天気がいいから散歩をしましょう(ザ・ストックフレーズ)
ここ数日快晴が続いている。
相変わらず気温は低いが、太陽が出ているので過ごしやすい。
空も雲一つなく青々と澄んでいる。
学生さんたちが「待ってました」とばかりに寮から布団を持ち出して、キャンパスのあちこちで干している。
あるものは鉄棒に、またあるものは生垣に干されている。
色とりどりの毛布が風にひらひらと揺られて綺麗である。
広場では、若いカップルが日向で親密なおしゃべりをしたり、お母さんが子どもを遊ばせたりして、それぞれの時間を過ごしている。
犬や猫までが幸せそうである。
こういう光景を見ると、なぜだか知らないが「ほっこり」する。
私にとって春節の前後は中国で最も美しい季節である。
私が毎年日本に帰らず中国で春節を過ごすのもそのためである。
よく学生さんや中国人のみなさんから「外国で一人で春節を過ごしてもつまらないでしょう」といわれるが、そんなことはない。
春節の時期は気候も過ごしやすいし、街ゆく人々も幸せそうである。
そういう空気を味わうのが私は好きだ。
昨日はうちのO主任やO先生(うちの日本語学部はO先生が多い)や出版社の方々とお食事。
場所は「いつもの名園」。
相変わらず料理が美味しい。
とくにここは野菜が新鮮で「シャキシャキ」している。
地鶏や海老などの美食をパクパク頂きながら、出版に関するお話などを伺う。
私はこれまでいくつかの教科書作成のお手伝いをさせていただき、すくなくともひとつの企画では出版された教材に名前を載せていただいたはずである(確認していないからわからないけれども)。
私自身は機会があれば、是非日本語作文に関する教材を出版したいと思っている。
だからこの2年間企画を練っては捨て、捨てては練って、そのうえで「これは使える」と思ったものを授業で実践しながら記録してきた。
O主任はそのことを理解してくださっているし、非常に気にかけてくださっている。
なのでこういう場にお招き頂いたのである(ありがたいことである)。
いろいろ話を伺う中で、中国で教科書を出版するのはいろいろと大変であり時間がかかるということがよくわかった。
しかし、私が作りたい教材を作り、日本語を学ぶみなさんのご機嫌を伺うことは、たとえ大変で時間がかかってもやる意義があることだと思う(たいへん主観的だけれども)。
そして私はそれをやりたいという意欲もあるし、なによりそのための勉強や研究や実践が何より楽しいのである。
なぜなら、私が作文の教科書を作りたいのは、私が日本語を学ぶ学生だったら是非ともお金を出して買ってまで使いたいと思う教科書がないからだ。
そして私がそれを作る立場というのは、私が作文について多くを知っているとかうまくできるとかではなく、私自身知らないし上手くできない(でも知りたいし上手くなりたい)というものである。
だから楽しい。
日本に帰って昔の知り合いとお酒を飲む時に時々思うが、自分の仕事を心から楽しいと思えるのは幸せなことだ。
それはお金には変えられないことである。
それはお金には変えられないことである(お金が欲しくないということではない)。