とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

趣味を探すのが趣味

今学期は「ビジネス日本語」という課目を担当した。

その期末試験が昨日終わった。100点満点中50点を論述問題に当て、「企業から学生に求められる能力とは何かについて論じながら、履歴書の書き方を形式と内容の両面から説明しなさい」という問題を出した。

学生さんたちは論述が苦手である。知識を覚えることは得意なのだが、その知識を目の前の問題の文脈を把握したうえで活用することが苦手である。

どんなものにでもそうやって生じ存在している理由が「ある」。ときにはそうやって生じ存在している理由が「ない」ということが「そうやって生じ存在している理由」だったりする。

知識は原因と結果や手段と目的がセットになっているので非常に便利だ。しかし知識を覚えるだけだと、このような「ねじれ」や「矛盾」を目の前にした際についていけないし説明もできない(それか説明しきった気になってしまう)。

だから大切なことは、理由を与えてもらうことに慣れきってしまう前に、みずから理由を発見したり創りだす習慣を身に付けることである。

履歴書を例に言えば、学生さんからすれば事細かな形式は一見合理性や必要性が「ない」ように見えるかも知れない。

しかし、だからといって「理由や意味がない」とはならないし、「守らなくていい」ともならない。

なぜなら、大学を卒業して企業に入り仕事を覚える過程には、ニューカマーにとっては「一見合理性や必要性がない」ように見えるものごとが必ず存在するからである。

そこで「おれっちには理解できないから」という理由で「見ない、聞かない、従わない」態度の人間に入ってこられては困る。

履歴書の事細かな形式は「意味わかんないからおれっちはおれっちの好きなようにやるぜ」をふるいにかける働きを持つ。だから、とりあえず守ったほうがいいよ、と私は思うのである。

もちろん、これは私の理屈である(屁理屈かも知れない)。

しかし私にとっては、そう捉えたほうが「履歴書の形式なんて無意味だぜ」と考えるよりも私の成長に寄与するので、「屁理屈」でも構わないのである。

とはいえ、私も履歴書やエントリーシートを書く際に困ることがある。

それは「趣味」の欄である。

履歴書に限らず、他人から趣味は何かと聞かれると、いつも困る。

別に私が無趣味な人間だからではない。話は逆で、興味を持つ対象が多すぎるのだ。

今は外国での一人暮らしで責任が持てないため諦めているが、小さい頃から私は動物が大好きで、いろいろな生物を飼育をしていた。

犬や金魚などのよくあるペットはもちろん、庭に池を掘り(父が掘ってくれた)たくさんの亀やエビ、メダカなどを放ち観察するのが幼少の私の最大の趣味だった。

小学校3年生の時に私が誕生日プレゼントにおねだりしたのは生きた鶏のつがいと鳥小屋(父が建ててくれた)だった。 

高校生の時には『うなぎ』という映画(役所広司が出ていた)に触発され、川で獲ってきたうなぎを飼っていたこともある(飼ってみて知ったけれど、うなぎって実は可愛い)。

本好きの母の影響か、本を読むのは好きである(「趣味」と呼べるかわからないが)。

大きくなるにつれ、音楽にも興味を持つようになった。ベースやギターなどの演奏は高校時代から継続的に続けている趣味だった(さいきんぜんぜん触れていないが)。途中でやめてしまったが、トランペットや二胡にも手を出したことがある。 

料理も好きで、自分で作った肴で一杯やるのも好きだ。

料理と関係する趣味でいえば、日本にいるころは天気がいい休日にいは釣竿を担ぎふらっと近場の海に行き、釣った魚が晩酌の卓にのぼることもよくあった。 

ひとりでいる時はたいてい好きな音楽(ジャズやフュージョンが多い)を流している。大学時代には気に入った曲をバンド演奏していた時期もある。 

同じく大学時代には1年ほどジョギングにはまり毎日15キロほど走っていた時期もあるし、去年の夏はロードバイクにはまってしまい、真っ黒に焼けて10キロぐらい痩せた(その10キロは律儀に戻って来てくれた、頼んでもないのに)。

こうして書き出してみると、実に多彩な趣味を持っているように見えるが、それでも他人に趣味は何かと聞かれたり、履歴書などの趣味の欄を記入する際はだいぶ考え込んでしまう。 

なぜかというと、これらの趣味はあくまでずぶの素人相手には延々と語れる程度には嗜んでいるが、その趣味にのめり込んでいる人たちから見れば「素人に毛が生えた」程度にしかかじっていないからだ。

私は、動物の飼育も、楽器の演奏も、料理も、釣りも、自転車も、読書も、どれもこれも「毒にも薬にもならない」程度しか知らないし、できない。このような態度で胸を張って「これが私の趣味です」と言えるだろうか。と、いつも悩んでしまうのだ。

しかし、こうして考えてみると、私は趣味を絶えず見つけ、独学し、ほどほど嗜む過程そのものを趣味としているのかもしれない。 

趣味の対象そのものに深い関心を抱くというよりは、その対象に興味を抱く自分自身の価値観や、それを自分で学んでいく中で繰り返される成功や失敗、放棄(そしてやりなおし)などから浮かび上がる自分の癖や傾向を見つめることが、おそらく私は好きなのだ。 

ざっくり言えば「私の趣味?うーん、自分かな」ということになる。 

こうまとめてしまうとナルシストみたいで、なんだか嫌だが、本当なんだから仕方がない。