とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

文化に「所有格」は馴染むのか

ヤフーニュースで「文化の盗用」に関する記事を読んだ。

アリアナ・グランデが「七輪」と漢字のタトゥーを入れて話題になったことは以前ニュースで知っていたが、「文化の盗用」(cultural appropriation)という考え方があり、それがある地域(ここではアメリカ)で力を持っているということは、この記事を読んで初めて知った。

 

日本人が知らないアリアナ・グランデ「文化の盗用」批判の背景とは(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

 

そのため興味を持ってこの記事を読んだが、なんだかすっきりしない。

記事ではこう述べられている。

 

 過去に米国内で文化の盗用とされた件でも、反応は黒人、白人、ラティーノ、アジア系、ネイティヴ・アメリカン……と人種民族によって異なっていた。文化の盗用は、どの人種民族間でも均等に起こるものではなく、そこにアメリカの人種問題の複雑さが見て取れる。

(中略)

音楽であれ、ファッションであれ、彼らの強いアイデンティティとプライドを礎とする文化が、いったん白人の目に触れると横取りされ、かつ商品化がおこなわれて利益は白人側に流れた。アイデンティティ、プライド、経済利益を揃って奪われてしまうのである。黒人が白人に対し、文化の盗用を訴える理由だ。

 アメリカにはアメリカなりの特殊な事情や問題があり、「文化の盗用」という概念がそのような特殊な土壌から出てきたということは理解できるし、一理あると思う。

だから以下に書くことは「文化の盗用」というアイディアに対する全面的な批判ではないし、もちろんアメリカの特殊な事情を否定するものではない。

私は、そもそも「文化」というものを「盗む」という利益や経済の概念と無批判に結びつけていいのだろうかと思うのである。

だから「文化の盗用」という考え方に対しても「うん、一理あると思うけれど、ちょっと考えさせて」と思う。

その「ちょっと考えさせて」のとりあえずの結果を以下に述べたい。

 

まず「盗む」とはなにか。

「文化の盗用」という今回の問題において「盗む」が意味するところを私なりの理解で言えば、「盗む」とは「他人に属するものを不当に自分のものにする行為」である。

この点については同意いただけると思う。

ちなみに広辞苑で「盗む」をひくと、「他人に所属するものをひそかに奪いとる。」とある。

もしこの定義を今回の問題において当てはめることで、どこかに議論が生じる余地があるとすれば、「他人に属する」と「不当に」の解釈を巡るものだろう。

私が「文化の盗用」論に違和感を覚える第一の理由は、文化はそもそも「他人に属する」という表現で語ることができる論題なのか、つまり「盗まれる側」からすれば「文化は自分に属する」という表現になるのだが、そのような表現に「文化」という概念が馴染むのだろうか、という疑問である。

たとえば、私は日本で生まれ育った日本人であり、そういう意味で私は日本文化に属している。

それは否定しがたい事実である。

しかし、日本文化が私に属しているのだろうか。

ほかの例で考えてみる。

たとえば、私は日常的に読み書きをする際、漢字を用いる文化に属している。

だから私が漢字文化と切っても切れない関係にあることは疑いようがない事実である。(現にこうして漢字を使っているし)

しかし、だからといって漢字文化が私に属していると言えるのだろうか。

私は言えないと思う。

「属する」という表現の問題なのだろうか。

もし「属する」という言葉が問題ならば、たとえば「~のもの」を使って「盗む」を定義してみる。

すると、さっき立てた私なりの「盗む」の定義は、「他人のものを不当に自分のものにする行為」となる。

では、これを先ほど同様に文化を巡る今回の問題に当てはめてみよう。

たとえば、私は日本文化で生まれ育ち、漢字文化を背景とする人間である。

では、日本文化や漢字文化は私のものだろうか。

私はやっぱり「違う」と思う。

そもそも「文化」を個人に「属する」とか個人の「もの」とかいう捉え方で論じることが不適切なのではないか。

私にとって「私に属する」とか「私のもの」と言えるであろうものごとは、理性的に考えてみれば「私が自分で作ったもの」であり、法的には「私の所有権が及ぶもの」であり、心情的には「私が心惹かれ愛着を覚えるもの」である。

私はさまざまな文化に「属している」が、その私が「属している」文化は、理性的にも法的にも「私に属している」わけでもないし「私のもの」でもない。

問題は私が属している文化が、まさに心情的に「私が心惹かれ愛着を覚えるもの」そのものであることに尽きるのではないか。

それはよく理解できる。

たとえば、私の目の前で私のふるさとの特産品(みかんとか海鮮類とかね)を足蹴にされ唾棄されたならば、たとえその特産品が「私が作ったものでもないし、法的に私の所有権が及ぶもの」ではなくても、私は不快感を覚えるだろう。

たとえば、私の生まれ育った文化そのものに全く興味関心もない人間が、自らの経済的利益のために、私の属する文化を「利用」しているさまを目にすれば、私は決していい気分にはならない。

このような「不快感」や「いい気分にはならない」という心情的問題が、先に指摘した「不当に」という文言の解釈に絡んでくる。

だから、記事で紹介されているように、マイノリティ文化である黒人文化をマジョリティである白人がマネることや、それらを利用して金儲けをすることに対して、心情的に不快感を覚える人間がいることは十分理解できる。

しかし、だからといって「私の文化だ!」と文化の「所有権」を主張し、「盗む」という概念に発展させることは、本当に適切なのだろうか。

私が心情的には「文化の盗用」というアイディアを理解できるにも関わらず、「文化の尊重」を論じる際にそのような論じ方を採用することにたいしてなにゆえ抵抗感を覚えるかというと、まるでこの世には「私の文化」と「私以外の文化」があって、私は「私の文化」に対しては正当な所有権を有し、私以外の人もその人の文化に所有権を有するので、たがいの「所有権」を「尊重」しましょうという認識に立っているように映るからだ。 

しかし私は文化についてそのような見方をしていない。 

「私の文化」とは「私以外の人」から私へと無償で送られたプレゼントであり、私はたまたまそれを身にまとっており、愛着も覚えてはいるが、それは決して私の所有物ではないし、ましてや私の所有権が及ぶものではない。 

私はそう考える。 

文化において「他者を尊重する」とは、同時代的な他人の文化をリスペクトする以前に、私に先立つすべての人間に感謝するということではないだろうか。 

だが、文化を巡る議論や論争を見ている限り、「これは私の文化」などと簡単に口にする人間が、「私の文化」をもたらしたすべての他人(もちろんそこには国籍や民族や性別や人種という概念では捉えられない様々な時代の人間が関わってくる)に感謝する姿勢を示しているとは、必ずしも言えないような気がするのである。

彼らは「私」という枠で「私の文化」を語るので、本来ならば「私の文化」に寄与してきた名も無き人々を「私」という個人的な枠(国籍とか民族とか性別とか思考や価値観とか)の都合であっさりと切り捨てる。

しかしそれこそ「文化」や「他者」を冒涜する行為ではないだろうか。

「これは私の文化だ」と宣言した時点で、時代も地域も超えた他者の働きからなる公共的産物である「文化」はいっきに「私」化してしまうからである。

「私」化した人間が公共の福祉に寄与するようなクールで暖かな議論を展開するとは、私は思わない。

現にこのニュースのコメント欄で口角泡を飛ばしている人々が交わしている言葉が、そのことを示している。

彼らに足りないのは「うん、ちょっとまってね」という自制であり、「おいらはどうなんだい?」という自省であり、「今のおいらの文化って、どこからどうやって来たんだろう」と考える時制である。

「私の文化を盗むな!」と他者を糾弾した時点で、「そもそも私も勝手に『私の文化』を囲い込んでいるのではないか」という自省は困難になるのではないか。

「他人の文化を盗むな!」と「他者」を代弁し「正しいこと」を言い始めた時点で、「そもそもあなたも勝手に『他人の文化』を盗んでいるのではないか」という反論が耳に入らなくなるのではないか。

たとえば、この記事では漢字を「日本の文化」としているが、そもそも漢字はいうまでもなく「中国の文化」である。

にもかかわらず、記事中に「中国」というワードはひとつも見られなかった。

筆者は「日本における大マジョリティである日本人は、自身だけでは気付きにくいマイノリティの心情を、マイノリティと直接の交流を持って知ること」が大事だと書いている。

その通りだと私も思う。

そのうえで重箱の隅をつつくのだが、もしこの記事を中国人が読んだら「日本文化である漢字をアリアナ・グランデがタトゥーにし、問題になっている」というこの記事の書き方や、「白人が日本文化である漢字を盗用するな」というマイノリティーの「批判」そのものが中国人の目に「日本人が『文化の盗用』をしている!」と映るのではないだろうか。 

「文化の盗用」論を唱える方々や、このような記事を書いた筆者ならば、アリアナさんをめぐる議論やこの記事を見て「お前ら勝手に俺らの文化を日本のものにするな!」と不快な思いをする中国人がいる可能性について、理解できるはずである。

誤解して欲しくないので急いで付け加えるが、私は漢字の「所有権」を巡る議論には全く興味がない。

さらにいえば、私は漢字文化の恩恵を受けている人間であり、漢字に文化的愛着を覚えている人間でもあるが、「漢字は俺の文化だ」などとは一ミリたりとも思っていない。

だって、漢字は「俺」とか「日本」とかが誕生するもっと前から存在するものだし、そもそも「物」ではないからだ。

問題は「文化」を私的に切り取り、所属先を安易に決定・固定し、「物」と同じように論じてしまうことである。

そのような価値観で「文化」を論じれば、かならず不快な思いをしたり不当だと感じる人間が作り出されてしまうだろう。

文化は所有格に馴染まない。

それは多種多様な外来文化を吸収しながら自らの文化を作り上げてきた日本という枠組みで考える場合はなおさらだし、そもそも個人として考えてもそうだ。(文化はひとりではつくれない)

 

筆者は記事の最後の方で、「他者の文化を取り入れても良い「OKライン」はどこなのだろうか? 答えは『明確な線引きも、マニュアルも存在しない』だ。」と述べている。

私はこの結論をとても健全なものだと思う。

明確な線引きも、マニュアルも存在しない」のだ。

だからこそ、文化を巡る議論に最も求められるのは、文化の可能性や豊かさをめぐる対話的コミュニケーションであって、文化の所有権や所有格を巡る訴訟や対立ではないと私は考える。

他者の文化を尊重するということに求められる素質は、そもそも自分の文化を成立させているすべての他者を尊重するということに求められる姿勢と全く同じなのであって、そのような姿勢とは「これは俺のものだ!」と軽々には言わないことなのではないかと私は考えるのである。

 

繰り返すが、「文化の盗用」というアイディアはアメリカという一地域の特殊な事情や問題や土壌においては必然性や有用性があることを、私は認める。

そういう意味では「文化の盗用」論はアメリカの個性的な文化である。

私はそれを尊重したい。

同時に、アメリカという一地域の特殊な事情や問題や土壌から出てきたものにすぎないということを確認しておきたいのだ。

そして「文化の盗用」というアイディアを「アメリカではこうだから、我々も」と無批判に「グローバル化」させないように気をつけたほうがいいのではないだろうか。

さもないと「『文化の盗用』というアメリカ文化的なアイディアがパクられた!」と「『文化の盗用論』盗用論」を唱え出す人間も出てくるかもしれないし。