とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

読解力と「おいらはおいら」の罠

期末テストが先週で終わる(本当は明日もうひとつだけあるのだけれど)。

疲れた。

とくに試験監督が3つあったのが堪えた。

試験時間は一科目ごとに2時間とってあるので、2時間×3=6時間も試験監督をしたので疲れた。

なにしろスマホや読書がダメなのはもちろんとして、椅子に座ることもNGなのである。

なので、腕組みして学生さんたちを一望したり、机間巡回しながら回答の進み具合に目をやったりすることになるが、その実頭の中では何も考えていない時間が過ぎることになる。

時間の進みが遅いのも当然である。

とは言え私は外国人だからいい方で、中国人の先生方は私の倍以上の試験監督業務に加え、会議やら年末の書類作成やらで大変なのだ。 

このぐらいで「疲れた」などといっていては顰蹙を買うことは必至である。

口にも顔にも出すまい。

実際、言うほど疲れてはないのだし。

とはいえ、私が事務室でご機嫌に

 

「いやー、元気元気!よーし、バリバリ本を読み文章を書くぞ~」

 

とキーボードをバチバチ叩いていたらいたで

 

「先生は自由でいいですね」(ふん!お気楽ね、まったく)

 

となりそうだ。

難しいものである。

まあいい、「お気楽」なのは事実だし。

 

閑話休題(どうせすべて「閑話」なんだけれど)。 

 

私が割り振られた試験監督業務は自分が担当した科目だけだったので、学生さんを監督として「睥睨」しながら、自分が出した試験問題を一緒に「解いて」みた。

これはいい。

出題者としてでも回答者としてでもなく「回答者を一望しながら回答する出題者」として自分の出題した問題を解いてみる。 

すると、出題した当時の自分でも考えていなかったような考えが浮かんでくる。

 

たとえば、3年生の「日语写作」の試験問題。

 

 

 問題一:次の一文を読んで自分なりによく理解したのちに、自分が感じたことや考えたことに基づき、問いやテーマをひとつ立てなさい(20点満点)

                 
読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。
現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何が悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。
(内田樹の研究室「言葉の生成について」より) 

                   
問題二:一で立てた問いに基づき、今学期自分が作文を書くなかで気づいたことや授業で学んだことに言及しながら、自分の考えを作文しなさい。(80点満点)  

          

なるほど。 

私はこんな問題を出していたのか。

新しく思い浮かんだことをちょこっとメモしておき、試験終了後事務室に戻りさっそく文章として綴ってみる(どうせ参考回答を用意しなけれならないので)。

書き上げた「参考回答」が以下のとおり。

 

問いやテーマ:なぜ読解力は生きる知恵そのものなのか     

             
 筆者の読解力が意味するものは私の理解より広いようだ。そのため私の疑問が生じているのだろう。この違いから考え始めたい。
 以前私は読解力を「文章を理解する力」と捉えていた。しかし授業が進むにつれ、私は目の前の文章を熟読する前に「読む」「読まない」の判断をしている自分に気づいた。
 なぜこのような判断が可能なのか。それは、人は熟読熟考していない文章でもその文章にある種の「理解」を持てるからだ。
 ここから見ると、読解力は読み手が自身の「~そう」に基づき文章を瞬時に判別する力でもある。「~そう」とは「すごそう」や「難しそう」などでおなじみの直観的なものだ。
 以前の私が考えていた読解力が文中を理解する力だとすれば、この新しい読解力は文と私の関係性を理解する力だ。
 この力は文章を読む時だけに限らず重要な生きる能力だ。なぜなら、人生の様々な局面で求められるのは、まさにこの力だからである。
 仮に私が餓死寸前だとする。周囲には数多の「食べられるもの」と「食べられないもの」がある。しかし、私の眼には「食べられないもの」が「食べられそう」に、「食べられるもの」が「食べられなさそう」に映ることもある。こんな場面で汎用的な判断材料や基準などない。生きるためには自分の「~そう」をもとに食べ物を探りあてなければならない。うっかり毒キノコなどを食べてしまったら終わりだ。 
 同じように人生のあらゆる場面で通用する知識などない。生きるうえで選択をする際、人は多種多様な「~そう」から、自分で情報を読み取り理解しなければならない。 
 もし自分で読み取り理解し選択する必要性を感じていないならば、それは守られて生きているからだ。 
 しかし、ずっと守られて生きることはできない。どんな選択をするかは全て個々の自由であり責任だ。 
 読解力とは世界を読み解く力である。だから、読解力とはまさに生きる知恵そのものであり、身につけなければならない力なのである

 

私はほぼ毎日QQ(中国のSNS、フェイスブックみたいなもの)に駄文を書き散らしている。

多くの学生さんがQQの“好友”(友達)になっているので、私の駄文を読みたい人は読めるようになっている。

自分が書いた文章を学生さんの目のつくところに晒している理由は、別に「私の考えを広めたい」からではない。

私自身の至らなさや馬鹿さ加減について学生さんたちに広くオープンにしておいたほうが、お互いの利益になるのではないか、と私が思うからである。

だから、この参考回答も当然公開している。

そもそも「作文」を教える教師が「作文」してみせなくてどうする。

日本人教師という仕事は、ときにどう考えても「日本人だから」というだけでやれている先生を目にするが、言語を教えるとは単に文法や語彙の面で「正しい日本語」を教えるということではあるまい。

そもそも「正しい日本語」とはなんぞや。

「ガ行鼻濁音」ができない生粋の九州男児である私の日本語は、「正しくない日本語」なのか(そうかもね、少なくとも誤字脱字が多いのは文句なく「正しくない」)。 

 

また話がそれた(まあ本題なんてないんだけれども)。

なぜ「作文」の期末テストで先ほどの文章を使ったかというと、学生さんに「読解力」について、「言葉とはなにか」について、深く考えて欲しかったからである。

とくに、どのクラスにも必ず一人はいる「批評家」タイプの学生さんには、よくよく考えて欲しい。

私の「作文」の授業では毎週一本作文を書いてもらっているが、私は作文テーマを与えない。

字数制限も課さない。

「自分の書きたいことを書きたいように書いてください」と言っている。

だからときどき俳句を一句だけ書いてきたりする人もいるし、二千字近く書いてくる人もいる。

どうぞご自由に。

ただし、絶対守らなければならない「ルール」と、絶対やってはいけない「禁止事項」を、それぞれふたつずつ設けている。

絶対守らなければならない「ルール」とは、「必ず下書きを中国語で書き、一晩寝かせたあとに日本語で推敲すること」「必ず先週の作文を読み直したうえで、何らかの連続性を持って新しい作文を書き始めること」、このふたつである。

「禁止事項」とは、「他人の意見を論拠にすること」と「他人を批判すること」の二点である。

なぜそのようなことを言っているのか、ここでは書かない(めんどくさいから)。

しかし、このようなやりかたを始めてみると面白いことに気がついた。

今までテーマを与えればすらすら書き始めていた「批評家」タイプの学生さんは、このテーマを与えず、絶対守らなければならない「ルール」と絶対やってはいけない「禁止事項」を課す進め方だと、途端に一行も書けなくなってしまうのだ。

考えてみれば、当然といえば当然である。

先の絶対守らなければならない「ルール」を守れば、推敲をしたり読み直しをするときに、必ず自分の「バカさ加減」と向かい合うことになる。

先の絶対やってはいけない「禁則事項」を守れば、問題意識や話題といった文章の出発点を自給自足しなければならなくなる。

それができないと文章を書けない人がいる。

それを私は「批評家」タイプと評しているのである。

「批評家」タイプは、テーマが準備されていなければ書き始められないし、ある程度の「見下し」や「反発」がなければ文章を書き進められない。

しかし、一度相手を見下してしまったり、反発してしまうと、その見下したり反発した相手の言葉がもともと潜在的にもっていた豊かで深い可能性に思い至らなくなる。

すると、浅い意味しか取れず、自分の「批判的読解」によって、相手の言葉がそもそも持っていた豊かな解釈を「発見」してしまう。
これはバカ特有の読解態度である。 

なぜ「バカ」と形容するかというと、結果として「手のひらで踊らされていた」ことに自分だけが気づけないからである。
私が思うに読解力とは(とくに若い学生さんにとっては)「なんかよくわからんけど、骨の髄までしゃぶりつくすぞ」という気概である。
「私はもう十分成長している」というのならば話は別だが、大学生が美食家気取りの「批評」をすることで知的に成長することは、まずない。
若いということを知的な方面で言えば、ペコペコに飢えた野良犬であることと同じである(餓狼のほうがカッコいいか)。 

だからたくさんの先生方は、「たくさん本を読め」とか「知識を覚えろ」と口を酸っぱくして言われるのである。
しかし食事は消化されて初めて栄養になる。
読解力とはこの消化能力である。
しかし、読解力はそれ以前の食べ物を自分で探す能力でもある。
有名店に行き「グルメ」を食べてあれこれ批評するだけならば、お金と経験と知識があればよい。
しかし、若いということは「お金と経験と知識がない!」ということなのである。
(お金はともかく)経験や知識とは、丸暗記したり、斜に構えて他人を批評したりして得られるようなものではない。
「料理」を自分の「舌」をフルに働かせ味合う体験、その積み重ねがなければ得られないものである。
それに、そもそも本当に知的な批評とは、だれもが「食べられる」とは思ってもいなかったものから豊かな味わいを見出す能力によって、初めて可能なものではないだろうか。
たいていの「批評」や「批判」は、自分の狭い視野で見えたものをこき下ろして優越感を得ているだけである。
しかしそもそも自分の「舌」が「バカ舌」なら、どんなに美味しいものを食べても「まずい」と感じるのは当たり前だ(何を食べても「うまい!」と感じる「バカ舌」も存在するが、それについてはここでは触れない)。

俚諺にいわく、「葦の髄から天井を覗く」と。

中国語では“坐井观天”(井戸の中から天を覗く)。
視野が狭い人間には、豊かな言葉の「狭い部分」しか見えない。 

だから、なにかを見聞きして「狭い意見だなあ」と思ったとき、まずは自分の視野を点検するところから始めたほうがいいと思う。
私が授業で「他人の批判をするな」としつこく言うのは「他人を盲目的に信じろ」という意味ではない(当たり前だ)。
「いいもの」と「わるいもの」、「タメになるもの」と「タメにならないもの」、「食べられるもの」と「食べられないもの」を自分で見分ける能力を養うためには、まずは選り好みせず食べてみて、自分が「食わず嫌い」である可能性、自分の「舌」が「バカ舌」である可能性について、自分で気づかなければならない。

そのために、「好き嫌いせずに、とりあえずなんでも食べてみようね」と言っているわけだ。
もちろん「なんでも食べられる」はずはない。

「なんでも食べて」しまうとお腹を壊してしまう。
だから、学校があり教師がいて、とりあえず「これ、食べてみると美味しいかもよ」と教えてくれる。
それを「おいらはおいらで勝手にやるぜ」と口に入れることもせず、口に入れたとしてもよく味わいもせず「ペッ」っと吐き出して、自分の好きな「グルメ」だけ食べる学生さんがいる。 

私は別にそれも「あり」だと思うけれど、それだとわざわざ学校に来る時間がもったいないんじゃないの、と思う。

「おいらはおいら」なお方が、まさか「みんなが行っているから」とか「大学出てないとちょっと…」なんて批評性のない理由で教室におられるわけはあるまい。
他人に頼らずに「お腹を壊してもいいから、おいらはおいらでやりたい」というのを悪いと言っているわけではない。

現に私は、そういう理由で大学二年の後期から大学三年の前期まで1年間、教室に行かなかった(それでバンドや麻雀や飲み会ばっかりしていたというところが私のバカたるゆえんであるが)。

それに「おいらはおいら」の場合でも、やっぱりまずは「食べ物」を調達しなければならない。

「おいらはおいら」だからこそ、「食べ物」を自給自足するために、そのありかを知らないといけない。

さらにいえば、「おいら」が探し当てた食べ物が本当に「食べられるかどうか」は、「おいら」が判別しなければならない。

自分の設けた字数制限のせいでさっきの「参考回答」では言及できなかったけれど、その判別能力は、本やネットで得られるようなパッケージ化された知識やマニュアル化された技術として学ぶものではない。

頭をあちこちゴチンゴチンとぶつけながら、「おいら」が自分で身につけていくものである。

これを自分で身に付けるためには、(逆説的な言い方かもしれないが)一旦「おいら」という枠を取り払わなければならない。

なぜなら、私がここで言っている「判断力」とは、今までの私の知識や技術でなされているところの「判断力」そのものへの「判断力」のことだからである。

「判断力」そのものへの「判断力」を得るためには、今までの「おいら」が囚われてきた思考の次元を、一つ繰り上げなければならない。

そのためには、野良犬があちこちをクンクン嗅ぎ回り、食べられそうなものは「骨までしゃぶる」ように、どんなものごとに対してもとりあえず「おいら」を留保して「じゃぶり尽くして」みる必要がある。
そうやって経験を積みながら得られる「食べられるかどうか」の判別力や、「食べられそうなもの」ならどんなものごとからでも新しく豊かなものごとを引き出す能力、それが私の考える読解力である。
この力を培うためには、まずは「他人の話を聞く」姿勢が求められる。
それは「他人」のためではない。自己を批評的に見ることで、「おいら」を「おいら」から解き放つためである。
批判や批評は学生の皆さんが自己批評力をある程度身につけた後に覚えても遅くはない素質である。
むしろ早くから批判や批評を覚えてしまうと、世間一般の「グルメ」しか目に入らず、「おいら」の眼には「グルメ」には見えない食べ物を口にも入れなくなってしまうからである。
そのような人間が展開するのは、往々にして「批判」ではなく「悪口」である。 
いわゆる「眼高手低」とは、自分で自分の「舌」を疑ったり、とりあえず「骨の髄までしゃぶる」訓練を重ねてこなかった「おいら」の末路である。 
「グルメ」だけしか批評できない「おいら」は、「舌」が肥えているように見えてその実「バカ舌」なのである。 
「料理」が運ばれてこないと何も言えないし書けない「おいら」、それが「眼高手低」な「批評家」である。 
そんな「おいら」が、どうやって他人のために貢献したり創造したりできるというのだろうか。
豊かな言葉とは、書き手の意図や「言いたいこと」を離れたところに存在し、読み手の「ようするに、こういうことでしょ」を越えたところに存在する。 
なぜならそんなものなど、実体としては存在しないからである。
それは読み手が発見することで初めて存在するのである。しかしそれは書き手が存在しなければありえなかったことである。 
豊かさとは自他の構図にとらわれないところに「ない」という形で「ある」のだ。

 「おいらはおいら」な「おいら」だと、それには死んでも気づけない。

 

というようなことを、試験に必死で食らいつく学生さんを「睥睨」しながら考えた(「睥睨」しているお前はどうなんだとツッコミながら。)