ぼくはあるいた、まっすぐ、まっすぐ。
8月23日(土)
夏休み最後の週末。
来週の月曜日から新学期である。
この日は9時に起きてゴロゴロしていたのだが、残り僅かな夏休みをこうしていいのかということで、思い切って自宅から合肥を南北に走る地下鉄一号線の南側終点である“九联圩”(Jiulianwei)まで歩いてみることにした。
なぜそんなことをするかというと、なぜそんなことをするかわからないからである。
意味がわからないから、意味がわからないことをやってみたいのである。
こういう「無駄」なことって仕事が始まったらやっている暇も余力もないからね。
日焼け止めクリームを首筋まで塗りたくり、アームカバーをしたあと、リュックに魔法瓶につめた水を入れて、12時すぎに自宅を出発。
道のりはかなり単純なものである。
ほとんどの道のりは南北を直線的に走る「徽州大道」を巣湖につき当たるまで南下するだけ。
自転車でも何度も通ったことがあるお馴染みの道である。
合肥市を南北約20kmにわたって走る「徽州大道」の歴史は1955年に遡る。
この年に当時の合肥市長により合肥の主要な道路28本が布告された。
その28本目が「徽州大道」の由来となる「徽州路」である。
この名称は1994年まで約40年間に渡って使用され続けたのだが、同年「美菱大道」(Meiling)と改称されてしまう。これには合肥に本社を置く同名の会社(冷蔵庫が有名)が関係している。
55年に開かれた「徽州路」は改修が必要とされる状況にあった。しかしそのころの合肥市は経済的に困窮しており、改修費に頭を悩ませていた。
そこで経済的援助の手を差し伸べたのが、地元企業である美菱だった。
合肥市と美菱との協議により、美菱が改修費用を負担する一方で合肥市は美菱への感謝の意を示すために改修後の「徽州路」の名称を10年の間「美菱大道」とすることになったのである。
ところが地元の人達にとってはなじみある「徽州路」が突然変わってしまったことがうまく飲み込めない。彼らにとって「徽州路」は「徽州路」でしかないからである。
ということで、協定による10年という歳月が過ぎたあとで、多くの市民の声もあり、「美菱大道」は「徽州大道」として“復活”し、現在に至るわけである。
などとわかったようなことを書いているが、これはさっきネットで調べて初めて知った事実である。
そういう歴史があったとは知らなかった。
日本では道に名前をつけて親しむ習慣が(中国に比べたら)ない気がする。
校名の改称とかスタジアムのネーミングに際して運動が起こるのは聞いたことがあるけれど。
なにはともあれ、合肥市民の思いが込められた「徽州大道」をひたすら南に向かって歩く。
気温は相変わらず30度を越えているが、街路樹が途切れることなく植えられているおかげで木陰に恵まれているので、けっこう快適に歩き続ける。
中国ではどこでも同じだろうが、合肥市内はつねにどこかで工事をしている。
地下鉄を通したり、道路を高架化したり。
15kmほど歩いた地点で「滨湖新区」に到着。
安徽省の省政府(日本で言う県庁)やさまざまな公的機関、それに民間企業やらマンションやらショッピングセンターなどが整備されている最中である。
ビザ更新で年に2度(申請と受け取り)は来ないといけない公安局入局管理局が入っている「要素大市場」(なんて翻訳すればいいんだろう、いろんな公的機関が集まっている大きな建物)に到着。
この時点で15km歩いている。
ナビによればあと6km。
コンビニで水を購入し魔法瓶に移し替え、少し休憩してから出発。
だいぶ高い建物が増えてきた。
きつい西日が射すなか、道はまだまだ続く。
「あと2km…あと1km…」と自分に語りかけながら歩き続け、予定の21kmを超えるが、まだつかない。
ナビに騙されることは中国ではよくあることである。
どのみちあと数キロのこと。
頑張ってまっすぐまっすぐ歩く。
結局23km歩いたところで“九联圩”駅に到着。
約4時間半の道のりであった。
なんてことはないただの地下鉄の駅だが、自分の足でたどり着いたと思うと、ちょっと感慨深い。
別にこのあたりに見たいものは特にないので、すぐに地下鉄に乗車。
私の自宅の近くには2号線の駅があるので、途中で乗り換えて帰宅する。
始発の誰も乗っていない車内に飛び乗り、いままで自分が歩いてきた道のりをあっという間に通り過ぎる。
なぞの達成感を噛み締めているうちに市内に到着。
こうして夏休み最後の土曜日は終了。
ジョギングや自転車では使わない筋肉を酷使したようで、次の日はかなりきつかった。