とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(爆竹、映画、パンク)

2日(土)

昼前まで爆睡。

11時ぐらいにベッドから這いずり出し、シャワーを浴びる。

そのまま活動を開始するかと思いきや、またもやベッドに戻り、本を読んだりネットをチェックしたりして、ぐだぐだ過ごす。

しかし流石に「これじゃいかん」ということで、三時過ぎに重い腰を上げ、買い出しついでに近所の「杏花公園」まで行って5キロほどジョギングする。

公園内では蝋梅がまさに咲き誇っている。

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蝋梅は見た目が美麗であるのみならず香りが品が良い甘さので、ジョギングの足を止め、立ち止まってくんくんする。

この公園は緑や花々が豊かで、さらには観覧車まで備えた小さな遊園地を備えていて、子どもからお年寄りまで楽しめるものとなっている。(おお、ザ・ストックフレーズ)

だからなのか、この公園では様々な人が思い思いにいろんなことをしている。 

今日見かけたのは石畳に水で漢字をさらさらと書きつらねてゆくおじいさん。

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みごとな達筆である。

達筆すぎて全く読めない。

なんだかありがたい名人芸のような気もするが、私はこれをいろんなところに足を運ぶたびに目にする。

ようは「ゲートボール」のようなものである。

なんだろう、おじいさんたちの間でも「インスタ」みたいな社交ツールやLineのグループみたいな機能があって、そこでこういう活動についてシェアしあったり、技を高めあったりしているんだろうか。

最初に見たときは「うわ、すげえ」と感動したが、今ではなんの感慨もない。

道行く人たちも見飽きているので、おじいさんが書き連ねた文字に一瞥もくれることなく、むしろ文字の上をスタスタと歩いてゆく。

まあ、公園の出入り口につながる道の上いっぱいにデカデカと書かれているので、そうせざるをえないわな。

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公園の出入り口には春節の飾りつけがされている。

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春節といえば赤い飾り付けに爆竹。

この時期には街が色とりどりに飾り付けられ、楽しそうである。

6年前に初めて中国で春節を過ごした夜は、まるで銃撃戦が始まったかと思うほどの爆音で爆竹が鳴らされていた。

私は長崎県の出身なので、爆竹の音をうるさいと感じるより先に、ノスタルジックな気分になってしまう(長崎ではお盆に爆竹を鳴らす風習がある)。

とはいっても、さすがは本場中国。

モノがちがうので音量も比べ物にはならない。

以前授業で長崎の精霊流しのビデオを学生さんたちにお見せしたら、帰ってきたのは「なんか、静かですね」という反応だった。

まあ、だろうね。

春節を体験したあとによくわかったよ。

中国で売られている爆竹は、日本の爆竹のように小さいものが数十連発なんてちゃちな代物ではない。

長さにしておよそ5センチ近くの爆竹が100発単位でとぐろを巻いて連なっている。

ちょうど戦争映画なんかに出てくる機関銃の弾丸のような感じである。

春節の時期には昼夜を問わず爆竹が鳴り響き、たいへん賑やかな雰囲気に囲まれ、結構なことである。

しかし、去年から急に変わった。

私が住んでいる合肥市内では爆竹が禁止されてしまったのである。

市内の張り紙を見る限り、爆竹を鳴らすことも、売ることも、携帯することすらダメらしい。

「いや、そんなこといったって、年越しの瞬間には数発ぐらい鳴らすやつが出てくるだろう」と半ば期待していたのだが、去年はもののみごとに一発の爆竹すら目にもしなかったし、耳にすることもなかった。

聞けば、違反すれば罰金500元とのこと。

罰金の力、恐るべし。

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3日(日)

 

「日曜日はねじを巻かない」ので、先週同様映画を見て過ごす。

なぜだかわからないが「シコふんじゃった」(1992年、周防正行)と「スウィングガールズ」(2004年、矢口史靖)を立て続けに見る。

「シコふんじゃった」は、たしか小学生の時にビデオで見た記憶がある。(どうでもいいけど、これ、タイトルを思いついた段階で仕事は8割終わっている気がする)

今見返してみると、なるほど、大学が舞台だったのね。

小学生の時は「なんでこの人相撲をすることになったんだろう」と思ってた。

こういう「単位をあげるかわりに」的な話しは大学に入学する前にたくさん聞いたし、実際に「私のサークルに入ればこの授業の単位はやる」と講義で口にする教授も見た。

そういうのって、無味乾燥な受験生時代の数少ない希望というか、楽しみだった気がする。(もちろん他にも「大学に入ったら…」という仮定法で想起される様々な欲望が私の受験勉強を後押ししていたのだが、その詳細はこんなところでは明かせない)

今の時代、なかなか厳しくなってきて、こういう「取引」はできなくなっているのかもしれない。

そういう「取引」でも、学ぶものは結構あったりすると思うのだが。

物語自体はシンプルで、とくに何も思うことはない。

作中で描かれている当時の「イケてる」「おしゃれな」大学生のファッションや言動が、27年後の今から見ると「ダサい」。 

今この瞬間にキャンパスで「イケてる」「おしゃれな」大学生として振る舞っているつもりの方々は心して大学生活を送るようご忠告申し上げる。 

くれぐれも一時の流行り廃りで「盛った」自撮りを熟慮熟考無しで晒して後々後悔なさらぬよう。

なんて意地の悪いことを考える。

ちょっと気になったのが、劇中に出てくるイギリス人留学生が、日本からみた「日本をステレオタイプに語る外国人」のステレオタイプに思えること。(相撲部に入部するためにわざわざ契約書を交わすとか、ヌーディストビーチと相撲を比較し、美的に前者を肯定して後者を否定するところとか)

「そりゃ、おいら達の文化は外の人や世界から見れば変かもしれないけどさ、でもいいとこだってあるんだよ」という形で自分たちの文化や風習を誇ることは、たぶんどこでもやることである。

それ自体は素朴な感情だから別にいいんだけど、それを自分たちが作り上げた「外の人」や「世界」に代弁してもらうのは、趣味が悪いと思う。

あ、でもこういうのも典型的な語り口だな。

やめとこ。

 

「スウィングガールズ」は上映されている時に映画館で見た。

私はほとんど映画館に足を運び映画を見ることはない。

たぶん記憶にある限り、映画館で映画を見た回数は両手で数えられる程度だと思う。

えーと、記憶を辿ると、最後に映画館で見た映画が「インセプション」(2010年)だから……もう9年も映画館というところに行っていないことになる。

このまえ中国では「トトロ」が上映されて、そのことが日本でもニュースになっていたが、そのときにせっかくだから行こうかと思った。

でも、めんどくさくてやめた。

私は映像作品は家で一人でゴロゴロしながらみるのがいい。

私の人生で映画館に足を踏み入れた数少ないケース、それはたいてい人付き合いで映画そのものが目的ではなかった。

なにより他人と映画を見ていると、横に座っている友達だったり恋人だったり先輩だったりなどなどが、どう感じて何を思っているのか気になってしまい、作品に集中できない。

まあ、だから映画館ってデートの定番スポットだったりするんだろうが。

いい感じの仲にある男女が映画館に行って一緒に映画を見るのは、おそらく鑑賞後の会話でお互いを「品定め」するための前哨戦にすぎないのである。

「ねえ、さっきみたあれ、どう思った」

この質問は質問の形こそとってはいるが、「下線部における『僕』の心境を答えよ」が作品中の『僕』について尋ねているのではなく、問題作成者から「私の出題意図を正しく見抜くように」と命じられているのと同じように、映画云々より「私はどう思ったか、15秒以内で簡潔に答えるように」と求められているのである。

「どう思った?」という質問を素直に受け止めてしまうと「おしまい」である。 

 

「あれはさ、監督が『俺は説明なんかしないから、勝手にそれぞれ解釈してね』って意図で作ってると思うんだよね。たとえばさ、冒頭のシーンでやたらカメラの長回しとか、背景のみの描写があるじゃん。で、このシーンが意味してるのはさ、あれ? 大丈夫? 話聞いてる? ねえ、何か怒ってる? あ、わかった! お腹すいたんでしょ。ははは」

「……」

 

逆に、何も語らずとも、同じシーンで「はっ」と息を飲み、同じセリフに感涙し、同じ所作に爆笑するようであれば、その二人は同じ映画を鑑賞するというニュートラルな回路を通して濃密なコミュニケーションを成立させていると言って良い。

その後に同じものを食べたり、同じ本を読んだり、同じ景色を見たりして、それぞれが「コミュニケーションへのコミュニケーション」(by 内田樹)を確かめてゆき、ある程度の確信が持てれば晴れて「ゴールイン」となるのだろう。

包み隠さず言うが、私はこの手の「問い」や「コミュニケーション」が非常に苦手である。

それは私が「人間嫌い」だからではなく、単に「頭が悪い」からである。

隣に座っている人の「思っていること」よりも映画を分析したり勝手な感想をだらだらと考えるほうが楽しいだけである。

だって「正解」なんてないし。

大学時代お付き合いしていた彼女(当時はそんなものがいたのね)が、ある日レンタルビデオ屋で当時流行っていた「私の頭の中の消しゴム」を借りてきて、一緒に見ようと言い出した。 

別に断る理由もなかったので、ふたりでうちのカーペットの上にぺたんとすわって、缶チューハイ片手に最後まで見た。

こうして文章を書きながら、その作品の内容をまったく思い出せないところからすると、この作品は当時の私になんの感慨も残さなかったようである。 

でも、とりあえず最後まで見た。

で、何気なく横を見てみると、なんと彼女は号泣しているのである。

思わず「え、なんで泣いてるん?」と尋ねてしまった。

すると向こうさんは「え、なんで泣いてないん?」と逆質問なさった。

別に私が映画で泣かない冷血漢であるとか、向こうさんがどうこうではなく、単に「回路」が合わなかっただけの話である。

誰が悪いわけでもない。

 

なんだか話がだいぶそれた気がする。

で、ようは「人と一緒に映画を見ると気疲れするから、やだ」ということを言いたいだけである。 

上につらつら書いてきたような事を考えることですら「あ、これって俺が考えすぎてんとちゃう?」と気になってしまって、疲れるのだ(ブラマヨの漫才みたい)。 

「だいたい映画観るぐらいで、そこまで考えてるわけないじゃん、めんどくさい」

そうだね、ごめん。

 

なんの話をしているかというと、「スウィングガールズ」だった。

これは高校生の時、クラスメートと映画館で見た。

この時期にはすでにリサイクルショップでベースを入手して独学を始め、一人でブンブンやっていたので、結構楽しく見た。

グッズなどを買わない私にしては珍しく、売店で上野樹里が大きく写った下敷きも買った。

そんな作品を久しぶりに鑑賞。

関口(本仮屋ユイカ)が可愛い。

田舎で育った者としては、ほかの女の子達は田舎の女子高生オーラを出しきれていないけれど、彼女はとても自然。

ちゃんとお化粧すればとても美人なのに、本人にその気がないだけの地味な感じがとても良い。

で、最後の最後でちゃんと間を取るためにみんなを一括できたり、ちゃんと物語の要所要所でキーパーソンであるあたりも非常に良い。

前回も書いたが、こういう一見地味な人って人知れず平時にとても重要な役割を果たしていたりする。

いやあ、それにしてもJazzはカッコイイね。

どの曲もいい曲だし、最後のコンサートでの演奏シーンも好きだが、今回はバラバラになったメンバーたちがスーパーの店頭で再び結集するシーンで演奏されている“Make Her Mine”がやけに耳に残った。

ネットで調べるまで知らなかったけど、これって元々ジャズの曲ではなかったんだね。

てっきりジャズの曲だと思い込んで調べたら、ナットキングコールに同名の曲があったから勘違いしてしまった。

原曲はイギリスのThe Hipster Imageというバンドによるもの。

エドウィンのCMで使われていたらしいが、全く記憶にない。

で、原曲を聴いてみると、歌詞が「いつも見かけるナイスなあの娘と付き合いたいぜ」というナンパでチャラい感じで、これまたびっくり。

で、日本語版も発見したので聞いてみる。

うーん。

原曲の方は確かにナンパでチャラいけれど、いつも通りを歩いている女の子を気に入って自分ちから隠れながら眺めているだけだし、それが曲の気だるいサックスやコード進行とあってて、結構さらっとしている。

日本語版だと「みんな振り返るのさ あの娘が街を歩けば」とか「粘ってあの娘を待ち伏せてみても 眺め見るだけ」とか、なんか粘着的というか、ストーカーチックというか。

まあ、どっちにしても女の子はOKを出すんだけどね。

ふーん。


男子大学生の相撲部と女子高生のビックバンドという全く異なるジャンルの映画を楽しみました(あ、そういえばどっちも竹中直人が出てるな)

 

4(月)

今日は旧暦(中国語では“农历”、農暦)の除夜。

この時期は中国の皆さんは実家がある田舎に帰省するので、合肥からは車や人が消える。

さらに天気もだんだん晴れが続くようになり、ポカポカ陽気が多くなる。

なので、自転車乗りにとってはとても良いシーズンと言える。

今日は天気がいいので、久しぶりに巣湖まで行こうと思って愛車のMERIDAを引っ張り出した。

いつもとはコースを変え、金塞路沿いに走ろうと思い、明珠広場辺りまで行ったのは良かったのだが……。 
「プス、プス」と変な音がすると思って急停車すると、前輪がパンクしてた。

げげっ。

ロードバイクに乗り始めてからというもの、パンクに遭遇するのは初めてである。 
とりあえず応急処置を試みるが、手持ちの修理キットでは太刀打ちできない類のパンクである。 
新しいチューブに交換すればなんてことないのだが、あいにくその新しいチューブを持ち合わせていない。

近くで買おうにも今日は除夜なので、自転車屋さんはどこも閉まっている。 
仕方がないので引き返すことにする。 
引き返すのはいいのだが、乗ることができない自転車とともにどうやって帰ればいいのか。とりあえずタクシーを数台捕まえて「タイヤ外せばちゃんとトランクに入るから、自転車と一緒に乗っけて」といっても、断られるばかりである。 
一瞬どうしようかと途方に暮れた。
だけど、すぐ当たり前のことに気づく。

「そっか、歩いて帰ればいいんじゃん」 
幸いなことに、パンク地点は家から十数キロしか離れてない。 
これが家から40キロ近く離れた目的地あたりでパンクしていたらと思うと、恐ろしい。 

ラッキーだったと感謝。 
ついさっき乗って来た道のりを、今度はMERIDAをコロコロと押しながら歩く。 
天気が良い。

この道は前任校で働いていた時に、通勤のため半年間ほぼ毎日通った。

久しぶりに通ると、見たことがないアミューズメント施設やオフィスビルが雨のあとのキノコのように(おお、慣用的表現)にょきにょきと建っている。

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自転車で飛ばすのもいいが、ハンドルに取り付けたスマホから音楽を流しながら、愛車と「散歩」するというのもなかなか良いものだった。 

二時間半、約12キロの道のりを歩いて帰宅。
予定とは違う形だけど、ちゃんと十分な運動にもなった(消費カロリー700kcalなり)。 
ところで、道すがらの廃病院で「职业病科」(職業病科)って看板を目にしたのだが、これは何を看る部門なんだろう(労災関係?)。

「職業病」という文字を目にしてしまうと、怪しい人間を見かけると職質せずにはいられないお巡りさんとか、鮮度の良い肉を見ると思わず手がうずいて勝手に捌いてしまう肉屋さんとか、そういうそれぞれの仕事に病んだ人たちが待合室で一堂に会している様子を想像してしまう。 

「世にも奇妙な物語」とかにありそうで、けっこう面白そう。

そういう変なことを考えながら歩いたので、すぐ帰宅できた。

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今日は除夜なので、中国ではCCTV(NHKのようなもの)で日本の紅白のような番組が放送される。 

しかし全く興味がないので(そもそも紅白にだって興味ないし)、音楽を聴き、「あけおめ」メッセにお返事しながらゆっくり年を越す。

今年も0時を過ぎてもやっぱり爆竹の「ば」の気配すらない。

環境問題や騒音対策も大事だろうが、なんだか物足りない。

 

というわけで、みなさん明けましておめでとうございます。

「豚」年の今年もよろしくお願いします。(中国の干支では猪ではなく豚なのだ)

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