「主観的である」とはどういうことか
大学城(複数の大学や学生街が密集した地域)の近くの某バーで同業の日本人教師と一杯ひっかけながらおしゃべりをするなかで「主観的であるとはどういうことか」について話題になった。
なんでもその先生は学生から「先生は主観的です」と批判されたのだという。
先生曰く、「私は思ったことをはっきりいってしまうタイプだから」ということだった。
私個人の話で恐縮だが、私も結構思ったことをはっきりいうタイプである。
私の場合、それに「めんどくささ」が加わる。
自分の考えをはっきりいうだけだと、ただ私の「好き嫌い」を口にしているだけだと思われそうで癪なので、私は後付けでグダグダと理屈をひねり出そうとする。
しかしその理屈が「屁理屈」だと思われても堪らないので、できるだけ自分の理屈に自身の理屈そのものへの批評性を兼帯させようとする。
しかししかし、それでは「めんどくせー」奴だと思われるというのは自分でもわかっている。
なので、口に出さずに我慢しようとすることもある。
しかし、私の場合言わずとも顔に出てしまうのである。
だから、
「なんだよ、言いたいことがあるならはっきり言えよ」
に
「あ、そう? じゃあ」
ということで、結局はっきり言うことになってしまうことも多々あるのである。
さすがに社交上の付き合いでは「めんどくせー」語り方は自制しているが(たぶん)、授業となると別である。
なにせ立場としては大学教育に携わっているわけだから、授業ではある程度「論じる」必要がある。
だから、私にたいして「あいつは主観的だ」というお叱りや苦情が随所で交わされている可能性が高い。ただの被害妄想かもしれないが、すくなくとも「めんどくさいやつ」だと思われているのは確実である(私もそう思うし)。
なぜこんなに「めんどくさい」語り方になるかというと、私は語るとき「お前の語り方って、ちょっとめんどくさいよ」、と後ろから肩を「ツンツン」叩いてくるもうひとりの私の言うことをいちいち拾い上げることが多いのである。
なにより、そういう「ツンツン」で「ぐるぐる」する感じが結構好きなのだ。
だから、私は半ば意図的に私の話をめんどくさくしてしまっているのである。
脱線した。「主観的である」ことについて話していたのだった。
いい機会なので、以下に「主観的とはなにか」について以前書き散らした駄文を貼り付けておこうと思う。あくまで私の「主観的」な意見なので、さらっと読み流していただければ幸いである(この「」のつけ方とかがすでにめんどくさいですね)。
※
自分の意見をはっきりきっぱり述べることを「主観的だ」と揶揄する人がいる。それは、おそらくは「主観的とはなにか」「客観的に語るとはどういうことか」について熟考したことがないからだろう。
主観的言説の弊害は、その発し手が「私は客観的だ」と思い込んでいるところから生じる。逆に言えば、客観的言説とは、発し手が自らの主観性をまず認めるところからしか生じない。
なぜなら、客観的であるとは、主観的な「私」と客観的な「あなた」の間で決定されるような単純なものではなくて、「私」と「あなた」を包み込んでいるコミュニケーションの場そのものに対する発し手の態度によって決定されるものだからだ。
発し手がまずは自らの主観性を認める。そしてその自らの主観性を自己批評しながらある物事について論じ、そうして紡がれた自説の扱いについてはオープンで幅広い場において受け手に一任する。それが私が考える客観的な態度である。
逆に言えば、自らの主観性を疑うことも認めることもなく、持論についての異論・反論、抗議、変更の要請など、一切のコミュニケーションを拒否する態度を主観的と呼ぶ。私はそう考えている。
だから表現を変えれば、客観的であるとは、様々な受け手が議論をするコミュニケーションの場そのものを構築できるような文体や話し方を発し手が心がけることでコミュニケーションの「場」そのものを尊重するという、発し手の主体的な脱主体的に態度に担保されているのである。
自らの言説への批判や質問に再批判・再反論、釈明を持って応じることはあってもいいと思う。しかし、私が思うに再反論や釈明はあくまで自分の過去の言説を受け取った一「受け手」としてなされたほうが建設的なのではないか。つまり「自らの言説への他人から言説」に応じる際は、「自らの言説にあらためて出会いなおした私」としてなされるのであって、自らの言説の受け取り方を完全に支配できる「主宰者」や「神」として振舞ってはならない。
同じことの繰り返しになって恐縮だが、平たい言葉で言い換えるならば、客観的であるということは、自らの自説よりも自らの自説を巡るすべての解釈や議論が存在する場そのものを尊重する、ということである(全然平たくないじゃん)。
なぜなら私たちはみな主観的だからである。にもかかわらず、私たちは客観的になろうとつとめることで何かを創りだす能力を発揮することができるのである。
それは、流行やトレンドに左右されずに自らの信じる味にこだわる寿司屋の頑固親父が、それでも客を信じて日々寡黙に寿司を握り続けるようなものである。
寿司屋の親父が「俺の寿司は世界で一番うまいのに、バカ舌の客はわかりゃあしねぇ」と毒づけば、これは主観的であるし、なんの生産性もない。
逆に、ただ食べるだけ食べて「不味い」とか「店の親父が愛想悪い」とか「山葵効きすぎ」とか、一部分一部分だけレビューする客も主観的であるだけで何も生み出してはいない。
しかし寿司屋の親父が自分の理念と信念のもと寿司を握り、味わう客が五官すべてで感じたことをオープンな言論の場(たとえばカンター越しの「これ、いいね」「そうですか、ありがとうございます」とか)に乗せる努力をすれば、それこそが客観的コミュニケーションではないか。
ここでいう「オープンな言論の場」とは「食べログ」に公開するとかそういうものではなくて、とりあえず自分を括弧に括りながらも自説を述べることで「場」そのものの神聖さに敬意を表しておく、ということである。
学生さんのなかには主観的であることと自説をはっきりきっぱり言い切るということを同一視している向きもある。しかし、必ずしも主観的イコール「はっきりきっぱり」ではない。「はっきりきっぱり」言い切りながらもコミュニケーションの場に敬意を評していれば客観性を保持できるし、逆に曖昧に濁すことで自説を決して曲げないことだってありえる。
つけくわえて言えば、主観的か客観的かを決定づけるのは、賛同者の数の問題ではない。主観的かどうかを決定づけるのは、異論反論を含めさまざまな言説が飛び交うなかでコミュニケーションの「場」を構築し継続させていくかという努力が発し手各々によってなされているかどうかである。
複数の人間のあいだで意見が共有されようとも主観から抜け出せない語り方というものもある。友達同士の「アイツ、主観的でやな奴だよね」「そうそう、私もそう思う」という会話は、たとえ大人数で共有され共感されようとも、「内輪」で展開され、みなが「主観的とは?」とか「わたしたちこそ主観的ではないだろうか」とかをオープンに論証する気がない以上、極めて主観的なのである(自分たちの主観性を疑っていない時点で、輪をかけて主観的だ)。
繰り返しになるが、「きっぱりはっきり」や「人数の多寡」そのものが「主観的かどうか」を決定づけるのではない。「にべもない」のがないのが問題なのである。
だから、別に一人でも客観的になることは可能なのである。
「この意見、主観的だよね」
「主観的で何が悪いの?」
「別に悪いなんて、言ってないよね。だって私は主観的人間だから」
「でも、贔屓目に見ても『わざとらしい』よね」
「そうそう。『寿司屋』の比喩も下手だし、ありがちだし」
「そうだね、ごめん」
というふうに、他人と語りながら一方で自分と「対話」すればいいのである(口に出したらアブナイ奴としか思われないけれど)。
※
というようなことを、ジョニウォカの赤ラベルをロックで3杯いただく間、その先生に滔々とお話した。
きっと「めんどくさいやつだ」とは思われたことだろうが、私の主観性と「めんどくささ」がもたらす害について自らオープンにした潔さについて評価して頂ければと思う。