とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

“授人以鱼,不如授人以渔”

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 先週末にほかの大学の日本人教師や日系企業の方と「ちょっと、一杯」ということで、市内の日本料理屋(「雅」というお店)に行く。ピーマンの肉詰めや八宝菜などをいただき生ビールで流し込みながら、久しぶりに日本人のみの食事ということでいろいろお話を伺う。この食事会を開いてくださった企業の方は中国人学生や日本語教育の現場にたいへん興味をお持ちのようで、現在の中国の大学生や教育について膝を交え歓談。とても楽しいひと時でした。

 そのなかで、“授人以鱼,不如授人以渔”《老子》という言葉が出た。企業の立場から見ると、今の学生は自分で「魚」を捕る意欲と能力に問題があるということだった。これは現場で教える立場としても共有できる認識である(驚かれる方もおられるかもしれないが、外国語を専攻しているにも関わらず自前の辞書を持っていない大学生も多いのである)。

 この言葉に対してはいろいろと思うところがあるので、忘れないうちに雑感を記しておきたい。
 “授人以鱼,不如授人以渔”、平たく日本語に意訳するならば「魚を与えるのではなく、魚の取り方を授けなさい」というところだろうか。
 これは昔から好きな言葉だ。子どもに「魚」を与え続けることは、子どもを自立にも成熟にも導かない。良い言葉である。
 老子の金言に私などが言うことなど本来はないはずだが、私自身教師という仕事をしているなかでいろいろと感じることがあるので、愚論とは承知でちょっと述べたい。


 私にとって、教師に求められるもっとも根本的な教えとは「魚の取り方」を授けることではない(もちろん「魚を与えること」でもない)。 

 私が日々の教育の中で心がけていること、それは「魚」に関して問い続けることである。


 「うんうん、君は魚をどうやって捕るかを学びたいんだね。それはわかった」
 「で、そのまえに、君にとって魚ってなんなの?」
 「海魚? 川魚?」
 「食べるの? それとも観賞用?」
 「でも、魚を捕まえるのって、可哀想じゃない?」

 「なに?『生きていくためには必要』だって? なんで?」
 「そもそも本当に魚必要? 本当に魚じゃなければダメなの?」 

 「っていうか、君はなんで生きるの?」


 などなど……。
 教師が教師たる力量は知識の数量や技術の稚拙以前に発問能力で判断される。「ペーペー」が偉そうな事を言うようだが、私はそう考える。教師の力量とは、この「問い」が如何に多岐に渡っているか、どれほど多種多様で無尽蔵であるかによって決定されると考えているからである(私がそれを上手くできるというわけではない、残念ながら)。
 教師がまるで枯れることを知らない泉のように満々たる「問い」を自給自足し、その「問い」に千言万語を尽くし向き合いつづけていれば、その結果として教えるべき知識も技術も自然についてくる。私はそう考えている。
 だから、汗牛充棟の書斎に篭りきり古今東西の書物を読破しようとも、自ら「問い」を持てなければ、教師としてはその程度の存在であると私は思う。なぜなら、そのような教師は学生に書籍の知識や教科書の設問を与えることはできても、学生に(学生自身でも気づいていないが)必要とされているような「問い」と「学び」をあたえることはできないからである。
 学生が求める「魚」は本来多種多様なはずである。もちろん実際には、決まりきった「魚」しか求めない学生が多い。それはたしかに学生にも問題はあるかもしれないが、それ以上に「魚」に関して教師が問いかけていないからではないだろうか。

 現在私が教えているのは日本語とその周辺領域だが、日本語を学ぶ学生が求める「魚」が必ずしも日本語やその周辺領域だけに「棲息」しているとは限らない。むしろ自分が求める「魚」やその「棲息地」について広く深く捉えられる学生のほうが、大学生として王道的な学びをしていると私は思う。

 だから、大学で教えている以上、私も「魚」について(学生以上に)日々問わなければならない。 

 それは「魚屋」にとっての日々の「仕入れ」のようなものだ。

 

 「よっ、おやっさん! 今日はなんか入ってる?」

 と客に問われた時に、

 「悪いね、今日もいわししかねえんだよ」

 としか返せなかったら、私は「魚屋」としてその程度でしかない(「いわし」が悪いということではない、好きだし)
 もし、「魚」を獲って運んで調理して食べさせてくる先生が「良い先生」で、そうではない先生は「悪い先生」だと学生さんが言うのなら(実際に時々いるが)、申し訳ないが私としてはどうしようもない。 
 「おいらはひとりで十分やれるから、ほっといてくれよ」という学生さんも、構うだけお互いに時間の無駄である(じゃあなんで学校に来ているんだろうとは思うけれど)。 
 しかし、「魚」を食べたいし捕まえる知識や技術を学びたいけれど、どうしていいかわからない、だから大学に来ている、そういう学生さんだっているはずだ。だとするならば、必要なのは「魚」を捕まえる知識や技術以前に、「魚」について額を突き合わせ問うていくことではないだろうか。 
 もちろん最終的にどういうものを「魚」として捉え、どこでどうやって「漁」をし、どうやって「使う」か、それは100%学生さんの責任である(それが「大人」ということなんだから)。 

 当然「魚」としては的外れなものを追っちゃったり、その「魚」に不適切な「漁」をしちゃったり、やっとの思いで手にした「魚」を猫に掻っ攫われたりすることだろう。 
 しかし、「学ぶ」とは本来そういうことである。その結果、「市場」にたくさんの「魚」を供給してくれる学生さんが増えれば、われわれの知識や技術はどんどん豊かになる。そのなかから「魚屋」になる人間が出てくればなおさらである。 
 反対に、「魚」に関する問いが貧相な場では、「市場」には似たような、ありきたりで、代わり映えのしない、見飽きた「魚」しか並ばなくなる。似たような、ありきたりで、代わり映えのしない、見飽きた「魚」しか卸せない人間が「魚屋」になると、「市場」はさらに寂れていくだろう。 
 だから、「漁」に出る前のモラトリアムである学生さんに授けるべき根本的なことは、「魚」でも「魚の捕り方」でもなく、「魚について問う」ではないかと思う。老子が言う“授人以渔”にはそこまで含まれているのではないか(私の勝手な想像ですが)。 
 「大海原」まで漕ぎ出て初めて、 
 「で、おいらが獲りたい魚ってなんだっけ?」 
 と問うても、もう間に合わない(「川魚」を「海」で求めてもどうしようもない)。 
 だから、学生のみなさんは「陸」で先生が教えてくれるうちに、「問い」について習得したほうがよろしいかと思う(自己反省)。