日記(新学期第二週目、というかこれじゃ「週記」だな)
11日(月)
新学期第2週目。
先週同様、1年生の会話と3年生の視聴説が入っている。
1年生のクラスは雰囲気もよく、順調に進む。
今日は教科書を使って「~は…です」「~も…です」「~は…ではありません」「…でもありません」などの文型を練習したあと、パワポで「ばなな」や「りんご」、「すいか」などの写真をお見せしつつ、「ばななは果物です、野菜ではありません」などと語りかける。
1年生の諸君は「なにいってんだこいつ」みたいな目で見ていたが、ちょっとまってね。
ちゃんと意味あるから。
もっとも重要なのは、
「いちごは野菜ですか? 果物ですか」
という質問なんです。
学生さんはくちぐちに「果物!」とお答えになる。
よろしい。
ならば「すいか」は果物だろうか。
「果物!」
ふふふ、本当にそうだろうか。
はい、みなさん。スマホで調べてみてください。
いかがだろうか。
ご存知の方もいらっしゃるだろうが、「すいか」は「野菜」であるとされているのだ。
私が勝手に言っているのではなく、ご覧のとおり、農林水産省がそう言っているのです。
農林水産省では、園芸作物の生産振興を効果的に推進するため、概ね2年以上栽培する草本植物及び木本植物であって、果実を食用とするものを「果樹」として取り扱っています。
従って、一般的にはくだものとは呼ばれていないと思われる栗や梅などを果樹としている一方で、くだものと呼ばれることのあるメロンやイチゴ、スイカ(いずれも一年生草本植物)などは野菜として取り扱っています。
学生さんたちもそれぞれ「野菜と果物」について解説するサイトや記事を発見し、読みながら「はぁ?」「うへ!?」などと言っている。
だよね。
いくら農学や食品管理の専門的知見から「すいかは野菜」と言われても、やっぱり「スイカやメロンが野菜」って、一般的な生活感覚だとなかなかピンと来ないよね。
「納得できますか?」と聞くと、「できませーん」とのこと。
そうだね。
じゃあ、来週は「野菜と果物の違い」について、自分の考えを発表しましょう。
他人の意見や考えじゃないですよ。
自分で自分を説得できるような自分の言葉で説明してください。
この「野菜と果物」については、以前「ガキの使い」で松本人志がフリートークのネタにしていた。
その中で松本は、「何が野菜で何が果物か論争」が永遠の課題であることを指摘し、よく耳にする「木になってるのが果物で、土から生えるのが野菜」説や「甘いのがフルーツで、甘くないのが野菜」説に対して痛烈な批判を加え、「フルーツトマト」なる新たなトリックスター的存在の出現について確認したあとに
「マヨネーズでイケるのが野菜や!」
という新説を唱えたのである。
私はこの一連の思考過程は、まさにコミュニケーションや研究という人間的営みを体現していると思う。(「いやいや、それはどうか」という新たな議論の呼び水となるところまで含めて)
だから「野菜と果物論争」と松本人志の「マヨネーズでイケるのが野菜」という補助線的仮説を、導入のための題材として、ときどき学生さんたちにお話しているのである。
1年生の諸君も松本さんのように「斬新である程度の説得力があるが、その新説によって却って議論が紛糾する」ような「おもろい」考えを準備していただきたい。
どうでもいいことだが、学生に配布されている教科書と私の手元にある教科書は版が違うらしく(私のほうが古い)、例文や単語が細かいところで一致していない。
「田中さん」「王さん」のような人名まで語彙の欄にあって、授業の最初にいっしょに発音練習していた時に発覚したのだが、私の教科書の語彙欄にはしっかりと書いてある「林さん」が、学生さんの教科書から消えている。
林さん、なにをしでかしたんだろう。
気になる。
午後は視聴説。
これまで和牛の漫才をたくさん見たので、実際にこのコンビがどのような奇跡を辿り、どのようなことを考えているのかに注目した番組を見てもらう。
ふたりの出会いから浮き沈み、互いに支え補う合う関係を、みなさん食い入るように見ている。
何人かの学生さんの口から「これ、夫婦じゃん」みたいな言葉が漏れる。
そうだね。
漫才という文化は人間のコミュニケーションや言語の本質について切り込むいい題材になると私は思う。
12日(火)
朝から快晴。
キャンパス内にはイベント勧誘をしている学生さんたちが使っているテーブルやらテントやらが置いてあるのだが、それらをひっくり返し吹き飛ばすほど強い風が吹いている。
それでもコートを着ずとも出勤できるほどの暖かさ。
「春一番」かしら。
理由や背景はまったくの不明なのだが、図書館前の広場にある池にどこからか白鳥が1羽突如出現して、朝からガーガーギーギーやっている。
数十メートル離れた外国語学院の5階からでも十分にうるさく感じるほどである。
事務室から見下ろしてみると、珍しいものずきの学生さんたちがおずおずと近づいて、写真をぱしゃぱしゃ撮ったり、遠巻きに眺めたりしている。
同じ合肥市内では、安徽大学や工業大学がキャンパス内の湖で白鳥や黒鳥を放し飼いにしているが、うちもそういうの始めたのかしら。
でも、だとしたら1羽だけってのも妙な話である。
とすると、どこからか迷い込んだのか。
しかし、いったいどこから。
まったくもって「春の珍事」であるが、そんなこと気にしても仕方がないので、仕事に取り掛かる。
今週は偶数週なので、今日は8時からの授業に加えて16時からも授業(2年生の会話)がある。
しかし明日とあさっては「真っ白」。
あさっては午後から中国の大学院を受験する4年生向けの面接練習に付き合う予定になっているが、私にとってこういう作業は仕事というよりも好き勝手に「半畳を打つ」楽しい娯楽であるので、気楽である。(もちろんちゃんと真面目にやるけどさ)
だから気分としては、まだ火曜日ではあるが、ほとんど「週末」のようなものである。
8時から3年生の作文授業。
今週は「他人の研究やデータを引用する方法」について、その方法や技術はもちろん、理念についてまでお話する。
3年生は真面目で素直な学生さんが多いので、私語をすることもスマホをいじることもなく、ちゃんと話に耳を澄ませている。
よいね。
ちゃんと話を聞いてくれる学生さん相手だと、声を大きくしたり、同じことを繰り返したりする必要がない。
結果的に私の話も聞きやすく、わかりやすいものになり、学生さんたちはますますちゃんと聞いてくれるようになる。
対して学生さんたちが「おれ、お前の話なんか聞きたくなかけんね」というオーラをバンバン出しているクラスだと、「俺の話を聞け!」という態度になってしまい、口角泡を飛ばして大声で喚き散らし、話す内容がループし、それを聞いている私自身も退屈し、しまいには「もう、今日はやめときましょう」となってしまう。
それを思うと、このクラスは非常に授業がしやすい。
ちゃんと聞いてくれてありがとう。
頑張って聴く価値があることをお話できるよう、頑張ります。
授業のあとは事務室で2年生の作文を少しだけチェックする。
11時頃までやったあと、お腹がすいたので一旦家に帰り、昼ごはんとして、昨日タネを仕込んで寝かせておいた「自家製中国クレープ」を焼いて、薄くスライスしたトマトやらピクルスやらチーズやらをロールしたものとポトフを作って食べる。
満腹したので、1時間ほど昼寝。
うちの大学は冬季は二時間、夏季は二時間半の昼休みがあるので、こうして昼寝をして頭をすっきりさせることができるのがありがたい。
昼寝から起きたあと午後に大学に戻り、16時の授業まで、午前中にチェックしきれなかった残りの作文をさくさくチェックする。
2年生は今学期「日本語専攻4級試験」という、日本語を大学で専門として学んでいる学生向けの大切な資格試験を控えている。
この試験にも作文はあるので、その対策もしなければならない。
「4級試験」対策用のクラスが特別に開かれていて、そのクラスを担当されているのは中国人のO先生である。
今回は私の作文の授業で書いてもらう作文のチェックを、私とO先生とが連携して行うことにした。
正直な話、日本語の文法指導に関しては、私はほとんど役立たずである。(そっちが専門ではないし)
たとえ日本語の文法指導を専門的に学んでいたとしても、それでもやはり中国人の先生が中国語で指導したほうがいい。
だから、私は日本語の修正や論理の流れや心理描写云々について、学生さんにあーだこーだ言いはするが、こうやって中国人の先生と役割分担が可能ならば、それが一番だと思うのである。
チェックしているうちに時間が来たので、教室へ。
2年生の会話。
2年生は今学期時間割がギュウギュウにつまっているので、たいへんお疲れの様子である。
教科書に「油を売る」(闲聊,偷懒)という慣用句が出てきたので、せっかくだから和ませてあげようと思い、「ガソリンスタンドで油を売る」という即興で思いついたジャパニーズ・ジョークを繰り出す。
結果、見事に滑る。
悲しい。
しかも日本語教師としては立場上「油を売る」という慣用句を解説しないといけない。
よって、「『油を売る』って『サボる』ってことですよね。で、ガソリンスタンドの仕事って『油を売る』ことでしょ? じゃあ『ガソリンスタンドで油を売る』って、仕事してるのか、サボってるのか、どっちかわからないよね? ね、面白くない? ねえ!」というふうに、結果として自分のジョークの笑いどころを解説するという地獄のような状態に追い込まれる。
さらにこのことをウィーチャットに書いたら、安大のI先生から「ジャパニーズ・ジョークというよりオヤジギャグですね」と「一针见血」コメントをいただき、ぐうの音も出ない。
こうして書き出してみて気づいたが、たしかに全然面白くないね。
つまらない話聞かせちゃって、ごめんね。
13日(水)
授業が入っていないので、8時に起床。
窓の外には雲一つない青空が広がっている。
今日は自分の作文の授業を録音したものを文字起こしする作業に終日費やすつもりなので、ちゃちゃっとお弁当(干し鮭、ピーマンと人参のこんぶあえ、チーちく・キュウちく、)を用意し、ネットで買った「保温保冷のスープジャー」に野菜スープをいれて、大学へ行く。
私はけっこういろんな側面や性格を併せ持つ人間であり、「他人に興味がない」「おおざっぱ」とかいう性格とは相反するような「エプロンつけてキッチンに立つ」「手料理を振る舞うのは嫌いではない」という側面も併せ持つ人間なのである。
さらに、これらのさまざまな人格からどの人格を採用するかを決定している「私の私」がとても気まぐれで飽きっぽいので、結果的に私は先週まで洗い物が散在していたキッチンを急にピカピカに磨き上げたり、外食ばっかりだったのにある日突然毎朝早起きしてお弁当をいそいそと用意し始めたりするような、無節操な変化を遂げることを繰り返すのである。
まるで多重人格や人格分裂のようであるが、私の勝手な理解では、そもそも病的な人間は「俺は人格が分裂してる」とか「節操なく人格がくるくる変わっている」とかいう事実そのものを認識できないのであって、そういう点では私は「正常」なのである。
そんなことを考えながら出勤し、ランチボックスを座右にぽんと置いたあと、2時間ぐらい文字起こしをする。
あまり自分の声を自分で聞くのは好きではないのだが、仕方がない。
それに自分の授業を自分で聞くというのも、これはこれで意義があることである。
導入部分を文字起こし終わり、3000字近い文章となったものを読み返してみる。
やっぱり考えながら喋り、喋りながら考えているので、論考が急にぐっと深まるような文体にはなっていない。
それに学生さんたちに理解しやすいように比喩や事例を「これでもか」というぐらい多用しているので、話がくどい。
とりあえず全部文字に起こし終わったあとに、語り口や文体をいじることにする。
12時になったので昼食を取り、腹ごなしに散歩する。
昨日突然姿を表した「白鳥」は依然としてキャンパス内の池に浮かんでいる。
近くで眺めていたら、となりにいたおばあさんに「あれは動物学院が放したガチョウだよ」と話しかけられる。
あら、白鳥じゃなかったのね。
まあ、「白い鳥」だから「白鳥」でもいいじゃんね。
昨日ガーガー騒いでいたのは、おそらく突然見知らぬところに放たれたからだろう。
新しい環境に慣れたのか、今日はすっかり落ち着いて、湖面を悠々と泳いでいる。
でも、ガチョウってことは、それってつまり「食材」ってことだよね。
ハクチョウという響きだと食欲がわかないが、ガチョウといわれると途端に「美味しそう」と思ってしまうのはなぜだろう。
そんなことを思いながら、おばあさんとふたり湖畔に立って、ガチョウくんを見つめる。
おばあさんも水面をスイスイ泳ぐガチョウを眺めながら、「一般の人に食べられちゃうかもね」とか言っている。
ガチョウくん、頑張って強く生きるんだよ。
オフィスに戻り、4時まで仕事をする。
適当なとこで切り上げ、帰宅。
30分ほど走りに行き、晩酌。
8時頃に明日の弁当(カレー&ナン)に付け合わせるブロッコリーを買いに、近所のスーパまでゆく。
買い出しから家に戻ってきたら、私の住んでいる棟の前にパトカーがパトランプを点滅した状態で止まっている。
「あら、おいら何かやらかしたかしら」と一瞬考えるが、すぐに近くにいたおばさんが「泥棒が入って捕まったのよ」と(聞いてもいないのに)教えてくれる。
「え? なにそれ」という感じで詳しく話を聞いていると、泥棒さんが手錠をかけられた状態で出てきて、門の前で刑事さんにパシャパシャ写真撮影される。
その後泥棒さんが私とおばさんの前を通ってパトカーに誘導されている間、おばさんは目の前の泥棒さんにおかまいなしで、私に「そうそう、この人よ。あなたも写真取れば? がはははは」と話し続ける。
そんなおばさんを恨めしそうな目で見ている泥棒さん。
怖い。
とりあえず、今夜は鍵を2重ロックして、0時前には就寝。
14日(木)
昨日同様8時起床。
昨日同様晴天。
昨日同様大学へ行き、自分の授業を文字起こしする。
途中、「説明」に関して説明しなければなあと思って授業では話さなかった部分を文章として書き足していたら、急に「なにか」が降りてきて、横道に逸れ文字おこしとは全く関係ない文章を2700字ほどバシバシ打ち込む。
だいたい満足したころにはちょうどお昼どきだったので、ランチにする。
自分で作っといていうのもなんだが、自家製ナンがもちもちでうまい。(あ、別にダジャレじゃないです)
ほんとうならば石窯の内側に「ビターン!」とひっつけて焼き上げるんだろうが、私のキッチンには石窯なんてものはないので、今回はホットプレート(2年前のスピーチ大会のくじ引き大会でもらったもの)で焼いた。
まあ自炊だし、細かいことはいいでしょ。
腹ごなしに散歩したあと、午後はほかの日本語学部の先生方といっしょに、院試の面接に臨む学生さんたちの面接指導。
昨年もそうだったが、「志望動機」に問題がある。
自分の問題意識ではなく、自分が行きたい大学から動機を説明しているので、説明があいまいで没個性で必然性に欠けてしまう。
やっぱり問題意識を自覚していただく授業づくりを意識しなければ。
受験する学生さん、頑張ってください。
15日(金)
8時から授業なので5時半起床。
さすがに早朝はまだ肌寒い。
「人参とサーモン」ロールと「たまねぎとピクルスと鶏はむ」ロールを用意し、ジャーに「野菜スープ」を注ぎ、大学へ。
1限の「日本語作文」の授業では、全体的に共通する課題である「説明の足りなさ」「描写の欠如」について、そのような問題が発生する背景である書き手としての態度問題からお話する。
村上春樹はこう述べている。
「推敲は僕の最大の趣味です。やっていて、こんな楽しいことはありません。推敲ができるから、小説を書いているようなものです。最初はだいたい流れのままにさっと書いてしまって、あとからしっかりと手を入れていきます。最初からみっちり書いていこうとすると、流れに乗ることが難しくなるので。推敲にとってもっとも大事なのは、親切心です。読者に対する親切心(サービス心ではなく親切心です)。」(村上春樹)
学生のみなさんは、村上さんがここでいっている「親切心」と「サービス心」について、どうお考えだろうか。
率直に言えば、今のみなさんの作文には「親切心」が欠けていると、私は思うのです。
私がここで言っている問題は、「説明」しようという態度が余りにも見られないということです。
なぜ「説明」しようという態度がみられないかというと、きっと「私が知っていること」を「私は知っているぜ」というスタンスで作文を書いているからだと、私は思います。
でも、本当にあなたは自分が書いていることについて、それを「知っている」のでしょうか。
そういう話をしたあとに、「情報を抜く」(By内田樹)や「わからないという方法」(By橋本治)などなどをお話しし、「10年前の自分がもし読むとしたら」という想定で、もう一度書き直して見るよう課題を出す。
こういう話は初めて聞いても「うんまあ、そうだね」とすんなり理解できる学生さんは理解できるし、「は? なにいってんの」と固まってしまう学生さんはなかなか受け入れることができない。
身体の柔軟さと同じで、ある程度の素質や習慣が関係してくる。
しかしここをわかってもらわなければ、これから3学期に渡って私がお話する「作文」に関する内容を理解できないので、様々な比喩や事例を引き出しつつ、わーわー説明する。
ということで、授業が終わる頃にはクタクタになる。
お腹もペコペコ。
本来はお昼どきに食べるつもりだったお弁当を10時すぎに「早弁」し、一度家に帰って昼寝。
午後に会話の授業をひとつこなして、今週の仕事は終わり。
夜はゆっくり料理しながら、「キッチンドランカー」となる。
日付が変わるころには就寝。