とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

スッキリしなくてすみません。

朝起きてニュースをチェックしていたら、こんな記事を読んだ。 

headlines.yahoo.co.jp


見出しによる刷り込みの影響が多分にあると思うが、これを読んで私は「うーん」と思ってしまった。 
とくに違和感を覚えた部分が、ここ。

お茶の水女子大学の決断は、すばらしいことだと思いつつ、私は一刻も早くこの世界から女子大というものが無くなればいいと思ってしまいました。

 女子大を無くしたい訳ではありません。女子大が必要の無い世界を実現したいのです。

 
誤解していただきたくないので、先に断っておくが、私は多種多様な人やものごとが存在して当たり前だし、それを「必要性」や「合理性」で画一化したり一般化して論じるべきではないと思う。
私は「男らしさ」とか「女だから」とか「日本人は」とか「九州男児のくせに」のように、その人間のある属性を持って、人間を「一般化」したり「画一化」して論じる語り方が嫌いである。
そういう枕詞をふれば自分で考えずともストックフレーズがつらつらと出てくるし、そういう文章や考えは、読んでいてたいへんつまらない。
なにより自分のたまたま生まれ持った属性で簡単に「一般化」されたり「画一化」されると腹が立つ。 
以前うちの大学が開いた公開講座では、国内外からさまざまな偉い先生が来て、それぞれ「日本人」論を述べられた。 
そのなかには、申し訳ないが「うーん」と感じるものもあった。 
もっともそこで述べられた「日本人」像の来源には、個々の日本人の具体的な言動が一部あるわけだし、私自身が「日本人と私」についてどう思おうと、日本に生まれ育ち日本語を母語とする「日本人」であり、そのバイアスから逃れられない以上、私は私自身の「うーん」を批判的かつ分析的に見たほうがいいだろう。 
なにより私の「中国人」像だって、同じようなものかもしれない。 
だからこういう問題を考えるときに大切なことは、一方が高所から鋭く「学術」的に分析することだけではなく、お互い向かい合い、膝を交えながらやろうという態度ではないかと思う。 

「あ、きみほっぺにご飯粒ついてるよ」 
「わ、ホントだ、ありがとう」 
「あれ、でも君も片足だけブーツインしてるよ」 
「あら、恥ずかしい」 
「ははは」
「うふふ」

みたいに。
もっとも、講座では様々な先生が典型的な「日本人」像を提示したあと、学生さんに「みなさんの日本人の先生はどうですか?」とマイクを向けた。 
ほとんどの学生さんの反応は「うーん」というものだった。
この「うーん」には、「うーん」という反応をされる当事者として深く分析すべきものが多く含まれている気がするのだが(「うーん、本人がいるから言えない」とか「うーん、論じるに値する人物ではない」とか)、まあそれはそれとして。 

閑話休題。 
だから、この高校生が少数派として、社会の不理解から様々なものを感受し、自らの存在意義について問うことで、苦労したり悩んだりすることが避けられない立場に居るのだということは理解できる。 
そして、当事者として「こういうこと」をいうのもわかる。 
しかし、女子大という存在は、今の日本では明らかに少数派の存在である。
社会からの理解を得たり、自らの存在意義を問うことで、現在の女子大関係者は相当苦労したり悩んだりしているはずだ。
「女子大は時代錯誤だ」などという声もある。
しかし、私は思うのだが、少数派だったり目立たなかったりする存在は社会が気づいていないだけで「合理的」な存在意義を担っていることがある。(手塚治虫が『ブラックジャック』「六等星」で教えるように) 
そういう意味で、私は原理から言えばすべての存在が潜在的には「必要性」や「合理性」を帯びているのではないだろうか、と考えている。(もちろん実際にはないこともあるのだろうが)
世界やものごとは複雑だし、人間の頭はあまりよくない。 
あまりよくない人間の頭が世界や物事を「スッキリさせたい」と「一般化」や「合理化」を望むときに、私たちはあまり急いではいけないと思う。
だから私はこの種の性を巡る議論に、「スッキリさせたい」という態度をとらないことにしている。
私はこの種の議論に「スッキリ」した答えを持たないが、それは私がこの種の議論にあまり関心がないとか知的にとても怠慢であるというよりも(あまり関心がなく、とても怠慢だが)、「この種の議論にはスッキリした答えを持たないほうがいい」と考えるからである。
でも、この高校生は「一刻もはやくこの世界から女子大がなくなればいい」と思っている。
しかも善意からそう願っているのである。
当人の善意がどうであれ、私の目には、これは「スッキリ」した語り方、「スッキリさせたい」という考え方に映る。 
それが彼女の善意からなる思いだということを、私は信じる。 
しかし、現在少数派である存在を「なくなればいい」と願うことは、結局は自らの「男らしさ」や「女らしさ」を所与の前提として疑わずに物事を論じ「画一化」し「一般化」するバカたちが通った轍を踏むことに繫がるのではないか。
彼女は続けて「女子大をなくしたいわけではありません。女子大が必要のない世界を実現したいのです」と言っている。 
もちろんこれは女子大が存在することを「いまだ男女平等が実現しておらず、さまざまな性差が存在するからだ」という認識に基づいて理解しているからである。
だから、「女子大が必要ない世界を実現したい」とは、つまり「男女平等を実現し性差が撤廃された」世界を実現したいという純粋な想いから出た言葉である。
それはわかる。
しかし、それでも私はここに少し知的に不遜な態度を感知する。 
彼女は女子大の「必要性」について、どの程度のことを「わかって」いて、それはどのぐらい「正しい」と思っているのだろうか。
彼女は自分の「実現したい世界」について、どのくらい自己批評的なのだろうか。 
もちろん女子大のような少数派が如何に成立したのかという背景や、存在意義を勉強し、そこから現代的な「必要性」を算出し、比較考量のうえで「必要性」がないと主張することは誰にでもできる(手間暇を惜しまなければ)。
「既に起きた」ことを巡る議論だからだ。 
しかし、女子大のような少数派がこれからどのような豊かで個性的なパフォーマンスを見せ、社会に「必要」とされるかということは、誰にも正確に予測できない。(女子大関係者自身ですら)
「未来」に関する議論だからだ。
「未来」に関する議論において、決定的アドバンテージを保持するものなど存在しない。
だって「未来」に関する議論なんだから。 
予測された時点で、それは「未来」ではなく、「未来性」を決定的に失われている。 
私の経験的に、「未来」に関して「俺は他のやつより読めている」という人間は「眉唾もの」である。
そこに「べき」論が絡んでくると、なおさらである。
もちろん彼女はそんなことは言っていない。
しかし、自らの「したい」論によって現在少数派である女子大という存在を「なくしたい」と思うに至っている過程には、十分注意したほうがいいのではないかと思う(余計なお世話だろうが)。
もうひとつ気にかかるのは、「現在は仕方がないけれど必要性があるので女子大はあっていいが、必要性がなくなればなくなってもいい」というロジックに関してである。
そもそも、「必要性」で「あっていい」とか「なくしていい」を論じていいのだろうか。
もちろんそういう論じ方が適切な場合もある。
しかし、そうではない場合もあるはずだ。
たとえば、この論じ方で性的マイノリティーを「必要のない」存在だとする論者がいる。 
重ねていうが、私はそういう論者に認知できる限りの「必要性」で、人間やものごとの存在を簡単に論じる議論に賛成しない。
「もし自分たちが『必要ではない』と気づいていないだけで、実は『必要だった』存在だったら、どうするの?」とか「必要性どうこうなんて論じなくても、いろんな人やものごとがいていいじゃん」と思うからだ。 
なぜなら、重ねていうが世界は私たちが簡単に一般化できるほど「スッキリ」したものではないと、私は考えているからだ。
そうである以上、私の世界観は「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ』したものではない」というものになる。
「なんだよ、結局そうやってスッキリさせてるじゃねーかよ」
そうだね。
この世界観を提示したあと、この世界観の中で自分ができることを行動しなければ、全く無意味なものかも知れない。
それでもこの定義ならば、「いや、俺は世界はスッキリしていると思うぞ!」という「異論」でさえも、包み込めるからだ。
だって、「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ」したものではない』と私は考えているんだから。
私は当然「私たち」に含まれる。
そんな私が「私の考えのみが正しい」と思うほど「スッキリ」しているはずがないじゃないか。
それに、私は世界は驚く程「スッキリ」したもので、私たち人間が複雑すぎるとも考えているのだ。
「なんだよ、お前言ってること矛盾してるじゃねーか」
そうです。
だって(繰り返していうが)「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ』したものではない」んだから。
世界の一部である私たちだって、そんな「スッキリ」した存在であるはずがないじゃないか。
もちろん論文とか法体系とかで「矛盾」が許されないことはある。
それらはひとつの立脚点に基づき、平面的に系を伸ばしていくことで世界を説明する営みなので、同一平面上では「矛盾」が許されないし、ひとつの立脚点からしか説明ができない。
それらが間違っているとか不適切だとか言っているのではない。
それらは世界の一部を切り取ったものであるといっているのである。
世界というものは「ある」とか「ない」とか「平面」と「垂直」とか「賢者」と「バカ」とか、そういう二項対立がスッキリと組み合わさって成っているものではない。
しかし私たちの思考というものは「ある」と「ない」の二項対立でしか展開できないのである。
それでは世界を立体的に、包括的に語れない。
もちろん世界を一度で立体的に、包括的に語ることなど不可能だろうと思う。
だからこそ、世界を説明しようとするもののパフォーマンスは、もがき、ねじれ、スッキリすることがないのである。
以前このブログでも紹介した「日本語視聴説」のテストで学生さんたちに考えて欲しかったのは、そのことである。
いい機会なので、先月このブログに書いた拙文(というか、拙「試験問題」と拙「参考回答」だな)を引用しておく。
ちなみに試験でお見せした映像は、ラーメンズの小林賢太郎がやってる「小林賢太郎テレビ」より「3D」というコント作品とその制作背景である。

大問1.映像の内容を200字以内で要約しなさい。ただし、映像は5分のインターバルを挟み、2度流す。

※参考回答
小林賢太郎はスタッフから追加のコントを制作を依頼される。お題は「3D」。
初めはとっかかりを得られず困惑気味だった小林、まずは3D映像を体験しながら、3D放送ではない番組で3Dを再現するための策をねる。そして3D映像の特徴が「奥行があること」「ないものがあるようにみえること」だとつかみ、その特徴を簡単な装置で実現するため様々な試行錯誤を重ねる。結果、自分との共演という形で、みごとコントを完成させた。

大問2.映像の内容に対して感じたことをもとに、①問いやテーマを立て、②それにもとづいて自分の考えを400字以上600字以内で述べなさい。

※参考回答
なぜ彼はもがくのか?-ひとつの次元に問わられない柔軟な知性-

視点の制約はより良い思考や実践を阻む。しかし私たちの視点はどうしても限られている。一度に一つの視点からしか見ることはできないし、一つの立場でしか考えることができない。多角的に考えるというが、「多角的に考える」というのが既に一つの視点であり立場だ。決して制約から逃れ切ったわけではない。
どうすればいいのか。
大事なことは、もがいて「ねじれ」を生み出すことである。
印象的だったのが、小林が常に「ねじれ」を作っていたことだ。
例えば、自分との共演という発想は、単一の私という視点からみれば「ねじれ」である。
「二次元のものに三次元と書いてあったら何次元?」
「二次元のものに三次元のものが三次元と書いてあったら何次元?」
これらも「ねじれ」だ。 
カメラ枠をなんとか抜け出そうとしたり、最後にはその枠を脱し、舞台の全体像を私たちに一望的に映しだす。
そして私たちも視聴者であると同時に、私という枠で見ていることに気付かされる。
彼は柔軟な人間だが、それは彼が(おそらくは意識的に)もがき、「いま、ここ、わたし」という単一次元に留まらないための「ねじれ」を生み出しているからだ。
柔軟な知性を得るには、自らの視野狭窄を自覚し、自らに多種多様な視点を混沌と共存させておく必要がある。 
そのためには、思考を縦-横二次元で捉えるのではなく、常に「ねじれ」を含む三次元的、そして未知をも含む四次元的なものに保っておくことが重要ではないか。 

世界は複雑である。
それを説明しようとすればかならず「ねじれ」が生じる。
そこで「ねじれ」を「あるべきではない矛盾」として捉えるか、それとも現在の次元からの突破口として捉えるか。
まあ、それは今回のテーマには関係ないので、横に置いておく。
世界は複雑である。
しかし、私たちそれぞれがそれぞれの仕事の「一部」を持ち寄って積み重ねてゆき、結果的に縦横無尽、融通無碍な世界観を人類の共同作品として提出するためには、「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ』したものではない」という(無味乾燥だが実用的な)仮のルールを使ってはどうか、と私は思うのである。
で、それを実践しているつもりなのである。

ちょっと話がそれすぎた。
あまりよくない人間の頭が世界や物事を「スッキリさせたい」と「一般化」や「合理化」を望むときに、私たちはあまり急いではいけないと言っていたのであった。
あくまで私にとって、これは不完全な知性しか持ち合わせていない私が、その不完全な知性を完全に働かせて物事を論じる際の大事な態度である。
それに自分自身の胸に手を当てて考えてみれば、自分が「俺は世界をクリアカットに一般化できるぞ」という場合、その仕事によって世界が「スッキリ」説明されるというよりも、単に「俺がスッキリ」する場合が多いのではないか。 
少なくとも私のなかの「俺」には、そういう傾向が見られる。
確かに「俺」の「スッキリしたい」というプリミティブな欲望が「スッキリさせたい」という「知的欲求」に形を変え、なにか得るものがある場合も多い。
しかし、失うものが多いのも事実である。(論考の慎重さとか、他人への寛容さとか、文章の深さとか、言動の節度とか……) 
あくまで私の場合、「俺は世界をクリアカットに一般化できるぞ」という態度で何かを論じた結果、得たものより失ったもののほうが多かった気がする。
だから、私は自分が「必要性」を論拠にし始めたときには、「これって眉唾ものじゃない?」と警戒することにしている。
なので、女子大のような「時代遅れ」で「非合理的」で「不必要」だと言われ始めている少数派的存在を論じる際、私たちは自分の「時代」や「合理性」や「必要」について、自省してみる必要があると思う。
そして実は女子大のような少数派的存在には、女子大関係者を含め私たちが気づいていないだけで豊かに有している時代性とか合理性とか必要性があるのではないだろうか。
そういうものを探して見つけ出す議論の方が、「なくす」議論よりも多様性に帰する生産的なものだと、私は思う。
それとも、「男女平等」とは、「女子大」とか「男子校」とか「宝塚歌劇団」とか「歌舞伎」とか、そういう「性別で分けられることで存在してきたもの」を自分たちの「必要性」の観点から「必要がない」ならば、全て「スッキリ」廃止することであり、そのような「画一化」を進める自分の考え方は絶対に正しいものであると「一般化」して、「スッキリ」することなのだろうか。 
繰り返すが、私は多種多様な人やものごとが存在して当たり前だし、それを「必要性」や「合理性」で画一化したり一般化して論じるべきではないと思う。
だからこそ、「〇〇はなくなればいい」という自らの欲望の見極めと取扱には、注意したほうがいいのではないか、そう言っているのである。
別に「必要性」なんて気にせずに、女子大でも男子大でもあっていいじゃない。
そう思う。
それは、私の「別に『男らしさ』とか『女らしさ』とかスッキリさせなくてもいいじゃん」という思いと同じところから湧き上がってくるものである。 
それが多様性ってことじゃないの?
それともこうやって高校生の発言に難癖つけている私も、「男」であるとかその他様々な属性の影響で、無意識のうちにさまざまな偏見やバイアスに囚われていて、にもかかわらず善意のうちにこのようなことを考え書いているんだろうか。 
だとしたら、謝ります。 
すみません。