とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

気ままに勉強日記。

29日(火)

寒い。

事務室の窓から外を望むと、霧とスモッグで一面白く霞んで見える。

ご案内のとおり、私は冬休みに入っている。 

しかし毎朝ちゃんと起きて、手弁当で大学へ通っている。

机に向かい仕事や研究に没頭し、日が暮れる頃に切り上げ帰宅。 

晩ご飯の仕込みをしたあと、小一時間ほど運動をしてシャワーを浴びる。 

そして少しだけお酒を飲みながら映画や小説を楽しみ、11時には寝る。

という、なんとも規則正しい生活を送っている。

仕事があるときよりも休暇中の方が規則正しい生活スタイルになるというのが、他人からの「~ねば」とか「~せよ」という当為や命令ではまったく動き出さないという私の性格をよく表している。

とはいっても、ありがたいことにうちの大学の上司はぜんぜん当為や命令で私に語りかけることがない。

授業が始まると、むしろ私が私自身に「あ、こうしなければ」と当為の形で語りかけ、「ほら、さっさとやれよ、おう」と命令してしまう。

授業は受け手の学生さんがいるので、どうしてもさまざまな自主制約や自己規範を設けざるを得ないのだ。

その制約や規範をかいくぐってわずかばかりの自由や時間を得ようとすれば、結果的に睡眠時間や家事の時間を削ることになる。

なので規則正しい生活というものが遠のいてしまうのである。

「え、あれでも制約や規範を課しているんですか」と思う学生さんが多数だと思うが、そうなの。

しかし今は休暇中。

授業も雑事もない。 

さらに私は養うべき存在を持たない。

なので休暇中は「何をしても自由だけど、責任は自分で負ってね」という気楽な態度で好きなことに熱中でき、私は生き生きと仕事をしたり、勉強できたりするのである。

結果的に机に向かう時間、厨房に立つ時間、体を動かす時間が増える。 

すると食事が健康的になり、運動量と睡眠時間が増加し、酒量が減る。

なんて健康的な生活なんだろう。

いまのところ2キロ痩せた。

先学期は5キロ太ったので、ぜひとも3月までにはあと3キロは絞りたいところである。

 

今回の冬休みは、午前中を自分で考えたり書き物をする作業に、午後を語学の作業に当てている。

目的性や時間にとらわれることなく、あてもなく勉強するのが楽しい。

特に語学の方は、中国語を英語の例文とともにメモしながら覚えているので、あたまが頻繁に日-中-英と切り替わり、興味関心がいろいろな方面に飛びまくっている。

数種類の辞書を横断し、たくさんのウィンドウを開きながら、さまざまな情報や知識を頭の中に無節操に叩き込んでいく。

ときどき自分でも「あれ、結局何を調べたかったんだっけ」と本来の目的を忘れてしまったりする。

しかし、そもそも目的性にとらわれずに勉強するのが長期休暇中の勉強目的なので、それでいいのである。

今日はまず4日前から続けている「日本語教科書のなかの疑問表現をすべて収集する」作業に取り掛かった。

すると、急に中国語の否定疑問文「…不也是~吗」(…だって~じゃないの?)が気になり始めた。 

私自身あんまり使ったことがないからである。

これは疑問文の形をとっているが修辞的なものなので、言いたいことは「…だって~だろ!」ということである。

要は反語である。

なぜだかわからないのだが、学生時代に初めて漢文の授業で反語表現を習ったとき、「かっこいい…」と思った。

「どうして~だろうか、いや、~ではない」とか「~なことがあろうか、いや、ない」とかいう表現である。

こういう表現は日常生活の中では必要とされないだろうし、出会うこともない。(日常的に反語を使って語る人間になんか近寄りたくない)

こういう「日常ではいらないしなくても困らない語彙」というものを学ぶためには、やはり書を読んだり賢人に接するしかない。

ふと思う。

もし漢語的な疑問表現を日本語に取り入れてきた歴史がなければ、思考のツールとしての日本語はずいぶん貧相なものになっていたのではないか。

と考えながら中国語の勉強に移る。 

今日は中国語の“事实”(shi4shi2)と“实事”(shi2shi4)の違いが気になり始める。

手元の辞典を引くとどちらも「本当のこと、事実」とある。

これだけだとよくわからないので、中国語の例文を読んだり同僚のO先生(余談だがうちの日本語学部にはO先生がたくさんいる)に聞いたりする。 

結果的に言えば、“事实”が「事実」でありfactやtruthであるのに対し、“实事”とは具体性を持ったことや実際的なこと、つまりpractical thingsである。

なぜこのようなことが気になったたというと、中国語ではよく“实事求是”(事実に基づいて真実を求める)という表現を目にするからだ。

今日勉強する中で、この表現を私は“实事求是”ではなく“事实求是”と覚えてしまっていたことが発覚した。

そこで気になった。

なぜ“实事求是”ではなく“事实求是”なのか。

私は街中やテレビのテロップなんかで“实事求是”というスローガンを見かけるたびに、文脈から「本当のことを追求する」という意味だろうと推察し、この表現を覚えていた。

今回わかったのは、これは単に現象的な「本当のこと」を求めるということでもなく、はたまた抽象的で思弁的な「本当のこと」を求めるということでもなく、「地に足つけて」真実を求める、という意味合いを持った表現だったということだ。

それをうけて今度は「なぜ日本語は『事実』はよく使うのに『実事』という漢語をあまり使わないのか」とか疑問を持つ。 

そのことを調べているうちに、全く関係ないことではあるが「目配せ」の「配せ」が当て字であり「くばせ」の語源が「食わせる」だということを知った。

 

「目くばり」? 「目くばせ」?|NHK放送文化研究所

 

 

さらには今日初めて知ったが、中国語で「写真を現像する」の“現像”は“冲洗”chong1xi3という。

漢字を見ればわかるとおり、この単語のもっとも一般的な意味は「洗い流す」である。

で、「そういえば洗い流すって、英語でなんって言うんだっけ」と気になり、自らの英語力がとことん落ちたことに気まずさを感じながら中国語から英語スライドしていく。

するとrinseという単語が出てくる。

「口をゆすぐ」とか「すすぎ落とす」とかいう意味が辞書には載っている。

そこで初めて「あ、日本語のリンスってここから来てたのか」と知る。

辞書によるとリンスは英語でもRinse、ちなみにシャンプーのshampooはヒンズー語からきているとのこと。

ではリンスは中国語でなんというのかというと、辞書には润丝run4si1とある。

おそらくrinseの音訳だろう。

しかし私の知る限り、意訳である护发素hu4fa4su4のほうが一般的な気がする。

たまたま事務室にいらっしゃった女性のO先生(さっきのO先生とは別人)に確認しても、润丝は聞いたことないとのこと。

日本語と同じく中国語でも(というかどんな言語でもそうだろうが)外国語を外来語として自国語化していく際に、それを音訳するか、それとも意訳するかが問題になる。

近代にさまざまな欧米語が飛び込んできたとき、中国語は当初音訳を多用したと言われている。

NHKの番組でも紹介されていたことがあるから、ご存知の方も多いだろうが、たとえばtelephoneを日本語が「電話」と意訳したのに対し、中国語では‘德律风’de2lv4feng1と音訳した。

しかし、日本語の平仮名・カタカナのような表音文字がないため(アルファベットを借用する以外に)外来語を漢字で表記するしかない中国語では、音訳の漢字表記はどうしても文字の表意的影響が避けられない。

なにより中国語は漢字二文字とか漢字四文字の方が「らしい」(とO先生はおっしゃっていた)。

ということもあり、結果的には「电话」dian4hua4が中国語でtelephoneの訳語としての地位を獲得した。

しかし、表意文字で音訳するという点をうまく利用すれば、感心するような音訳が可能になる。

たとえば、有名どころで言えば「コカ・コーラ」は「口に合う、楽しい」という意味の“可口ke3kou3可乐ke3le4”とかね。

個人的には「ミニ」の音訳“迷你mi2ni3”がお気に入り。

これだけだとなんの感慨もないけれど、「ミニスカート」という外来語になると“迷你裙qun2”になる。

「あなたを迷わすスカート」、まさに名は体を表すではないか。

逆にストレートに意訳してしまうと「は?」と思ってしまう結果になることもある。

私が中国に来て一年目、大学キャンパスの中で目にして印象的だったのは“热狗re4gou3”である。

漢字なので「熱い犬」という意味はわかる。

しかし「熱い犬」とはなんだ(あついぬ?)。

しばらく考えてやっとわかった。

ホットドッグである。HOT‐DOG。

しかしいくらなんでも、その訳はないんじゃないのと思った(今でも思う)。

外来語は面白い。

 

特に中国語の外来語と日本語との関係には、いろいろと複雑なものがある。

たとえばロマンという言葉を日本語では「浪漫」と漢字表記したりする。

これはromanやromanceが日本に入ったあとに作られた当て字だと日本では言われている(夏目漱石が当てたとも)。

ロマン・ロマンス - 語源由来辞典

しかし、中国語でもロマンは浪漫lang4man4と表記する。

そして中国では「浪漫」は中国語だとされている。

たとえば「百度百科」(Wikipediaのようなもの)には、「浪漫」の出自を北宋の詩人蘇軾が残した「与孟震同游常州僧舍」という詩の一節「年来转觉此生浮,又作三吴浪漫游」だとしている。

もっとも、

“浪漫”二字,并不是一个词语,而是两个并列字,诗中此二字的意义与现在浪漫一词的意思不同。(この「浪漫」の2字はひとつの語句ではなくて二つの文字を並べたものであって、この詩の「浪漫」という2字が意味するものと現在の「浪漫」という語句の意味は同じじゃないよ)

と断っていはいるが。

baike.baidu.com

 

あらかじめ断っておくが、私は「どっちかが先か」とかそんなことを論じているつもりはないし、そんなことには微塵の興味もない。

そういうことを論件としてかまびすしい論争を展開する方もいるが、それは私の出る幕ではない。
単に私はこのような「一見なんの役にも立ちそうもないし、事実なんの役にも立たずにおわるであろう」疑問や調べものを深く愛するだけだ。

というのは、私が知りたいのはある具体的な知識ではなく、ある具体的な知識を知りたがっている私自身についてだからである。

ほかの表現をするならば、私が思考し実践することになにか意義を求めるとしたら、それは「新しい何かを創る」ためだけではなく、自分の人生において思考の「第一撃となったなにか」を遡及的に知るためである。 

私は自分の思考を形作るきっかけとなったであろう最初の疑問、最初の思考、つまり宇宙にとってのビッグバン的な「第一撃」を、自ら知ることはできない。

それは記憶の奥底に深く沈んでいるからである。 

しかし私たちは何かを感受し、思考し、ある「答え」を獲得したその瞬間に初めて、みずからが何を問うていたのかを事後的に知ることになる。

 だとすれば、私が絶えず思考し続けることの第一目的はなにかを具体的に成し遂げることではなく(それが重要ではないということではない)、自分の起源を遡及的に知るためである。 

もちろんここでいう「起源」とは実体的なものではないし歴史学的な「真実」でもない。

むしろ物語に近いものである。 

でも、それでもいいんではないかと思っている。 

根拠などないけれど。

……別に無意味な調べ物をしている自分をエクスキューズしているわけではない。