とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(10.15~17)

15日(火)

6時起床。

今日は授業はひとつだけ。

あいかわらず朝から原稿書き。

文法がご専門のS先生が事務室にいらしたので、私が書いた「ハとガ」の説明に対するご意見を伺う。

S先生はやっぱり専門家だけあって、私が自分で「ここが弱いなあ」と思っていたところを笑顔でズバズバついてくる。

ありがたい。

私はこの教科書では、できるだけ文法用語を使わずに、その語が作文を書く際に持つ機能や役割に沿って説明したいのだが、そうすると一文一文の場当たり的な説明になる恐れもある。

作文を書く場面で使われる「ハとガ」の全てをできるだけ包括できるカテゴリーを設けて説明しなければならない。

そのことをS先生は正しく指摘してくださった。

感謝である。 

 

 

10時から3年生「視聴説」。

今日は教科書の第5課「飲食文化」である。

内容に入るまえに、まずは教科書に載っている「ガイダンス」の文章を読んでもらう。

こんなことが書かれている。 

 

 「命は食にあり」という言葉が示すとおり、人間と飲食は切っても切り離せません。しかし、私たちは単に生きるための栄養補給として飲食文化を発展させてきたわけではありません。人類は、自分たちが生活している環境で恵まれた食材を、できるだけ健康的かつ文化的に、なにより美味しく食べるために、調理法や供し方を工夫しながら、それぞれ個性的で豊かな飲食文化を発展させてきたのです。

 したがって、異なる地域の飲食文化を観察する際には、その表面だけにとらわれたり、先入観に引きずられたりすることなく、「おいしく食べたい!」という人類共通の思いを満たすために、異なる環境や条件のもとで暮らす人々がどのように試行錯誤しながら飲食文化を形成してきたのだろうかという視点を持ちながら、映像を見てほしいと思います。

 

うんうん、なるほどね。

私もそう思うよ。

だって、自分で書いた文章だから(手前味噌とはこのことである)。

厚顔無恥を承知のうえで、それでも「そうだよなあ」と思う(文章表現の拙さはあるが)。

ここで書いたことこそが私が「飲食文化」を学ぶ学生さんに理解してほしいことである。

だから教科書のガイダンスを書くというお仕事をもらった時に、こんなことを書いたのだ。 

先の文章で書いた視点は机上でひねり出したものではなく、私の体験から来ているものである。

私は今年で海外生活7年目を迎えた。

そのうえで異文化の人々と交流する際に、いろいろとデリケートな要素が存在することを身を持って理解してきた。

そんな私の経験上、もっともデリケートな問題は、実は飲食に関するものである。 

具体的な話をしよう。

以前勤務していた大学にはアメリカから来たベジタリアンの同僚がいた。

彼らはとても良い人達で、私の下手な英語にも嫌な顔せず付き合ってくれたので、よく食事をしながらおしゃべりしたものである。

ただ、私は彼らとの付き合いの中で、ひとつだけ解せぬことがあった。

それは彼らが、自らが参加する食卓に肉や魚がのぼることを決してよしとしなかったことである。

彼らは私と食卓を囲む際、私が肉や魚をオーダーしようとすると、まるでカバンの底から出てきたいつのものかわからない汚れた靴下を見るかのような目で私を見た。

仕方がない。

私は彼らとご飯を食べるときは動物性タンパク質の摂取を諦めることにしたのである。

しかし、中国で「野菜だけ」の食事会をするって、なかなか難しいよ。

まあ、それはいい。

話を戻そう。

別に私はベジタリアンに対してどうこういいたいわけではない。

彼らが自らの主義を貫くのは彼らの自由である。

しかし、食卓を囲む他人が口にするものに対して、自分の主義から「それは頼むな」というのは、ちょっと違うのではないだろうか。

話題を変える。

あるとき私は日本から来た客人を中国の大学側の一員として接待したことがあった。

中国側の大学は宴会を開き、地元の特徴ある料理を振る舞ったのであるが、その卓の上には海外からの客人のために「田鶏」が供されていた。

この食材、漢字だけ見ると鳥料理のようだが、実は「ウシガエル」である。

「田んぼに棲んでいる鶏肉っぽい食感の食材」だから、まあわからなくもないね。 

日本から来た客人は、この「田鶏」を指さしながら、彼の隣に座って接待していた私に「これ、なんですか」とご下問された。

私はそれが「ウシガエル」であることを告げ、

「日本ではあまり食べませんが、こっちでは一般的な食材ですし、なかなか美味しいですよ。いかがですか?」

とおすすめした。

すると彼の日本人は、眉をひそめ口をへの字に曲げ、胸の前で両手をブンブンと振りながら、「いやいやいやいや、無理です」と断ったのである。 

むろんその場には多くの中国人(うち数人は日本語を解する)がいたわけであるが、客人に当地の食べ物を振舞った挙句、「いやいやいやいや、無理です」と言われた胸中はいかがなものだっただろうか。

私は中国人ではないが、正直嫌な気持ちになった。

彼だって、彼の地元(どこだったかな)の名物を中国からの客人に振舞った時に、その中国人から、

 

天哪!你们这边吃这么恶心的东西吗?哦,我无法理解。(うげえ、あなたたちはこんな気持ち悪い物を食べるんですか? 理解できない……。)

 

的な反応をされたら気分を害するだろう(まあ、彼はそこまでの反応はしなかったが)。

もちろんアレルギーがあるとか体の調子が悪いとかなら仕方がない。

しかし、そうでないのならば、出されたものをできるだけ口にしてみるのは大事なことだと私は思う。まあ、礼儀というものは他人に説くものではないとも私は思うから、別に他人にどうこう煩く言うつもりはないが。

要するに私が言いたいことは、異文化交流において食というものはかなりデリケートな問題になりうるということである。

だから私は中国でも日本でも、出されたものは必ず口にすることにしている。

そして幸運なことに、「うっわ、まっず!」と思った経験が一度もない。

食わず嫌いが多い食材(ピータンとかパクチーとか犬とかカエルとか)でも、私は美味しくいただくことができる。

それがどれだけの利益を私にもたらしたかどうかはわからないが、すくなくとも「出したものをニコニコぱくぱく食べる外国人」として私は自然に振舞ってきた。

そういうのって異文化で生活する上で大事だと思う。

ということをお話する。

「それって先生が食い意地張っているバカ舌なだけじゃ……」

うん、それ言わないで。

 

授業後はいつもどおり13時から研究計画書作成のためのゼミ。

OさんとSさんにいろいろお話する。

夜にその2人と近所の日本料理屋へ行って、引き続きお話する。

研究というものは孤独なものである。

今までの自分の言葉では表現できないものを自分の言葉で表現しなければならないという、いわば矛盾に満ちた、引き裂かれた人間の活動だからだ(他人の言葉で説明するには研究ではない)。

それはセミが羽化するのに似ている。

教師ができることは、そんな宙ぶらりんでもがいている学生さんに対して、ただただ話を聞いてあげるとか、言葉をかけてあげるぐらいである。

それは私が教師として未熟だからではなく(未熟だが)、そもそもがそういうものだからだ。

だって、代わりに書いてあげるわけにはいかないでしょ。

頑張れ。

 

16日(水)

オフ日。

前日少し飲みすぎたようで、9時半まで爆睡。

10時に大学へ行き、またS先生と「ハとガ」談義。

私が文章としてまとめた「ハとガ」の説明を、昨日イラスト担当のSさんが可愛い絵にまとめてくれた。 

なかなかわかりやすくて良いのだが、文法の専門家の目にどう映るかチェックするために、S先生にもその絵を見ていただいた。 

今日指摘されたのが、(絵についてではなく)私の「ハとガ」のカテゴリ分けについてである。

つまり、私が分類した「ハとガ」のカテゴリ分けの中の、「判断のハ」「断定のガ」という2つの区別がつきにくいということである。

「判断のハ」とは、たとえば、

 

(遠くのグラウンドを走っている人物を眺めながら)「あれは誰だ?……ああ、グラウンドで走っているのは、先生です」

 

という場合のハであり、「断定のガ」とは、

 

(グラウンドには座って話し込んでいる二人組と走っている人物がいるが)「3人いるけれど、走っているのが先生ですよ」

 

という場合のガである。 

文法的には、先の例文のハのあとに来る情報(つまり「先生」)は聞き手にとって未知の情報であり、ガのあとに来る情報(「先生」)は聞き手にとって既知の情報であるとされる。

つまり、「グラウンドで走っているのは」という発語がされた時点では、聞き手はまだ「先生」という話題の存在を知らないのに対し、「グラウンドで走っているのが」という場合は、この発語がされている時点で既に「先生」という話題は聞き手-話し手に共有されているのである。 

とはいえ、作文教科書においてこれを説明する意義があるのかどうか、私にはよくわからない(学生さんの眠気を誘いそうだし)。

なので、そういう文法知識はショートカットして、イラストとともに「判断のハ」「断定のガ」とカテゴリ分けしたのである。 

S先生のご指摘は、ずばり「判断と断定って同じじゃないですか?」というものだった。 

同じような質問をおとといLさんもしていた。 

もしかして、これって中国語と日本語でよくある「同じ単語・微妙に違う意味」というやつだろうか。 

たしかにネットで調べてみると、中国語の“断定”は、

“如何断定丈夫出轨”(夫が浮気をしているとどうやって判断する?)

のように、日本語で言う「判断」の意味で使われている例もある(後ほど意見を伺ったL先生が言うように、この中国語はおかしいという意見もある)。

ほかの日本人がどうお考えか私は分からないが、すくなくとも日本語の場合、私は「判断」と「断定」は違うと思う。 

「判断」とは、あるものごとの善悪や好悪、性質などの事柄について、人間が主体的に認識し思考したあとになんらかの一時的・一面的評価をつけることであり、「断定」とは、ある物事に対して最終的かつ決定的な評価を下すことである。

心配なので講談社の『類語大辞典』を引いてみると、次のようにある。

 

【判断する】前後の事情などから考えて、確かにそうであろうと決めること。「公正に~する」「~を誤ると人命にかかわる事件となる」「文脈から意味を~する」

【断定する】はっきりとした判断を下すこと。「彼を真犯人と~する」

 

やっぱり日本語の「断定」は「決める」とか「思う」ではなく「下す」という動詞を使って説明されるほど、重く強い語気を持つようだ。

だからさっきの中国語の“如何断定丈夫出轨”を「夫が浮気をしているとどうやって断定する?」と訳してしまうと、まるで奥さんが旦那と別れたがっているから探偵に調査を依頼するような意味合いになってしまうが、原文の意味はそうではなくて、「うちの人最近帰りが遅いけれど、他に女がいるんじゃないかしら……なんか不安だわ」ぐらいの軽さを伴ったものなのである。 

難しい。

話を戻そう。

「グラウンドを走っているのは先生です」は、「グラウンドを走っているのは……」という節のあとに「人間です」とか「犬ではありません」とか「男です」とか「私のタイプです」とか、いろいろ続きうる情報の中から「先生です」という、発し手の主観的で一面的な説明をしたものに過ぎない。 

一方、「グラウンドを走っているのが……」という節は、(先に述べたように)聞き手と話し手に既知の話題として認識されている「先生」が存在する以上、「先生」を他の要素(グラウンドに座っている人間とか)から切り離し、決定付ける判定なのである。 

英語で言えば、前者はjudgeであり、後者はconcludeである(たぶん)。

とはいえ、この教科書を使うのは中国人学習者であり、なおかつ私の解説文は中国語に翻訳されることになっているので、このままではマズイのは確かである。

ということで、「判断のハ」「断定・強調のガ」とした。

「特定のガ」でもいいような気がしたが、これだと日本語の「犯人は〇〇だと特定されました」みたいな一文をもってきて「ハも特定の時に使うんじゃないの」とめんどくさいので(実際には「犯人」という主題に対する説明のハなんだろうけど)。 

 

12時になったので、切れた電子辞書用の電池を買うついでに、散歩に出る。

校内には木犀が多く植えられているので、キャンパスを吹く秋風に木犀の良い香りが混じっている。 

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木犀の香りはとても好きだが、木に近づきすぎるとけっこう香りが強くなる。

まるでトイレの芳香剤のよう(もちろん芳香剤の方が木犀に寄せているんだが)。

30分ほど歩いたあとオフィスに戻り、14時まで校正のお仕事。

14時から学生さん2名が作文を持ってきたので、16時まで検討会。
そのあと少し校正を進めたあと5時前には退勤。

スーパーへ行って「いつもの」食材を買い、「いつもの」ルーティーンをこなし、就寝。

 

17日(木)

 授業は10時からなので、少し遅めの8時に起床。

シャワーを浴びて身支度を整えてから大学へ。

お湯を沸かし、コーヒーとお茶を淹れ、ニュースをチェックしながらヨーグルトとりんごで朝食を済ますという「いつものルーティーン」をこなす。 

「いつもいつも同じことをして飽きないの?」とあなたは言うかもしれない(言わないかもしれない)。

別に飽きない。

全然飽きないのである。 

だって私自身が日々コロコロと変わっているんだもの。

表面的に同じことをしていても飽きるはずがないじゃないか。 

 

コーヒーを啜っていると、K先生から学院の教室に張り出すための環境美化のスローガンを日本語訳することについて相談を受ける。 

中国の街中でよく目にするスローガンは、中国語的な音遊びや表現があるので、なかなか日本語には訳しにくい。

うんうんと唸る。

唸っているあいだに授業の時間になったので、教室へ。

3年生の「作文」である。 

 先週から言い続けている「自分の意見を書くこと」についてお話する。

 詳細は非常に長いので割愛(いずれどこかで書くだろう)。

かなり熱を入れてお話したので、大部分の学生さんには理解していただけたようである。

ありがとう。

 

ずっと喋ってお腹が減ったので、ぐるりと散歩したあと昼ご飯。

いつもの拉麺屋さんに行こうと思っていたのだが、途中で気が変わって、その隣にある「がちょう」を売りにする麺屋さんへ。

浮気。

ここへ来るのは、おそらく半年ぶりぐらいではないだろうか。

“鹅肠面”(ガチョウの腸入りタンメン)をオーダー。

麺が来るまで無料サービスの漬物をポリポリ食べながら待つ。

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5分ほどで麺が仕上がり、お店の人に呼ばれたので、カウンターまで受け取りに行く。

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そうそう、これこれ。

私はこの「ガチョウの腸」が大好物なのだ。

コリコリとした歯ごたえがたまらない。

スープもガチョウからとったものだろう、優しく濃厚な味わいである。

麺は、コシはあまりないがツルツルとした食感でスムーズに喉を通過していく。

うまし! 

 

満腹したので、秋晴れを楽しみながら歩いて大学に戻る。

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16時からの出版社との打ち合わせまでのあいだ、パソコンに向かい校正と原稿書きを同時進行的にこなす。
 16時に出版社の担当者2名と合流してから「いつもの名園」へと移動し、まずは打ち合わせ。

今回私が担当するのは、シリーズの中の一冊なので、他の分野(語彙とか文法とか)を執筆する先生方も同席して打ち合わせをする。

私の教科書に関しては、ほぼ100%同意をいただけたので、一安心。

相談をするなかでいろいろと新しいアイディアが沸いてきて、その場で提案する。

これも「いいアイディアですね!」とお褒めいただく。

嬉しい。

ものを作るって楽しいな。

ひと段落したところで食事。

担当者の方々は蘇州からいらっしゃったわけであるが、なんとお土産として上海蟹を8杯お持ちになっていた。

レストランの担当者に頼んで調理してもらった蟹が、食卓に上る。

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ようは私が子どもの頃近所の川で捕まえて遊んでいた「モクズガニ」の一種なわけだが、大きさが段違い。

外から見ても身がパンパンに詰まっているのがよくわかる。

実は上海蟹を食べるのは初めて。

上海の浦東国際空港のなかや近所のスーパーなんかで売られているのをみたことは幾度もあるが、高いんだよね(1杯100元、日本円で1600円前後だったりする)。

貴重な体験の機会をくださった出版社の方々に感謝しつつ、いただきます。

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おお、これが噂に聞く上海蟹の「蟹ミソ」であるか。

カニの甲羅をこじ開けると黄金色のミソがぎっしりと詰まっている。

とても濃厚でクリーミーで……。

あかん、「バカ舌」が舌が肥えてしまう。

O主任(語彙の教科書の執筆担当)が「カニがあるなら『黄酒』(いわゆる紹興酒、老酒)でしょ」ということで、この日は白酒ではなく熱燗にした紹興酒を頂く。

う~ん、寒さが増すこの時期にはもってこいである。

食卓にはほかにも安徽特産の美食がふんだんに並べられていたのだが、それらをほったらかしにして、一同しばし蟹と取り組む。 

日本でも中国でも、人間というものは蟹を食べる時には無口になるものである。

最近の私は、よくある「比較文化論」があまり好きになれなくなってしまった。

その理由は、「比較文化論」に熱中する論者たちの多くが比較して差異を発見することだけに気を取られ、その奥にある「なあんだ、けっきょく人間ってみんな同じなのね」という「身も蓋もないけれど、暖かい」人間性の発見に注意を払っていないように見えるからである。 

人間なんて、どこで生まれ育っていようが、そのつまらなさも偉大さもたいていは同じであると私は思う。

そこ「だけ」理解できれば、表面上の些細な違いなど、交流を決定的に阻害する要素にはならないのではないか(甘い考えかもしれないけれど)。 

蟹を無事に殲滅し、21時過ぎには食事会をお開き。

場所を近くの喫茶店に移し、ふたたび討論。

「黄酒」の酔いと1日の疲れで脳の稼働率10%ばかりのところに中国語で討論なので、私はうすら笑いを浮かべながら「へへっ」とか「あは」とか発することしかできないのだが、同席。

こういう場にご一緒させていただいて話を聞かせていただくと、いろいろ勉強になることが多い。

結局日付が変わる直前まで相談が続いた。

明日お帰りになる出版社のおふたりをホテルまでお送りし、家に帰ってシャワーを浴び、ばたんきゅー。

蟹、美味しかった。