今学期の授業が終わる
勤務校のカレンダーでは今週が前期の第16週目。金曜日までに授業が全て終わり来週からテストが始まる。
テストが終われば(私は)冬休みである。日頃許されていないこと(一日中好きな本を読み駄文を書き散らし、運動をして汗をたっぷり流し、映画を見ながら晩酌する)を集中的にやることが許されている期間である。
しかしそのまえに、まずはテストである。
授業の準備や授業そのものはたいへん愉快なお仕事なのだが、テスト関連の仕事はあまり心躍る仕事ではない。
試験監督の仕事は「はじめてください」「はい、終わりです」以外はウロウロするだけだし、テストが終わったら終わったで戻ってきた解答の処理(採点、分析、成績入力などなど)をしなければならない。
たいへんめんどくさい。
私にはゴールと道筋とタイムリミットが定められた仕事になるとモチベーションがたいへん下がってしまうという悪癖があるのだが、テスト関連の仕事はまさにそのような作業である。
しかし、これも大事なお仕事なので気合を入れて頑張るしかない。
もっとも、テスト関連の仕事の中でも「日本語会話」のテストは別である。
なぜなら面接だからである。
面接といっても、ようは事前に課したテーマをめぐる「おしゃべり」である。
だから面白い話をしてくれる学生さんが多ければ多いほど、この仕事は「あっ」という間に(本当に)終わる。逆に面白くない話ばっかりだと拷問を受けている気分になる。
幸いなことに私は拷問を受ける立場にはなく、むしろ成績を査定する権限を持つ側である。
だから、面白くない話や疲れさせる話が続くと採点が「辛くなる」ことはありえるよ、と学生諸君には事前にお話しておく。
もちろん意図的に「ふん、ツマらねー話しやがって……よし、減点!」などしない。
しかし「人間そういうところはあるよね、だから気をつけてね(ふふふ)」と事前にアナウンスしておくのは私なりのフェアネスである。
しかし学生諸君からすれば「お前の面白い面白くないとか、基準がよくわからんよ」とお思いかもしれない。
もちろんそんなものに基準などない(自分でもわからない)。だからそんなもので採点をしているわけではないからご安心いただければと思う。
ただし、学生さんたちにいつもお話することがある。それは「コミュニケーションとはなにか」、「コミュニケーションのために自分はどんな工夫ができるか」について考えて欲しい(採点基準の一つにするから)ということである。
たとえば、会話の試験をすると毎年必ず現れるのが「朗読」する学生さんである。つまり事前に暗記してきた日本語を私の前でスラスラと話すタイプである。
残念ながら、この手の学生さんに私は低い評価を付けることにしている(テスト前に「朗読はダメだよ」と説明しているので)。
なぜならこれは「会話」の試験であり「朗読」の試験ではないからだ(当たり前だ)。
「いい成績」や「正しい日本語」に目が行くあまり、目の前にいる相手を無視して丸暗記した内容をぺらぺら話す振る舞いは決して褒められたものではない。それはコミュニケーションや言語に関して深く考えてはいないから生じる問題であるように、私には見える(私が考えるコミュニケーションとは何か、についてはいずれしっかりと書きたいと思う)。
母語だろうが外国語だろうが、コミュニケーションの基本とは「壁あて」ではなく「キャッチボール」である。私は「壁」ではない。
母語だろうが外国語だろうが、言語はコミュニケーションのなかで私たちを作り変えるような存在である。会話の面接で「朗読」する学生さんは言語を手段としての側面からしか捉えていない。
会話の面接でいえば「何を語るか」も大切になってくる。
なにしろ今回は29名の学生さんとそれぞれ5分ずつお話することになる。29名がそれぞれ違うお話を振ってくれれば、この二時間半は私にとって「あっ」という間に過ぎるだろうし、29名がそれぞれまったく同じ話題をチョイスしまったく同じように語るならば、私にとってこの二時間半は苦痛に感じられるだろう。
授業ではほかにもいろいろ細かくご説明したが、ようはコミュニケーションについて自分で工夫している姿勢が見えていれば私はそれを評価するということだ。
ということで、今学期の会話面接のテーマは(学習歴1年半の2年生ということもあり)
「今学期、いちばん○○○だったこと」
にさせていただいた。○○に何を入れるかがまずは問われる(「うれしかった」とか「頑張った」だとカブる可能性が高い)。
そして○○を受けて持ち出してくる事例も大切になってくる(「恋愛」や「勉強」だと、私からすればあくびが出るほど聞き飽きた話になる可能性が高い)。
その話題をもとに、私と学生さんで一問一答で会話の試験を進めていく。
コミュニケーションとはなにかについて考え、話題作りや事例さがしを工夫してきた学生さんとなら、おそらく試験というより「おしゃべり」が展開されるのではなかろうかと推察するのである。
外国人教師である私と29名の学生さんが29通りの「おしゃべり」を日本語で楽しく展開できたならば、それは語学を学ぶ大学生として十分合格点に達している。そして、それは日本語の発音や文法以上に大切なことではないか(もちろんそういうものも大事だし採点するが)。
私はそう考えている。
ということで(どういうことだ)、これから日本語スピーチ大会のため南京まで行ってきます。
スピーチとコミュニケーションについてもつねづね思うところはあるのだが、それはまた別の機会に。