とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(羊とガチョウと魚と「グルグル」)

1日(金)

 

早いもので2019年最初の月が終わった。

1月は我ながらよく働いたと思う。

冬休みなのにね。

まあ冬休みだからなんだけど。

 

前日の冷え込みから一転、今日は快晴で温かい。

昨日一面に降り積もっていた雪は一瞬にして溶けさってしまった。

本日もあいかわらず午前中から赤ペン片手に机に向かう。

積み上げられた原稿にゴリゴリと朱を入れてゆき、昼過ぎまでにはすべてのチェックが終了。 

追加でチェックのオーダーが入ったものが少しだけあるけれども、まあほぼ完成したといっていいだろう。

仕事を完成させると気分が良い。

気分がいいので散歩に出る。

大学近くの川沿いを一時間ほどトコトコ歩く。

歩くとお腹がすいたので、「羊肉麺」を食べるために羊専門の麺屋へ。

しかし、お昼どきを微妙に過ぎていたためか、「麺がなくなった」という。

「なくなった? じゃあ探してよ。 なに、切れた? なら繋いでよ」(By 立川志の輔) 

なんてくだらないことを思い出したが、ないならしかたがない。 

ほかの羊専門の麺屋へテクテク移動。 

しかし、今度はそこが「お正月休み」で閉まっている。

今日はとことん羊と縁がないらしい。 

ないならしかたがない。 

ということで、テキトーに目に入った「ガチョウ」専門の麺屋へ。

……羊専門の麺屋とかガチョウ専門の麺屋とか書いてしまうと、なんだが羊さんやガチョウたちが通う麺屋のようであるが、当然ながら「人間」専門の麺屋である。

こう書いてしまうと、まるで「人間」を中心に出して食させる……。

くだらんことを書くのはよそう。

で、このガチョウ専門の麺屋は「あたり」だった。

“鹅肠面”(ガチョウの腸が具として入った麺料理)を頼んだが、これがうまい。

スープも優しい味わいのなかに旨みがしっかり感じられるものだし、麺もコシがある。 

しかしなにより、主役の「ガチョウの腸」が素晴らしい。 

日本で口にすることはあまりないだろうから、食べたことがない方は想像するしかないだろうけれど、食感はコリコリした歯ごたえが楽しめる。

味は、特にない。

しかしこれはそもそも口触りを楽しむ食材なのだ。

こいつをしっかりした味わいのスープをまとったコシのある麺や、シャキシャキした青菜と一緒に口の中に放り込むと、なかなか不思議な口感である。

(小)を頼んで14元と少し割高だが、それだけ払う価値はある。

ズルズルといただく。

ごちそうさま。

f:id:changpong1987:20190201151037j:plain

 

お腹が落ち着くまで、スマホでニュースを見る。

先日横浜の筒香選手が開いた会見で、高校野球に関して意見を述べた。 

そのことに対する朝日新聞(夏の甲子園主催)と毎日新聞(春のセンバツ主催)、両新聞社の報道対応を批判する記事が掲載されている。

何となく読む。

 読んだ。

以下は完全なる私の自己満足のために書いた文章であり、そうやって書かれた文章に批評性とか客観性とか合理性とか、そういう「よきもの」を期待されても困るので、「おまえの自己満足になんて付き合ってられるか」という方はスルーして頂ければ、と思う。

時間の浪費だし。

 

記事によれば、筒香選手の「新聞社が主催しているので、子供たちにとって良くないと思っている方がたくさんいても、なかなか思いを伝えられていないのが現状だと思う」という発言を報じた大手紙は、日経と産経だけ。 

高校野球の二大大会を主催している朝日と毎日はこの「新聞社が主催」という部分に、自社の記事では触れていないということだ。

筆者はそれを「金農旋風」を比較的理性に報じた東スポなんかを評価しながら、批判している。

「まあ、そうだよね」と思う。

昔はこういうニュースを見ると「それでもジャーナリストか!」みたいに憤っていた私だが、正直最近は個々の記者にそういうことを思うことはあっても(それすらかなり少なくなってきたが)、新聞社に「ジャーナリズムの精神に照らし合わせて…」などと憤ることはまったくない。(皮肉としては言うが)

人間がモノを言う以上、その背後には必ず(自分でも意識していない)欲望が隠れている。 

それはたんに金や力を巡るものではなく、自分たちが理想とする「らしさ」や、他人に期待する自分への「らしい」に、私たちは(自分でも意識しないまま)誘われ引きずられ囚われるということである。 

まさか、毎日や朝日が不偏不党で客観公正な新聞社であると「思っている」ひとはいるまい。(信じている人はいるかもしれないが)

それは別に毎日や朝日がどうこうという問題ではない。

そもそも不偏不党で客観公正な人間などいない、という「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことを、私は言っているのである。 

だから、まさかこの「新聞社主催」を報じた日経や産経、金農旋風の中で「美談一色の朝日」よりも「はるかに問題意識を持っていた」東スポなどが、朝日や毎日より不偏不党で客観公正な新聞社である、などと一般化するほど頭が悪い人もいるまい。 

そして、この記事の筆者も、この記事を読んでいる読者も、まさか自分が不偏不党で客観公正であるなどとは思っていまい。 

それぞれの記者や新聞社はしがらみにとらわれているし、それぞれのやり方で偏っている。

それぞれの記事やニュースを読む読者はしがらみにとらわれているし、それぞれのやり方で偏っている。

この記事を読んだ私は私なりのしがらみにとらわれているし、そのしがらみのなかでこの文章を書いている。

それは「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」な事実である。 

だから、それぞれのしがらみにとらわれて、それぞれのやり方で偏っている我々は、多種多様で種々取り取りな情報の中から、人それぞれの思い思いのやり方で「正しい」と思うことや「確からしい」と感じることを見つけていけばよいのではないかと思う。 

私がこの記事を見て思ったのが、こういう話題になると「情報弱者はマスコミにすぐ騙される」という「情報強者」がたちまち姿を現し、彼らには見えていて「情報弱者」には見えていない「確かなこと」や「正しいこと」の啓発活動を始めるということである。 

彼らはマスコミの不誠実さやインチキさを糾弾しながら、一方で「俺は真実を知っているが、俺が知っている真実をしらない(バカな)人間が多過ぎる」ことや「世の中には自分の頭で考えない人間がいる(俺は違うけど)」ということを、所与の前提としている。 

でも、私はそういう人間こそ「バカ」と呼ぶべきではないだろうかと思う。 

「バカ」とは情報量や知識の範囲、論理的整合性、主張の「正しさ」云々以前に、自己の客観的現実と自己評価の「ズレ」に自分だけが気づけない知性の状態であると、私は考えるからだ。

記事にはこう書かれている。 

私がいつも皮肉だと思うのは、普段リベラルな論調と言われる朝日と毎日が高校野球になると見事なまでの「守旧派」になってしまうことだ。

確かにこれは「皮肉」かもしれない。

しかし、そういう「矛盾」はどこにでも発生する現象である。

つまりすべからく人間は、それが無意識的に露呈したものか、それとも「分かっていてもそうせざるをえない」のかはわからないが、簡単に「バカ」な振る舞いをするということである。

「分かっていてもそうせざるをえない」場合は、ご自身に「自分はバカなことをしている」という自覚があるので、まあいい。(開き直る場合もあるが、その場合は完全に「バカ」だと明らかになるので、無視しておけばいい)

問題は、その「バカ」が無意識的に露呈する場合である。 

なぜこのようなことが生じるのか。

私はこう考える。

一つは、自分「だけ」が正しいと思っているからである。

自分「だけ」が正しいと思っている場合、人は簡単に「バカ」になる。

「じゃあお前は自分は正しいと思わずに、こんな文章を書いているのか」

いいえ。

もちろんこうやってペンをとっている(というか、キーボードを叩いている)以上、私は私の考えに、ある程度「正しさ」を感じている。 

しかし、私「だけ」が正しいなどとは一切思っていない。 

私がこのように綴っている言葉が「正しい」かどうかを最終的に決定するのは、私や「あなた」ではなく、私や「あなた」が位置しているコミュニケーションの「場」そのものである。

そしてこのコミュニケーションの「場」とは、「いま、ここ」ではなく、時間的にも空間的にも未知に向かって開かれている。

だから、このコミュニケーションの「場」において、「いま、ここ、わたしたち」だけによって「正しさ」の判定がなされるべきだと、私は考えない。

「場」そのものを尊重するとは、そういう意味である。

だから、私は「今の私だけが正しい」などとは、原理としていわないことにしている。

もちろん、私はこのブログを(いまのところ)匿名で書いているので、そのぶん私の論は説得力を失う。 

それは仕方がない。 

私なりのしがらみにとらわれて、私なりのやり方で偏っている私が、今の私なりに考えてそういう選択をしている以上、私はその分論の説得力を失う。 

それは百パーセント私の問題であり、私の原因によるものである。

 

「バカ」が無意識に発露する背景について話していたのだった。

もう一つ考えられる原因は、自分がある言葉を発することで本当は何を欲望しているのか、直視しようとしていないからである。

他人を「論破」して自分を偉く見せようとしたり、最新の情報を紹介し他人から注目されようとしたり……人間がある言葉を発する根底には、そこに至るまでに、かならず何らかの欲望が存在しているはずである。 

そのことを認め、直視し、計算に入れておかなければ、どんなに博学で、論理性に優れ、レトリックが巧みであろうと、「バカ」は簡単に露呈してしまうのではないだろうか。 

だから、朝日や毎日は「私たちは私たちなりのしがらみや利権にとらわれて高校野球を報道しています」といえばいいと思う。

そうすれば、私たちはその「バイアス」を考慮に入れて、記事やニュースを活用できる。 

もっともメディアがそんなこと言うはずがない。 

言ってしまうと、これまでのような「〇〇としてそれでいいのだろうか」とか「××であるべきだ」という語り方を全面的に見直さなければならないからだ。 

それに、数行前に書いたことをすぐ撤回するようでなんだが、そんなことをいう必要ないと私は思う。

さっき言ったように、マスコミがマスコミなりのしがらみや利権にとらわれて報道していることなど、「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」な事実だからだ。 

だから、朝日や毎日の高校野球報道や、それについてこういう記事を書く筆者にも、それぞれそれなりの意図や欲望があるのだと思って読めば、(そしてそれを読む私にもそれなりの意図や欲望があるのだと思って読めば)、あまり問題はないのではないかと思う。 

あくまで邪推だが、もしこの筆者が「いや、報道機関は中立公正だと思っている受け手だっているんだ」という意図でこの記事を執筆しているのなら、私はその労をとやかく言うつもりはないが、その「読者像」の設定に関しては慎重になったほうがいいのではないかと思う。

「そういうお前にこのような文章を書かしめる欲望はなんだ」

そうね、私が自分で意識できる範囲で言えば、たぶん私は「頭がいい」と思われたがっているんだと思う。 

私はルックスやファッション的な方面で「カッコイイ」と言われたいとか、「女の子にモテたい」とか、どんな人からも「いい人」だと思われたいとか、そういう方面の欲求は皆無である。 

本人が認識していないだけで、実は深層的には「俺はカッコよくて、女の子にモテまくって、みんなからいい人だと思われたい」と欲望していて、それが周囲にだけは筒抜けている可能性はあるが、その場合周囲の人間は私の言動の意図を察知して、私を避けることも利用することも可能なわけで、みなさんに害をなす危険性は薄い。 

なにより、実際問題として私は「カッコイイ」わけでもないし、「女の子にモテた」記憶などなく、「いい人だね」と言ってくれる奇特な人に最近あった覚えがないのである。(ぐすん)

ただ、私は「頭がいいね」と褒められたいという欲求は、結構小さい頃から持っていたと思う。 

で、そういう欲望は(「可愛いね」と言われたがる女の子や「センスいいね」と言われたがる部屋の持ち主がそれを隠しきれないように)、おそらくは周囲にはダダ漏れなんだろうと思う。

でも、私がここまで書いてきたことは、繰り返していうが「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことである。 

そんなことを書いたとして、「頭がいい」と思われるだろうか。

私は疑問である。 

いや、もしかしたら「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことを徹底的に書くという態度で「頭がいい」と思われようとしているのではないか。 

はたまた、こうして自己懐疑を繰り広げることで、哲学の伝統である「無知の知」を体現し、「頭がいい」と思われようとしているのではないか。 

こういう自己言及を繰り返すことで、「俺はお前が俺について思っていることを先読みしているぞ」とマウントを取ろうとしているのではないだろうか。

……。 

キリがない。

無限ループである。

自らの欲望を自らチェックすることは大切なことだが、それをやりすぎるとキリがない。 

なによりそれを晒すことは悪趣味である。 

確かに、読み返してみると、悪趣味だ。

犬が自分の尻尾を追いかけてその場でグルグル回っているようかのようである。

すみません。 

でも、ここまで自己言及を書き連ねたおかげで、私がなぜこの文章を書き、しかもこうして公開するに至ったのかについて、「頭がいいと思われたいから」という欲望以外に、もうひとつ理由があるのだと、気づいた。

それはたんに「楽しいから」である。

読んでいる方にはわからないと思うけれども、この「グルグル」はその場で空回りしているようでいて、実は少しずつ前に進んでいるのである。 

犬だって傍から見ればその場でぐるぐる回っているだけだが、なぜ回り続けているかというと、回るたびに「なんだか、楽しくなってきちゃった」からである。(たぶん) 

で、こうして「あ、そっか。結局、楽しいから書いてるんだ」と気づくことができた。

これは「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことなのだが、それでも私にとっては新発見である。

しつこくワンちゃんを比喩に用いさせてもらうが、犬がそのへんで見つけたくだらないものを飼い主のところまで持って帰ってきて、「どや、すごいやろ」と見せるように、私もこの喜びを見て欲しいのである。 

つまり、自己満足である。 

よって、この書き物に、批評性とか客観性とか公益性とか「役に立つ何か」など、ない。

私の自己満足です。 

ここまで読んでくれるような奇特な方がもしいたならば、申し訳ない。

でも、「ぐるぐる」は楽しいのである。

なぜ楽しいかというと、「ぐるぐる」していると、そのうちに「ぴょい」っと「どこか」へ飛んでいってしまうからである。 

この「どこか」とは、以前の私にとっては予想だにしなかったような新たな視点だったり、新たな文体だったり、新たな認識だったりする。

つまり、「ぐるぐる」によって量を稼ぐことで、そのうちに私の思考の質が「ぴょい」っと変質する瞬間が訪れるのである。 

自己で自己について言及し「ぐるぐる」するのはそのために欠かせないのである。 

なぜなら、「量の積み重ねが質の変化を生む」というところの「質の変化」が意味するのは、単に「もう、あきた」という精神状態に過ぎないからだ。

そして一人で「ぐるぐる」していると、自分で自分に飽きてしまう。

私の中でふたりの私が会話をする。 

 

「ねえ、まだそれつづけるの」

「仕方がないだろ、これしか知らないんだから」

「もうおいら、飽きちゃったよ。もっと、ほかになんかないの?」

「うっせーよ、そんな言うなら、お前が自分でやれよ」

「……わかった」

 

「ぐるぐる」している私に飽き飽きして文句をつけるもうひとりの私は、文句をつけた手前新しい「なにか」を自前で調達せざるを得なくなる。 

「ぴょい」とは、この「もう飽き飽きだよ」な私が首尾よく新しい「なにか」を調達できた瞬間に生じる知的運動である。

それは結構気持ちがいい。

だから、「ぐるぐる」も結構「楽しい」のである。

私は「ぐるぐる」「ぴょい」を楽しみたいだけであって、繰り返すように、そこで批評とかなんとかを目指しているつもりはない。

「頭がいい」とかなんとかも、なんかもういいや。

「伝えたい」ことがあるわけでもないし。

でも、もし、この「ぐるぐる」「ぴょい」を想像的に追体験してもらうことで、何かが「伝わって」、「おもろい」と思うような人がいたならば、まあよかったなと思う。(そんな人間が入ればの話だが)。 

 

 

麺を食べ終わったので、大学に戻り、16時半までには残りの仕事を一気に殲滅完了。

ふー。

終わった終わった。

これで春節前の「仕事納め」である。

夜はO主任と他大学のH先生と一緒に「忘年会」。

魚料理専門店で、魚を食べワインを飲む。

f:id:changpong1987:20190202000311j:plainf:id:changpong1987:20190202000403j:plainf:id:changpong1987:20190202000437j:plainf:id:changpong1987:20190202000504j:plainf:id:changpong1987:20190202000531j:plain

 

案内された座席は目の前に水槽があって、これから店中の人々の胃袋に収まるであろう魚たちが我々一行を見つめてくる。 

なんか、すみません。

でも、すごく美味しそうです。(美味しかったです)

昨日食べたのは“剁椒鱼头”という湖南料理。

湖南料理だから、唐辛子がたっぷり使ってある。

半分に叩き割った魚の頭のうえに赤唐辛子をたっぷりとまぶし、調理されている。

直径50センチはありそうなお皿に乗ってきた魚料理を、汗をだらだら流しながら食べる。 

口のなかが山火事状態なので、冷製のおそばを注文し、鎮火を図る。

しかしこの「あえそば」というか「まぜそば」、かなり激辛のラー油がソースになっていたので、口の中が却って大変なことに。 

しかし、うまい。

魚をバクバク食べ、ワインをグビグビ飲み、先生方と一年の労をねぎらい合う。

ごちそうさまでした。

 

家に帰ってさっさとシャワーを浴びる。

今年は4日が除夜、5日が新年である。 

ベッドに潜り込み、明日からしばらくはゆっくりしようとおもいながら、あっという間に就寝。