とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(10.8~10.11)

8日(火) 

休暇明け最初の勤務日。

5時半に起床。

寒い。

6時過ぎに大学へ行く。

机上に積み上げていた本やらマンガやらを整理しながら、蔵書の一覧表を作る。

この蔵書一覧の作成はO主任からのお願いである。

もうすぐ地区の教育庁(日本で言う各都道府県の教育委員会のようなものか)が査察に来るので、日本語学部や各教員の蔵書リストを提出するとのこと。

外国語文献(つまり日本語で書かれた原著)は貴重な教育資源として評価されるので、日本からいくばくかの書籍(だいたい500冊ぐらい)を持ってきている私にも「リストを作っていただけますか」とのことだった。

もちろん喜んでご協力する。

上司だからとか鳥目を頂いているからとか以前に、私だってここで教育をしている教師である。

この学校の社会的評価が高まり、やる気と学力に溢れた学生さんたちが今以上に集まることは、ひいては私自身が仕事をより楽に、楽しくできるということを意味している(もちろん今の学生さんだってやる気や学力はある。「今以上」というだけである)。

ここでいう「楽になる」とは、別に「手を抜ける」という意味ではない。

そうではなくて、優秀な学生さんがさらに増えれば、「え、大学生にこんなことを説明しないといけないの?」的指導に時間を割かずに済むようになるということである。

優秀な学生さんは「授業中におしゃべりしてはいけません」とか「なんで予習をしてこないんですか」とか、そういう教師も言いたくないし学生さんも言われたくない「誰得?」ワードを教師に発させない。 

優秀な学生さんが多いクラスでは、教師も学生さんも気分良く教育というコミュニケーションを進めていくことができる。 

すると、教師は「おーし、ならこれも教えちゃうぞ~」とターボがかかり、「教えるはずがなかったこと」まで教えてしまうし、結果的に学生さんも「学ぶつもりが無かったことを学ぶ」ことができるのである。

ここで私が言う「教えるはずがなかったこと」とは、計画外のことを喋るとか、教案から逸れた知識を提示するとかいうことだけを意味するものではない。

そうではなくて、「教師が教えるという作業をしながら、まさにその場で学び得たなにかを『即売』する」ということである。

感染力を伴うコミュニケーションの本質は“现做现卖”(その場で作り、その場で売る)である。 

スピーチだってそうだし文章だってそうだ。

そして教育だってそれは変わらない。

よく言う「活きた知識」とは私にとって、それを学べば金儲けができるとか社交的に成功するとかいう類の情報や技能ではない。

そうではなくて、まさに「ほら、これ朝採れた鯛だよ」「まあ、活きがいいわね」という会話における「活きがいい」と同じ意味で、鮮度の良い知識である。

ここでいう鮮度の良い知識とは、まさにその場で「あ、今気づいたんだけど」という誘い水によって表出する言葉である。

教師というのは教育しているまさにその瞬間に、この「あ、今気づいたんだけど」に出会うことで学ぶことが出来る幸せな仕事である。

なぜ教師が自らが教えているのもかかわらず「あ、今気づいたんだけど」と学ぶ現象が生じるかというと、聞き手が語り手の話を真剣に聞きてくれるからである。 

あるときは笑い、またあるときは考え込み、うなづきながら、首をかしげながら、発し手である教師が差し出した言葉を受け手がじっくりと吟味してくれる環境では、そのような話し手の感応に感応した話し手(教師)が「ぐるぐる」と動き回る言葉の運動に引っ張られることで、新たな言葉の湧水孔を探り出すことからである。

だから、学生さんがもし豊かに学びたいならば、その教師が自分の言葉を語ろうとしているならば知性のレベルを問うことなく、話を真剣に聴いてあげることは理にかなっていると私は思う。

それは教師の言いなりになるということではないし、教師の言葉を全て鵜呑みにせよという意味でもない。

教師の言葉を教師の言葉として、ただただ聴いてみてほしいというだけのことである。

私の教師としての経験はまだまだ浅いが、頭が良い学生さんには共通する特徴があると思う。

それは、試験や成績に関係ないような「教師の無駄話」でも、頭が良い学生さんたちは顔を上げて聞いているということである。 

教場での私の語り方は、今こうやってご覧頂いている文章での語り口とおそらくあまり変わらない。話は長いし、脱線するし、何を言っているのかわからない(だって私だって何言っているのかわかんないんだから)。

私の話しは、とても「N1合格」や「大学院受験」に関係があるようには見えない。

だから、一部の学生さんたちは、私が「あ、そういえば今思ったんだけど」と口にした途端に視線を落とし「内職」を始める。

まあ、それはいいんですよ。

でも、「あ、これは『N1合格』や『大学院受験』に関係ない無駄話だ」と、あなたは判断することができるの?

だって、もしかしたら私の無駄話に含まれる知識や言葉が試験に出題されたり、面接で聞かれることだってあるかもしれないじゃない。

ちゃんと教師の無駄話に付き合ってくれた学生さんは、人生の思いがけない場面で「あ、これ知っている、まえ先生が言ってた」に出くわすことができるだけではなく、「これ、先生が夜中5匹の犬に追いかけられた話をしてたときに言ってたぞ」という具体的な物語付きで再現することができるのである。

知識にはその背景にそれぞれの物語がある。

知識を学ぶとは、たんに知識を覚えるだけではなく、その背景の物語を把握し、それぞれの物語として作りなおすことである。

教師の無駄話をスキップし、参考書や単語帳に向かい内職に勤しむ学生さんは、この物語を持っていない。

参考書や単語帳の知識には物語が欠けているからだ。

だから彼らは、覚えては忘れ、忘れては覚えてを繰り返すことになる。

無駄話がほんとうに「無駄」かどうか、それは現時点ではわからない。

頭が良い学生さんは経験的にそのことを知っている。

だから、彼らは教師が口にする玉石混淆の話をその場で玉と石へと分けることは決してしない。

とりあえず全部聞くのである。

人間というものは自分の話を傾聴してもらえると嬉しい。

教師という生き物は輪をかけてそうである。

嬉しいからもっと頑張って話そうといろいろ準備するし考えながら話す。

それは学生さんへ知として送られる。

結果的に頭が良い学生さんは成績が良い学生さんであることが多いし、優秀な学生さんが多いクラスはより優秀になる。

そして、そうではないクラスはそうではないまま卒業を迎えることになる。

ここからガリガリ机にかじりついて良い成績を挙げることに耽溺してきた学生さんが必ずしも頭が良い学生さんであるとは限らないことが説明できるのである。

 

話がだいぶ長くなったが、ようはこういう頭が良い学生さんが多いクラスは、授業をするのがとても楽だし、楽しい。

私は楽しく仕事がしたい。

だから、蔵書リストを作るという作業だって心から喜んでやるの出る(という話は今思いついた)。

 

とはいえ、 ずっと奥付とPCとのあいだで視点移動をすることになるので、眼がしっぱしぱ。

そうこうしているうちに時間になったので10時から授業。

視聴説の授業。

昨日までずっと「ハとガ」についてうんうん唸っていたので、自然と映像中の日本語で使われている「ハとガ」に注目してしまう。

たとえば、海洋ゴミ問題についてのビデオのナレーションに出てきた、こういう一文。

 

 「海洋ゴミ問題、多くの人に認知されている」

 

なぜ「多くの人に認知されている」ではないのでしょうか?

と学生さんたちに問いかける。「この『は』にはなんの意味もないの?」と。

もちろん意味がある。

ここのハは、対比・比較のハである。

多くの人が海洋ゴミ問題を「知っている」が「具体的な取り組みをするまでにはいたっていない」ということを、このハは示しているのだ。 

このような対比・比較の存在を暗示するハ、外国人学習者のみなさんは使い方を気を付けないと、自分が意図してないニュアンスを相手に与えてしまう。

たとえば、

 

 「先生、今日の授業おもしろかったです」

 「今日の君の料理美味しいね」

 

などの表現である。

もちろん人によるだろうが、場合によっては「先生、今日の授業はおもしろかったです(いつもは面白くないけど)」とか「今日の君の料理は美味しいね(いつもはゲロまずだけど)」などというように、対比・比較の存在を感じ取ってしまい、

 

 「私の授業はふだんはつまらないというのかね」「なによ、いつもは食えたもんじゃないって言いたいの!?」

 

となってしまうのである。

だから私たち日本人は、特段の意識をすることなく実際には、

 

 「先生、今日の授業おもしろかったです」

 「今日の君の料理美味しいね」

 

というようにハを外すのだが、外国人学習者にとってこのような肌感覚で身に付く助詞の使い方を覚えるのは、どうしても難しい。

だから、理論を説明したあとは例文をたくさん列挙してあげて、身体で覚えていただくしかない。 

そこで、

 

 「彼女は顔可愛い(が、腹の中はまっくろである)」

 

とか

 

 「彼はスタイルいい(服のセンスはダサダサだけどね、ぷー)」

 

などという例文を思いつく限り列挙する。

……なんだか、私の性格の悪さがにじみ出ているような気がするが。 

 

授業が終わり事務室へ戻る

がーがー喋ってお腹が減った。

昨日と同じく外へ行かずに昼食を済ます。

13時から日本の大学院を目指すOさんSさんとのゼミ。

このふたりは夏休み中も学校に残り、週1でゼミをしながら、自分の問題意識を先鋭化させてきた努力家である。

こういう学生さんを私は高く評価するし、そのお手伝いをするためにプライベートを削るぐらい屁の河童である。

中国では最近教育産業が急成長しており、その市場を狙って“培训学校”(予備校や塾)がどんどん誕生している。

日本語業界でもそれは変わらず、たくさんの塾や予備校が「日本の大学院留学というあなたの夢を実現します」と鼻息荒い。 

別にそれはそちらさんのビジネスなのでご勝手に。

ただ、「今からやらなきゃ一流大学には間に合わわない」とただでさえ将来に不安を抱えている大学生の不安を煽るような広告を打つのはやめてほしい。

なかには進学実績を挙げるために、同時に複数の大学教員に連絡させ研究生の内定を複数とらせたあとに一番有名な大学院を選ばせるなどといった、目に余るような場合も散見される。

あのさ、研究生の受け入れって、担当教員の内諾の後に教授会での認可を得ないといけないんだよ。

ひょっとしたら、そのために事前の根回しに動いたり、面倒な人間関係に気を使ったりしてくれる先生だっているかもしれない。

そうやって受け入れの先生が動いてくれたあとに、「あ、やっぱいきません」と断るのってさ、人間として問題があるとは思わないかい。

私が実際に見聞きして知っているだけでも、そういう「あ、やっぱいきません」が続いたせいで「私はもう中国人は受け入れない」「あなたの大学の先輩が以前来ると言ってこなかったので、すみません」となってしまった例がある。

予備校や塾はビジネスだから、そういう人たちに道理を論じるだけ無駄である。

でも、塾や予備校の甘言に乗せられ、大金を払って大学の外で留学の準備をするまえに、学生さんたちにはよく考えていただきたいと思う。

あのね、そもそも日本の大学院の研究生って、ちゃんと勉強して問題意識を磨き上げて研究計画書を書きメールで希望の先生に連絡すれば、たいてい合学できるんだよ。

だって現にそうやって私と一緒に準備した過去5人の学生さんは5人とも志望校に合格した。

これは私の指導能力が優れているからではない。

ちゃんとやればできるのである。

もちろん私は彼らからお金など受け取ってはいないから、彼らは高いお金を塾に払うことなく、「日本の大学院に留学する」という夢を叶えたことになる(まあ、そのかわり半年ぐらい私とのきっつーい問答を耐え抜いたわけであるが)。

今の学生さんは自分の大学の先生に頭を下げればただで指導を受けることが可能だとは思いもよらないのだろうか。

高いお金を払ってもったいない。 

「脚下照顧」とはよく言ったものである。

学生さんによく言うことだが「釣り餌」は2つの要素から成り立っている。

まず、それが「魚にでも価値が理解できるもの」であるということ。

そして、「針」がついているということである。

そして「釣り人」が「魚」より下に位置することはありえない。

4年生の諸君にはよくよく考えていただきたいと思う。 

 

※ということをこの日に書いたが、この日記をアップする前(土曜日の昼過ぎ)にこういうニュースを見た。

 

日本の大学への留学を希望する外国人を対象にした「日本留学試験」で、試験問題を眼鏡型カメラで撮影したとして、学習塾の部長らが警視庁に逮捕されました。

 偽計業務妨害の疑いで逮捕されたのは、中国籍で学習塾「毎刻教育」の部長、鄭鐘輝容疑者(32)と早稲田大学3年の張以がい容疑者(22)です。

 2人は今年6月、都内で行われた「日本留学試験」の問題用紙を眼鏡型カメラで撮影したうえ、一部を破って持ち去り、試験を実施する日本学生支援機構の業務を妨害した疑いが持たれています。

 警視庁は試験問題の情報を塾で活用する目的だったとみていますが、取り調べに対し鄭容疑者は「上司の指示に従っただけ」と容疑を否認しています。(11日18:16)

 

 私が知る限り、多くの中国人は真面目で優しい方である。

 多くの方々はこういう一部の金や利益のためには手段を選ばない人間の存在に憤っている。 

 私もそうである。

 私はこのような自分の利益のために心を頭に隷属化させた人間を教育者だと思わない。 

 

論文執筆中のO先生から相談を受けたので30分ほどおしゃべりして、16時にはオフィスを出る。

外はさっきまで降っていた秋の雨が上がり、澄んだ空気と青い空が広がっている。

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帰宅し、夕飯の仕込み・ローラー・食事・散歩というルーティーンをこなし、早めに就寝。 

 

9日(水)

6時起床。

あいかわらず肌寒いが良い天気。

3キロほどグラウンドを走り、シャワーを浴びて身支度を整えたあと、大学へ。

今日は授業が入っていないので、机にかじりついて原稿書きや学生さんの作文のチェックをこなす。

教科書のほうはだいぶ筆が進んで構想がまとまってきたので、ささっと章立てをつくる。 

学生さんの作文のほうは……申し訳ないけれどボロボロである。

日本語が、ではない(主格のガ)。

文章そのものがひどいのである。

今回書いてもらった作文は先週の作文(「大学で英語を必修化すべきかについてあなたの意見を書きなさい」というよくあるテーマ)のリライトなのだが、学生のみなさんは私の「書き直してください」との言葉の意味をどれだけ考えてくれたのだろうか。

私はしっかりと授業で次のように言ったはずである。

 

「みなさんが英語の必修化に賛成でも反対でも、どちらでも構いません。でも、今の皆さんの作文は、主張の理由や論じ方があまりにありきたりで聞き飽きたものです。正直つまらない。こういう文章は、いくら論理的整合性がとれていて、日本語が正しくても、つたわりませんし『私の意見』ではありません。だって、ありきたりで聞き飽きている話は『はいはい、もうわかったよ』とあしらわれるだけだからです。そもそもそれは求められている『あなたの意見』ではないですよね。だから、もう少し考えて、自分の視点や言葉を探してみてください。ヒントを上げます。『大学で』『英語を』『必修化』、このそれぞれのキーワードについて、それぞれ分析してみるといいと思いますよ」 

 

もちろん細かい表現は違うが、だいたいこのようなことを言った。

「英語は世界言語だから」とか「英語ができれば就職に有利だから」とか「大学英語4級(という統一試験が中国にはある)に合格できないと卒業できないから」とか「外国人に道案内を頼まれた時に役立つから」とか、そんな巷に溢れている理由をかき集めて「私の意見」作文を書いたって、悪いけれど「バカだ」と思われるだけである。

第一これらは「大学で英語教育を必修化するべきかについてあなたの意見を書きなさい」というテーマへの答えを支える理由として説得力がない。 

「英語は世界言語だから」

うん。それはそうですね。で? そこからなぜに「必修化してすべての大学生が学ぶべき」とつながるの? 大学が大衆化した今の時代、すべての大学生が海外に行くわけでもないし英文論文をバリバリ読み込んで研究するわけでもないでしょ。

なぜに「必修化」すべきなの? 

「英語ができれば就職に有利だから」

で? それってあなたの個人的なお金の話でしょ。

それなら民間の塾や語学学校に行けばいいじゃん。

なぜに私たち市民の税金で運営されている大学であなたの個人的将来設計のために英語を必修化すべきなの?

「大学英語4級に合格できないと卒業できないから」

じゃあ4級試験がなくなれば大学で英語を必修化する意味はないの? 

「外国人に道案内を頼まれた時に役立つから」

人生で何度あるかわからないそんな特殊な場面のために、大学ですべての学生に必修化をすべきという主張は説得力がないと思わない? だいいち道案内なんて、手をひいて連れて行ってあげればいいじゃない。 

このテーマに答えるためには、大学という機関が持つ特殊性と意義やそこで語学を学ぶということ、英語という言語の本質(たとえば世界言語とか簡単に言うけど、じゃあ世界言語って何よ、母語・非母語話者合わせた使用話者が多い言語って意味だと中国語が第一になるけど、英語の世界言語性は中国語にまさるでしょ?)、必修化という手段の適切さについて、じっくり考えなければならない。

テーマそのものはよく見聞きするものであるが、そんな簡単に「私はわかってますよ」という態度で答えられるものではないと私は思う。

なぜ多くの学生さんが「私はわかっていますよ」という態度でこんなありきたりな文言をつらつらと並べられるかというと、それらの文言が巷間溢れた他人の言葉であるにも関わらず、それを「私の意見」だと無邪気に思い込める程に思慮が足りないからではないだろうか。

私が先週の授業でなぜ宮沢りえの「もっと自分を疑え」という言葉や宮崎駿の言葉を紹介したか、もっと考えて欲しい。

宮崎駿が庵野秀明との会話の中で、声を当てる演者のオーディションでの態度にこうこぼしていたのを覚えているだろうか。

 

宮崎「もうちょっと、嫌になっちゃったんですよ、いろいろ」 
庵野「役者さんですか」
宮崎「うん、役者さんが。声優じゃないんだけど、なんかね、みんなおんなじような感じで喋ってんだよね。相手の心を慮ってばっかりいてね、わかっているふりをして。それで感じを出して『感じが出てる僕』ってね。

                      『夢と狂気の王国』より

 

考えていただきたいが、諸君が「自分の意見」として差し出している言葉について、諸君はほんとうに理解しているのだろうか。実はわかってなどいなくて、わかったふりをしているのではないだろうか。

もっと自分を疑って欲しい。

そのことがやがて伝わる文章や自分の意見へとつながっていくのではないか。

そうお伝えしたかったので、あれらのビデオをお見せしたのである。

もし諸君がそれぞれ「私はわかっていないのかもしれない」という自覚と「ぜひ私の文章が届いて欲しい」という態度で考えながら書いてくれれば、自然と君たちの作文には君らしい語り口と「自分の意見」が現れてくるはずだ。

だからからこそ、前回設けた800字の字数制限をとっぱらって、いくら文字数をかけて書いてもいいのでもう一度考えながら書いてくださいねといったのである。

にもかかわらず、たいていの学生さんは、前回私が修正した日本語だけを訂正し、意見や理由、語り方に関しては、ほとんど手を加えていない。 

脱力。

同じテーマについて2度書いたにもかかわらず、前回とほとんど変わり映えしない文章を自分で読み返して「これでいいや」と思えるのが不思議である。

もしかして読み返してすらいないのだろうか。

ちょっとがっかり。

まあ、ようは前回から何も変わっていない。

前回チェックしたものとほぼ変わらない文章を再チェックする必要などない。

それに他人の話を聞かない人間の書いた文章をわざわざ読んであげるほど、私はお人好しでもない。

大部分の作文には「何が変わったの?」とだけ記入し、時間を節約する。

しかしなかには前回から意見を変えたり、語り方を工夫したり、理由を掘り下げたりしながら「自分の意見」を目指した作文もある。

こういう「自分の意見」を志向する態度が感じられる作文にはたっぷり時間をかけてチェックする。

「自分の意見」とはなにか。 

内田樹はこう書いている。 

 

 たしかに、どんな人間のどんな文章も、それなりの定型にはとらえられてしまうことからは避けられない。
 定型から逃げ出そうとすれば、シュールレアリスト的饒舌かランボー的沈黙のどちらかを選ぶしかないと、モーリス・ブランショは言っている。私も同意見である。
 ひとは定型から出ることはできない。だが、定型を嫌うことはできる。定型的な文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
 「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
 「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気づいていない病的徴候である。

(中略)

  人間が引き受けることのできるのは、「自分の意見」だけである。
 「自分の意見」というのは、「自分がそれを主張しなければ、他に誰も自分に代わって言ってくれるひとがいないような意見」のことである。「自分が情理を尽くして説得して、ひとりひとり賛同者を集めない限り、『同意者集団』を形成することができそうもない意見」のことである。
 それは必ずしも「奇矯な意見」ではない。むしろしばしば「ごくまっとうな(ただし身体実感に裏づけられているせいで、理路がやたらに込みいった)意見」である。
 なにしろ、自分が言うのを止めたら消えてしまう意見なのである。
 そういうときに「定型」的な言いまわしは決して選択されない。
 なぜなら、「ああ、これはいつもの『定型的なあれ』ね」と思われたら「おしまい」だからである。だから、「自分の意見」を語る人は、決して既存のものと同定されることがなく、かつ具体的にそこに存在する生身の身体に担保された情理の筋目がきちんと通っているような言葉づかいを選ぶはずである。

定型と批評性 - 内田樹の研究室

 

 内田が書いていることと同じようなことを、私も以前どこかで(このブログかも)書いていたので、以下に自らの駄文を引用し、改めて読んでみる(もっともこの筆者に影響されてこんな「自分の意見」を書き記したという可能性は否めないが)。

 

  私が言っていることは、だいたい今も昔も同じことである。 私は、ようは自分の言葉や自分自身に「空気穴」を確保しておきたいだけなのである。 そしてその「空気穴」を塞ごうとする言葉や人間が、私は大っ嫌いなのだ。  

 よくある定型文で書かれた文章や、受け売りばかり話す人間や、「俺はすごい」と(言外に)言い張る行為を私が嫌うのは、それが「正しくない」とか「間違っている」からではない。 単に「息苦しい」からである。

  そして、もし自分自身がそういう言葉を繰り出したり、他人の言葉を移動させるだけだったり、「俺はすごい」という態度で振舞ったりしているのならば、それは私にとって自分で自分を窒息死させているのと同じである。  

 自分で自分を閉じ込めている可能性に自分で気づけないということは、「愚かなこと」を言うことと引き換えに自分の可能性を知ること以上に愚かなことだと私は思う。 

  思えば卒論(私にとって初めての量的にも質的にもまともな文章である)を書いた頃から比べれば、語彙や表現や文体はだいぶ変化してきている。 しかし、私のこの「隙間を縫う」ように書き、「空気穴を求める」ように語りたいという欲求だけは、一度も変化していない。 おそらくそれが私にとっての「いくら変化しても変化しないもの」なのだろう。

 自分の「いくら変化しても変化しないもの」は「今」の経年比較でしか浮き彫りにならない。 だから、やっぱり「書く」っていうのは大切な作業だと私は思う

 

  内田が言う「ひとは定型から出ることはできない。だが、定型を嫌うことはできる」とは、私がいう「自分の言葉や自分自身に『空気穴』を確保しておきたい」ということとおそらく同じものを指している。 

 そして私はこのことの大切さ「だけ」を、同じ表現や手法で語ってしまうと学生さんたちに「ああ、またその話ね」と受け取られてしまうので、手を変え品を変えながら、ずっとお伝えし続けているのである。 

 なぜって? 

 学生さんたちに自分で自分を「窒息死」させてしまう危険性について学んでいただくためだし、私が学生さんたちの作文で「窒息死」させられることを避けるためである。

 私が学生さんに口を酸っぱくして投げかけている「自分の意見を書いてください」という言葉を、もしかしたら学生さんたちは「学校の先生がよく言う『ありきたりな言葉』だ」と受け取っているかもしれない。

 確かにそういう教師はいる。

 だから、そういう教師は「自分の意見ってなんですか」とか「なんで自分の意見を書かないといけないんですか」という勇気ある学生さんのつっぱりのまえに絶句してしまい、学生さんに鼻で笑われることになる。

 しかし私は違う。

 私の「自分の意見を書いてください」は、(内田が言うところの)身体感覚に裏付けさせられている。

 なぜなら私はこの6年間、毎週毎週学生さんたちが書いた作文を大量に読んできたからである。

 そして痛感した。

 ほとんどの学生さんの作文の問題とは、日本語がどうかとか論理的かどうか以前に、おもしろくないことだと。

 ここでいう「おもしろくない」とは、私の価値観に沿っていないとか個別の案件への意見が違うとか、そういうケチな審査基準からなされたものではない。

 単純に「おもしろくない」のである。

 それは「正しくない」とは違う(もちろん「間違っている」とも違う)。

 むしろ「正しい」意見、「立派な」見解ばかり書かれている。

 しかし、「正しい」意見、「立派な」見解とは、時に「小学生でも言える」意見・見解と同義であることが多い。

 そんな作文を週に30枚読まないといけないんだもの。

 私の「つまんない」は私の身体感覚に裏付けされて出てきた言葉である。

 私の「自分の意見を書いてください」は私の心からの懇願である。

 しかし、これを学生さんにそのままお伝えしたところで、当然伝わるはずがない(馬鹿にしてんのか!と反発を食らうだけである)。

 だから私は「自分の意見を書いてください」という意見を、ときには比喩や事例を持ち出しながら、ときにはアニメや映画をお見せしながら、理解していただくよう試行錯誤しているのである。

 理路が込み入ってしまって当然である。

 今回の作文の教科書編集の仕事だって、そういう意味では身体感覚から発せられる「おれ、もっと面白い作文を書く学生に増えて欲しいよ」という当事者意識を持ってやっているのだ。

 毎週学生の書いた作文を大量に読まされるのは私自身なのだから。 

  テキトーに済ませることができる仕事ではない。

 

 14時からその教科書でサンプル文を書いてくれる3年生の学生さん4名とゼミ。

 上に述べたようなことをお話する。

 18時までぶっとおし。

 疲れる。

 そのあと、教科書で中国語への翻訳を担当してくれるOさんSさんと、挿絵を書いてくれる3年生のLさんと合流し、総勢8名で火鍋へ行き、作戦会議。

 みなさん、良い教科書を作りましょう。

 よろしくお願いします。

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今日の支払いは私が持つので好きなものをどうぞ。

というと、なにやら高そうな魚がさばかれたもの(まだ生きている)がデーンと出てくる。

魚は好きなのでパクパク食べる。

美味しい。

がやがやわいわい話しながら、イメージを共有していただくために、それぞれに私の構想を語る。

9時にはお開きし帰宅。

あまりに疲れたので、シャワーを浴びる気力もないまま、バタンきゅー。
 

10日(木)

 5時に起床。

シャワーを浴びて学校へ。

ゆで卵と中華まんを口にしながら、授業の準備(ちゃんとリライトしていた学生さんの作文を添削したり、レジュメを用意したり)。

今日は6コマ入っている。

 先週と同じく朝から昼までは3年生の「視聴説」と「作文」。

昨日作文を添削しながら溜まった「飽き飽きしたぜ」という個人的感情を、頑張って教育的に作用し伝わるメッセージへと変換してお届けしたい。 

そのために、まずは去年の4年生の「視聴説」の期末テストでお見せした小林賢太郎(ラーメンズ)の「3D」というコントとその制作背景を記録したビデオをご覧いただく。 

 ちなみに先のテストでは、以下のような問題を出し、以下のような参考回答を書いた。以前にもこのブログにアップしたことがあるが、もういちど公開しておく。

 

大問1.映像の内容を200字以内で要約しなさい。ただし、映像は5分のインターバルを挟み、2度流す。

※参考回答
小林賢太郎はスタッフから追加のコントを制作を依頼される。お題は「3D」。
初めはとっかかりを得られず困惑気味だった小林、まずは3D映像を体験しながら、3D放送ではない番組で3Dを再現するための策をねる。そして3D映像の特徴が「奥行があること」「ないものがあるようにみえること」だとつかみ、その特徴を簡単な装置で実現するため様々な試行錯誤を重ねる。結果、自分との共演という形で、みごとコントを完成させた。

大問2.映像の内容に対して感じたことをもとに、①問いやテーマを立て、②それにもとづいて自分の考えを400字以上600字以内で述べなさい。

※参考回答
なぜ彼はもがくのか?-ひとつの次元に問わられない柔軟な知性-

視点の制約はより良い思考や実践を阻む。しかし私たちの視点はどうしても限られている。一度に一つの視点からしか見ることはできないし、一つの立場でしか考えることができない。多角的に考えるというが、「多角的に考える」というのが既に一つの視点であり立場だ。決して制約から逃れ切ったわけではない。
どうすればいいのか。
大事なことは、もがいて「ねじれ」を生み出すことである。
印象的だったのが、小林が常に「ねじれ」を作っていたことだ。
例えば、自分との共演という発想は、単一の私という視点からみれば「ねじれ」である。
「二次元のものに三次元と書いてあったら何次元?」
「二次元のものに三次元のものが三次元と書いてあったら何次元?」
これらも「ねじれ」だ。 
カメラ枠をなんとか抜け出そうとしたり、最後にはその枠を脱し、舞台の全体像を私たちに一望的に映しだす。
そして私たちも視聴者であると同時に、私という枠で見ていることに気付かされる。
彼は柔軟な人間だが、それは彼が(おそらくは意識的に)もがき、「いま、ここ、わたし」という単一次元に留まらないための「ねじれ」を生み出しているからだ。
柔軟な知性を得るには、自らの視野狭窄を自覚し、自らに多種多様な視点を混沌と共存させておく必要がある。 
そのためには、思考を縦-横二次元で捉えるのではなく、常に「ねじれ」を含む三次元的、そして未知をも含む四次元的なものに保っておくことが重要ではないか。 

 小林のスゴさや才能は、映像を見れば一目瞭然である。

 学生さんたちも思わず「やだ、この人頭いい……」と思ったのではないか。

 でも、それを「この人は天才だから」と済ますことは、誰にでもできる表現である。

 それは小林が天才かどうかとは別の次元の問題だ。

 彼をすごいと思ったなら、彼のすごいところを探し出し、マネをして見ながら学ぶことで、やがてはあなた自身も自分がすごいと感じた彼の才能に近づけるんじゃなかろうか。 

 それは3D映像という新しいお題を楽しんで観察しながらみごとに再現した小林の仕事そのものである。 

 かの啓蒙思想家ヴォルテールはこういっている。

 

原创不过就是聪明的模仿。

Originality is nothing but judicious imitation. 

独創力とは、思慮深い模倣以外の何ものでもない。

 

 「みんなの意見」を模倣するだけだとサルまねにしかならない。

 「俺の意見」をがなり立てるだけならバカでもできる。

 「すごいと思った人」の「すごい」ところを見つけ出し、「すごい」の正体を観察・分析し、「すごい」を自ら再現することを通じて、世間知らずな「俺」を新たな「私」へと変え続けていくこと。 

 私はヴォルテールの言葉をそう理解している(彼の本意など知らん、確かめようがないし)。 

 

 昼休みに教科書編集に参加してくれている学生さんのうちのひとり(Tさん)と彼女の作文について40分ほど検討し終わったあと、昼食をとりにいつもの麺屋へ。

 国慶節が終わり日が落ちるのが早くなってきたので、うちの大学では今週から午後の授業の開始時間が30分早まった。

 急いで麺を啜り、午後に2コマ(2年生会話)をこなし、今日は店じまい。

 疲れた。 

 ふつかつづけてばたんきゅー。

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11日(金)

今日は授業は入っていないので、8時まで爆睡。

起床したあとラーメンズのコントを見ながら30分ほどローラーに乗り、シャワーを浴びる。 

10時前に大学へ。 

教材編集のお仕事。

自分が編集しているのとは別に、市内の他の大学の先生方が編集している教科書のチェックのお仕事もしているので、今日はそっちも進める。 

一度に複数の仕事を進めると一つ一つのクオリティが下がるんじゃないかというお考えもあるだろうが、すくなくとも私の場合、それは気にしないことにしている。

むしろ一度に多種多様な仕事を気分で進めることで、視点や角度がごっちゃごちゃになり、それぞれの仕事に新しい風穴を開けることができると私は思っている。 

私はこのことを「風を吹かせる」と呼んでいる(ウソ、今思いついた)。

「空気を読む」ことで成り立つ仕事があるのと同じように、新たな風穴を穿つことで「風を吹かせ」「空気を撹拌する」ことが求められる仕事もある。

私がここで言っている「空気」とは、複数の人間が集まって形成される「場の空気」のことではない。 

単一の「私」によって淀んでいる「私という空気」である。 

「私という空気」が淀んでいる限り、新たな視点やアイディアなど頭に浮かぶはずがない。 

新たな視点を増やしアイディアに浮かび上がって来てもらうためには、自分自身に風穴が空いていて、常に風が吹くことで、換気が保証されていなければならない。

だから、私は頼まれれば内容や報酬にかかわらず基本的にその仕事を引き受ける(大学の外で授業をすることだけは一律にお断りしているが)。

居酒屋のメニューの翻訳だろうが、教科書の校正だろうが、関係ない。

きまぐれにしたがって同時進行的にいろいろなお仕事をしている時が、私はいちばん機嫌がいい。

なんだか頭に涼風が吹いているような気がするからだ(たんに私の脳みそがすっからかんなだけかもしれないが)。

ということで、2冊の教科書編集をしながら、学校から提出を求められている蔵書一覧を作ったり、期末テスト関係資料の不備を直したり、ネットで「水漬けパスタの美味しい食べ方」やら今週末の天気予報やらをチェックしたり、もちろんこうして日記を書いたりしながら、ふんふんと仕事を進める。

「仕事しながら私事に興ずるとはなにごとか!」とお怒りの声もあるやも知れぬが、そもそも今日はオフなのだ。

オフにもかからわずわざわざオフィスまで来て仕事をしていることをお褒めいただきたいと思う。

ということで、昼過ぎまで仕事をサクサク進める。

お腹が減ったので「カップヌードル」(シーフード)を食べたあと夕飯の買出し兼散歩に出ててから、夕方まで続けて机に向かう。

16時過ぎに「退勤」。 

 あいかわらずの「飯の仕込み・弱虫ペダル・ローラー・シャワー」という過程を経て、濃厚レモンチューハイとともにホタテのサンチュ巻きを食べてから、あすの仕事(国慶節連休の代替出勤で明日は月曜日の授業があるのだ)に備えて早めに就寝。