とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「問い」について問う日々

10日(木)

冬休み一日目。

3月まで休みだから、春休みも兼ねているといえるだろう。

昨夜遅くまで飲んでたので、11時に起床。

ゆっくりシャワーを浴びたあと、徒歩で30分ほどのところにある「新華書店」へ。

この書店は中国でチェーン展開している書店、日本で言うところの紀伊国屋のようなものだ。

ほかの店舗もそういうサービスをしているのか定かではないが、私の最寄りのこの店舗は24時間営業である。 

なによりもすごいと思うのは、本(新書を含む)の貸し出しサービスを行っていること。

100元のデポジットを払えば、値段の合計が150元以内の本を2冊、10日以内タダで借りることが出来る。

このサービスは“共享书店”とネーミングされている。

11日目から一日あたり1元かかる。

「シェア書店」といったところだろうか。

日本でもこういうサービス、あるのだろうか。 

 

三階に上がると、村上春樹コーナーが設けてあった。

日本のメディアでもよく報道されているから知っている方も多いだろうが、中国の若い人の間では村上春樹が人気である。

もちろん日本と同じように強烈な「アンチ」と、「読んだけど、さっぱりわからんかった」という読者も多い。

私は高校生の時に、現国の模試で『羊をめぐる冒険』の「鯨のペニス」の部分を読んだ。

「何ば言いたかとね?」と思った。 

案の定、散々な点数だった。

私は国語に関しては小学校からずっと褒められていたし、事実成績は良かった。

なので自分でも自信があったので、この模試は私のプライドを傷つけたようで、それ以来村上春樹の名前を聞いただけでも「ふん、あんなもの」という態度を十年以上とっていた。 

もちろん小説には手も出さなかった(エッセイは読んでたけれど)。

ところが(いろいろな不思議な体験と散々な思いをしたあとの)29歳の夏に、なんとなく『スプートニクの恋人』を手にとったら、いきなり「わかった」。

たまたまその小説が自分にあったのだろうと思い、いちばん敬遠していた『ノルウェイの森』を読んだら、やっぱり「わかった」。

正確に言えば「何言っているか、わからない」とこはところどころあるが、「なぜわからなかったのか、わかった」のである。

私の理解はこうである。

ある日突然、想像を絶するような断絶や転換を経験しなければ(もしくはそのような断絶が存在すると信じなければ)、「わからない」ようになっている。

もちろんこれはその「わかった」ときの私の状況から得た認識にすぎない。

しかし個々の「わかった」ときの状況から得た多種多様な認識の投影により、豊かな世界を広げるものが文学である。

それ以来、私は村上春樹を「わからないから」読んでいる(もちろん「わかる」ために)。

授業でも「わからない」と言いながら引用している(もちろん、それぞれが「わかる」ために)。

村上春樹の中国における受容を「都市生活への憧れ」とか「現代的な感覚への共感」とか説明をよく聞くけれども、私はそうは捉えない。

みんな「わからないけど、なんか分かる気がするしなんか私に関係ある気がする」から読んでいるのではないだろうか。 

そういう理解の方が、可能性があって面白いじゃん。

「わからない」んだからさ。

 

閑話休題。

 

この店舗ではわざわざ「村上春樹創作年表」まで作っていた。

すごいね。

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最初の目的を忘れかけていた。

今日書店に立ち寄ったのは、アカデミック英語およびアカデミック日本語の本や教材をチェックするため。 

アカデミック英語の本が必要なのは、せっかくの休みなので、院を出て以来ほとんど使ってこなかった英語の閲読を(中国語を使って)勉強し直そうとおもったからである。

錆び付いた英語をなんとか使い物になるレベルまで戻しながら、学術に必要な中国語の語彙を学ぶという、「一石二鳥」を狙っているのだ。 

アカデミック日本語のほうは、今やっている日本語作文の授業づくりと教材作成のための資料収集のようなもの。 

しかし残念ながら、どちらもおいてなかった。

英語の方はネットで買うとして、日本語の方はそもそも存在しないのだと思う(したとしても数少ないだろう)。

日本における日本語教育研究では「アカデミック・ジャパニーズ」はひとつの分野として存在するようだし、教材もある。 

しかし、管見の及ぶ限り、アカデミックな場で求められる語彙や使用するであろう表現を集め、データや情報の読み取り能力や自説の表現手法を扱うものはあっても、そもそもの「研究とは何か」とか「論文を書くとはどういうことか」とかいう根本から問うたり、学生の問題意識を育成するような「基本かつ王道」的視点から編まれたものはない。 

たぶん、日本で教材を編集したり日本語を教えたりしている人は、そういうのは日本に留学しにくる前の大学4年間で最低限学んで身につけていると思っているのだろう。 

しかし、すくなくとも中国の日本語学部で学んだ学生の場合、それは望めないと思う。 

私は現在の勤務校で3校目である。 

これまで教えた学生さんたちは学歴の面でいえばかなり違っている。

業界用語的で言えば「一本」「二本」「三本」のすべてで教えてきた(211と985はまだ経験がない)。

当然日本語能力には差がある(語学は暗記と反復が大事なのは事実だし)。

しかし、問題発見能力や思考能力に関しては、あまり大した違いを感じない。 

どこの学校にも「頭がいいなあ」と思う学生さんは一定数いる。

すくなくとも(日本語専攻に関する限り)中国の大学生にもっとも足りないのは問題発見能力と思考能力である。

実際、現在の中国の教育では、“如何培养独立思考能力”(いかにして自立した思考能力を養うか)というテーマが重視されている(日本もそうか)。

それは自立した思考能力を持ち合わせている学生さんが少ないとみなされているからである。

自立した思考能力がない学生さんとは、もちろんここで「自立した思考とはなんですか? 先生、教えてください」とか「どうすれば自立した思考を身につけられるんですか」と聞いてきたりネットで「ググる」(中国だと“百度一下”だな)ような態度の学生さんのことである。

しかし、冗談のようだが、そういう学生さんが本当に多いのである。

確かに彼らは非常によく勉強する。

「覚えなさい」といったら覚える努力をするし、休み時間にも教科書を暗唱したりしている。 

あくまで体感に過ぎないが、たぶん日本の大学生の五倍の時間は勉強している。

以前勤務していたある大学では、朝の7時に図書館の前で「席とり」の行列ができていた。

しかし、あくまで「勉強」なのである。

日本語を学んでいるのに辞書を持たない学生さんが多いのも、「教科書や参考書にある単語や文法を覚えておけばいい」と思っているからである(たぶん)。

分からない単語にであったら、ためらいもなく「先生、これなんですか」という学生さんもいる(その度に「先生は辞書じゃありません」と返す)。

調べれば「わかる」ようなことを調べようという意欲がないならば、調べても「わからない」こと、自分の頭でひねり出さないと「答え」がないことに答えられるはずがない。

そういう状態でいざ卒論を書くとなると、当然ながら書けない。 

だってテーマが設定できないんだもの。 

なぜテーマが設定できないかというと、問題意識がないんだもの。

なんで問題意識がないかというと、普段から疑問や違和感を言葉にしてこなかったもの。 

しかし、仕方がない。

それはもちろん学生さん自身の問題もあると思う。 

しかし、それを学生さん自身の問題にするようなら、教育者失格である。 

それに、「疑問や違和感を言葉にする」ことは言語を学ぶことの中心に据えるべきことではないだろうか。 

それは母語を学ぶ際にはもちろんだし、外国語の場合でも変わらないと思う。 

こういう経験がよくある。

たとえば日本語能力試験一級(日本語を学ぶ外国人にとっては一番難しい試験の一つ)で満点近い点数を取っていて、発音も流暢な学生さんと知り合う。 

で、おしゃべりするのだが、話す内容が「小学生」なのである。

そのような学生さんの話を聞くのは苦痛である。

そこには目の前の人間に、自分なりの思ったことや疑問、違和感などを形にして差し出そうという姿勢がないからだ。

外国語を習得することで、本来は母語話者に対してだけ拡散されていた「小学生のような話」がより遠くにまで届くようになること。それが大学における外国語学習の目的だろうか。 

あくまで個人の意見に過ぎないが、現在の日本語教育にもっとも足りないのは、語彙の面においても指導の面においても、「問い」の質と量である。 

「言語が思考を形成するのか、はたまた思考が言語を形成するのは」という問題は言語学の(ひいては哲学の)扱う問題だろう。 

言語や思考を研究する自らが、言語と思考によって研究を行うのだから、これは言語と思考をめぐる究極の問題である。

以前、内田樹が問いを以下のように区分していた。

「資料が整い合理的に推論すれば答えることのできる問い」

「材料が揃っていても軽々には答えの出せない問い」

「おそらく決して人間には答えの出せない問い」

この問いの三区分に則るならば、先の問いは、最後のものだろう。

しかし、すくなくとも自分の頭の中にない言語を使って語ることはできないし、自分の頭の中にない問いをアウトプットすることはできない。

臆断に過ぎないし、曖昧な表現で申し訳ないが、問うための語彙そのものが決定的に欠けている人間は、そのことによって、我々が思考を深めるうえで欠かせない「なにか」そのものが決定的な形で失われているのではないだろうか。 

たとえば、「AとBは何が違うのだろう」という語彙を「知らない」人間は、「AとBの違い」について思考できるのだろうか。

すくなくとも口にできないはずである(知らないんだから)。

「AとBとの違いを答えよ」という語彙のみを「知っている」人間と、「AとBは何が違うのだろう」という語彙も併せて「知っている」人間との間には、思考になんらかの決定的な差が生じるのだろうか。

私は学生に「問いましょう」「考えましょう」とよく言うが、そもそも自分の語彙にない問いを、内容においても形式においても思考することは可能だろうか。

もし不可能ならば、問いの語彙に注目することが大学における語学教育において持つ意義はとても重要なものになるだろう。

そういう視点で日本語教科書の例文や会話文を見てみると、学生さんが学ばなければならない日本語の問いがいかに貧相でつまらないものに溢れているか。

 

へやになにがありますか。

へやにつくえがいくつありますか。

へやにいすがいくつありますか。

ベッドがいくつありますか。

へやにパソコンがありますか。

へやにテレビもありますか。

テレビはどこにありますか。

ほんだなはどこにありますか。

そこはトイレですか。

あそこはよくしつですか。

よくしつはにかいにありますか。

 

これは中国でもっとも使われている教科書から抜き出したものである。 

ご説明しておくが、これは一年生の最初の方に学ぶものである。

新生活への期待や新しい知との出会いに胸をふくらませ入学してきた時期にこんな文章ばっかり読んでたら、私だったら頭が破裂するだろうし、日本語が嫌いになる。

これではいかん。

大学の語学教育において「基礎」を学ぶとは文法や語彙だけではなく、学術的な「基礎」、学問をする上での「基礎」、人間として学び人間として生きていく上での「基礎」をも含むはずである。

これが私の問題意識である。

「でも、最初の方は語彙が少ないんだからしかたがないんじゃないの」

それがね、このあとずーっと課が進んでいっても、疑問文がほんとにつまらないの。

よく質問を「オープンクエスチョン」と「クローズドクエスチョン」と分けることがあるけれど、答えが「はい/いいえ」でなければその問いが「オープン」かというと、そうではない。 

問いにおいては「オープン」とは未知そのものである。

そういう観点から見れば、3年生後期や4年生が学ぶ教科書にある「問い」もほとんどが「クローズド」である。

なにより、「問い」の主体が先生なんだよね。

そのためには、やっぱり「問い」が大事だと思う。

だから、思わず学生さんが真似したくなるような「かっこいい問い」や「惚れ惚れするような問い」を、ここのところコツコツと収集しているのだ。

二ヶ月も休みがあるからといって遊んで過ごすわけではないので、学生諸君は誤解しないように(もちろんちょっとは遊ぶけど)。

 

なんてことを考えながら書店を後にする。

普段はあまり立ち寄らない地区にきたので、せっかくだからすこし散策することに。 

すると、いきなりローソン(中国語では罗森,luo2sen1)を発見。 

茶色いのですぐには気づかなかった(茶色いローソンといえば桜島を思い出す)。

上海や重慶ではローソンやファミマを見たことあったが、合肥では初めて。 

そういえば、昨年夏頃に「合肥にもローソンが進出」と聞いたような気がする。

ちょうどお腹も減っていたので、食べ物を物色しようと入店。 

 

う~ん、日本と同じような感じだね。 

それがいいんだろうけれども、中国で生活しているとコンビニおにぎりに6元とか7元とか出す気にはならない。 

同じぐらいのお金を出せば美味しい中華まんが食べられるし、10元程度あればそこそこ美味しい麺料理や“盖饭”(日本で言う丼もの)が味わえる。

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とくにそそられるものもなかったのでそそくさとローソンを去り、となりにあったラーメン屋に入り“红烧牛肉拉面”を注文。  

思ったより赤くて濃いスープに、打ち立ての麺とピーマンやら青菜やら牛肉やらがゴロゴロ入って15元。

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すっかり満腹したので腹ごなしに歩いて帰ろうかと思ったが、雨がぱらつき始めたので地下鉄で大学の前まで行く。 

期末テストの成績を紙で事務に出すことを忘れていたので事務室へ。 

プリントアウトしたものにサインを済ませ学院の印鑑をペタペタ押してもらい、提出して「いっちょあがり」。

その後、本屋にはなかった「アカデミック日本語」を探すべく、ネットで「学术 日语」で検索をかけるが、案の定ない。

卒論指導なら数点ある(数点しかない)。

私の見るところ、日常的な日本語から研究の日本語に至るまでの教材と指導がすっぽり抜け落ちているのである。

生活で生きていくために必要な言語と学問などの含む創造活動に必要な言語との間には、簡単には超えることができない深い深いクレバスがある。 

その断絶を飛び越えるために必要なのが(しつこく強調するが)「問い」の能力である。

そして「問い」の能力は日本語教育の問題以前に、学生の母語の問題だ。 

その問題を日本語を教える中でどうするか(それとも「どうもしない」ほうがいいのか)。

面白い課題であるので、考え続ける。