「日本人なら誰でもできる」について
28日(月)
朝から大学に来て教科書編集のお仕事。
日本語音声を聞き、文字起こしされたスクリプトと照らし合わせながら、日本語の問題をチェックするという「日本人なら誰でもできる」お仕事である。
とはいえ、こういう仕事をいけぞんざいにやるか、それとも念入りにやるか、そこでその人間の真価が問われるのだ。
それにこういうお仕事をさせてもらえることで、私自身新たな気づきが得られるし、経験を積むことにもなるのである。
なので心を引き締めながらサクサクと進める。
すると数週間前に自分が文字起こしたスクリプトの中に欠落や誤りを発見する。
ほかにも読点の打ち方がしっくりこない部分も発見。
さっそく赤ペンでゴリゴリ訂正。
もちろんその当時の私はその時の私なりに丁寧さを心がけてやったはずだが、それでもミスは生じるのである。
やはりどんな仕事でも丁寧にやらねばならんね。
反省。
とりあえずスクリプトのチェックは12時前までに全て済ませ、食事に出る。
今日は小雨で冷え込みが厳しい。
中国に来て以来、寒い日には羊を食べたくなる。
ということで「羊肉汤」のお店に行き、「羊杂面」(羊でとったスープに羊の臓物が入った麺)をオーダー。
一杯10元なり。
ちょっと白濁したスープに合わせるのは、コシがある縮れ麺。
ネギやパクチーなどの香味野菜がふんだんに入っているので、羊の臭いは全く気にならない。
胃袋やレバーなどの臓物が美味である。
私は「バカ舌」なので、食に関しては「好き嫌い」というものがまったくない。
こういう内臓系の食材は敬遠される方も多いが、私は特に大好きである。
だから「あひるの腸」や「牛の胃袋」、「魚の浮き袋」などなど、日本ではなかなかお目にかからない珍味に欠くことない中国の食との相性が非常にいい。
こういう類いの食材が好きなことを中国語では“重口味”という。
“口味”は「味」とか「味の好み」という意味である。
ここでの“重”とは「重い」というより「濃い」という意味だから、ようは“重口味”とは辛すぎる料理とか脂っこすぎる料理を好むことを指す。
日本語に訳すならば「こってり好き」とかいうところだろうか。
すくなくとも私が最初にこの言葉を勉強した時に覚えた意味はそうだった。
ところが中国の人たちと食卓を囲むなかで、どうやらこの言葉は日本語で言う「ゲテモノ好き」に近い意味でも使われるらしいことが分かった。
そして「牛の胃袋」とか「アヒルの腸」とか、そういう私が好きな珍味は、“重口味”に分類されるらしいことを知った。
へえ、そうなんだ。
火鍋を食べるなら絶対欠かせないのに。
確かに「ゲテモノ」といえば「ゲテモノ」かもしれない。
「ゲテモノ好き」という意味から派生したのか、はたまた「ゲテモノ好き」という意味の由来になったのかは定かではないが、ある人間の映画や異性などの趣味嗜好に対して「げぇ、あんなのが好きなの?」という見下しや侮蔑のこもった気持ちを表現するときにも“重口味”は使われる。
私は「バカ舌」なので、一般的に「ゲテモノ」とは具体的に何を指すのか、よくわからない。
さすがにネズミとかミミズは食べたことない(食べる機会がまだない)。
ザリガニやカエルはふつうに美味しいと思う。
院生時代のゼミ旅行で沖縄旅行をした時は、離島名産という「ヤギの刺身」を美味しく頂いた。
スッポンなんかは甲羅のゼラチン質が最高である。
確かに「ゲテモノ」好きなのかもしれない。
まあ、嫌いなものが多いより好きなものが多い方が幸せそうだし、いいじゃないか。
満腹したので腹ごなしにぐるっと回り道をして大学に戻り、仕事の続きに取り掛かる。
そういえば「日本人なら誰でもできる」で思い出した。
以前祖母が入院していた病院にお見舞いに行った時のこと。
そこの看護師さんから「中国の大学で先生をなさっているんですってね」と尋ねられた。(たぶん祖母が私について話したのだろう)
続けて「何を教えてるんですか」とお尋ねだったので、私は「日本語です」と答えた。
すると彼女は「なぁんだ、それなら私でも教えられる」と破顔一笑されたのである。
そうだね。
当事者としてあまり大きな声では言えないし、あまりにも本当のこと過ぎて誰も言明することはないが、中国の大学で日本人教師を務めるのが「日本人なら誰でもできる」というのは、ある意味では正解である。
もちろん実際には正解ではない。
当然資格の問題がある。
現在中国の大学で日本語教師をするためには、大卒以上でなければそもそもビザが出ない。
また、最近ビザの発給条件が年齢面や経験面で厳しくなってきている。
たしか二年前に制度が変更され、60歳以上だったり、二年以上の経験がなかったりすれば、ビザが降りなくなったかのように記憶している。
なので、以前のように「定年退職したし、年金が出るまで中国で日本語でも教えながら悠々と過ごすか」ということはできなくなった(はず)。
大学側から日本人教師への要求も高くなってきていて、最低でも修士号を持たないと採らないとか、有名私大卒や国立大卒でなければ採らないとか、そういうところもある。
だから「日本人なら誰でもできる」というのは、事実としては間違っている。
ではなぜ私が先ほど「ある意味では正解である」と述べたかというと、実際に「日本人なら誰でもできる」程度の仕事をしている人間も多いからである。
教室では学校から与えられた教材を読み上げるだけ。
授業外でも日本語しか話さず(話せず)、中国人の同僚とはほとんど交流しない。
現地の言葉や文化を積極的に学ぶどころか、むしろ避け、日本人駐在員が入り浸る日本料理屋で日本のビールや料理を口にし、日本人と交流するのみで、中国語を覚えようとしない。
そういう日本人教師は、(たくさんではないが)そこそこいる。
それでも大学では学生から「先生」と呼ばれる立場にある。
日本人教師が任される科目は「会話」とか「作文」が主なので、特に中国語を話さなくても授業はできる。
なにしろ日本語はお上手なので、学生や同僚の日本語にケチをつけることができる。
そういう「先生」がいる。
私がこの前目にしたのは、十年も中国に滞在しておきながら中国語がまったく話せないという方。
このお方はご自身のQQ(中国のSNS、つまり学生さんたちが目にする場)で、「中国はここがダメだ」とか「こんなものを良く食べますね」みたいなことを(たぶん無自覚に)発信されていた。
あるとき、この「先生」がQQに「今日は新入生と交流しました。彼らは日本語がぜんぜんできないので、交流に支障をきたしました」という旨の文章を発表した。
おいおい、十年もその国に滞在しておいてその言い草はないだろう。
だいいち、新入生なんだから日本語ができないのは当たり前だろ。
10年のアドバンテージがあるお前さんが歩み寄らんかい。
古諺いわく「郷に入っては郷に倣え」(入乡随俗)。
こういう人間が「言葉を学ぶこと」や「コミュニケーションとはなにか」について、学生さんに深い知見を与えたり、激励の言葉をかけることができるだろうか。
私は無理だと思う。
私が中国人学生だったら「お前が言うな」と思うからである。
私は生意気で態度が悪い人間なので「日本人教師の役割には日本語を話すことだけではなく学生と交流することも含まれるはずです。新入生の日本語がまだまだなのは当然なので、10年も中国に滞在されている先生が中国語で話してあげることも、教師として重要な仕事ではないでしょうか」とコメントした。
すると彼は私のそのコメントを秒速で消したのである。
ふーん。
確かに私も無礼だけどさ、すくなくとも自覚はあるんだよね。
だから現地の人が読むことができるような場で「あんたたちのここがダメ」とか「こんなもの食うの?」とか書かないぐらいのことは心がけてる。(というか、幸せなことに滅多にそう言う思いを抱かない、ほんとに)
そもそも、抱いたとしても、それをわざわざ言葉にして発表なんかしない。
私は暇はあったとしても、そこまで退屈はしていない。
「相手の立場になってものを考えましょう」という「小学校のおはなし」には多くの問題点があるにしても、それでも「もし私が逆の立場だったら」と想像してみることは、大切な知性の働きだと思う。
もし私の地元に外国人が来て「はぁ、お前らの住んでるところは一時間にバス一本しかないの? 原始時代かよ」とか「生のナマコをぶつ切りにして食うとか、うわー引くわ」なんて言ったら、私だったら「しばき倒したろか」と思うだろう。
まあ、いい。
私はそういう「先生」の仕事を以て「日本人なら誰でもできる」というのは「ある意味正解」だと申し上げているのである。
もちろん私自身が気づかないうちに、そういう「先生」になっている可能性はある。
多いにある。
「もし私が私の学生だったら……」なんて想像してみると、結構心当たりもある。
というか心当たりだらけである。
なので、これは自分に向けて射られた矢である。
私の仕事が「日本人なら誰でもできる」かどうかは、私自身が判断することではない。
それは、仕事をする私と仕事を受け取る受け手の方々を包んでいる「コミュニケーションの場」そのものが判断することだ。
なので、私は私にできる仕事をやるだけである。
加えて、ほとんどの日本人教師の方々はそれぞれのやり方で立派にお仕事をなさっているということだけは大書しておく。
管見の及ぶ限り、日本語教育には二つの方向性がある。
「日本語『を』教える」というベクトルと、「日本語『で』教える」というベクトルである。
「日本語『を』教える」ベクトルの先生には、大学で日本語や日本語教育を専攻されていた方や、日本語教師養成講座を受講された方が多い。
だからこのベクトルを極めようとすれば、日本語学の知見を深く学んだり、日本語教授法の技術を磨き上げる方向で、自分の教育を個性化させることになる。
「日本語『で』教える」ベクトルの先生には、大学ではまったく違う分野を学んでいたり、この仕事を始めることで初めて日本語教育に関った方が多い(私はこっちである)。
こっちのベクトルに沿えば、日本語を使って考えさせたり行動させたりすることで、それぞれの学生の問題意識や興味関心を形にしていく方向で教育を展開していくことになる。
当然日本語やその周辺領域について教育をするので、この二つのベクトルがなにか決定的に違う結果を生むのかと言われると、そうではないかもしれない。
この二つが混じり合って教育がなされている場合がほとんどだろう。
そもそもこの定義だって、私の勝手な定義だし。
しかし、この勝手な定義を基に論じさせて頂けるならば、大学で日本人教師を勤める以上、「日本語『で』教える」という心持ちは大切なことだと思う。
その理路を以下に述べる。
日本の日本語学校や中国の培训学校(塾、資格のためのスクール)では当然「日本語『を』教える」だけでいい。
というか、それしかもとめられないし、それ以外のことをしてはいけない。
内田樹の比喩を借りて言うならば、そういう学校の役割は自動車学校と同じである。
最短期間で最高の効率を持って日本語をマスターすること。
そのような目的で成立している学校だし、生徒もそれを望んでお金を払う「お客さん」である。
そういうところで「そもそも言語とはなんぞや」とか「日本語で汝は何を成し遂げんと欲するか」なんて聞く教師は非効率的な上に説教が鼻につくので、「クビ」である。
しかし大学は違う。
大学では「日本語『で』教える」ことが求められる。
というのが私の意見である。
別に「大学の方が求められるものが高い」とか「高尚だ」とか、そういうことを言いたいわけではない。
役割が違うというだけである。
大学での学びには、たんなる技術や知識だけではなく、思考能力だとか、問題発見能力であるとか、知性の涵養だとか、そういう独りきり、一朝一夕では成し遂げられないような素質の開拓が期待されている。
すくなくとも私はそれを期待して大学に行ったし、それを期待されているという前提で仕事をしている。
たとえば、大学で経済学を専攻し、語学は民間の言語学校に行って身につけている、という学生は多い。
先日の新年会でも中国人のL先生と話し込んだことであるが、民間の言語学校ならば、大学2年間かけて合格するような日本語能力試験一級(通称N1、国際的な日本語に関する資格試験の最上級)を半年とか一年でパスさせることも可能である。
だとすれば、大学における語学教育の意義はどこにあるのか?
大学4年間日本語やその周辺領域のみを学んでN1に合格し卒業した学生が、経済学やら工学やらを学んで大学の外でN1を獲得した学生と渡り合っていくために、どういう教育をすればいいか。
そのためには「日本語『を』教える」だけではなく「日本語『で』教える」ことが必要ではないか。
「日本語『で』教える」といっても、別に日本語のみを使った直接法で日本語を教えるということではない。
日本語を学ぶことを通して、言語とは何かとか、コミュニケーションとはどうあるべきかなどについて各自の問題意識を刺激し、育てていくような教育。
私が言う「日本語『で』教える」が指すものはそういうことである。
この「を」と「で」に関しては、たぶん教員養成系の学部でよく言われていることである。
私も大学1年生の時の教育学の講義で「教育とは教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えるのだ」のようなことを聞いて「おお、なるほど」と思ったのである。(そのあとに「でも、結局教科書は使わないといけないの?」とも思ったが)
中国の大学では文法や語彙などに関しては中国人の先生が中国語で教えている。
だからこそ、私のように日本語や日本語教育を専門とはしないネイティブの教師には「日本語『で』教える」余地が大きく残されていると私は思うのだが、いかがだろうか。
もちろん「日本語『を』教える」ことが本務なのは承知の上である。
すくなくとも、教科書を読ませ、読み上げ、無駄話をし、発音や文法にダメ出ししているだけでも「ネイティブなので」務まっている「先生」は、そのどちらも出来てはいないのではないかと思う。
そういうのはやっぱり「日本人なら誰でもできる」仕事だと、私は思う。