日記(ラーメン、パスタ、給湯器復活、パスタ、今週は「麺喰い」ばっかり)
18日(月)
8時半に起きる。
昨晩の「チョコレートビール」が効いて、軽い二日酔い。
白酒だけなら結構飲んでもめったに残らないんだけれど、二軒目でビールを飲んで「ちゃんぽん」になったのがマズかった。
反省。
しかし二日酔いで反省などするものではない。
ただでさえ頭は回っていないのだし、気分が滅入るだけである。
よろよろと身支度をして大学へ。
10時から1年生のみなさんと会話の授業。
ほかの専門から転科してきた学生さんが2人来ているので、最初の授業からいる学生さんたちに私について「他人紹介」してもらう。
がやがや90分おしゃべりして終了。
しゃべるとだいぶ頭と体がすっきりする。
お昼休みに自宅に戻り、麺を茹でたりどんぶりをお湯で温めたりしている間にトッピングの煮卵と白髪ネギとチャーシューを準備して、昨日仕込んだスープで「とんこつらーめん」を作る。
うまし。
スープはとんこつのコクにプラスしてカツオ出汁の深みもある。
背脂などは入れずにけっこうあっさり目に仕上げたので、スープだけおかわり。
二杯目は「かえし」を醤油と胡麻油多めにして、これはこれで美味しい「醤油とんこつ」。
ネットで「かん水」も仕入れたので、次回はぜひ麺も自家製にチャレンジしたい。
満腹して眠くなるが、このあと14時からもう一つ授業があるので昼寝するわけにはいかない。
大学に戻り、授業が始まるまでの時間に、昨日頼まれていた日本語チェックのお仕事をサラサラと片付ける。
で、授業。
3年生の視聴説。
「仕事の流儀」(料理家 栗原はるみ)を見る。
見た感想。
やっぱり「親切心」は大切だよね。
栗原さんが言う「100人が作ったら100人ができるようなレシピを作る」という態度は、文章を書く際にも言える大切な態度だと私は思う。
「誰も言わないこと」や「みんなには理解されないこと」を綴れば、「俺はすごい」とか「自分は個性的だ」なんて言えるのだと勘違いしている人をたまに目にする。
だけど、(バカな考えすぎて)「誰も言わないこと」「誰にも理解できないこと」や(アホな言動過ぎて)「誰も反応をしてくれないこと」を繰り出すだけなら、恥や外聞を気にしなければ、誰にでもできることである。
それに「誰も言わないこと」や「誰にも理解できないこと」を言うことが凄いことであると設定した以上、そういう姿勢で他人に向けて言葉を発する意義はどこにあるのだろうか。
宛先もなく、理解されることも想定されていない言葉たち。
そのような言葉を自分の外に向けて繰り出す必要性は、どこにあるのだろうか。
「俺はすごい」といいたいなら、そういえばいいだけである。
「あー、そうだね。わかったわかった」の一言で対処可能だし。
5秒もかからないし、時間の節約になる。
私が考える言葉を差し出す上で大切なことは、自分なりの「見えたこと」を表現するという点では決して譲らず、同時に「100人いたら100人が理解できる」ための理路を準備しておくことに対しても、決して妥協しないということだ。
それを「矛盾だ」とか「迎合だ」としか捉えられないのは、ちょっと考えが乏しいと思う。
栗原さんの「100人が作ったら100人ができる」とは、決して「ハードル」をとっぱらったり、べたべたした「サービス」をしまくったりするという意味ではないと私は感じた。
むしろレシピを再現しようとする側へ最低限の態度や技術を要求することを通して、レシピを読む者に対する最大限の信頼や敬意を示しているのではないだろうか。
そんなことを考えた。
授業が終わると疲れたので、16時には家に帰り、ありもので夕食を済ませ、19時過ぎにはベッドに入って眠りにつく。
おやすみなさい。
……。
しかしなぜだか21時にパッチリと目が覚めてしまい、眠れなくなってしまう。
ウイスキーの力を借りて寝付こうとするが、結局2時過ぎまで寝付けず、寝不足解消は明日へと持ち越しに。
ぐすん。
19日(火)
朝からスモッグで霞んでいる。
6時に目が覚める。
ねむい。
身体が鉛のよう。
それでも一限から授業なので大学へ行き、準備。
3年生の作文授業。
他人の文章を引用をする際に求められる態度や「客観性とは何か」などについてお話する。
言うまでもないことだけれど、他人の意見を山ほど引用したからといって、それで持論の「客観性」が担保されるというわけではない。
山ほど引用したところで、そうやって「引用する自分自身の主観性」から逃れきることは不可能だからだ。
だから、大切なことは、引用する際に「なぜ私は引用したのか」について自らの説明をはっきりと併せておくこと、そして引用の際に「この文章はどういうものなのか」と自分なりの理解を付け加えて明示しておくことである。(人文社会科学系の論文なら特に)
「この人はこう言っています。私もそう思います」だと、「この人のこう」と「私もそう」が本当に一致しているのか、そもそも「この人のこう」を「私」が本当に理解できているのかがわからない。
そのような引用では根拠にできるだけの説得力にかけると私は思う。
「この人はこう言っています。これを私はこうこうこんな風に理解しています。」と一言添えておく。
そうすれば、書き手の理解度や主観性を読者たちがはっきりとした形で検証できる。
そしてそうやって書き手の主観性を検証する機会や材料を読者に委ねることこそ、私が考える「客観性」を担保するために不可欠な態度なのである。
というのはあくまで私の主観的な意見である。
学生のみなさんはあくまで参考にしてくださいね。
授業が終わったあとは、14時半から給湯器の交換(やっと)が来る予定だったので、家に仕事を持ち帰る。
が、土壇場になって「今日は来ない」との連絡。
なんとなくそういう予感がしてたし、こういうことにももう慣れっこなので、気にしない。
気にしないが、なんだか急にやる気が失せる。
だって、楽しみにしていた「温かいシャワー」は明日まで持ち越しなのだ。
ぐすん。
ふて寝。
20日(水)
暑い。
明け方から強い南風がびゅうびゅう吹いているせいか、暑い。
空も雲が立ち込めて、雨を予感させる天気である。
8時に起きて、9時に大学へ。
10時の授業まで校正作業をする。
さらさら。
時間になったので1年生の会話授業へ。
一年生は相変わらず「陸揚げしたてのハマチ」みたいにピチピチで元気である。
対する私はけっこうバテ気味。
老いを感じる。
授業を終えて事務室に戻り、今日済ませる予定の校正を全部終わらせてから、市場に寄ってトマトを買い、帰宅。
13時半から14時半の間に給湯器の交換をしに来るとのことだったので、昼食(トマトとツナ缶のパスタ、人参と玉ねぎのサラダ、インスタントのスープ)を食べたあと、読書しながら待つ。
満腹になったこともあり、うつらうつら。
そうしていると14時45分ごろにやっと業者が来るが、給湯器を持ってきただけで取り付けは明日するという。
がーん!
今日こそ「温かいシャワー」を楽しめると思っていたのに!
あああああ。
それにこっちも仕事があるので、そうしょっちゅう「この時間からこの時間まで家で待機していろ」というのをやられてはたまらない。
結構カリカリする。
拙いながらも十分に主張が伝わる中国語を繰り出し、明日の九時前後に絶対来るという約束を取り付ける。
まあ、仕方がない。
また土壇場で約束を変更される可能性があるけれども。
私が昔から今まで変わらずこの世で一番嫌いなのは、予定を急に変更されることである。(急に予定を入れられることも同じく嫌い)
その予定のためにこっちの時間を組み立て、その後のスケジュールも考えておくわけだから、変更されると単純に腹が立つ。
なんだか自分の時間が無駄にされたように感じられるからだ。
お願いだから、明日で終わりにしてください。
頼むから。
おっといかん、イライラしてしまった。
他人にイライラしてしまうと、他人にイライラしてしまった自分自身にも腹が立つ。
なので、気分転換にキッチンに立って料理。。
冷蔵庫を覗くと餃子の餡がまだ残っている。
餃子はもう飽きた。
なので、余った餡をソースパンで炒め、刻んで炒めた玉ねぎ、ネットで注文し今日届いた「トマトの水煮缶」と一緒に煮込んで、「ミートソース」にする。
明日のお昼に茹でたパスタにかけて食べよう。
夕食はにんじんと玉ねぎのサラダ、キャベツの塩昆布あえ、鮭とばとレモンチューハイ。
満腹したので「よつばと!」を読みながら、早めに寝る。
おやすみなさい。
21日(木)
7時起床。
空気が悪いようで、窓の外は灰色に霞んでいる。
8時過ぎに業者さんから電話があり、あと30分ほどで給湯器の取り付けに行くという。
『よつばと!』を読みながらゴロゴロ待っていたら、宣言どおり30分後にご到着。
キッチンに案内し「じゃあ、よろしくね」と給湯器の設置をおまかせする。
業者さんがキッチンでごそごそお仕事をしている間に、ちょこっと日記を書く。
書き終わったので堺雅人『文・堺雅人』を読む。
おもしろい。
文体から感じられるのは「半沢直樹」や「リーガル・ハイ」の演技とは正反対の人物像。
素朴で素直でいて、なおかつ自分の心境を深く掘り下げようという態度が感じられて、非常に好感が持てる。
文章の印象だけでいうけれども、『南極料理人』で演じていた西村君なんかは、けっこう素の堺さんに近いのかもしれない。(原作の西村君はけっこう性格が悪いけれど)
そんなことを考えながらパラパラっと読んでいるうちに、10時すぎに作業が完了。
おおおおおおお!
約1ヶ月ぶりにシャワーからお湯が出た!
感動。
業者さんを「ありがとう、お疲れ様」と見送ったあと、朝食と昼食を兼ねた食事(ミートソース・パスタ、にんじんとツナの胡麻風味サラダ、ほうれん草のスープ)をとる。
美味しい。
そのあとさっそく久方ぶりのシャワーを浴びる。
蛇口をひねればすぐさまお湯が出る快適さを満喫。
思わず鼻歌交じりになる。
さっぱりしたあと、12時過ぎには大学へ。
まずは校正の続きをする。
とりあえず今日の分は終了。
そのあとは14時の授業まで2年生の作文を読む。
うーん。
全体的に「自分の思ったこと」や「考えたこと」が欠けている。
「感情」はたくさん書いてある。
「楽しかった」とか「悲しかった」とか「怒った」とかね。
でも、感情だけだと文章を深くすることは難しいし、自分が知らない新しいことを引き出すことも困難だと私は思う。
なぜなら、感情は「もうわかっていること」だからである。
「怒った!」と書いてしまった瞬間、「怒っているということ」は書き手にとっても読み手にとっても、自明の前提になってしまう。
そのあといくら「なぜ」や「どうして」を投げかけても、結局は「怒っている」ことを強化し、正当化する方向に向かうだけである。
「あいつが悪い!」とか「いかにムカついたか」とかね。
そういうのを詳しく描写しても、何も新鮮さや開放感は得られないだろう。
もちろん文才があればそういうことも可能なのかもしれないけれど、それは一般的ではない気がする。
それに正直、「私は怒った」など、個人的な感情で書いてしまうと、読み手にとっては「うん、で?」という文章になってしまうことが多い。
少なくとも私が読み手ならそういう反応をする。
冷たい事を言うようだが、私は学生さん個人の喜怒哀楽にはほとんど興味を示さない。
だって、学生さんたちは「私のアイドル」でもなければ「私の恋人」でもないからね。
「感情」だけで乗り越えられる他者の壁は、けっこう少ない。
より遠くに感じられる人間に読んでもらうためには、「感情」だけでは心もとないと私は思う。
だから私が学生さんたちに求めたいのは、「感情」ではなく「感覚」である。
ここでいう「感覚」とは、疑問や違和感である。
疑問や違和感とは、つまり「すっきりしていない」から生じる。
「すっきりしていない」のは、それが既存の言葉や手持ちの考えでは説明できないからである。
それを自分で自分に説明するために私たちはこの授業で文章を書くのであって、決して「感情」を吐き出してすっきりするために書くわけではない。(それでもいいけれど、そのような文章は公共性を決定的に欠いていると思う)
親しい人間だけに向けたsnsやおしゃべりなら、「ムカついた」とか「悲しいよ」だけでも十分伝わるかも知れない。
でも、そういう言葉の射程は短いし、新しさや面白みがない。
言葉の射程を伸ばし、自分とは遠く離れた他人にでも「伝わる」ような力を持たせるためには、自分自身が心の底から感じるような疑問や違和感、「声にならない思い」を拾い上げるところから始めるしかない。
私はそう思う。
で、問題は、この私の考えをいかにしてお伝えすればいいかという問題である。
頑張ろう。
そういうことを考えている間に時間が来たので、14時からひとつ授業をこなす。
授業後、追試を受ける学生さんのために追試験をひとつ実施。
終わった頃には17時を回っている。
基本的に私は17時で「閉店ガラガラ」である。
以前は家にまで仕事を持って帰って遅くまで作業していたが、結果的に見ればパフォーマンスが低下しただけだった。
やっぱり早めに家に帰って、毎晩自分でごはんを作って、洗濯をし、ゆっくりお風呂に入ることは大切だと思う。
それも「仕事」の一環ではないか。
別に言い訳をしているわけではない。(言い訳すべき相手もいないし)
ということで、家に帰る。
家路にて、ビラ配りのバイトさんたちが歩道橋の上でビラ配りをしている。
ビラを受け取った人たちは、それを一瞥し歩道橋を降りてゆく。
すると歩道橋の下には「古紙回収」のおばあさんが待ち構えており、人々がさっと目を通し終わったビラを回収し、袋に収めている。
まあこれを「リサイクル」と考え、エコロジーと呼ぶべきか、そもそもその程度にしか見られないビラに紙資源を使うことを「資源の無駄」というべきか。
ちょっと考え込む。
とりあえず、こんなに寿命が短いビラ、私はかつて目にしたことはない。(ポイ捨てされたビラは捨てられた後も人目に入り続けるからね)
そんなこと考えていても何にもならないので、さっさと帰宅し夕食。
「鮭とば」と「こんぶとアサリの佃煮」と「にんじんサラダ」を食べ、レモンチューハイをちびちび飲みながら、明日のお弁当を仕込む。
七時過ぎにお風呂に入る。
給湯器があればこんなに速くお湯がバスタブを満たすのだと感激。
ゆっくりお湯に使ったあとは、ウイスキー・ロックで涼みながら田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』を読みながら、就寝。
22日(金)
晴れを予感させるような曇り空。
薄手のダウンジャケットを着ないといけないぐらいの肌寒さ。
目覚ましに叩き起こされる前に6時に目覚める。
8時から授業なので、顔を洗って支度。
蛇口をひねればお湯が出る便利さを噛み締める。(昨日もこんな表現したな)
7時には大学へ。
とちゅうで買ったサンドイッチ(3元)と牛乳(2.5元)に事務室に備蓄しているインスタントスープ(コーン味)を朝食としていただきながら、授業の準備をする。
で、授業。
2年生の作文。
基本的に頑張って書いている。
むしろ今までの学校作文で学んだことを忠実に守っているといっても良い。
そういう点で努力の痕跡が見えることは事実だ。
でも、昨日も少し書いたが、現在の彼ら彼女らの作文には形式面でも内容面でも課題がある。
とりあえず原稿用紙の使い方についてお話する。(これは形式面、日本と中国では原稿用紙の使い方も違うからね)
そのあと、「何をどう書けばいいか」について、お話する。(これは内容面)
とりあえず「感情」と「感覚」の違い、「わかっているからつまらない」「わからないから面白い」という視点、「自分の感じたことを表現すること」と「人に伝わるコミュニケーション」との関係について、私の意見をご紹介する。
簡単に言えば、私が学生諸君に求めたい作文とは、次のような構成からなる。
・「わからない」の発見
・「わからない」の描写
・「わからない」の説明
・「わかった」の提示
・新しく出てきた「わからない」の描写
ご覧のとおり、キーワードは「わからない」という感覚である。
単なる感情だと、そのような感情をもとにして書かれた文章の伝わる範囲は、親友や家族など、とても狭い範囲に留まる。(書き手がよっぽどの文才ある人間か、はたまたアイドルや有名人でない限り)
しかし、もし「わからない」という感覚から描写されるものごとが「わわわ、その疑問ってなんかドキドキするね」という我々の普遍的な知的好奇心や感性の琴線に触れるものだったならば、そのような「わからない」から展開される文章の届く範囲や伝わる力は、「感情」に頼った文章よりも、広く、強いものになるのではないだろうか。
以前、アニメ監督である庵野秀明が「ようこそ先輩」(NHK)に出演した回で、こういっていた。
「自分で感じたもの」っていうのを大事にしてください。「自分自身の答え」っていうのを皆さんで考えてください。学校のテストっていうのは答えがひとつしかないんで、それから違う答えを書いちゃったら×になったり△になったりするんだけど、実際の世の中っていうのは、そんな〇か×かだけじゃないんで、自分自身で考えてそれを言葉なり絵なりで表現をする。それが人に、他の人にコミュニケーションとして伝わるわけなんです。それを大事にしてください。
私は創作について語る庵野が「コミュニケーション」という言葉を使っていることに「なるほど、そうだよな~」と納得する。
創作とは、結局のところ、「私」と「みんな」が「私であり、私ではないもの」を通してコミュニケーションする人間的活動なのだと思う。
「私であり、私ではないもの」とは「私」が創作したものごとである。
なぜそれが「私であり、私ではない」のかというと、それは確かに「私」の一部ではあるが、同時に「私」の理解や範疇を離れて初めて存在するからである。
なぜ自らの創作物が創造主である「私」の理解や範疇を離れるような存在として「私」自身に感じられるのかというと、結局のところ「私」は「わからない」から作り始めたためであり、作っているときは無我夢中で「私」など消え失せているためであり、作り終わったら作り終わったで「私」にとって「つくるはずもなかったものができちゃった」からである。
つまり、その活動の全過程において「私」の支配から独立して運動してゆく「結局、よくわからない」ものこそを創作物と呼ぶのである。(私の勝手な理解だけれども)
学生さんの作文に共通するのは「巧い作文を書こう」とか「自分が言いたいことを正しく書こう」としている点である。
これはまさに学校作文の考え方だけれども、こういうのには「模範」があるので、結局みんなそれを真似してしまう。
真似することが「他の人にコミュニケーションとして伝わる」とは私は思わないし、そういう文章が「面白い」とも私は思わない。
それに第一「自分が言いたいこと」というのは「もう、わかっていること」なのであって、そういうものを紙に書き出していく作業は、書き手にとってもあまり愉快なことではない。
それに書き手が「もう、わかっていること」とは読み手にとっても大抵「もう、わかっていること」なので、そうやって綴られた文章は、読み手としても面白くないのである。
これまたNHKの番組で(仕事の流儀だったかな?)庵野さんの師匠である宮崎駿が、こんなことを言っていた。
「子どもたちにこれを伝えたいから映画を作る」ってのはかっこいいけど、あんまり信用してないんですよね。世の中で一般的にいっぱい言われているような「こういうものを訴えたいから」。しかしそういうので作品を作るのはくだらないものです。「命は大切」って、それなら「命は大切」って書けばいいじゃないですか、それで。そういうふうにテーマを簡単に抜き出せるものはみんないかがわしいと思いますね
彼は常に「わからないからつくる」と口にしている。
私はこれを「彼は天才だから」とか「一般人には一般人なりのやり方がある」というふうには片付けない。
「無我夢中」とか「我に返る」とか、そう言う言葉が示しているように、私たちは単なる「私」を超えて何かを見ることができる存在だし、そこで見たものを再現した成果を介して、遠く離れた他者と繋がることができる存在であると私は思う。
作文の教育的意義はそのことを自分自身で体感することにあると思うし、「正しい書き方」とか「起承転結」とか「美文」とかは、その「後の後」ぐらいでいい。
授業が終わったので、事務室に戻り、今日の分の校正作業をサクサク進める。
サクサクサクサク……。
終わったので、気分転換に40分ほど散歩に出る。
戻って来た頃には、ちょうどお昼どき。
お弁当(にんじんとツナのサラダ、煮玉子、チャーシュー、あさりと昆布の佃煮、ピクルス、というあり合わせ詰め込み弁当)と野菜スープで昼食を済ます。
コーヒーを淹れたあと、14時の授業まで校正を続けつつ、事務作業を片付ける。
時間が来たので授業。
午前に引き続き2年生。
科目は「会話」。
今学期試している「疑問や問いのシェア」を実践。
題材はアニメ『ピンポン』(松本大洋原作)の第10話。(ペコとドラゴンの一戦)
『ピンポン』の言い回しや描写には「謎」が多く仕込まれていて、私は見るたびに解釈欲求を刺激される。
学生の皆さんにも、より深く広い理解に達するために、たくさんの疑問を幅広い角度から出してもらう。
この授業でシェアした疑問や問いは作文課題として利用するので、一石二鳥である。
ちなみにこの10話は、それこそ上に書いた「無我夢中」とか「我に返る」とか「飛ぶ」とか、いわゆる「没我」がもたらすブレークスルーが描写されている。
背景をよくよく見てみると、会場の横断幕にも「無我通天」とか「飛翔」とか、そういう「らしい」言葉が。
ドラゴンがペコに引っ張られて「ゾーン」に入って卓球の面白さに再開するシーンなんか、まさに「夢中」ですよね。
ああいう心理描写や「飛ぶ」のメタファーが可能なのは、作者自身が漫画を描きながら「私」から飛び出したことがあるからだと、私は勝手に思う。
授業が終わる頃には16時。
近くの大型スーパーによって、「アゲマキ貝」や「牛肩肉」などを購入。
早速家に帰り、換気扇の下に電熱網焼き機をセットし、大ぶりに切った牛肉ににんにくを刷り込み塩と粗挽きブラックペッパーをまぶしたものを網に「ダーン!」と乗せ、焼いていく。
ピーマンやニンニクの葉など野菜もちょこんと載せて焼く。
飲み物は赤ワイン。
1週間よく頑張ったので、今日ぐらいは肉を食べてもいいのだ。
直径15センチ、厚さ2.5センチはある牛肉をぱくつく。
うまい。
オージービーフなので脂っこさもないし、事前に念入りに筋切りしておいたので柔らかい。
パクパク食べながら、今日届いた「乾燥粉末バジル」を何気なく手に取る。
最近久しぶりに「パスタ熱」が再来しているので、ネットで安くで買ったのだ。
で、ラベルを見てみたら、こう書いてある。
うーん、この「保質期」のとなりに印刷されている「2019.03.20」というのは、下の段の「生産日」がズレて印刷されてしまったのかな?
まあ、でも注文したのはまさに今年の3月20日の夜なんだよね。
もちろんお店が私の注文を受けて直後にパッケージした可能性はある。(それを「生産日期」と呼んでいいのかはさておき)
でも、さすがにそこまでめんどくさいことはしていまい。
ということは、このバジルは私のもとに発送された時点で、すでに「質」が失われているのである。
返品し「新しいのを送れ!」というのが普通なのだと思う。
でも、私は「バカ舌」だし、なによりズボラだから、そういう細かいことは気にしないのだ。
満腹し、温かいお風呂にゆっくり浸かったら、もう眠い。
ベッドに入り、田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』のページを繰っているとすぐに眠気に襲われ、就寝。
おやすみなさい。