ストックフレーズの呪縛について
25日(金)
昨日も書いたように、この日はうちの大学の「仕事納め」の日。
午前中に事務室に行ったら、ちょうど日本語学部の先生方と事務の人たちが、日本への交換留学生選抜に関して会議を開いていた。
意見を求められたので、私の思うところを述べさせていただく。
この件についてはいろいろ思うところもあるので、またあとで書くことにする。(書かないかもしれない、忘れちゃってるかもしれないので)
夜は新年会(?)なのか「一学期お疲れ!」会なのか、はたまた「もうすぐ春節、年越しだね」の忘年会なのか、よくわからないけれど、飲み会にお誘いいただいたので参上する。
場所はいつもの「名園」。
とはいっても、ネーミングライツをほかのところに先に登録されちゃったらしく、改装にあわせて名前も変わっちゃった。
しかし新しい名前には馴染みがないし、以前ほどしっくりこないので以前のまま呼称させていただくことにする。
美食と美酒をたらふく頂く。
名前を毎度失念してしまうが、さっと揚げられた海老にニンニクのみじん切りや小葱を乗せて、そこに旨味たっぷりのオイルソースをかけた料理が大好きで、私はいつも殻ごとパクついてしまう。
こういう集まりに来ると、市販の教科書には絶対載っていない中国語が学べて、たいへん有益である。
もっとも私の中国語能力では、目の前で交わされているやりとりの全てを把握することなど不可能なのだが。
なので、基本的にこういう場で自分から口を開くことはあまりない。
ニコニコして話を聞き(理解しているふりをし)ながら、料理をパクパク食べ、勧められたらお酒をゴクゴク飲むことに徹する。
結果的に食べ過ぎる。
で、家に帰って体重計に乗って愕然とする。
昨日ポタリングで浮かせたカロリーが……。
無駄なあがきと知りつつもお風呂に浸かり汗を流し、就寝。
26日(土)
天気がいい。
それで思い出したというわけでもないが、大学に向かう道すがら、頭の中を「天気がいいから散歩をしましょう」というフレーズがグルグルまわっている。
私だけではなく「天気がいい」という言葉を耳にすると「散歩」を思い浮かべてしまう日本語学習者や日本語教育関係者は多いかと思う。
それは「天気がいいから散歩をしましょう」というフレーズが、日本語能力試験のリスニングパートで、音声確認のために、複数回流されるからだ。
なので「天気がいい」という語句を耳にしたり、蒼天を見上げるたびに、脳裏で「散歩をしましょう」というフレーズが条件反射で流れることになるのである。
このフレーズをたくさん聴いたことがあるということは、それだけ日本語能力試験を受験したり、対策のための勉強をしているということである。
それだけこのフレーズを耳にしてきた受験生の中には、その分だけ「失敗」を重ねてきた場合も多い。
その「失敗」を重ねた人達にとって、この悪魔的洗脳フレーズはトラウマとして蘇る。
そこまで言わずとも、この「天気がいいから」は「はい、これから日本語能力試験ですよ〜」というストックフレーズとして、学生さんたちの頭に刻まれている。
出勤日毎に早朝鳴り響き、否が応でも私達を条件反射的に叩き起こす目覚ましのようなものである。
私が重慶にいたとき、日本語能力試験の会場は山の上にある四川外国語学院(現・四川外国語大学)だった。
なので、私の学生さんたちは文字通り試験を受けるために最寄りの駅から会場まで「散歩」ならぬ「ハイキング」をすることになった(たとえ雨が降ろうと風が吹こうとである)。
前回の試験日、合肥は雨だった。
憂鬱な気持ちで雨の匂いや湿気、人いきれでモワっとしたバスに乗り会場まで向かい、試験へのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらリスニングの問題用紙を前にしている最中、男女の声で交互に繰り返される「天気がいいから散歩をしましょう」「天気がいいから散歩をしましょう」……。
これはもはや「呪い」だね。
ストックフレーズがもたらす「呪い」というか「倦怠感」について、私はよく理解できる。
ありがちだが、以前の私は新学期が始まると必ず「冬休み(夏休み)」の感想文を書かせていた。
休暇の間にどのようなことを体験し、どのようなことを思い、どのように成長したかをみるのは教師としての楽しみだからだ。
たいていの学生さんたちは一生懸命書いてきてくれた。
しかしそうやって書いてきてくれた作文を読みすすめるにつれて少しづつ「倦怠感」を覚えることが毎回繰り返された。
それはほとんどの作文がストックフレーズからなっていたからである。
中国人学生によるストックフレーズ作文は、たいていの場合こういう書き出しから始まる。
「時間が経つのは本当に速いですね。もう新学期が始まりました」
これはあきらかに中国語的な慣用表現の直訳である
作文の授業ともなればこっちは毎週数十人近くの作文を読んで、日本語や文の流れをチェックすることになる。
仮に学生さん一人が書いた作文一枚あたりに5分使うとすれば、50人いれば250分使うわけだ。
当然、疲れる。
そんな疲れた心と体にドババと降りかかる定型文の乱れ打ちは相当しんどい。
「時間が経つのは本当に速いですね」という一文を見るたびに時間の経過が遅いと感じ、遅々として進まない仕事に心が押しつぶされそうになる。
逆の立場で考えてみれば、学生諸君にも私の気持ちがわかって頂けると思う。
ふるさとに帰って家族や親戚に会うたびに「恋人はいるの?」「いつ結婚するの?」と「ありがち」なことを聞かれまくったら、どうだろう。
休暇が明けて新学期の第一週目の授業に出向くと、いろんな先生から「休暇はどうでしたか?」と「ありがち」な言葉をぶつけられ続ければ、きっとうんざりするだろう(すみません、私も聞きます)。
同じことだよ。
例示したさっきの言葉は内容自体に気が進まないものが含まれているということももちろんある。
が、それ以上に、それらの言葉はこれまで散々使い回されてきた「ありがち」な表現であったり、加工済みのレディメイドの言葉なのである。
そこには「私が今ここであなただけに向けて語っている」という気持ちが感じられない。
そう感じるから、私たちは定型文を聞いていて疲れるのだ(たぶん)。
ジャンルは違うけれども、私が学生時代に楽器をやっていた頃、みんなでセッションしながら遊んでる時に、ソロが回ってくると毎回同じようなフレーズを弾く人間が必ずいた。
だいたいはペンタトニックをいじっているだけのフレーズである。
それをいつも得意げに繰り出すのである。
そういうのを聴くと、なんかどっと興が醒めるのよね。
私もそうだったけれど。
すみません。
閑話休題
私たちは意外と、定型文やストックフレーズに縛られているものである。
外国語を喋る際はなおさらそうだ。
「お元気ですか?」と聞かれれば「おかげさまで元気です」と頭に浮かび、「天気がいいから」と聞くと「散歩をしましょう」と答えてしまう。
しかし私たちの毎日のコンディションは一定ではない。
そもそも私たちはそれぞれ違う存在なはずである(当たり前だね)。
私たちは毎日元気がいいわけではないし、私たちは晴れたら散歩をしたい人ばかりではない。
ストックフレーズの恐ろしさは、そういう差異を自他共にひっくるめてしまうところにある。
とはいえ「ストックフレーズなんかいらんよ」などと簡単に済む話ではない。
「ふん、おいらはストックフレーズになんて囚われてないよ」
という反応そのものがストックフレーズだったりするからだ。
そしてストックフレーズは、実際のところかなりお手軽で、効率的で、便利なのである。
またまた音楽の話になるが、私が大学時代所属していた軽音サークルとは別のサークル(ロック系)に属するあるギタリストは、ステージで「めちゃくちゃに暴れながらメガネを落とす」という挙動を以って「ロック」を目指しながら、その動作における「メガネを落とす」位置や「髪の毛の乱れ」まで計算していると豪語していた。
計算ずくのロックとか、ロックのストックフレーズ(というより既存の形式だな)というのも、なんだか反ロック精神的だと私は思うが、別にロックをやっていたわけでもない私は、とりあえず「なんか、変なの」と思った。
まあ、それはどうでもいい。
それくらいストックフレーズや既存のフレームワークは強固であるしお手軽であり、よって抜け出すしたり反抗するのは簡単ではないということである。
だから、私がいまこうやって書いている文章そのものが典型的なストックフレーズや既存のフレームワークに依っている可能性だって大いにある。
本人だけがそのことに気づかずに、偉そうなことを書き連ねているだけかもしれない(おお、怖い)。
「自分の言葉で自分の考えを話す」という言葉や考え自体、手垢がつくぐらい慣用的に使われているものである。
そのことを承知した上で、「他人にバカというバカ」になることを覚悟の上で、それでも若いうちに自分のことについて、自分の言葉遣いで表現する努力をしたほうがいいと私は思う。
だから今の私は作文の授業でテーマを与えないし、ストックフレーズを封印するようお願いしているのである。(テーマを与えたらネットで検索したストックフレーズやありきたりな構図で書かれた作文だらけになるから)
大事なのは自分の違和感や疑問を、少しづつ自分の言葉に置き換えていくことである。
もちろん最初は他人の言葉を真似することしかできないし、自分が本当に表現したいことを表現できないかもしれない(今の私のように)。
そのことにもどかしさや、やるせなさを感じるかも知れない(今の私のように)。
でも、毎日コツコツと少しずつ続けることで、徐々に世界の見え方が変わってきて、自分の表現したいものが分かり始めるはずだ(たぶん)。
朝はいきなり明けるわけではない。
夜空と日の出の間には、かならずどっちつかずな淡いグラデーションが存在する。
いきなり完璧なんかを求めたら何も始められない。
若い時期にこの地道な努力を怠ると、新聞や偉い学者の言うことをそのままそっくりコピーして、居酒屋で若者相手にくだを巻くオジサン、オバサンになってしまうかもしれない。
それこそ「最近の若いやつは」なんて馬鹿でも言える定型文を使いながら。
おお、怖い。
私はそうはなりたくない(もうなってしまっている可能性もあるが)。
だから、こうやって自分の思い(らしきもの)をバシバシとパソコンに打ち込みながら、自分の言葉を探っているのである。