これまでの麺の話をしよう。
昨晩寝る前に過去撮りためた写真を整理していると、ハードディスクの底からこんな写真が出てきた。
重慶で撮った牛肉麺である。
見事に真っ赤っか。
これは出てきたお椀に私が後づけで唐辛子を瓶ごと放り込んだとかそういうわけではなく、最初からこの状態で運ばれてきたのである。
そして恐ろしいことに重慶ではこれが普通なのだ。
私は2013年8月から3年間重慶で生活していたが、かの土地ではとにかく出てくる食べ物のほとんどが“麻辣”(山椒の痺れを伴う辛さ)だった。
中国料理の辛さには“香辣”“酸辣”などいろいろな種類があるが、四川料理の辛さといえば、やっぱり唇がピリピリし舌がおかしくなるくらいの痺れを味わえる“麻辣”である。
重慶で生活していた時には、特に辛いものを食べようと思わずとも、それが麺だろうが丼だろうが、何かをオーダーすれば大抵の料理には大量の唐辛子がついてきたものだった。
あまりに辛いので“放一点点”「(唐辛子は)ちょっとだけ入れてね」と注文していたのだが、重慶人にとっての「ちょっと」に任せると結局出てくるのはたっぷり唐辛子が入った料理だった。なので途中から諦めて出されたものをそのまま食べるようになった。
慣れというものは怖いもので、半年も経たないうちに写真のような麺をスープまで堪能するようになってしまったのだ。
そんなこんなで3年間を過ごしたあと、2016年に安徽省に引っ越した。
そして(たぶん気候が違うからだろう)重慶で生活していたときのように日常的に好んで辛いものを食べることはなくなってしまった。
結果的にだいぶ辛さへの耐性がなくなった。今写真のような真っ赤っかな麺をスープまで完食したら、たぶん翌日トイレにこもることになってしまうのではないだろうか。
辛さは別として、重慶の麺は私好みである。
よく重慶で目にした麺は(鹹水を使っているからだろうか)ちょっと黄色がかったコシと粘り気のある細麺だった。
これが辛いスープに合ってなかなか美味しい。
重慶の麺料理といえば、ほかにも坦々麺(タンタン麺)や重庆小面、豌豆炸酱面(えんどう豆のジャージャー麺)などいろいろあるが、どれも美味である。
対して合肥の麺は、あまり私好みではない。
全体的に麺が白い太麺で、あまりコシが感じられないからだ。
結果的に合肥で麺を食べようと思うと、私が向かう先はどうしても拉面を出す店(文字通り引っ張って打つ麺、コシが強い)になってしまう。
この拉面だが、日本のラーメンのように麺をスープに泳がせる“汤面”(タンメン、中国語ではスープがあればすべてタンメン)として食べてもいいが、“炒面”(炒めた麺、つまり焼きそば的なもの)として食べても美味しいし、“盖面”(麺の上にさまざまな具材をのっけて「蓋」をしたもの)でもいい。今の時期なんかは“凉拌面”(冷やし中華)なんかも美味しい。
あくまで私の感想に過ぎないが、米を食うならやっぱり日本のほうが美味しい。
重慶や合肥で食べるコメは粘り気がほとんどなく食感も悪い。中国のなかでも東北地方のコメはけっこう美味しいのだが、それでも日本の平均的な米には及ばない気がする。
理由はコメそのものにもあるだろうが、その炊き方にあると私は思う。
中国の飲食店では基本的にご飯は大盛り、おかわり自由である。ほんとうにもう「いや!」というほど、こんもりお皿やおひつに盛られて提供されるのが普通である。
それはありがたいんだけれども、それは大量の米を一度に炊いたあと保温しておいたものが出されているということだ。
さらに「炊く」とはいっても、中国の飲食店では、炊飯器やお釜で炊いているわけではない。
私たちが小学生だったころ一人ずつ割り当てられていた机ぐらいの大きさのバットにコメと水を入れて、それを大きな蒸し器に放り込んで蒸しているのである。
よくテレビで日本旅行から帰ってきた中国人観光客が炊飯器を「大人買い」しているのを目にするが、やっぱりちゃんと炊かないとお米は美味しくないということだね。
そういう主食事情もあり、本来は白飯大好きな私であるが中国にいるときはあまりご飯を食べないのである。
対して麺食であるが、これはもう中国の圧勝。
そのへんの安い麺屋でもそれなりに美味しい麺が出てくるし、しかもその種類の多さたるや……。日本は到底及ばない。
こうして私は「麺喰い」になった。
こうして振り返ってみると、これまでいろいろな麺を食べてきたものである。
これからもさまざまな中国の麺を食べたいと思う。
そのために日々散歩をしながら麺屋を物色している。
残念ながら現在減量中のためしばらくは麺を楽しむことができない。
あと5kg痩せるまで辛抱である。