中国の最も美しい時季だと思う。

少しずつ春の足音を感じさせる気候が、一年でいちばん晴れ晴れしいイベントを迎え高揚する人々を優しく包む時季である。

夜風には花の香りが混じり、蜜蜂が梅の花々を忙しなく巡り、川面では今年生まれた渡り鳥の子どもたちが羽ばたきし、猫たちが日向で惰眠を貪る……そんなこの時節を私は深く愛するのである。

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大学へ。

校正を続ける。

とりあえず全5パート構成のうちパート1までチェック。

コンビニで夕食(名古屋風鶏の唐揚げ串とビール)を買って帰宅。

食後に散歩をし、シャワーを浴びて、おやすみなさい。 

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7日(日)

9時半起床。

昨日に負けず劣らず晴天である。

突発的に『けいおん!』第1期を見る。

10年ぶりである。

op2の「Go!Go!maniac!」が懐かしい。
リズムが速いし複雑だから難しい曲である。
それはそうと、この曲は「好きなことをする」ことについて歌っている。
「好きなことをする」と聞くと、なかには「美味しいものを食べる」とか「おもしろい映画を観る」とか「スマホでゲームをする」とか、そういうことをイメージする人がいる。
その人たちにとって「好きなことをする」とは、ようは自分の興味ある情報を「入力」することなのである。
けれど、この曲が歌っている「好きなことをする」とは入力ではない。出力である。
「美味しいものを作って食べる」とか「おもしろい映画を観てレビューを書く」とか「新しいスマホゲームを自分で作る」とか、つまり、自分なりに興味があることを形にして表現するということこそ、この曲でいう「好きなことをする」なのである。
ヒロイン唯ちゃんはこのような出力の努力を「生きてるって感じ」「幸せ」「ダメんなるわけない」と言っている。
私はそのとおりだと思う。
私たちはほんらい自分なりに「出力」することが大好きなのである。
しかし、成長するにしたがって、大人たちの干渉や、世間の評価を気にする自分自身のせいで、その素朴ながらも純粋な喜びを忘れてしまう。

これは悲しむべきことだと私は思う。
自分なりに幸福感や生の実感を感じられる「出力」を持たない人生、それは私にとって地獄同然だからである。
子どもの個性や性向は子どもの数だけ存在する。

にもかかわらず、「子どものため」という名目で何かを夢中で「出力」している子どもに「好きでもないこと」を「入力」させたがる親がいる。

私にとってそれは虐待に等しい。

そうして育てられた子どもは、自分なりに幸福感や生を実感できる「出力」作業に価値を見出さなくなってしまう。

そういうことよりも、世間一般で「価値がある」「ためになる」ともてはやされる情報の「入力」作業に重きを置くようになってしまう。

結果的に、「じゃあ、あなたただけの幸福感ってなに?」「君だけの人生ってなに?」という答えなんてない問を前にすると、絶句してしまうのである。

そんなの、自信を持って「好きなことをしているとき、幸せだし、それが私の人生なの」って言えばいいのであるが、そんな(傍から見るとバカみたいな)答えを自信を持って言うためには、「好きなことをしているとき、幸せだし、それが私の人生なの」とほんとうに感じていなければならないのである。

なんてことを考える。

 

2時過ぎに散歩に出る。

川沿いをぶらぶらする。

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途中で市場を覗く。

魚売り場で普段は見かけない魚を目にする。

お店の人にその名を聞くと“年鱼”とのお答え。

しかしネットで調べても出てこない。

もう一度聞くと、やっぱり“年鱼”とのこと。

いわく、“年年有余”(nian3nian3you3yu2)と関係あるそうな。

ここで出てきた“年年有余”とは、中国では春節を迎える時によく見聞きする言葉であり、簡単に説明すれば、「毎年、ゆとりのある生活が送れますように」という願いを込めた言葉である。

ここで出てくる“余”(yu2)の発音が「魚」(鱼、yu2)と同じこともあり、中国には魚を模した春節飾りや、その名もずばり“年年有鱼”というこの時期に食べる魚料理が存在するわけである。

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道端で売っている春節飾り(魚)。

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とはいえ、今回市場で目にしたこの魚、私が思うにレンギョ(鲢鱼、lian2yu2)に似ている気がする。

レンギョだとしたら、その発音は“nianyu”ではなくて“lianyu”であり、“年年”(niannian)にはかかっていない。

なぜだろうか。

ひょっとして、あれか。

中国の南の方では、“n”と“l”の発音を区別しないからか?(日本人がrとlを区別しないように)。

真相は謎である。

そんなこんなを考えながら歩いているうちに3時間経過。

疲れたし、喉もからからである。

いつもの焼き鳥屋へ行ってビールを飲み、1時間ほどぼんやりしたあと、帰宅。

シャワーを浴びて即就寝。

おやすみなさい。

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自動車運転免許学科試験の「変な問題」について

休憩中にヤフーを見ていると、こんなニュースに目がとまる。

東大王・伊沢拓司、運転免許試験に落ちていた! 「合格を確信していた」が...まさかの「筆記」で落第(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

ふむふむ。

東大のクイズ王でも落ちるなんてことあるのね。

そう思いながらコメント欄を覗いてみると、次のようなコメントがあった。

Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。

  答:×30km/h以上で走ってはならないから

Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。

  答:×昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから

常識人ほど不正解になる。
もっとマシな問題にすべきでしょう。

この問題、私は知っている。
たしか2年ほど前にキズナアイの動画で目にしたのである(中国からはYouTubeみれないので、中国側のキズナアイ公式動画をリンクしときます)。

www.bilibili.com

免許を持っていない(というか自動車学校に通ったことすらない)私だが、強い印象を受けた記憶がある。

なぜか。

どう見ても「変な問題」だからである。

「へー。でも、ほんとうにこんな問題が出るんかね」

「車校」に通ったことがないので、私にはわからない。

ということで、いろいろとネットで調べてみて、自動車免許学科試験に「変な問題」が出題されるというのは衆目の一致するところらしいとわかった。

ふーん。

さらに「これって日本だけなの?」とも気になった。

なので、学生さんに聞いてみた。

すると、中国の学科試験(“科目一”と呼ばれる)でも同じような「変な問題」が出題されるそうだ。

なるほど。

で、そうやって調べるなかで気づいたのだけれども、日本でも中国でも、どうも多くの方々は「この変な問題」を「悪問だ」「クソ問題だ」という怒り・不満の態度で受け止めておられるようである。

なかには「問題作成者はバカだ」という声まで散見される(このニュースのコメント欄も然り)。

先にも述べたとおり、私は自動車の運転はおろか、自動車や交通法規に関連する知識すら有さないので、残念ながらその心中を察することができない。

もしかしたら、自分が将来自動車学校に通うことになったとき、学科試験対策をするときに、初めて理解できるのかもしれない。

そう思いながらも、それでも「ちょっとまってね」と思うところがある。

つまり、私は自動車運転免許証の試験問題に「変な問題」が含まれているという言明に対しては「そうだね」と同意するが、「悪問だ」とか「クソ問題だ」とか「バカが作った問題だ」という評価には「ちょっとまってね」と言いたいのである。

このことについて書いてみたい。

ほんらい「変」とは、価値中立的な言葉である。

この言葉は「見慣れないものごと」や「一般的ではないものごと」を指すものであって、快/不快、善/悪、正/誤などの価値対立・価値判断を含むものではない。

私はそう考えている。

たとえば、「変な人」=「悪い人」ではない(私から見ればクロヤナギさんやミワさんなんかは明らかに変な人だが、悪い人だとは思わない。知らないけど)。

同じように、「変な感覚」=「間違った感覚」でもない(変だけど心地よさを感じさせるものごとだってある。私が子どもの頃に流行った「スライム」とかね。おお、懐かしい)。

ここから分かるように、「変」が示すのは、たんにそれが「自分にとって馴染みない」という意味に過ぎない。

そこに快/不快、善/悪、正/誤などの意味合いを付与するのは、いうまでもなく私たちである。

話を自動車運転免許の試験問題に戻す。

私は学科試験で課される問題に「変な問題」が含まれているという意見に心から首肯する。

しかしだからといって、私はそれを「悪題だ」とか「クソ問題だ」とか「バカが作った問題だ」という方向に持っていくことには興味がない。

私がむしろ興味を惹かれるのは「なぜこんな変な問題が出されているのだろうか」についてである。

そこで、2年前の私はいろいろと考えてみた(ひまだね)。

問題作成者はいったいぜんたいどうしてこのような「変な問題」を作成し、そして出題するのか。

当然ながら、作成者の実際の意図など、そもそも外野である私たちにはわからない(わかるはずがない)。

なので、ここで事実上の問題となるのは「作成者の意図」に関して、私がどのような解釈を採用するかというものである。

同じ論題についてであっても、人それぞれ視点なり考え方は異なりうる。

だから、この「作成者の意図」に関しても人によってさまざまな解釈が可能であるし、どのような解釈も存在していい。

私はそう思う。

さまざまな解釈の間で唯一扱いに違いが出るとすれば、それはその解釈がほかの解釈と比べて「面白いかどうか」だけである。

注意が必要だが、その解釈がほかの解釈と比べて「正しいかどうか」ではない。

というのも、如何に真剣に情報収集して「現実的な」解釈を編み出そうと努力したところで、その妥当性・実際性を決定することなど不可能だからである。

何度も言うように、私たちはみな問題作成者の意図など知り得る立場にないのだから。

この論題に関しては、「あくまでこれは私の勝手な推測なんですけど」という但し書きがある限り、いかなる解釈も平等に存在していい。

私はそう思う。

なので、気楽にいろいろ解釈してみる。

すると、さまざまな可能性が指摘できて楽しい。

こうして私は、「おお、面白い問題だな」と思うに至ったのである。

それが2年前のこと。

あまりに面白かったので、私はこの題材を作文の授業で使ってみた。

キズナアイの例の動画を見せたあとで、このような「変な問題」が存在することに関して、学生諸君にそれぞれの解釈を書いていただいた。

学生さんに書かせるだけじゃフェアじゃないので、「あくまで私の勝手な推測ですよ」という但し書きとともに、私も自分なりの解釈を作文してみた。

それが先学期のこと。

さっきニュースを見たおかげで、その文章の存在を思い出した。

ずっとハードディスクの奥底でホコリ被らせておくのもなんなので、いい機会だから、ここに掲載しておく。

以下は免許を持っていないどころか「車校」に通ったことすらない私の根拠なき思弁(というか妄想)である。

奇論・妄論に興味がある方はご笑覧ください。

  

 

       自動車運転免許証試験の「悪問」について

 

 運転免許証をとるための学科試験が難しすぎると紹介するビデオを見た。このような問題だ。 

 

問題1.エアバッグのついている車は安全なので、シートベルトをしなくてもいい。

 答え × 

問題2.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。

 答え × 理由)30km/h以上で走ってはならないから。

問題3. 公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。

 答え × 理由)一般自動車ではなくてもシートベルトはしなくてはならないから。

問題4.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。

 答え × 理由)昼夜問わず気をつけて運転しなければならない。

問題5.制限速度30km/hの道路では、その制限速度を超えて走行することは許されない。

 答え × 理由)非常時はその限りではない。

 

 なるほど、確かに難しい。

 ビデオのなかで指摘されていたように、運転の知識を問う問題というよりは日本語の問題である。
 車の運転を学んだことがない私だが、このビデオを見て「なんでこんな変な問題が存在するんだろう」と考え込んでしまった。そこで、なぜこのような「変な」問題が出題されているのか、少し考えてみたい。

 もちろん、作成者が実際に何を考えてこのような問題を作ったのか、それは私には知りようがないことである。そのため、以下は私の推察に過ぎない。このことはあらかじめ断っておく。
 まず、この試験は何を問うているのかについて考えてみよう。それが知識だけではないことはすぐ分かる。というのも、ビデオで紹介されていた問題の多くは、その「正答」に客観的根拠が存在しないからである。

 知識を問う問題には必ず、正答とその正答の客観的根拠が用意されている(たとえば、問題2の正答「×」の客観的根拠は「道路交通法施工令第11条」である)。
 しかし、問題3~5は違う。これらの問題の“正答”は客観的に明らかな根拠だとは言えず、むしろ出題者・採点者次第だからである。

 とすると、「学科試験の問題はたんに受検者の知識を問うているわけではないのではないだろうか」という問いを立てることは不可能ではない。何が問われているのだろうか。
 忘れてはならないのは、そもそもこの試験は何の試験なのかという点である。いうまでもない。運転免許証の試験である。では、運転免許証の試験とはいかなる性質の試験か。それはつまり、これから車を運転しようとする「入門者」「ニューカマー」に向けて、彼らが運転の基本的な素養を身につけているかを問うものである。
 とすると、一見すると「変」に思える問題は、車を運転するための素養に関係している可能性がある。
 では、車を運転するための素養とはなんだろうか。

 まず私たちが思いつくのは自動車や交通法規に関する知識や操縦技術である。これらが欠けている者に免許は与えられない。

 しかし、私が思うに、それらはあくまで車を運転するための素養の一部に過ぎない。つまり、車を運転するためには、自動車や交通法規の知識や技術だけでは不十分だと私は考える。そこに欠けているものがあると思うからである。

 では、欠けているものとはなにか。「疑い深さ」である。疑い深さは車を運転するものにとって不可欠な素養である(と私は思う、運転したことないけど)。逆に言えば、疑い深さに欠けた人間には車を運転するための素養がないと私は判断する(免許持ってないけど)。なぜかというと、疑い深さに欠けてしまうと、人間は視野狭窄に陥ってしまうからである。その理路について、有名な「かもしれない運転」「だろう運転」をキーワードとし、以下に述べる。
 車を運転しているひとりひとりのドライバーには、自分が走っている道路状況を俯瞰的・一望的には把握できない。車の運転は必然的に視野の制約を受ける。同時に、運転の場である道路状況は、それぞれのドライバーにとっては思いがけないほど複雑である。そのため、運転する者はさまざまな事態を想定しながらハンドルを握ることが常に求められる。

 そのときにキーワドとなるのが「かもしれない運転」である。たとえば、前方の車が急に停車するかもしれないと想定しておく。その場合、あらかじめ車間距離を広めに取っておけばよい。そうすることで、先行車が急停車するという急な事態が生じた場合にぶつかる可能性を低くすることができる。同じように、路肩に寄せてトラックが停車している場合、トラックをやり過ごすときにはスピードを緩めるべきである。死角から子どもが飛び出してくるかもしれないからである。これが「かもしれない運転」である。

 「かもしれない運転」の根底にあるのは、道路状況は自分の予想を超える複雑な現実であるという認識態度であり、「私は誤りうる」という自己批評性である。私が思うに、これは運転に限らず、あらゆる場面において必要となってくる人間的素養である。
 一方の「だろう運転」はどうだろうか。この素養が欠けていると私は思う。「だろう運転」はすべてを自分の都合のいいように解釈するからである。「だろう運転」では、たとえば前方の車との車間距離が近すぎる場合、まあ別に問題ないだろうと考える。だから、前の車が予想外の急ブレーキをかけた場合、ガシャンとぶつかってしまうのである。「だろう」的思考を採用する運転手は、路肩にトラックが停車していても「別に大丈夫だろう」と思ってスピードを緩めずに走行し続ける。だから、万が一トラックの陰から子どもが飛び出してきた場合、避けられない。

 このように、「だろう運転」の根底にあるのは複雑な現実を自分の想定内に織り込んでしまう知的態度であり、「俺は間違わない」という自己認識の甘さである。
 よくよく考えれば当たり前のことだが、人が自動車事故を起こさないためにもっとも重要かつ根本的な素養は、知識の豊かさや運転技術の正確さではない(可能性から言えば、どんなに経験豊富な一流レーサーだって事故は起こしうる)。そうではなくて、的確な状況把握力と批判的自己認識である。極端な話ではあるが、「私には運転の才覚がまったくない」という自覚からハンドルをいっさい握らない人間は、絶対に事故を起こさないのである(だって運転しないんだから)。
 逆にいえば、いくら豊富な経験と正確な運転技術を有していても、「なあに、俺は大丈夫だよ」と自己を妄信する人間には事故を引き起こす可能性がある。どんなに一流のレーサーだって「ちょっと酒飲んだけど、まあ俺は大丈夫だよ。だって一流だから、へへん」と思い上がって車を運転し続ければ、いつかはきっと事故を起こすだろう。
 そして周知のように、自動車とはたった一度きりの失敗で大きな犠牲を生み出してしまう、恐ろしいテクノロジーなのである。

 いくら30年間無事故を誇るベテランドライバーであろうと、「ははっ、俺様はこれまで30年も無事故だぜ」と調子に乗って油断してしまえば、31年目にして大惨事を引き起こすことだってありうる。その場合、「30年間無事故」という事実には何の価値もない。しかし逆に、「おいらは免許とりたてだから、ちゃんと集中しないと」とか「そろそろ運転にも慣れてきたけれど、そういえば車校で『慣れはじめこそ危険だぞ』と言われたな。おい、油断するなよ」と日々心がけて運転してゆけば、思わぬ事故を起こす素因を減じることはできる。その一日一日の積み重ねが「30年間無事故」となれば、そこには大きな価値がある。
 このように、自動車を運転する人間に求められるものとは、目の前の現実と何より自分自身に対して疑い深くなることであり、自動車運転免許というものが、自動車の運転という一歩間違えば大きな悲劇を生む技能を公的に許可する資格である以上、これから車の運転をしようとする「入門者」「ニューカマー」の現実認識能力・自己批評精神を問うていると考えることはありうると私は思う。
 以上を踏まえて、最初の問題をもういちど見てみよう。 
 
出題者「夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない」
回答者「え、当たり前でしょ?  〇っと」
出題者「×です。昼だって危険です」
回答者「はあ?  そんなのあり?」
出題者「公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある」
回答者「そんなの常識じゃん。〇」
出題者「非常時は例外です」
回答者「なんだよ、ふざけんな!」 
 

 うん、たしかに。
 これらの問題はびっくりするぐらい理不尽である。

 受けたことがない私でも「そんなのあり?」と思ってしまう。

 しかし、車の運転って「そんなのあり?」とびっくりすること、「ふざけんな!」と言いたくなるぐらい理不尽な出来事とは切っても切り離せないんじゃないだろうか。だとしたら、だからこそ自分の「当たり前」や「常識」をとりあえず疑ってみる素養が求められるのではないだろうか(運転したことないからわからないけど)。

 話がやっと終わりに近づいてきた。

 なぜ自動車運転免許の学科試験では「変な問題」が出題されるのか。

 結論を言おう。

 私が思うに、自分たちの「当たり前」や「常識」で目の前の問題に望む入門者・ニューカマーたちに、「きみたちの『常識』や『当たり前』でやっていけるほど車の運転って甘くないぞ」とか「路上に出るってことは思いがけないことや理不尽なことだらけなんだぞ」と伝えるためである。

 「変な問題」が回答者に要求していることは「正しく答えること」ではい。「疑い深くなること」なのである。なぜなら、それが正しい知識や的確な技術と同様に(もしくはそれ以上に)重要な、車を運転するための基本的素養だからである。
 一見して「無駄な問題」「おかしな悪問」に見えるが、このような問いを出題することを通して「簡単に決めつけて運転すると、痛い目にあうよ」と教えてくれるのならば、受検者の資格や素養を問う問題として十分に意味がある。

 私はそう思う。
 もちろん、私のここまでの考えは車のことなんてぜんぜん知らない人間が捏ね上げた屁理屈なのかもしれない。実際には出題者はなにも考えていない「バカ」なのかもしれない。裏には免許人口の調節やら警察当局の陰謀やらが存在するのかもしれない。
 確かにそうかもしれない。
 しかし、私はそのような「俺は正しい」という前提で頭を使い文章を書くことには興味はないのである(私には知りようがないし)。

 だって、「俺は正しい」って言いたいのなら、「俺は正しい」って書けば済む話だし。

 わざわざ頭を使う必要なんてない。

 誤解してほしくないが、それは私が私が語っていることを「正しい」と思っていないとか、「正しくない」と思っているということではない。

 そうではなくて、私は「自分は正しいと表現すること」よりも「自分が考えていることが正しいかどうかを考えながら表現すること」のほうに心惹かれるということである。

 私の興味は、私が正しいとしたらどこがどれぐらい正しいのか、私が間違っているとしたらどこがどれぐらい間違っているのか、つまり私の知性の実態でしかないからである。

 それにさ。

 仮に私の「かもしれない」が考えすぎだとしても、私はこの問題から「車を運転するときには用心深くならなくちゃ」と学んだのである。

 そういう意味で言えば、私にとって、この試験問題には立派な教育的意味があったと思いませんか。

 あ、車校行ってみたくなってきた。行ってみようかしら。

 そしてらやっぱり「あのクソ問題め!」とか思うのかもしれないし。

私がやたらと文章を書いて出すわけについて 

授業が終わり、自由な時間ができた。

自由な時間ができたので、ふだんは時間がなくてなかなか読めなかった本を読んだり、気になっていた映画を見たり、思案顔で散策をしたり、ふんふんとご機嫌に楽器を弾いたりしている。

不思議なもので、いったんそういう生活モードに突入してしまうと、いろいろと「言いたいこと」がむらむらと沸き上がってくる。

その「むらむら」に乗じて「言いたいこと」を言葉として書き出し始めると、そのうちにペンが(というかキーボードを打つ手が)とまらなくなり、気づけば1時間ぐらいの時間なら「あっ」というまに溶けてしまう。

いわゆる「ゾーンに入る」というやつである。

スケジュールが詰まった(というほどでもないが、決められた)ふだんは許されていない快楽である。

私は、そうやって書いたものはせっかくなのであちらこちらにアップロードすることにしている。

もちろんこのブログもそうだし、中国ではQQやWechatというSNSを利用しているので、突発的に思い浮かんだことはそっちに記録して発表している(それをまとめたあとでこっちアップすることもある)。

ここ最近はすごい。

おそらくこの数日だけで万単位の文字数を書いてはアップロードしている。

そんなことをしてしまうと、私と「ともだち」になっている方々のタイムラインは私の駄文だらけになってしまい、私を“ミュート”にでもしない限り、たいへんな迷惑をかけることになってしまう。

すみません。

QQやwechatでは、多くの学生さんと“好友”(ともだち)になっているので、なかには「なぜこいつはこんなにたくさんの文章を出すのだろうか」と首をひねっている学生諸君もいるかと思う。

「先生は自分の考えを広めたいのかな」とお考えかもしれない。

ちょっとまってね、それはちょっと違う。

私は何も「自分の考えを広めるため」に、こうして文章をアップロードしているわけではない。

もちろん、自分の考えをこうして人目に晒す以上、そこに「自分の書いたものができるだけ広く読まれてほしい」という願いがあるのは当然である(「広く読まれてほしい」と「広めたい」は違うと思うが、それはそれとして)。

だから、自分が書いたものを「面白い」とか「なるほどね」などとお褒めいただいたときは、素直に嬉しいと思う。

ありがとうございます。

しかし、私が自分の書いたものを公開している目的はそこにはない。

いくつかの個人的動機がある。

せっかくなので、ここではその「いくつかの個人的動機」のひとつをお目にかけようと思う。

興味がある方はご笑覧ください。

 

私たちの社会には、一見すると人当たりがよく礼儀正しいが、心から信用できない人間というものがいる。

彼ないし彼女はいつもにこやかな笑みを湛えている。

彼らの対人スキルには一分の隙もない。

初対面の人間には自らさっと手を差し出し、相手の話を聞くときは「うんうん」と聞きながら、必要があれば適切な助言や意見を述べる。

完璧なのである。

にも関わらず、彼ないし彼女に私たちは微かな不安を与える。

そういう人間が私たちの周りにいるのである。

少なくとも私はそういう人間に会ったことがある。

なぜ私は完璧である彼ないし彼女に微かながらも不安を覚えるのか。

以前、この問いについて考えていた時期が私にはある。

その結果、わずかばかりではあるが、私なりの答えを得た。

というのも、このような「完璧な」人間は、その実「腹の底で何考えているかわからない」人間、「裏で何言っているかわからない」人間だからである。

じつは、彼らと実際に付き合いを続けていくなかで、その「腹の底」や「裏」が垣間見える瞬間がところどころ存在している。
つまり、彼ないし彼女がふと一瞬その“影”を見せたり、「あれ? なんかおかしいな」と私たちに感じさせる言動をとることが、ほんの希にあるのである。
とはいっても、基本的に彼ないし彼女は「人当たりがいい」「礼儀正しい」。

だから、私たちは「きっと私の気のせいだろう」と流してしまう。
そうして交際を重ねるうちに、ある日とつぜん彼ないし彼女の「腹の底」や「裏」で蠢いていたものが“にゅっ”と姿を現して、周囲を深刻な事態に巻き込む。

そういうことが実際にあるのである。
まだまだ若輩者ではあるが、私もさすがに33年生きてくると、そういう経験がある。

経験を通じ、身銭を切って、そんな人間が実際に存在することを私は知ったのである。

同時に私はあのような人間の見分け方を私なりに身につけた(ここではいわないけど)。

それだけではない。

私自身があのような人間にならない方法を発見するに至ったのである。

それは如何なる方法か。

簡単である。

「あの人が腹の底で何考えているか分からない」

「彼が裏で何言っているかわからない」

みなさんにそういう疑念を抱かせなければいい。

それだけなのである。

普通ならここで、「裏表を使い分けるのをやめよう」とか「裏でこそこそだれかの悪口を言うのはよそう」と考える。

しかし、それはあまりに短絡的である。

というのも、私たちは主観的には無自覚に裏表を使い分けることだってできるからである(現に私はやってる、たぶん)。

悪者がみな自覚的だとは限らないのと同じである。

真に邪悪な悪者は、むしろ自覚的には「善意の人」なのである。

というのも、自覚的には「善意の人」の邪悪さは歯止めが利かないからである(「いいことしてる」んだから、自覚的には)。

私が悪者かどうかについて、私の主観では判別できないのである。

同じように、私は自分が自分が裏表を使い分けているか、陰口を叩いていないか、私の主観では判断できない。

だから、私は私が無自覚に裏表を使い分けている可能性を考慮するし、自分が無自覚に裏でこそこそ他人の悪口を言っている可能性を考慮するようにしているのである(自覚的にどうどうと言うこともあるが)。

私が「裏表を使い分けるのをやめよう」とか「裏でこそこそだれかの悪口を言うのはよそう」という試みを短絡的だというのは、そのような意味においてである。
それに、よく考えてみれば、相手によって対応を変えるのはそもそも当たり前のコミュニケーション作法である(あなただって友達と上司に同じ対応をしますか? 私はしない)。
そもそも人間というものは、人には見せられない・見せたくない裏の部分だってあって当然ではないだろうか(あなたにだってあるんじゃないですか? 私にはあります)。

だから、じつはある人間が「腹の底で何考えているかわからない」「裏で何言っているかわらない」ことそのものには、なんの問題もないのである。

だって、それはあなたにも私にも変わらず当てはまる「人間の常識」だからである。

話を整理すると、「一見すると人当たりがよく礼儀正しい人」が抱える問題は、彼ないし彼女の「腹の底」や「裏」がわからないことではない。

問題は、彼ないし彼女の「腹の底」や「裏」について私たちが分析・推測・判断するための材料を、彼ないし彼女が私たちに決して与えないところにあるのである。

先に述べた「一分の隙もない」「完璧である」とは、そのような意味を持つ。

彼ないし彼女は自分の本心について「ボロ」を見せない。

だから、私たちは「あの人がほんとうは何考えているか知りたいんだけど、あの人はその手がかりをちっとも提示してくれない」「もしかして、私たちに何か隠しているんじゃないの」と疑心暗鬼になる。

かくして私たちは「一見すると人当たりがよく礼儀正しい人」に不安を覚えるのである。

ここまで考えを進め、私は「おお、そうか」と思った。

じゃあ、おいらがみなさんに「何考えているかわからない」と不安を与える可能性は低いじゃないか。

というのも、まず第一に、そもそも私は「一見すると人当たりがよく礼儀正しい」人間ではないし、「一分の隙もない」人間でもないからである。

私は気の利いたジョークも言えないし、相手の気持ちなんて読めないし、人見知りだから初対面の人に自分から手を差し出すなんて芸当は死んでもできない。頭が悪いくせにおしゃべりだから、まるで赤ちゃんがご飯を床にポロポロと落とすように、言わなくてもいいこと・言ったらまずいことを平気で口走る。私はそういう人間である。

この時点で「あの人、何考えているかわからない」と不安感を与える恐れが半減したわけである。

よかったよかった。

しかし、念には念を入れる必要がある。

もうひとつ手を打とう。

つまり、「私が腹の底で考えていること」や「私が裏で言っていること」に対して、みなさんが「そんなのわかりきってるじゃん」と自信を持って回答できるようにしておけばいいのである。

つまり、私の「腹の底」や「裏」について分析・推測・判断するための材料を、オープンな形式で提供しておけばいい。

そうすれば、あとはみなさまが勝手に私の「腹の底」や「裏」について分析し、推測し、判断し、そして納得してくれる。

「あいつの本心なんて見え透いているじゃないか」と。

それに、だいたい私自身だって私の「本心」なんてわからないのである。

みなさんが納得したその解釈を聞いてみたいものである。

そう。

ご賢察のとおり。

だから、私はこうして毎日、みなさんにとっては「どうでもいい」文章を書いて公開しているのである。

まあ、ときおり筆が滑って「あいつはバカ!」とか「こいつ、嫌い!」とかいうふうに、私の「腹の底」や「裏」がボロボロ出てしまうが、むしろそれこそが私の「腹の底」であり「裏そのもの」なので、「あいつが何考えているかなんてわかりきったことじゃないか」とみなさんに思っていただくという私の所期の目的に完璧に合致しているわけだから、まったく構わないのである。

もちろん、大抵の人間は「そもそもおまえなんかに興味ないよ」とお考えだろうから、そういう人にとって私のこの気遣いは余計なお世話だろう(すみません)。
しかしそれでも、ここまでずるずると読んじゃったみなさんは、おそらく良くも悪くも私(の文章)に興味をお持ちのはずである。

だからここまで読んじゃったのである(違いますかね?)

ありがとうございます。

そして、ときどき「きみが『言いたいこと』って、こういうことでしょ?」と言ってくれる人がいる。

おお、私が「言いたいこと」って、そういうのもあったのか。

なるほどなるほど、ありがとうございます。

そのために私は文章を書き、それをこうして公開するのである。

というわけで、ここまで読んでくださった方への感謝の気持ちを込めつつ、私が駄文でお目汚しをする理由ともに、私の「腹の底」「裏」を判断する材料(=私にとっては私も知らぬ「私の言いたいこと」に出会うきっかけ)を、こうしてそっと記しておくのである。