「変化すること」と「変化しても変化しないもの」について
私の授業を受けたことがある学生さんたちはご存知だと思うが、私は学生さんたちに毎週日記ならぬ「週記」を書かせている。
その一週間にあった出来事と自分の思ったこと、感じたことを作文してくるという課題だ。
今の大学生たちがどんなことに興味を持ち、どんな日々を過ごしているのか、一教師としても一個人としても非常に興味津々なのでこういう課題を課しているのだが、時々困った表情でこう私に訴えてくる学生さんがいる。
「先生、私の生活は毎日同じで変わったことがなにもないから、この課題は苦痛です」
このような言葉を聞くたび、私はいつも考え込んでしまう。
毎日の生活が同じで変わらないということが、本当にありうるのだろうか?
たとえば、言うまでもないことだが、季節は絶えず変化している。
春が深まるごとに東の空が赤く染まり始める時間がだんだんと早くなり、それに誘われ鳥たちの鳴き声も少しずつにぎやかさを増す。
出勤途中に見かけた小さなつぼみが、春の暖かさのおかげか翌朝には大きく花開いていることはよくあることだし、花が咲けばふわりとした春風の中にも柔らかな春の雰囲気がますます増してくる。
浮かれ気分に任せ近くの公園まで足を伸ばせば、春の陽気に誘われた人々がさまざまな春の楽しみ方をしている。
凧揚げを楽しむ人、冬のあいだ干せなかった布団を思う存分干す人、気の合う仲間と芝生の上でバーベキューをする人、仲睦まじく手をつないで歩く恋人たち、バドミントンに興じる若い子連れの夫婦などなど……。
私の家から半径3キロメートルの世界だけとっても、こんなにはっきりとした変化が日々起きている。
古人いわく「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。
実際には、花の咲き方ですら年によって微妙に違う変化がある。
いわんや人をや。
いうまでもなく、私たちは日々変化している。
ここでいう変化とは、昨日や一昨日、一週間前、一年前、つまり過去の自分と比べた時に変わっているかどうかということだ。
それは身体的に発達し、成熟し、老い衰えてゆくという意味だけではない。
昨日までは見えなかったことが見えるようになかったり、感じなかったことを感じられるようになる、そんな内的な変化もあるはずだ。
みなさんにも覚えがあるかと思うが、私は自分が小さいころによく遊んでいた場所を大人になって訪れるたびに「ここはこんなに狭くて小さかったのか……」と愕然とすることがよくある。
よく登った木も、必死でペダルをこいだ坂も、ワクワクドキドキさせてくれた洞穴も、すべてが小さくなってしまったように感じる。
当然、それらが小さくなったのではない。私が大きくなったのである(縦にも横にも、ね)。
内面の成長も同じことである。
以前の自分を現在の自分から見たときに「小さく感じる」、そういうときがある。
例えば、過去の自分が書いた論文や日記、酔っぱらった時に書き散らかした雑記メモを見るたび、私は枕で顔を隠しベッドの上をゴロゴロ転げまわりたくなるような恥ずかしさを覚える(こういう文章とかは特に)。
でも、それは恥ずかしいことではない(決してそうではない)。
過去の自分は自分なりに一生懸命やったのだ。それを「小さく」「恥ずかしく」感じるのは、ただ単に私が変化したから、つまり成長した過去の自分の未熟さに目を覆いたくなる、それだけのことだ。
おそらく、毎日が変わらないのではない。
日々の微小な変化に自分が気づけていないだけなのだ。
そしておそらく、そのような人間は自分自身の微小な変化にも、気づくことができていないし、それらの取るにならないような、しかしとても貴重な変化のサインを大事にし育てていけない人間は、成長することも難しい。
私はそう思う。
ばっさり言ってしまえば、週記を書く際にその一週間の一日一日が同じに感じるというのは、その一週間全く変化していない、つまり成長していないということだ。
それが一ヶ月、一学期、一年、四年、十年、……と積もり積もって行けば、体と態度だけ大きくなった、「見た目は大人、頭脳は子供」(コナン君の逆だね)のオジサン、オバサンの完成である。
うー、考えただけで恐ろしくありませんか?
私は自分がそうなってしまうのが恐ろしい。
だから私は、こうしてささやかながらカリカリと、自分の思いを書き綴るのである。
というこの文章、2年前のちょうど今頃の私が書いたものである。
そういえば「週記」なんて書かせていたね。(あまりに仕事が増えてしまうのでもうやめてしまったが)
こうやって自分で読み返してみて、文体やキーワード(この文章だと「成長」と「変化」)が今とは違うことに気づいた。
今の私は2年前ほど「成長」や「変化」にたいして、ここまで初々しい思いを抱いてはない。
けれど、言っていることは、だいたい今も同じことである。
私はようは自分の言葉や自分自身に「空気穴」を確保しておきたいだけなのである。
そして、その「空気穴」を塞ごうとする言葉や人間が、私は大っ嫌いなのだ。
私がよくある定型文で書かれた文章や、受け売りばかり話す人間や、「俺はすごい」と(言外に)言い張る行為を嫌うのは、それが「正しくない」とか「間違っている」からではない。
単に「息苦しい」からである。
そして、もし自分自身がそういう言葉を繰り出したり、他人の言葉を移動させるだけだったり、「俺はすごい」という態度で振舞ったりしているのならば、それは自分で自分を窒息死させているわけであり、そのことに自分で気づけていないということは、「愚かなこと」を言う以上に愚かなことだと私は思う。
思えば卒論を書いた頃から比べれば、語彙や表現や文体はだいぶ変化してきているが、しかしこの「隙間を縫う」ように書き、「空気穴を求める」ように語りたいという欲求だけは、一度も変化していない。
おそらくそれが私にとっての「いくら変化しても変化しないもの」なのだろう。
自分の「いくら変化しても変化しないもの」は「今」の経年比較でしか浮き彫りにならない。
だから、やっぱり「書く」っていうのは大切な作業だと私は思う。