とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「魅力」について

広河隆一の「セクハラ」報道をみて、ちょっと思ったことがあったので記しておく。

このニュースで私が一番気になったのは「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」という「反論」部分だ。

世界的人権派ジャーナリストに性暴力疑惑 7人の女性が証言(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

 

私が引っかかりを覚えるのは、「力」、とくに「魅力」に関しての彼の認識である。
彼はこれまでジャーナリストとして活動する中で、「力を」持つ人間をたくさん見てきたはずだ。 

そして、「力」を持つ人間に擦り寄って行く人間たちが、「力」を持つ人間そのものではなく「力」そのものを「魅力」として集まっている事例を沢山見たであろう。
にもかかわらず、なぜ自分に集まってくる人間が「僕に魅力を感じたり憧れたりしたのだ」などと、無邪気に思えるのか。

私は不思議である。
まさか、この余りにも著名な「反骨」の写真ジャーナリストは

「俺は俺そのものに魅力があるのだ」

「寄ってきた人間は俺そのものを欲望しているのだ」

と思っていたのだろうか。
おそらく、彼は「力」とはなにかについて、そして「魅力」のメカニズムについて、立ち止まって考えたことがないのだろう。

 

どんな関係においても、「魅力」とはその対象そのものには存在しない。

むしろ、その対象を通すことで初めて感知できるものだ。
「魅力」というものは、「魅力」を感じる側が「見たいもの」を対象を通じて発見し、対象の向こう側に認知するものなのである。

 

私が6年前に初めて教壇に立ったとき、1年生の学生さんたちからの「熱い視線」で死にそうになった。

誇張して書いているわけではなく、本当に肌感覚でピリピリと「熱さ」を感じたのだ。

「あー、たぶん芸能人ってこの快感がやみつきになってるんだろうな」と実感した。

なぜそのような「熱い」視線を私が浴びたかというと、彼らはまさに大学に入学したばかりで、彼らにとって私は初めて目にする日本人であり、私の日本語はとても流暢だったからだ(あたりまえだけど)。

彼らは別に私に「熱い」視線を送っていたわけではないし、私に「魅力」を感じていたわけではない。

私という対象を通して、新しい大学生活への期待や、自分が知らない「外国」という世界の広がりや、卒業時に流暢な日本語をマスターしている自分の姿を欲望していたのである。

そのときの私は、彼らと彼らの感じる「魅力」とを介在している「ドア」のような存在だった。

ようは、そこに立っているのは私ではなくても良かったということだ。

その時の私は(今考えれば意外なことに)冷静だったので、「この魔法はすぐに解けるだろうな」と予感した。

そして事実、2ヶ月ほど過ぎ、大学生活にも慣れて、五十音や基礎的な文法を学び終えるころには、ほとんどの学生さんたちの眼からは少しずつ輝きが消えていったのである(それもどうかと思うが)。

 

話が逸れたが、私が言いたいことはつまり、「魅力」というものは「いま、ここ、わたしたち」の間「で」生じるのではない、ということだ。

「魅力」は「いま、ここ、わたしたち」を越えることで発生するのである。

「魅力的な人」はインターフェースに過ぎない。

条件を満たしていれば、別に誰だっていいのである。

金に「魅力」を感じる者は、金持ちへの羨望の眼差しを通して金への「魅力」を追求する(金が手元にないんだから)。金持ちなら誰だっていいのである。
美女に「魅力」を感じる者は、(「クレヨンしんちゃん」のしんのすけがそうであるように)さまざまな美女を通して美女への「魅力」 を追求する(自分が美女ではないんだから)。美女なら誰だっていいのである(しんのすけがそうであるように)。
地位に「魅力」を感じるものは、地位を持つ者を通して地位への「魅力」を希求する(自分に地位がないんだから)。「地位」を持つ者なら誰だっていいのである。
そして、いうまでもなく「魅力」とはそういう実利的な生々しいものばかりではない。
たとえば、「理想の私」や「あこがれの自分」だって「魅力」として働く。
そして、そのような「理想の私」や「あこがれの自分」という「魅力」を実感させくれるような条件をたまたま満たしている(ようにみえる)対象を通じて「魅力」を希求することだって、人間は出来るのだ(自分はちっとも「理想の私」なんかではないんだから)。
だから、「俺の魅力」なんてものは存在しない。
「俺の魅力」は「あなたに魅力を感じるの」と言ってくれる存在が生じて初めて、事後的に「俺」に認知される。
しかし、残念なことに、相手は「俺」を通して「私が見たいここにはないもの」を見ているだけなのである。
そこを誤解してしまうと「お前は俺に惚れてるんだろ?  なら俺の言うこと聞けよ」というバカな言動をとってしまい、「魅力」は失せる(恋が「冷める」とか言うのも同じようなものである)。

正確に言えば、「魅力」が失せるのではなく、「魅力」との仲立ちとなっていた「ドア」としての機能が失われるのだが。


もちろん、そんなバカに「魅力」を投影した人間にも相当な問題がある。
もし仮に、「金」や「地位」や「権力」に「魅力」を感じ近づきひどい目にあったならば、そういう人間は考え方を変えなければ、この先何度も同じことを繰り返すかもしれない。
しかし、そのような生々しいものを求めたわけではなく、単純に「成長したい」という願望に突き動かされ、この目の前の「魅力」的存在をロールモデルとして見出してしまった場合もあるはずだ。
だとすれば、もし自分の「見る眼」がなかったという事実に気づくことができ、自分の求める「魅力」を自分で少しずつ形作っていくという方向へと向かうことができれば、「ひどい目にあった」以上に学び得たものはあると思う。

このニュースを見て、半年前ぐらいに読んで抜き書きしておいたプラトン『饗宴』の一部箇所を思い出したので、以下に引用する。

 

今かりに誰かが愛者を富裕であると信じて、富を目的にこれに好意を示し、そうして後で当てが外れて、愛者の貧乏が判明し、結局なんらの報酬をも得なかったとしても、それは恥辱の程度を減ずるものではない。思うに、こういう人間は自己の本性を暴露し、金銭のためならば何人に対してもいかなる奉仕をなすことも厭わぬことを証示した者であるが、これはけっして美しいことではないからである。ところがまた同じ理由によってこういうことができる。今かりに誰かがある人を有徳の士と信じてこれに好意を示しまたこの人に対する友情によって自ら向上し得ることを期待したとする。しかも彼が邪悪な、徳無き者であることが判明して、見当違いをしていたことを発見したとする、こういう見当違いですらもやはり美しい、と。なぜなら、この人もまた、徳と向上とのためならば、何人に対してもどんなことでも喜んですることによって、その人となりを顕したものと思われるからである。ところがこれは一切のうちでもっとも美しきものなのである。かくて結局徳のために好意を示すことはいかなる場合にも美しい。これがすなわち天上の女神に属するエロスで、また自らも天上界のものであり、かつ国家にとっても、個人にとっても多大の価値を有するものなのである。このエロスは、愛する者にとっても愛さるる者にとっても、徳を進めるために真剣に自分自身を顧慮することを余儀なくするからである。しかるに他種のエロスはすべてこれとは異れる万人向きの女神(パンデモス)に属する。(プラトン『饗宴』、岩波文庫、久保勉訳、73-74頁)

 

2000年以上前になされた考察であるが、まったく色褪せることない。それはプラトンが本質を突いているからか、それとも人間のバカさ加減が2000年以上変わっていないからか。
まあ、それはどうでもいい。
このセクハラジャーナリストに向けられた「魅力」の眼差しのなかには、「富を目的にこれに好意を示し」たものもあっただろうし、「有徳の士と信じてこれに好意を示しまたこの人に対する友情によって自ら向上し得ることを期待した」ものもあったのではないかと推察する。

ある記事によると、被害を受けた女性たちは広河を「尊敬」していたとある。

 

 広河氏を尊敬していた女性たちは、指導を受けられなくなることや業界で力を持つ人物に睨まれることに不安を覚え、拒絶できなかったという。

性的被害を告発されたフォトジャーナリストの広河隆一氏が謝罪コメントを発表(BuzzFeed Japan) - Yahoo!ニュース

 

この「尊敬」は広河の様々な「魅力」によっていたものだろう。

しかし、何度も言うが、「魅力」は「俺」にはない。

「俺」を仰ぎ見ることを通してそれぞれに発見されるものである。

このセクハラジャーナリストは、それを全部ひっくるめて「僕に魅力を感じたり憧れたりした」としかとれなかった。
集まってきた人間が自分を欲望しているのではなく、自分を仰ぎ見ることを通して自分の背後にある富や名誉や地位や「徳」そのものを欲望している、とは思えなかった。
富や名誉や地位を欲望して集まってきた人間は(プラトンが記すように)「金銭のためならば何人に対してもいかなる奉仕をなすことも厭わぬことを証示した者」なので、論ずる価値もないと思う。
しかし、もし自分のもとに「徳と向上とのため」に「魅力」を感じて集まってきた者がいて、人間が「徳と向上とのためならば、何人に対してもどんなことでも喜んですること」が存在すると広河が知っていたならば、こういうことは起きなかったんじゃないか。
むしろ優れた「師」として振る舞えたのではないか。


優れた「師」としての振舞いは、自分に「魅力」を希求する学び手の眼差しや敬意、従順の姿勢がいくら自分に向いているように感じられても、それは自分を対象としているのではなく、学び手自身の「理想我」が「師」を通して感知されているだけだ、と理解することから始まる。
それは、学び手は「師」である自分の下僕や手先となるために自分のもとにいるのではなく、今の自分から少しでも抜け出し「理想我」へと至ろうとしているだけであり、人間にとって「理想我」への到達は「師」という「ドア」を経由しなければ不可能な営みなのだと理解するということである。
なぜ優れた「師」にはそれが理解できるかというと、かつての自分にも「師」という「ドア」が存在したからである。

内田樹が以前「セクハラと教育の問題」について論じる中で、次のようなことを言っていた。

 

 師弟関係における「贈り物」とは何だろう。
ふつうの人は、それは「学術情報」や「学術的スキル」ということだと信じているのだろうが、そのような「かたちあるもの」が学びと教えの場に賭けられている唯一のものだと信じるひとには師弟関係というのは永遠に理解できないだろう。
師が弟子に贈るのは「師の師へ対する欲望」である。
師が弟子に先んじているのは、師が「師となるより以前に」は誰かの弟子であったという事実である。
もちろん経験的な師をもたないまま師になりえたひともいる。だから、ここでは師という概念をもう少し拡大して、「その人の蔵する知に欲望を感じたひと」というより包括的なカテゴリーと定義する。(どれほど独学的に自己形成した教師でも、かつて一度として他者の蔵する知に対して欲望を感じなかったということはありえないからだ。)
私は合気道の門人たちに、繰り返し「私を見ずに、私が見ているものを見なさい」と教えている。
私なんかを模範にしていたってまるで修業にはならない。
しかし、私が仰ぎ見、私が欲望しているものは、見る価値、欲望する価値のあるものである。それは多田先生が「見ているもの」であり、多田先生を通じて植芝先生が「見ていたもの」であり、そして植芝先生を通じて出口王仁三郎師や武田惣角師が「見ていた」ものであり・・・
師弟関係で継承されるものは実定的なものではなく、師を仰ぎ見るときの首の「仰角」である。これは師弟のあいだにどれほどの知識や情報量の差異があろうとも、変わることがない。

師弟関係における「外部への回路」は、「師の師への欲望」を「パスする」ことによって担保される。(「パス」という言葉はラカン派においては教育分析をつうじての「転移」を指する。もちろんサッカーやラグビーの「パス」も本質的に同じ機能を果たしている。)
師弟関係において「欲望のパス」をしない人間-つまり弟子の欲望を「私自身へのエロス的欲望」だと勘違いする人間-は、ラグビーにおいてボールにしがみついて、試合が終わってもまだボールを離さないでいるプレイヤーのような存在である。彼は自分の仕事が「ボールを所有すること」ではなく、「ボールをパスすること」であり、「ボールそのもの」には何の価値もないということを知らない。
「師の師への欲望」として「顔の彼方」へとパスされてゆくはずの欲望が、二者間で循環することの息苦しさに気づかない師弟たちだけが、出口のない官能的なエロス的な関係のなかで息を詰まらせて行くのである。
真の師弟関係には必ず外部へ吹き抜ける「風の通り道」が確保されている。あらゆる欲望はその「通り道」を吹き抜けて、外へ、他者へ、未知なるものへ、終わりなく、滔々と流れて行く。
師弟関係とはなによりこの「風の通り道」を穿つことである。
この「欲望の流れ」を方向づけるのが師の仕事である。
師はまず先に「贈り物」をする。
その贈り物とは「師の師への欲望」である。

 

2月13日 - 内田樹の研究室

 

私はここで内田が展開している師弟論に完全に同意する。

「師」が先賢に敬意を示すことは、それ自体が教育的な振る舞いである。

「師」が自らの無知や至らなさをクールに見つめることは、それ自体が教師的な振る舞いである。

それは学びへの欲望そのものを伝染させ、「学ぶということを学ぶこと」を学生に教えるために必要不可欠だからだ。

「私はひとりで私になった」という人間、「私の魅力は私に内在するものだ」という人間は、集まってくる人間を「俺の実力」「俺の魅力」によるものだと考える。

だから、便利にこき使ったり虐げてもいいと感じる。

だから「パワハラ」が生じる。

そこに性が関与する余地があれば「セクハラ」も生じる。
しかし、重ねていうが「俺の魅力」など、ない。


それは観衆からの注目を「俺」個人に感じる役者が三流であるのと同じことだ。
三流役者は三流だから、もっと「俺」に注目を集めるために「役を演じて」しまう。

その結果「大根役者」になるのである。
一流役者は、観衆が役者を通じて「みたいもの」を見ようとしていることを知っているので、役を通じて「みたいもの」を見せることが出来る。
超一流役者は、観衆が役者を通じて「みたいもの」を見ようとしていることを知っていて、そのために無我夢中で役を全うする。しかしそうすることで「そんなものが見れるとは思わなかった…」ことを自分にも観衆にも見せることができる。「私が役を演じる」のではなく「役が私を演じる」のである。
「魅力」は、自と他の間「で」生じるわけではない。人間が「いま、ここ」に存在する対象を通して「いまではなく、ここではない、違う自分」を希求するから、「魅力」という強い運動が生じるのである。

正しく取り扱えば、「魅力」は人間を知的にも道徳的にも向上させてくれる。

しかし、人生経験が少ない子供は、この「よくわからないけれど、強く惹かれる」力をよく似た別の感情と取り違えたりする。

たとえば恋愛感情である。
だから「師生の恋愛」はタブーとされているのである。

「師生の恋愛」がタブーなのは、成績判定の公正さとかそういうちゃちな理由ではない。

教育の場で古今東西を問わなずに何かがタブーとされているならば、それは単に「成熟を妨げる」からである。

「師」が学生からの「熱い思い」に向き合ってふたりの世界に閉じこもってしまうと、学生も「師」も知的に成熟しないからである。


「魅力」とは実体的なものでもないし、「ある」ものではない。

そこを誤解しているから「俺の魅力」という誤解が生じ、「セクハラ教師」や「パワハラ上司」、「大根役者」が横行するのである。


「君が俺に魅力を感じているのならば、それはすぐに消え失せる。なぜなら、その俺の魅力は君たちの成長への思いがなければ存在すらしないし、俺の仕事は君たちを成長させ、俺のもとから離れさせることなのだから」

 
こういう態度を広河が取れていれば、彼はジャーナリストとしてだけではなく「魅力」ある師として機能したのではないかと思う。 
「俺を慕うのは俺に魅力があるからだ」と考え、学び手を「俺」に引きつけておくような人間は、「反面教師」と認知されることでしか「実力」を発揮することはできないだろう。

残念ながら、彼は「反面教師」として「実力」を発揮することになったようである。