とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日本語の「思う」について思う

朝起きてヤフーを見ていたら、こんな記事を目にした。

headlines.yahoo.co.jp

これまでもここでたびたび書いているように、私は最近日本語作文教育について考え、実践しているので、興味をそそられた。

起き抜けにコーヒーを飲みながら読む。

 

読んだ。

論理的な文書を書くことの大事さはもちろんそのとおりだと思う。

日本の作文教育の通史もわかりやすくまとめてくれていて参考になった。

でも、なんだろう。

それを「欧米では」とか「ガラパゴス日本」という手垢にまみれた視点で論じても、結果的に伝わりにくいのではないか。

ここで私がいう「伝わりにくい」とは、論理の問題ではなくて心理の問題である。

自説の論証の問題ではなく、自説の差し出し方の問題である。
「アメリカではこうだ」とか「スウェーデンではどうだ」とかいう論の組み立て方や差し出し方は、もうとっくに日本では飽きられているし、飽きられている以上「目を皿のようにして」まで読もうとする読者はあまりいないだろう。

すくなくとも、私は「またかよ」と思う。

もちろん、表現がいかに陳腐であろうが飽きられていようが、それは論の「正しさ」とはなんの関係もない。 

「またかよ。じゃあ読まない」という人間は知的な忍耐性に欠けているし、「また欧米かよ、日本人のコンプレックスは云々」と論点をすり替える人間は論題の深化にはまったく寄与しない。

それはわかる。

私は自分の怠惰さを言い訳したいわけでもないし、難癖をつけたいわけでもない。

わたしは「正しさ」を問題にしているのではない。

いくら「正しさ」に溢れていようとも、真剣に読んでくれなきゃ意味ない。

この記事の差し出し方だと、真剣に読んでくれる人はあまりいないのではないか、と思っただけである。

それに、私の読解不足かもしれないが、そもそもの論理となにか、なぜ文章に論理性が求められるのか、それはいかなる文章に対してもそうなのか、などなど、根本的な部分に関して筆者の考えが見えてこなかった。

それともこういった私の疑問は論ずるに値しないほど自明のことなのだろうか。

 

文章を書くときに論理性が求められるのは確かである。

「作文下手」で論理性に欠ける文章を書く日本人が多いのもそのとおりだろう(自分自身の文章にも思い当たることがたくさんある)。

事実、この記事のコメント欄にも「ちょっとなにいってるかわかんない」(byサンドウィッチマン富澤)文章がある。

しかし、論理とはそう簡単に論じられる問題なのであろうか。

そもそも論理的であるとはどのようなことなのか。
論理とは直線的なものなのか、それとも図形的なものなのか、はたまたパラレルに展開しうるものなのか、そもそもこういうイメージで表現できるものなのだろうか。
論理的であることが求められるシーンとそうではないシーンの違いはあるのか、あるとすればそれは何によってもたらされるのか。
言語の別を問わずに論理性を持たせられるような普遍的な「書き方」は存在するのか。
日本語で考え日本語で書く上で、論理性はどう実現すればいいのか。 
日本語作文の種類と目的、その指導法はいくつあり、それぞれにどうあるべきか?

論理性どうこう以前に、そこを根本から問うことが重要なのではないか。

もちろんこういう疑問は私の疑問だから、それを著者が書いてくれる必要性などない。

でも、読者に「それだけじゃないよね」と思わせてくれる風穴があいていない。

それに、もちろん、そんな七面倒くさいことを、こういう類のメディアには書かないだろう。

さきに挙げたような論題は論理的に一筆書きできるようなものではなく、まじめに考察しようとすればかならず「論理の飛躍」が生じるし、実証不可能な領域に立ち入ることになるからだ。

そしてそういう文章を忍耐強く読んでくれる読者は、そんなに多くはないだろう。

ほとんどの読者が求めているのは「情報」であり「結論」であり、それを再現し受け売りするために最低限必要な「回路」だからである。

そのような「回路」のみを論理と呼ぶのならば、私のこの文章は壊滅的に非論理的であろうし、「で、お前は何が言いたいんだ」とお叱りを受けることだろう。

すみません。

でも、私はここで「あらかじめ私に分かっている『言いたこと』のために、論理的な文章を書くなんて、つまんない」と言いたいのである。

そもそもここで書いている文章は私が日々思考したことや感受したことの整理のために書いているのであって、具体的な他人に実用的な「情報」や「知識」を伝えることを目的にしたものではない。

しかし、それでも読む人のことを考えた最低限のマナーは心がけて書いている。

なぜなら、未来に第一の読者としてこの文章を読み返す私自身に「なに言ってるか、わかんない」といわれたら「おしまい」だからである。

文章を書く以上、必ず一人は読者が存在する。

だから文章を書く上で大切なのは、書き手である自分以外の存在にも伝わるように書く事である。

とりあえず最も身近な読み手は、読み手としての私だ。

自分の書いた文章を自分で理解するなんて簡単だ、と思うかもしれない。

しかし、読み手としての私は書き手としての私にとって全くの未知の存在なのである。

たとえば、このブログを書いている途中で停電してこの書きかけの文章が消え失せた場合、この文章を読み手として受け取る私は存在しないことになる。

極端な話、これを書いている途中で私が死ぬことだってあり得るが、その場合も読み手としての私は存在しない。

そこまで極端な話をせずとも、書いている途中の私にとって「言うまでもない」ことが、書き終わった途端「あれ、なんでだっけ……忘れちゃった」という事態になってしまった場合、その文章を受け取った読み手としての私はきっと「なにいってるか、わかんない」だろう。

だから文章を書く上で大切なマナーは、書き手である自分にとって未知である存在にも伝わるように心がける事である。

論理性を心がけるのは、そのようなマナーの一環である。
既に明らかになっている情報伝達を第一目的にするような文章(たとえば論文とか取説とか)において、論理性が情緒や感情の排除を目指すのは、そうすることで、自分と情緒や感情を共有していない人々、つまりより幅広い人間に情報を伝達できるからである。
だから、「論理的」を目指すことで却って伝わりにくくなったり、読者に受け取りることへの心理的ためらいを生じさせるならば、その論じ方には改める余地がある。

私はそう考える。

 

そういうことで最初の話に戻るけれども、「アメリカでは~」とか「英語では~」という論じ方はもっと工夫したほうが伝わりやすいと思う。

「外国ではこうです」「わあ、すごいですね!」という伝え方や伝わり方も力を持つときはあるだろう。 

けれども、あまりに便利すぎてこれまで使われすぎたために、却って効果が逓減している。
それに「日本語は非論理的」とか「日本人は空気に頼り関係に甘える」とかも、みな簡単に言うけれど、本当にそうなのだろうか。

 

などと考えていると、こういうテーマについて論じていた本を以前買っておいたことを思い出した。

ぱっと机を見ると、乱雑に「積ん読」された本のなかにあった。

このまえ事務室に持っていこうと数冊セレクトしたなかに紛れ込んでいたのだ。

人は何かに関して問題意識や興味関心を持ってゾーンに入ると、自分がまるで磁石になって関連する情報や知識を引き寄せているような感覚に陥る。

それはある意味では視野を狭めてしまっているのだけれども、大切な感覚である。

ということで、その本をお弁当やら水筒やら辞書やらといっしょに鞄に詰め込み、大学へ行く。

 

本のタイトルは『日本語は本当に「非論理的」か』。 

著者は物理学者の桜井邦朋。

とりあえず第一章だけ読む。

読んだ限りで理解した著者の主張は、日本語が非論理的であると言われる原因は日本語そのものの問題ではなく、日本人が何気なく口にしている「思う」という言葉とその使い方にあるというものだ。

第一章では、それを「思う」と「Think」との比較を通して論じている。

和英辞典で「思う」を引いた結果を示していた部分が面白かったので、その部分をちょっと引用。

 

①「考える」という表現(「think」とつながる)

②懸念に関わる表現

③見なす

④信じる。例文としては、「正しいと思う(believe)」

⑤予期。例文としては「思ったとおり(as one expected)」

⑥回想。往時を思えばという言い表し方

⑦感じる(feel)

⑧希望。“wish”と“want”

⑨誤認。……とおもっていた

⑩つもり。例文として、「……しようと思っている」

⑪怪しむ。英語では、“wonder”や“suspect”

⑫想像。英語では、“suppose”や“imagine”

⑬念願に対し“Think of”

   (桜井邦夫『日本語は本当に「非論理的」か』22、23頁)

なるほどね。

確かにこうしてみると、「思う」は理性も感性もひっくるめた精神の表出、表現を担っているのだとわかる。

では中国語ではどうかと思い、中国語の勉強も兼ねて、手元の日中辞典で「思う」を引いてまとめてみた。

こうやって時間や予定を気にせず「では、〇〇ではどうだろう」と没目的的な調べ物や書き物をできるのが長期休暇の醍醐味である(結構長いので、中国語に興味がない方は読み飛ばしてください)。

 

 ①(判断・認定する,予想・推重する)想xiang,思索sisuo,思量siliang,思考sikao,

[判断する]认为`renwei,以为yiwei,看做kanzuo,当做dangzuo

[推量する]预想yuxiang,预料yuliao,推想tuixiang,推测tuice,估计guji,想象xiangxiang,猜想caixiang

・我也这样想。 私もそう思う。

・一边思索一边走 ものを思いながら歩く。

・心里怎么想就怎么说;心直口快。 思ったことをそのまま言う。

・他不知道想什么,忽然研究起法语了。 彼は何を思ったのか、急にフランス語の研究を始めた。

・因为有些考虑,决定回家乡了。 思う所があって、郷里に帰ることにしました。

・我很纳闷儿namenr我的做法究竟jiujing错在哪儿了。 私のやり方のいったいどこが悪いのかと思った。

・我把他当做小偷了。 私は彼をどろぼうだと思った。

・一般认为他是个学者。世間では彼を学者だと思っている。

・一听你说的英语还认为你是个英国人;听你说英语,还认为你是个英国人。 君の英語を聴くとイギリス人かと思う。

・我预料他会来的。 彼は来ると思う。

・你想一想我是多么高兴! まあ、ぼくの喜びを思ってみてくれ。

・以为是谁进来了,却原来是正在念叨niandao的那个人;说到曹操,曹操就到。 だれが入ってきたかと思ったら、うわさの主だ。

・不像想象的那么坏。 思ったほど悪くない。

・得不到预想的结果。 思ったほどの結果が得られない。

・工作比预想的容易。 仕事は思ったより楽だ。

・如果干那种事的话,那就正中了那小子的下怀。 そんなことをすれば、あいつの思うつぼだ。

(「…と思う」の形で,信じる)相信xiangxin,确信quexin

・我不相信他会做那样的傻事。 私は彼がそんなばかなことをするとは思わない。

・我想今年也肯定是那个队获胜。 今年も絶対にあのチームが優勝すると思う。

・做自己认为该做的事;自己觉得对,就应该做! 自分が正しいと思うことをやれ。

・我是为了你好才做的。 君のためによかれと思ってしたことだ。

(「…と(ように)思う」などの形で,感覚的な判断を下す…と感じる)感觉ganjue,觉得juede。

・觉得害羞。 恥ずかしく思う。

・感谢;感激。 ありがたく思う。

・我觉得这很奇怪。 これは変だと思った。

・觉得非常热。 ずいぶん暑いと思う。

・我从前就觉得他不好;对他没有好感。 私は前から彼を悪く思っていた。

・记得在哪儿见过他。 どこかで彼にあったように思う。

・我担心他不会痊愈。 彼は全快しないのではないかと思う。

・不要住坏处想;不要想不开,不要见怪。 悪く思うなよ。

・也有些上司对部下的升迁感到不快。部下の昇進を快く思わない上司もいる。

・他拿说谎不当一回事;他把撒谎当儿戏。 彼はうそをつくくらいは何とも思わない。

・我总是怀疑那是他干的。 私にはどうしてもそれは彼がやったように思えてならない。

(「…と(ようと)思う」などの形で,…したい・…するつもりだ・希望する)打算打算,想;期待qidai,希望xiwang;想要xiangyao

・想睡觉。 寝たいと思う。

・想去`。行きたいと思う。

・力不从心;身不由己。 力が思うにまかせない。

・她希望当个飞行员。 彼女はパイロットになろうと思っている。

・我盼望panwang这场雨能再下两天就好了。 私はこの雨がもう2、3日続けばいいと思っている。

・不能得心应手地写。 思うようにかけない。

・打算明年一定去留学。 来年こそは留学しようと思う。

・她决心让女儿上私立学校。 彼女は娘を私立学校に入れようと思っている。

(心にかける・懐かしく感じる)

[懐かしい]怀念huainian,想念xiangnian

[…のためを思う]着想zhuoxiang

[心配する]担心danxin,惦念diannian,关心guanxin

[恋いしたう]爱慕aimu,思慕simu

[かわいがる]疼爱tengai

・怀念祖国 祖国を思う。

・怀念故乡的情人 故郷にいる恋人のことを思う。

・为国家利益着想;胸怀祖国。 国のためを思う。

・这样说是为你着想。 君のためを思ってこういうのだ。

・他丝毫sihao也不关心别人的事;他毫不为人着想。 彼は他人のことなど少しも思わない。

・他们两是情侣;他们两是心相印的一双儿。 二人は思い思われる仲だ。

・你有意中人吗? 君には思う人がいるのか。

・爱子之心。 子を思う心。

(回想する)回忆huiyi,记忆jiyi,忆起yiqi,记得jide

・回忆童年往事。 少年時代のことを思う。

・想起那个事件来现在还令人不寒而栗buhanerli。 その事件を思えばいまもぞっとする。

 

ふー。けっこう量があった。

しかし、なるほど、これは興味深い(本題にはまったく関係ないけれど「噂をすれば影」が中国語では「曹操のことを話すと曹操が来る」というのも面白い)。

細かい分析や英語との比較などは気が向いた時にするとして、多言語と比較した場合に日本語の「思う」が理性から感性、具体から抽象、既知から未知までなどなど、かなり広い範囲をカバーしていて、様々な機能を果たしていることがわかった。

あれ、これって、ひょっとして「思う」って日本語を勉強する英語話者や中国語話者にとっては、だいぶ便利な言葉だということなんじゃないか。

まあ、それはいい。

いま考えているのは論理と「思う」である。

桜井はこう書いている。

 

 私たちの多くが頻繁に使う「思う」や「思います」という表現は、思考において深く分け入ることをせず、意味をあいまいにしてしまうことに通じる。そして、これらの表現に、多様な意味を、ほとんど意識することなく含ませている。これでは、思考の過程で、論理力が確立されることが、ほとんど期待できない。

要は、安易に「思う」や「思います」という表現を用いずに、自分が言い表したいと考えていることを、できるだけ別の言い方により、表現するよう試みることが、思考におけるあいまいさを排除することに通じるのである。                     (前掲書、21頁)

 

まだ第一章しか読んでいないのでその上でだが、著者の論旨に大筋では納得できる。

私たちは論理の力を借りることによって、私たちの外部に存在するものごとや、私たちの内部で星雲状に渦巻く思考に分け入り、それらを秩序だったものとして区分していくことができる。

著者が指摘するように、「思う」や「~な気がする」を無批判に口にすることでその作業が阻害され、論理力や思考力が育たなくなってしまうのというのは、そのとおりである(この前の文字起こしでも痛感したし)。

しかし、「思う」が担う知的働きは、ものごとを論理的に把握・分析し、配列してみせることだけではない(筆者もわかっていることだろうが)。 

同時に、知性の働きはものごとを論理的に把握・分析し、配列してみせることだけではない、とも言える。

昨日も書いたけれども、大事なことは「問い」である。

「思う」は意見の表明だけではなく、「考える」まで至ってはいないような「問い」の、つまりまだ答えがはっきり分かっていないような「問い」を認知する機会でもある。

一見なんの関係もないように見えるし、常識的に考えれば決して同じ土台には並ばないはずなのだけれども、自分にとっては切実に関係しているように感じられるものごとは存在する。

そういう既存の知的枠組みでは処理できないものごとを、私のなかに「とりあえず」一緒に放り込んでおく。

「思う」には、そんな機能もある。

それは「わかっていること」や「わかったこと」を他人に理路整然と述べ説明するための働きではない。 

私が「まだわからないけれど、わかりそうなこと」を私に「わからせる」ための布石である。 

この布石の存在や意味は「わかった!」という第一撃以後に初めて明らかになる。

最近思うことだが(←ほら、こういう使い方)、人間の思考の無意識の領域には、このような布石がたくさん含まれているのではないだろうか。 

それは布石を置いた当の自分自身にすら存在を意識されていないはずである。

著者はこう書いている。

 

特に、文字による表現の場合には、これを読む人に直接、これはこう、あれはああと一つひとつ説明を加えるわけにはいかない。文字により表現された文(sentence)または文節(パラグラフ、paragraph)は、それ自体が独立したもので、これらを読む人に誤解されるものであってはならない。書いた人の意図が正しく、読む人に伝えられる必要がある。あとで真意はこうであったなどと言っても、始まらないのである、文字表現に関わる難しさがわかろうというものである。     (前掲書、32頁)

                      

先に述べたように、既に明らかになっている情報伝達を第一目的にするような文章(たとえば論文とか取説とか)を他人に伝える文章の場合、この指摘は妥当だと思う。

しかし、人間が文章を書く目的はそれだけではない。

すくなくとも私が日常的に手帳やQQ(中国のSNS)やここに文章を書く目的は、「わかっていること」を伝達するためではない。

あるときは「わからないこと」を「わかるために考えた」過程を残しておくためである。

またあるときは「わからないこと」を「わからないこと」として「わからないまま」に保存しておくためである。

またまたあるときは、「無駄話」をするためである。

しかし「無駄話」が「無駄」だったかどうかは、話し始める前の私や話している時の私、話終わったあとの私には、けっして断定できないのではないか。

「あ、あれはこういう意味だったんだ」という瞬間が訪れないと断定できない限り、絶対的な「無駄話」など、原理的にはない(実際はあるけれど)。

だから、私は時々あえて未来の私が「誤解」できる余地を残したり、今の私の権限で未来の私から「無駄」を排除したり、書き手の私が読み手の私に「正しい解釈」を迫る主宰者として振る舞うことを避けるために、あえて曖昧な書き方をする。

それは論理性によって「わからせる」ことよりも、「わからないことがある」ということだけを身を以て共感し、いろいろな私に「わかってもらう」ことに重点を置いているからある。

当然、そうやって書いている時の私は「思う」を多用することになる(この本を読むまでは意識的にしていたわけではないが)。

なぜなら、読み手として自分の文章を読み返した時に、そっちのほうが「おもしろい」からである。

 

去年の夏休み、私は1ヶ月ほど部屋に篭もりきりでクリアカットな文章を量産していた。

手帳に手書きでガリガリと、だいたい4万字ぐらいは記したかと思う。

しかし今読み返してみると、これが絶望的に「おもしろくない」のである。

論理性に大きな問題はないし、ときどき「一理あるね」とは思う。

だけど、「一理しかないね」とも思う。

あ、ここまで書いて授業でも紹介した内田樹の文章を思い出したので、引用しておく。

 

論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、「いまの自分の考え方」を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。
「いまの自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然な」経験や思考の様式のことである。
目の前に「問題」があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「いまの自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
ペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。
使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。
「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ち替える」ことにすぎない。
しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。
自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。
しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの二三枚を剥がすのが精一杯である。
論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。
金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ恐れないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。

よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがある。
「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
「理屈っぽい人」はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。)

そのつどの技術的難問に対して、それにもっともふさわしいアプローチを探し出すことができるためには、身の回りにある、ありとあらゆる「道具」について、「それが潜在的に蔵している、本来の使い方とは違う使い方」につねに配慮していなくてはならない。

「いまの自分の考え方」は「自前の道具」のことである。
ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな「檻」にもとどまらない、思考の「自由さ」のことである。
そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。
健闘を祈る。

4月4日 - 内田樹の研究室

 

内田の言葉を借りれば、私が一夏かけて書いた文章は典型的な「理屈っぽい人」の書いた文章だった。

まあ、それはしかたがない。

その時期の私は、快刀乱麻を断つような、切れ味鋭い文章の書き方をマスターしたいと思って、ガリガリ書いていたのであるから。

でも、自分の文章を自分で読んで「へっ、こいつなにいっているの?」と感じるのは、あまり楽しくないことである。

それに、そういうのを書くのはさすがに「飽きた」。

今現在このような文体を採用しているのは、単に「飽きた」からだ。

でも、やってみると、こういう「よくわかんないけどさ、こうじゃないかと思う」という書き方は、結構性にあっていると気づいた。

もちろん論文を執筆するときや研究会で発表するときには、こういう語り方はしない。

それは場にふさわしくないマナー違反だからだ。

 

しかし、「よくわかんないけど、なんか~だと思う」という精神の働きそのものは、決して無駄なことでもないし責められるべきことでもない。

そういう精神を文章として言語化していくことも、見習い料理人が鍋底の外側にこびりついた焦げをゴシゴシと落としたり山のように積まれた洗い物をこなすように、大切な下積み作業だ。 

むしろそのような下積みがなければ、いくら論理力や思考能力を磨き上げても、既存の情報や知識を組み立て移動させることしかできないような「一理しかない」知性しか獲得できないだろう。

具体的な説明対象を設定し、自分がすでに「わかっていること」をその対象に「わからせる」ことだけが論理ではないし、「思う」の仕事ではない(もちろん著者もそのことを否定はしていないだろう)。

日本語の「思う」がもつ様々な働きと意義、それらを自分なりに理解し、踏まえたうえで、意識的に「思う」を使えばいい。

私はそう「思う」(「思う」についてすべて把握しているわけではないのでね)。