国慶節の休暇の日記
1日(火)
6時起床。
前日の6コマ授業と宴会の影響もあり、ちょっと 体がだるい。
基本的にごろごろしてすごす。
翌日に「巣湖1周」をするため早めに就寝。
2日(水)
なにをとちくるったか0時30分に突然目が覚める。
眠りなおそうとするが目が冴えて眠れない。
しかたがないので、ネットサーフィンをしているうち、明け方に寝付く。
起きると9時。
自転車はまた明日。
軽くジョギングしたり買い物に行く以外にはなにもせず休息に当てる。
3日(木)
前回書いたとおり、自転車を満喫。いやっほー!
4日(金)
8時に起床。
前日きちんとBCAAを飲みながら走ったおかげか、それとも夕食でたっぷりとたんぱく質をとったおかげか、はたまた私の身体能力がだいぶ高まったからか、そもそも「そんな大した運動強度じゃねー」からか、筋肉痛や身体のだるさはまったくない。
1時間ほど朝の散歩をしながら豆乳を飲む。
おいしい。
近くの杏花公園を歩く。
秋の景色が美しい。
家に帰ってシャワーを浴びたあと大学へ。
道中で朝食兼昼食のりんごとヨーグルト(なんか女の子の朝食みたい)を購入。
まずは昨日の自転車旅について日記を書く。
キーボードをバシバシ叩いていると、知らない男性の先生(?)がドアを開け放っている日本語学部のオフィスを覗き込んで、「加班吗」(残業?)と聞いてくる。
すみません個人の趣味です。
日記を書き終わったあとは、教材編集のお仕事。
今私が編集しているのは作文用の教材なのだが、今日は作文を書くことに焦点を当てた文法的問題の解説を書く。
とはいえ、私は日本語文法が(というより日本語そのものが)専門ではないので、なかなか難しい。
とくに難しいのが「ハとガ」である。
ほとんどの日本人は日本語教育に携わったことがないのでご存知ないだろうが、「~は…」と「~が…」の使い分けは、外国人学習者にとっていちばん厄介な文法的問題であり、教える側にとっても難題なのである。
たとえば、
「先生はグラウンドで走っています。」
「先生がグラウンドで走っています。」
このふたつの文の違いを、外国人学習者にどう説明すればいいだろうか。
こういうときに、教科書的には「ガは格助詞でハは係助詞」とかいう説明が出てくる。
が、私はこの時点でちんぷんかんぷんである。
「格助詞ってなあに? 係助詞って美味しいの?」
である。
文法が得意なクラスメイトに「ねえ、なんでこうなっているの?」と聞いても「そんなもん、そういうもんだって覚えればいいんだよ」としか返ってこなかった。
私はいかなるものごとに対しても、他人から「そういうもんなんだよ」と言われると無性に反発したくなるという、救いがたいバカである(「子どもは親を敬う、そういうもんだ」「はあ? 親子関係にもいろいろあるだろ!」みたいに)。
しかし同時に、私の「どうして?」に対してニッコリと笑いながら、「ふむふむ、それはね、実はこういう意味があるんだよ。おじさんが説明してあげよう」という人間の話は、わりとすんなりと聞くタイプである(おじさんじゃなくておねえさんならもっとすんなり聞く)。
しかし残念ながら、少なくとも古文や英文の文法に関して、「ニコニコふむふむ」タイプの教師や同窓には出会えなかった(と思う、いたのに気付かなかっただけかもしれないが、少なくとも「おねえさん」はいなかった)。
だから私は古文や英語の授業で先生が文法で文法の説明をするという循環的説明を始めたとたんに眠気に襲われたり、「意味なんてどうでもいいから、そういうもんだと思って暗記しろ!」とがなりたてる教師に「なにいってやがんだい」と反発したりしながら、フィーリングを活かし文脈を読解することで大学受験までをなんとか乗り切ってきたのである(よくそれで大学に合格できたものだ)。
そういう人間が語学教師をしていることにお叱りの声もあるだろう。
すみません。
しかし、別に自己弁護をするわけではないが、私と同じような学生さんだって多いのではないだろうか。
現に、1年生の時にちゃんと「ハは係助詞でガは格助詞です」と中国人の先生に中国語で懇切丁寧に教えてもらっていながら、作文になると平気で「『百聞は一見に如かず』という言葉は中国にあります」(ここでは「言葉が」とすべきだろう)と書いてきたり、「自分さえよければ他人がどうでもいいのか」(ここは対比関係なのだから「ハ」を使うべきだ)と言ったりするのである。
そもそもが文法学的に正しい用語や考え方を使って適切に説明したからといって学生さんの骨身になるわけではないのではないだろうか。
頭の中に渦巻く形にならないイメージの尻尾を手繰り寄せながら自分で言葉を綴っていく作文という作業を外国語でこなすとなると、なおさらである。
大事なのはその語が持つ働きをイメージで掴んでいただくことである。
ふつうはたくさん本を読むことで、自然に覚えるものだと思う。
しかし、今の若者は本を読まないのである(おお、おじさん的上から目線)。
ここで私が学生諸君に「そういうもんだから本を読め!」といったところで「ふん、なにいってやがんだい」となることは(私の経験から)わかっている。
ということで、私は私のようなひねくれた学生さんの「どうして?」に対して「ニコニコふむふむおじさん」としてこの教科書を作りたいのである。
「ハ」と「ガ」に関しては、まずは機能から説明するという方針を採る。
たとえば、「ハ」はある主題について説明・判断するときに使い、「ガ」は自分が目にしたりイメージしたりしているある現象を描写するときに使う、と説明する。
となると、先の
「先生はグラウンドで走っています。」
「先生がグラウンドで走っています。」
の違いがわかりやすくなると思う。
前者は、たとえば、学生さんがオフィスに私を訪ねてきて、
「あれ、先生いないんですか?先生は(どこでなにしているんですか)?」
と尋ねられた際に、オフィスにいる誰か(たとえばO先生とか)が、その答えとして現在先生(私)がどうであるかについて
「グラウンドで走ってるよ。なにやってんだろうね、就業時間中なのに」
と説明しているわけである。
対して後者は、自分がグラウンドの近くに行き、実際に走っている先生(私)を眺めたり、もしくは頭の中で走っている先生(私)をイメージしながら、先生(私、くどい!)が走っているという情景やイメージをそのまま写真として切り取ったかのように画像的に描写しているのである。
だから「たとえば」「仮に」のような相手の想起を期待するような語句の直後に来るのは「ガ」であることが多くなる。
というふうに機能から説明すると、自分で日本語の文章を書くことを学ぶ場合は特に覚えやすいのではないだろうか。
問題は、機能から説明してしまうと、あくまで「ハとガ」の一面的説明になってしまい、言い逃しが出てきて、「その説明だと『ハとガ』の全てを説明できていないぞ!」とお叱りを受ける可能性があることである(「ガ」には特定の意味があるとか、ほかにもいろいろ)。
それに、この「ハは説明、ガは描写」という説明だって、文単位で見ればそうかもしれないが、文章単位で見るとそう簡単なものではない。
たとえば、以下は村上春樹の『ノルウェイの森』の一部だが、さきほどの「ハは説明、ガは描写」に注目して読んでみる。
翌日の「演劇史Ⅱ」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとても長い立ち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス・ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード・バーンスタインのLPを持っていた。クラブ・ハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四、五人の学生のグループがいて、彼らは何やかやについて好き勝手な意見を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりにあらためてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかはわからない。でもとにかくその九月の終りの気持ち良い昼下がり、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい想いをした。僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。
(中略)
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを往き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終わると僕は図書室に行ってドイツ語の予習をした。。(村上春樹『ノルウェイの森』)
この文章で村上は、キャンパスの活気ある情景を描写しながら「僕」と対比させることで、孤独な「僕」の心情を鮮やかに描写しているわけだが、その際に活躍しているのが対比の「ハ」なのである。
つまり、ここではキャンパスという大きな情景を描写するときに、そこに含まれるそれぞれの風景や人間を「ハ」を使って対比的にフチ取りしたあと、そのそれぞれを「ガ」を使って描写し、その描写で明らかになった特に細かい新しい情報に関して再び「ハ」を使いながら説明しているのである。
たとえば
すぐとなりでは女子学生が二人でとても長い立ち話をつづけていた。
という一文。
「すぐとなりでは」の「ハ」は、そのあとに続々と続く「クラブハウスの方からは」や「中庭では」などいった大学キャンパスという大きな情景に含まれるさまざまな光景と対応させるための、「対比・比較のハ」である。
こうやってそれぞれの光景とその配置をデッサン的に書いたあと、「女子学生が」の「ガ」のように、それぞれの光景を描写するために村上は「ガ」を使うのだが、こうして「ガ」を使って色を塗る(つまり「ハ」でデッサンした「すぐとなりの二人の女子学生」という枠組みを描写する)という作業をしたあとに、さらに、
一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス・ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード・バーンスタインのLPを持っていた。
説明・対比の「ハ」を使って説明しているのである。
このように、実際の文章単位では、「ハとガ」は何重にも入れ子の関係になりうるのであり、そう簡単に文単位だけを以て「ガは描写、ハは説明」と説明するだけで十分なのだろうか。
わからない。
これだけとってみても、「ハとガ」について考えなければならないことは山ほどある。
難しい。
うんうんと頭を絞りながら夕方まで原稿を書く。
帰宅して夕食をとったあと、キャンパス内で夜の散歩。
うちの大学のなかには学生さんが描いたペイン ト・アートがたくさんある。
その多くは若さが醸し出す青さや、青さが保証する若さが感じられて、ようするに生き生きとしていて私は好きなのだけれど……。
薄暗い路地に書かれたこのペイント・アートは生き生きし過ぎていて、夜に通りかかってふと目に入るたびにびっくりする。
怖い。
思うに黒髪の長髪、蔦の葉っぱ、シックな衣服の女性な後ろ姿が、私に「リング」的ななにかを想起させるのだと思う。
今にも振り向きそうで、怖い(それほど良く描けているということだろうが)。
5日(土)
一夜にして冬が来た。
朝から冷たい北風がびゅうびゅう吹いていて、気温は18度あるが、体感的はかなり寒い。
今シーズン始めてウインドブレーカーを着たあとにグラウンドに行って3kmほどジョグ。
シャワーを浴びたあと10時前にはオフィスへ行き、コーヒーを入れたあと仕事に取りかかる。
ふと窓の外を見ると、冷たい雨まで降り出した。
寒い。
15時すぎまでずっと原稿を書く。
あいかわらず「ハとガ」の説明に取り組む。
お腹がすいたので、早めに退勤(まあ今日は出勤日ではないのだが)。
スーパーでベビーホタテとサニーレタスを買って帰宅。
しかし、それにしても寒い。
雨がどんどん強くなり、気温もぐんぐん下がっていく。
夏に降ったものほど大粒ではないが、やたらとトタン屋根を大きく虚しく響かせる秋の雨である。
秋という季節の持つ曖昧さと後に控えている冬の存在を説得力もって告げる雨。
現在気温は18度。
数字は大したことはないが、実際には肌寒い。
気分が変わったので、晩秋に降る雨特有の含みある雨音を聞きながら今シーズン初めての鍋を仕込む。
土鍋から立ち昇る湯気に香る昆布と鰹の出汁が良い。
私にとってこんなどっちつかずの気候は「食欲の秋」と「食わなきゃ死ぬ冬」を正々堂々と両立できる口実にもなるのだ。
食い意地張った私は大手を降ってものを食べるための口実を自分勝手に探し出す。
もし私が野生動物に生まれていたならば、きっと長生きできたことだろう。
残念ながら私は様々な価値観やしがらみに囚われた一人間である。
だから所々の事情で(主にお財布的な要因で)土鍋の中身は昆布と大根だけ。
いや、昆布と大根大好きだけどね。
おでんで温まったあと、お風呂に入り、11時過ぎには就寝。
6日(日)
寒さで6時に自然と起床。
水をグラスに一杯飲み、とりあえずローラーに20分乗る(なにがとりあえずなのかはさておき)。
そのあとジョギングウェアに着替えてから大学のグラウンドへ行き、3kmほどゆっくり走る。
グラウンドにはなにやらバルーンやら看板やらが設置されている。
よく見ると、どうやら全国的に有名な保険会社が安徽省各地に展開している各支店から選抜された代表が参加する社内運動会らしい。
企業の運動会なんて、なんだか昭和の日本の香り。
余計なお世話だろうが、せっかくの日曜日なのに(しかも寒いのに)朝から会社の運動会なんて、可哀想。
こういう「私たちはアットホームな会社」、私だったらストレスで死ぬ。「アットホーム」っていうなら家できままに仕事をさせんかい。
まあ、別に私の会社ではないので、余計なお世話である。
走り終わったあと近くのローソンへ行き、朝食としておにぎり一個を購入。
寒いので温めてもらう。
私は北海道民ではないので、日本にいたときはコンビニおにぎりを温める習慣はなかった(だいたいおにぎりって冷めても美味しいこと前提の食品だし)。
中国に来てから変わったことはいろいろあるが、コンビニおにぎりを温めてもらうようになったこともそのうちの一つである。
グラウンドに戻ってスタンドに座り、ホカホカのおにぎりをほおばりながら先の社内運動会を観察する。
そういえば、昔に読んだ椎名誠のエッセイに仲間内でテントやらスタートピストルやらを業者から借り出して本格的に運動会をやるってのがあったな。
仲間内でわいわいやるのが好きな人にとってはこういう会社は楽しいんだろうな。
そんなことをぼーっと考えていると、後ろで「あっ!」と息を呑む声が。
振り返ると原付バイクに跨った2年生のOくんであった。
いや、なぜに私がグラウンドのそばに座っておにぎりを頬張っているだけなのに息を呑む必要があるのか。よくわからないけれど、バイクをガシャンと立ててからトコトコと私の隣にまで来てちょこんと腰を下ろしたOくんと、とりとめない会話をしながら運動会を眺める。
しかしいつまでもボーッとはしていられないので、5分ほどそうしたあと、Oくんにバイバイして家に帰る。
シャワーを浴び、半年ぶりに長袖のパーカーに袖を通し、大学へ。
12時半まで原稿書き。
途中昼食をとりに外へ出る。
寒いので羊のスープたっぷりの麺を注文。
うまい。
腹ごなしに川沿いを少し歩いてスーパーへ。
夕食の買出し(鮭のあらと皮、菜っ葉)を済ませたあと、ふたたび大学に戻り夕方まで仕事。
明日まで休暇なので同じフロアには誰もいない。静かで快適。
仕事が進む。
さくさく。
5時すぎに帰宅。
帰宅途中に猫にであう。
こいつ、私の体温で暖を取りたいからって人の足にやたら自分からすり寄ってくる。
そのくせ私に身体を撫でられるのは嫌なようで、手を伸ばすと引っ掻こうとしやがる。なんて自分勝手な猫だ。
まあ猫ってそういうものだよね。
夕食(鮭のアラの酒蒸し)を仕込んでいる間に「弱虫ペダル」を1話分見ながらローラに乗る。
シャワーを浴び、夕食を済ませ、食後の散歩に出ると寒い。
家の前に焼き芋と焼き栗の屋台が出ていたので、明日の朝ごはんとして焼き芋を2つ購入。
焼き芋なんてひさしぶり。
12時前には就寝。
7日(月)
国慶節休暇最後の1日。
6時起床。
30分ほど中島みゆきを聴きながらジョギング。
寒い。
気温も低いし風も強い。
そそくさと家に戻り、熱いシャワーを浴びたあと、大学へ行く準備をする。
この風の強さだとけっこうしっかりと着込んだほうがよさそうだ。
クローゼットの奥からよれよれになった革ジャンを取り出す。
まさか10月に革ジャンを引っ張り出すことになるとは思わなかった。
9時過ぎに事務室へ行き、コーヒーを淹れたあと、昨日買った焼き芋とヨーグルトを口にしながら原稿書き。
毎日原稿書いていて飽きないかと思われるかもしれないが、同じ教材でもいろんな要素から編集しているので、全く飽きない。
今日最初にとりかかったのは「まえがき」。
編集が進むにつれ、「ああ、こういうことを伝えたいと私は思っていたのか」というイメージが少しずつまとまってきた。
だから「まえがき」もそれに合わせて少しずつ書くし、その「まえがき」を書くことで「おお、こういうことをお伝えする教科書なのね」という意識が先鋭化するにつれ、内容もますますまとまってくるのである。
13時過ぎに昼食。
寒い外に出るのが億劫なので、事務室で挂面(gua4mian4)という中国式乾麺をお湯でもどし湯切りをしてパスタ用のミートソースで和えたものとスープで済ます(邪道もいいところだが自分の胃に入るものだから気にしない)。
満腹。
朝からずっと本とPCを見つめていたので眼が限界。
結局、腹ごなしに寒風吹きすさぶ中散歩へ。
ついでに夕食の買出し(鮭のアラ、なっぱ)。
久しぶりに現金で精算したら、おつりで50元札が帰ってきた。
なんか違和感があるのでよく見ると、今年の8月に発行され流通し始めた新版の50元だった。
1999年の旧版と比べて、特に大きくデザインが変更されたわけではないが、ちょっぴり豪華さが増している。
しげしげとお札を眺めながら大学に戻る。
4時すぎまで仕事をして、帰宅。
夕飯の仕込みをする間に「弱虫ペダル」を見ながら三本ローラーに乗るという、昨日とまったく変わり映えしないルーティーンをこなす。
お風呂に入って、ご飯を食べて、お酒を飲んで、寝る。
こうして振り返ってみると、まあGWなのに平凡な生活を送ったものである。
でも、結構充実していたので、満足。
おっと、そういえば「弱虫ペダル」のなかで御堂筋くんが「充実と満足は違うよ~」と言っていた。
確かに。
私にとって充実感は動きながら感じるもの、満足感は足を停めた時に覚えるものである。
もっともっと充実させるために、まだまだ不満足でいることにしよう。
そんなことを思う。