とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「巧さ」と「自然さ」について

27日(日)

私は「日曜日にはネジを巻かない」(by 村上春樹)。 

なので最低限の運動と夕飯の買い出し以外、家でゴロゴロして過ごす。 

「ネジを巻かない」ので、当然頭はボーッとしている。

そういう状態で活字を読んだり、深遠な映像作品を鑑賞しても、あまり意味はない。

日曜日はベッドでマンガを読みふけったり、公園をトボトボ散歩しながら、頭をボーッとさせることに意味があるのだ。

というわけで、今日は「カウチポテト」状態で三谷幸喜作品を立て続けに2本見る。 

まずは「有頂天ホテル」(2006年)。

たぶん見るのはこれで5回目。

5回目と言っても、だいたいいつも「ながら見」で、別のことをしていることが多い。

まあ穿つように観る映画ではないからね。

今回見て思ったこと。

松たか子の美貌は奇跡のバランスからなっている。

「有頂天ホテル」では特に、あと少し「あっち」側にズレてしまえば、たちまちカピバラさんになってしまうのではないか。

別にカピバラさんが悪いというわけではない(可愛いし)。

 

なんてことをボーッと思っているうちに映画が終わったので、ディスクを「ザ・マジックアワー」(2008年)に換える。

深津絵里が可愛い。

三谷幸喜作品では「ステキな金縛り」(2011年)でも主演していて、そっちの「ドジでバカだけど一生懸命な新米弁護士」役も可愛く演じているけれど、こっちではちゃんと「悪女」として可愛い。

でも、結局一番かわいいのが西田敏行だというのも、「ステキな金縛り」と同じ。

改めて役者さんってすごいと思う。

ちゃんと「大根芝居」や「大根役者」を意図して演じることができるんだから。

逆は不可能だ。

でも、それってやっぱり汗水流した努力によって得られた「巧さ」なんだと思う。

役者さんには、演技が「巧い」だけではなく「自然」な役者さんというものがいる。

私は演劇や芝居についてまったく明るくはない。 

でも演技の「巧さ」と演技の「自然さ」は違う。

それぐらいはわかる。
「巧さ」は練習でなんとかなる要素であるが、「自然」は持って生まれた要素である。 

たぶん、演技において「巧い」とは適切な努力さえできればほとんどすべての人間が達することができる境地だ。(もちろんその「努力」を殆どの人間はできないのだが)  

なぜこう考えるかというと、(例えそれが「床屋政談」のようなエセ批評に過ぎなくても)素人である観衆に「巧い」と批評されているからである。

批評できるということは、素人にでもその基準が理解できている(と思われている)ということだ。

だということは、そのパフォーマンスが、これこれこういう手順と継続によって「巧く」なれる(と思われている)ということである。 

それに対して演技の「自然」とは天賦の才である。 

「自然」は理路整然とした批評を展開する対象に適さない。

だって「自然」なんだから。

人為的な批評は「自然」の「自然」性を必ず言いそこなう。

だって「自然」じゃないんだから。

「自然」なパフォーマンスに関しては、そのよって立つ基準や土台がわからないので「なんか、自然だよね」としかいえない。 

それは外国語学習にもいえる。 

いくら心血を注いで努力を重ねても、初対面のネイティブから「あなたの〇〇語はとても上手ですね、まるでネイティブのようです」と言われ続ける人がいる。

片手間にテキトーに学んだ外国語でネイティブと楽しくおしゃべりに興じているうちに「オイラの国では」みたいな語句を言って初めて「え、おまえ外国人だったの?」とびっくりされる人もいる。

初対面のネイティブと話しているうちに「巧い」と褒められるということは、自ら名乗らずとも「外国人」だとバレているということである。

なぜならその人間の話す外国語は「巧い」が「自然」ではないからである。

ネイティブに「外国人」だと気づかれないということは、それほど「自然」だということである。

中国語や韓国語のように見た目だけで「ネイティブ」か「外国人」かどうかを判断しにくい人々が母語とする外国語を学ぶ場合、こういうことはよくある。

発音や文法という教科書で学べることを如何に完璧にマスターして「巧く」なったとしても、ネイティブなら絶対に口にしない言い回しを使ってしまったり、「変」な挙動をとってしまうことで、「自然」さは失われるのである。

そして当の「ネイティブ」もみずからの「自然」について把握してなどいないのである。

「巧さ」は学ぶことや論じることができるが、「自然」はそうはいかない。

 

で、まさに今さっき自分で言ったことに自ら反するようで恐縮だが、それでも「自然」について論じてみる。

私は演技の「自然さ」には二種類存在すると思う。 

つまり、ここでいう演技の「自然」さを可能にしてくれる天性の要素には、「充満する自我」か、「空虚な自我」しかないということである。  

具体性をもたせることで却ってわかりにくくなるかもしれないが、具体的に言おう。 

天性として授かった「充満する自我」が可能にしている「自然な演技」の代表はキムタクである。 

天性として授かった「空虚な自己」が可能にしている「自然な演技」の代表はココリコの田中直樹である(ついさっき思いついた)。 

奇しくもふたりとも役者が本業ではないが、役者としても活躍している。

それはたぶん二人の役者としての能力が、経験や訓練とは無関係なところにあるからである。  

キムタクはアイドルだし、ココリコ田中は芸人だ。

もちろんこの二つの職業とも演者としての自らを通すことで観客を「どこか」へ連れて行くという点において、役者的職業である。

しかしすべてのアイドルや芸人が役者としての能力に恵まれているわけではないことを考えれば、この二人には職業的エートスを離れた、なんらかの彼ら独自の才があるのではないかと問うても良い。

その問への私なりの回答が「キムタク=充満する自我」「ココリコ田中=空虚な自我」説である。 

キムタクはその充満する自我によって「何をやってもキムタク」であるが、だからこそ「キムタク」という記号として、自然かつ普遍的に作用する。  

ココリコ田中はその空虚な自我によって「演技が自然」であるが、だからこそ「田中直樹」という空虚な記号としてしか作用しない。  

きっとふたりとも素で会ってもああいう人だろうし、そういう意味では意外性が感じられないという意味で「つまらない人」なのではないかと勝手に思う。 

そしてきっとどちらも(キムタクがSMAPで田中がタイキックであるという私達の固定された印象に反して)入れ替えを試みてみれば、案外可能なのではないか。

無理かな、無理そうだな。

などと考えながら「有頂天ホテル」をもう一回流してみると、最初の方にココリコ田中がちらっと出演していることに(6回目にして)初めて気づいた。 

私は「ガキ使」が大好きなので田中さんをよく見ているし、このシーンでも結構しっかりセリフをしゃべっている割に、完全に「モブ」として自然な演技をしているため、役者そのものの自我とか存在感とかが皆無である。 

もちろん田中さんも思うところあって「空虚」さを獲得するに至ったのあろう。

「ガキ使」で暴露していたデビュー前に相方遠藤へ送った「イタい」手紙や「A級伝説」なんかを見ると、以前はだいぶ「我を出してた」し。

しかし、あそこまで「我」を消しきれるということは、やっぱり彼の「我」が本質的に「空虚」なんだと思う。(相方の演技が「臭い」のと対照的に)

なんてことをゴロゴロしながら考えた。