とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

テストの愚痴。

期末テストの採点をする日々が続く。

成績提出の締切までは一週間あるので問題ないのだが、なかなか集中して採点できない。

目の前にうずたかく積まれた答案を見ると、思わずため息がこみ上げてくる。

お察しのとおり、だからこうして駄文を綴ることで現実逃避しているというわけだ。

しかし、よくよく考えてみると、我が人生でテストというものに「やだ、嫌い!」という思いを抱いたのは、教師になったここ最近のことかもしれない。

小学生の時はテストなんて気にしてなかった。 

田舎に生まれたことのアドバンテージかもしれないが、大自然の中で遊び、日常的に本を読んでいるだけで十分いい点が取れた。

中学生のときは、むしろ積極的にテストが好きだった。

良い成績をとればお小遣いがもらえたし、なにより同級生と比較することで優越感を覚えていた嫌なガキだったので。

高校に入ったばかりの頃は、そもそもテストの成績をあまり気にしてなかった(おい)。

さすがに大学受験の一年ぐらい前になると、ちゃんと本格的に勉強はしていたし模試の結果に一喜一憂したりもしていた。 

しかし、それでもテストが嫌いだと思ったことはない。 

受験勉強は指定の手順と用意された知識を覚える努力をすれば、ある程度相関して成果が見える気がしたからだ。

大学時代のテストは、成績査定の場というより、自分の考えをガリガリ書き込む場として、結構楽しく捉えていた。 

大学院に「入院」以降は、いわゆる「テスト」らしきものを受けた記憶がない(受けているんだろうが印象に残っていない、「入院」して頭がボケはじめたものと思われる)。

 

教師になって身にしみてわかったことはたくさんあるが(「教師の死角は最前列」とか「バカは話を聞かない」とかね)、「テストがどれだけ面倒なものか」もそのうちの一つである。

先日の忘年会でお会いしたG先生は、合計400枚(!)の答案を採点しなければならないということで、会場にまで答案をお持ちになって必死で採点されていた。

幸いなことに、私の場合数はそんなに多くない。 

しかし論述問題を多く課しているので、4科目×25名分の答案を読み、理解し、論理性やら独自性やら問いやテーマの深さやら日本語の問題やらを(採点者としての私の主観性や視野狭窄を自己批評しながら)チェックしなければならない。 

別にそこまでしなくてもいいのかもしれないが、気になるので仕方がない。 

そんな大変な思いをするなら、全部記号選択問題とか穴埋め問題とか基礎知識を問う一問一答問題とかにすればいいのだろうとお思いだろう。

私もそう思う。

毎回思う。 

「〇か✖か」だから採点楽ちんだし(たぶん一日で終わるだろう)。

でも、それじゃあ大学のテストとしてどうなのと思うし。

なにより、それだと「〇か✖か」なので、学生さんを「救済」することができなくなる。

 

「救済」で思い出したが、以前、こういう学生さんがいた(現在の勤務校ではない)。 

もともと彼は日本語を学びたくて大学に来たわけでもなかったので、日本語に興味関心がまったく持てず、一年生の時からぜんぜん勉強をしてこなかったので、日本語能力がおそろしく身に付いてなかった。 

しかし、卒業するためだろう、授業は皆勤なのである。 

ある学期、私はその学生さんの授業を担当した。

毎日ちゃんと授業に来て話は聞いている(らしい)ので、その点けっこう感心していた(私だったら興味がない授業には絶対行かないし行けない)。 

そうこうあって月日があっという間に流れ去り、いざ期末テスト。

集めた答案を「ふんふん」言いながら採点していると、件の学生さんの番となった。

公明正大な採点の結果、結果は15点。 

無論、百点満点中である。 

せっかく「皆勤賞」なのだから、「せめて、せめて60はあげたい…」と、かなり粘って評価すべき答案箇所を探したが、「下駄」が15では、土台無理な話である。

私は(授業はともかく成績面では結構甘い教師なので)泣く泣く彼を落第させた。 

すると彼はSNSで「毎回出席したのになぜ落第なのだ!」と悲憤慷慨、私個人への誹謗中傷や罵詈雑言を書きなぐったのである。

思わず“怪我咯?”(えっ、俺のせい?)とびっくりした。

世の中にはすごい学生さんもいるものである(テストといえば、期末試験中にスマホを使用して「ちょっと、何してるの!」と注意したら「彼女とメールしてます」と平然と言い放った学生さんも過去にはいた)。

 

だからというわけではないが、学生諸君には論述題が多めなのは私なりの親切心だと受け取っていただきたい。 

教師としての私は、とにかく頑張ってたくさん自分の言葉を書いてくれれば、それなりに評価できるポイントを探してあげるぐらいの親切さは持ち合わせている。

そもそも私が教場で口を酸っぱくして言っているのは「〇か✖かでは論じられないことを自分で論じる力が大切だ」ということなのである。

その教育成果を問う期末テストが「〇か✖か」の形式ではあんまりだろう。 

でも、「〇か✖か」とはいえ、流石に「15」はちょっとね。 

 

なんてことを書いていたら、もう5時。

いいや、続きはまた来週しよう。