とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(11.4~7)

 4日(月)

学期11週目。

今週は奇数週だから授業が4コマ増える。

特に木曜日が1限から昼休みを挟み6限までぶっ続け。

きつい。

週の始めからそんなことを考えつつ5時40分に起床。

シャワーを浴びて学校へ。

りんごとヨーグルトとカップスープで朝ごはんとしつつニュースを見たり日記をつけたり雑務を片付けたりする。

 そういう一連の机仕事をしながら、一方で食パンにあんこを挟んでお手製の「小倉サンド」を作り、熱い緑茶と一緒に頂く。

最近原稿書きに追われているせいか(はたまた自転車によく乗るせいか)身体が甘いものを欲するようになってきている。

よくある話ではあるが、私は大学入学後酒を覚えてからというもの、甘いものをてんで受け付けなくなった(ウイスキーをすする時のチョコは別)。

しかし、やっぱり頭を使うと脳が糖分を欲するようで、最近は甘いものをすすんで摂取するように心がけている(いきなり血糖値を上げないためにもりんご齧ったりスープ飲んだりしてからね)。

「小倉サンド」を頬張っているうちに8時になったので、いざ教場へ。

3年生の「ビジネス日本語」と4年生の「視聴説」。

「視聴説」の方では、「説明と紹介の違い」についてご説明する。 

 教科書中の設問で「~について説明してください」とか「~を紹介してください」などという文言が頻出するのであるが、学生さんたちの回答に問題が散見されるのである。

たとえば、「日本の世界文化遺産について説明してください」という設問。

ほとんどの学生さんはインターネットから引っ張ってきた「日本には19の世界文化遺産があります。たとえば、……」などという文言を読み上げる。

うん、ちょっとまって。

あのさ、それって「説明」じゃなくて「紹介」だよね。

「せんせー、説明と紹介って違うんですか?」

全然違うよ。

「なにが違うんですか?」

ほっほー、そこからお話しなければならんか。

よろしい。

重い腰を上げて、まずは「説明と紹介の違い」についてご紹介しよう。

 

私の手元にある広辞苑によれば、説明とは「事柄の内容や意味を、よく分かるようにときあかすこと。」とあり、紹介とは「情報を伝えること。未知の事物を広く知らせること」とある。

ね、違うでしょ?

これが「説明と紹介の違い」の紹介。

以上、終わり。

 

「えー、なにそれ。辞書にあることを持ってきただけじゃないですか」

そのとおり。

だって、広辞苑が「説明」しているように、紹介とは「情報を伝えること」なのであり、私はさきほど皆さんに「説明と紹介の違い」について「紹介する」と言ったのだから、これで十分でしょ。求められているのは「説明と紹介の違い」という「情報」をクラスに広く知らせることなのだから。 

「うーん。でも、なんか足りない気がします。それって誰にでも出来ますよね」

そう。

しかし、たとえば、「説明と紹介の違い」についてわからない君たちを前にしているこの場面において「説明と紹介の違い」を紹介するという私の行為そのものが、「説明と紹介」に関する説明として雄弁に機能していると諸君は思わないだろうか? 

「……なんか先生のめんどくさい性格がありありと現れた表現ですね。言いたいことがよくわかりません」

……そうだね(ひどい!)。

うん、さっきのは気にしなくていいよ。

簡単に言うとだね、私が思うに説明とは、自分なりの視点や観点からものごとを理解し、それを自分で再現してみせることなんですよ。

だから、この「説明の説明」だって、私なりの視点や観点に立ってなされているわけだから、異論や反論があって当然なのです。

「完璧な説明などありえない」、説明の本質的説明はこれに尽きると私は思う。

だってもし「完璧な説明などありえない」という私の考えに君たちが賛成してくれるならば、それはすなわち「完璧な説明などありえない」という私の「説明の本質的説明」に同意するわけであり、反対にもし君たちのなかに「いや、完璧な説明はありうる」という反論が存在するならば、その存在そのものが「完璧な説明などありえない」という私の命題の正しさを保証してくれるわけだから。

まあ、言葉遊びはこれくらいにして。

「説明と紹介の違い」へと戻ろう。

私はさきほど「説明とは、自分なりの視点や観点からものごとを理解したあとに、それを自分で再現してみせること」だと述べた。

対して紹介とは、求められるテーマに対して、自分の外界にすでに存在している説明や自分が既に分かっている情報をパスすることだ。 

たとえば「自己紹介」なんかそうでしょ?

自分の名前や出身地、趣味・特技など、私たちが初対面の人に提供する自身に関する情報は「既にわかっている(つもりの)自分」に関するものである。自己紹介とは、自分に分かっている自分の情報を他人にそのままパスする活動なわけだ。

これがもし「自己説明」となると大変だよ。 

だって、初対面の席で見知らぬ人に

「私の名前は田中太郎といいます。苗字の田中ですが、はて、なぜ私の苗字は田中なんだろう。ここはひとつご説明させていただけませんでしょうか」

とか

「私の趣味はベースです。……と言って今疑問に思ったのですが、私がベースを好きになった理由はなんなのでしょうか。あれ、わかんないな……あ、ひょっとしたら父がシド・ヴィシャスの真似をしてベースで幼い私をぶん殴っていたからかもしれません。きっとそうだろうな。」

などと滔々と語りだすことになるから。

もちろんそんなことする奴はいない。めんどくさい人間だと思われるだけだからね。 

おっと脱線した。

もちろん紹介だって「どの情報をパスするか」というあなたなりの思考が介在するし、その選択によってそのひとなりの個性だったり多様性は生じる。 

けれども、説明のように、言語活動を展開すべき対象を自身の理性に依って根本的に把握し、自分なりの言葉で再現するほどの高度な知性は求められない。 

 

というのが、私の「説明と紹介の違い」に関する説明である。 

もちろんさっき引用した辞書の「説明に関する説明」だって正しい。

しかし、それらはあくまで「他人の説明」であり、それらを私がいくら引用したところで、それは私の説明ではなく「他人の説明の紹介」にすぎない。

でしょ?

これでみなさんの「説明」が抱える問題がお分かりいただけたことだろう。

みなさんは教科書の「説明してください」という課題に対して、既に自分の外界に存在する「他人の説明」や、これまで習ってきたおかげで頭の中にある「既に知っている情報」を引っ張り出してくる。

しかし、それは「他人の説明の紹介」であり、「私が既に知っている情報」の紹介でしかない。

それらをいくら網羅的に口にしたところで、そこに「自分の視点」が存在しなければ、決して「私の説明」にはならない。 

そこに「私の視点」が欠けているからだ。

ここから分かるように説明は紹介以上に難しい。なぜなら地頭が問われるからだ。

そして地頭とは自分の頭を使わない限り、決して鍛えられないものである。

私はみなさんに「他人の説明を他人に紹介する人間」として卒業していただきたくない(今から脱線するよ)。

なぜなら、そこには(文字通り)「あなた」が介在していないからだ。 

極端なことを言えば、別にそれは「あなた」じゃなくても出来る作業である。

でも、「あなた」じゃなくても出来ることばっかりやっていると、結局「あなた」は換えが利く人間としてしか生きていけないのではないだろうか。

中国語ではよく“人才”という言葉を使いますよね。

4年生の諸君には言うまでもなく、この言葉は日本語で言うところの「人材」にあたります。

でね、日本語の「人材」には2通りの意味があると私は思うのです。

一つは、「才能のある人」。これは中国語の意味と同じなので、特に説明は必要ないか。

もう一つは、「材料としての人」です(おお、『ハガレン』みたいで怖いですね)。

たとえばみんな足元を見てください。

床にタイルが敷いてあるでしょう?

それってみんな同じ形、同じ大きさ、同じ重さ、同じ色だよね。

どうして?

答えは簡単。

「みんな同じ」だと換えがいくらでも利くし、便利だからです(だって一枚一枚のタイルの大きさや形がバラバラだったら困るし)。

「材料としての人」だってそう。

「みんなと同じ」であるほうが、「材料」を使ってなにかを組み立てる人にとっては便利なんです。 

君たちは「みんな同じ」は安心安全だと思っているかもしれない。

そして「みんなと違う」は怖いしリスキーだと思っているかもしれない。

もちろん、それは正しい。

しかし、物事には必ず裏と表、メリットとデメリット、リスクとベネフィットなどなど、両面あるというのも事実ですよね。

「みんなと同じ」もそう。「安心安全」の裏にはデメリットがある。

私が思うに、それは「みんなと同じ」だと「あなたの替りはいくらでもいる」という非情な通告に絶句してしまうことです。

「大学院に行くと良い仕事がある」とか「英語ができれば出世できる」という理由で日夜努力している学生さんが多くいますね。

もちろんそれはまったく間違ってはいない。

だけど、それだけだと「みんなと同じ」の罠に陥る危険性があると私は思うのです。

「大学院に行くこと」や「英語を学ぶこと」の重要性、それはそのような学びを経ることで、私たちは「みんなと違う私」に出会うことができるかもしれないという点にある。

私はそう考えます。

そして「みんなと違う」パフォーマンスを発揮できる素質を我々は才能と呼ぶのだし、そのような才能を身につけている人間を「人材」と呼ぶのです。

だから、「大学院を出た」とか「英語を身につけた」だけでは、決して「才能ある人間」としての「人材」にはなれません(むしろ材料としては画一的で扱いやすい)。

「みんなと違う」は怖い。

確かに。

だから、私たちはふつう「みんなと同じ」を目指して努力する。

しかしだからこそ、「怖い」けれども勇気を出して「みんなと違う」を目指して努力できる人間は数少なく、得がたい存在となる。

この「数少なく得がたい存在」こそが「財産」としての「人財」になる可能性を秘めているのではないでしょうか。 

話がだいぶ逸れたけれど、私が一教師として諸君に期待すること、それは「他人の説明を他人に紹介する人間」になることではなく、「自分の説明を他人に紹介できる人間」になることです。 

そしてそのためには、まずは「他人の説明」をそのまま他人にパスしたり、「他人の説明」に耳をふさぐまえに、「他人の説明」というパスを受け取り、そのパスが意味するものを深く考え、観察し、自分なりのパスとして次の人に渡すことが必要不可欠だと私は思います。

おわかりいただけたでしょうか。

 

などとガーガー喚いているうちに話が「説明と紹介」という日本語の話から人生論にまで飛躍してしまった。

 説教臭いな。

反省。

 

「ガーガー」したので、息も絶え絶えにオフィスへ戻る。

お腹が空いた。

ランチタイム。

外に行く暇がもったいないため、「レンジでパスタ」でパスタを茹で、そこにツナ缶とトマトソースをぶち込んだものを口にしながら、Oさんの研究計画書を読む。

見栄えはパッとしないが、おいしい(パスタがね)。

 

13時半にOさんが来て、研究計画書について討論。

 彼女は「完全なコミュニケーションなどありうるのか」という根源的な問題意識が基底となっているテーマを考えているので、当然ながら簡単に「ある」とか「ない」とか結論がつくはずがない「入口だけあって出口がない」研究になるわけであるが、そのような「ぐるぐる」「ぽん!」「また新たなぐるぐる」こそが研究の王道だと私は思う。

ぜひ頑張っていただきたい。

 

Oさんが帰ったあと、メトロから届いたコーヒー豆を受け取りに、キャンパスの反対側まで歩く。

ここ一週間天気が非常に穏やかで美しい秋の日々が続いている。

願わくば寒い寒い冬をすっ飛ばしてこのまま春になって欲しいのだが、まあそれだと「春」「秋」は存在すらしないわけなので、無理な相談である。

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オフィスに戻り、受け取ったばかりのコーヒー豆でさっそくコーヒーを淹れる。

仕事をしているときの私は立派なカフェイン中毒者であり、コーヒーがなければ頭が回らない。

にもかかわらず先週末うっかり豆を切らしてしまった(もうひとパックストックがあると思っていたのである)。

そのあと数日間はインスタントで耐えしのいでいたのであるが、やっぱり豆から淹れたほうが美味しいし、頭にガツンと「効く」。

コーヒーを頂きながらしばらくデスクワーク。
16時から2年生の「会話」。

もう疲れたぜ。

 疲れるとおしゃべりになるのが私の悪癖であるが、そこにきて今学期の「会話」は全て6コマ詰まっている日のどんケツに入っている。

結果的に今学期の「会話」の授業は、学生さんの「会話」の授業なのに私ばかり話してしまうという本末転倒な事態が生じるのである。

ごめんなさい。

とはいえ、「日本語の『そうですか』と『私の母は嬉しい』という誤用から見る日本人と中国人におけるコミュニケーション観の違い」とか「虹が7色だと誰が決めた?(実はニュートンです)」とか、日中比較文化論や言語学に近接するお話をしているので、日本語や日本文化を学ぶ諸君のためになるのである(と思う、というより願う)。

へとへとに疲れて今日の仕事は終了。

 家に帰ってバタンきゅー。

 

5日(火)

早く寝たので4時起床。

30分ほど散歩をしてシャワーを浴びたあと早朝の大学へ。

10時の授業までバチバチとキーボードを叩き、書き物をする。

10時から3年生「視聴説」。

昨日4年生にしたように、「説明と紹介の違い」について説明する。

全く同じ説明をしてしまっては、「過去の自分の説明」の紹介になってしまうので、頑張って表現を変えながら説明する。

疲れる。

 

昨日と同じくオフィスでパスタ(今日はカレーソース)を食べる。

満腹。

お腹が満たされると瞼が重くなる。

いかん、結構本格的に眠い。

仕方なく一時帰宅し15時半まで昼寝。

そのあと大学に戻る。

16時からイラスト担当のSさんLさんと話し合いがあるからである。

眠い。

とはいえ、文章執筆における文脈指示詞の話をしているうちにエンジンがかかり(内田樹風に言えば「舌が回り始め」)、話題は「古代中国人には虹は何色に見えていたか」「16ビートを解さないおじさんおばさんが若い学生さんの歌に送る手拍子の気持ち悪さの原因について」「日中間における『椅子は何個ある?』という問いがはらむ誤解可能性について」などを2時間くっちゃべる。

楽しい。

楽しいけど、疲れる。

2日続けてバタンきゅー。

 

6日(水)

最近変な夢をよく見る。

とくに悪夢系や不条理系が多い。

これはおそらく日中机に向かいバリバリと条理が通った整合的な思考を展開しているので、野党席に追いやられた理不尽でわがままで手がつけられない本来の私が「せめて夢の中でも」と暴れまわっているのだろう。

暴れまわるのはいいのだが、睡眠の邪魔をしてもらっては困る。

さらにここ数日どうもネズミに寝室へと侵入されたようで、夜中にがたがたゴソゴソやっている。

ネズミさんにしてみればこんな寒い季節に暖をしのげて食べ物にもありつける人家は天国のような環境であり、そこに闖入することは理にかなっているのだが、睡眠の邪魔をしてもらっては困る。 

ネズミさんを迎え入れるようなセキュリティの甘さは全て私の責任に帰すところだが、それでもさすがにネズミさんと共存共栄するわけにはいかない。 

だって4時に叩き起されるんだもの。

今日は仕事の帰りにトラップを買って帰ろう。

 

ということで4時に覚醒してしまったので30分ほど散歩をしてシャワーを浴び、6時には家を出ようとするも、急に眠気に襲われる。

疲れているのね。

よろよろとベッドに戻り、9時半まで寝る(今度は夢を見ない静かな睡眠)。

今日は授業がないオフ日なのだが、授業がなくても仕事が手ぐすね引いてわたしを待っている。

のろのろと起き出して大学へ行く。 

いつものようにカップスープとりんごとヨーグルトを口にしながら、明日の作文の授業でお配りする「参考文」を探し、タイプしていく。

あっという間に13時を回る。

あああああああああああ。

貴重な時間が文字通り「あっ」というまに溶けていく!

出版社に提出する企画書も書かないといけないし、今月末のスピーチ大会に参加する学生さんの初稿もチェックしないといけないし、OさんとSさんの研究計画書も読まないといけないし、明日の授業までに30枚の作文を添削しないといけないのに、14時から検討会が入っている。

頭が痛い。

死にそう。

「でも、なんか先生嬉しそうですね」

……バレた?

そう。

仕事が忙しいということは、それだけ社会や他人から必要とされているということである。それだけ自分の存在にはちゃんとした意味があるのだ。

というふうに、多忙は自分の存在意義を信じ込む根拠になるのである。

だから人間は喜々として「忙しい」自慢をするのだよ。わかったかい?

「わかりますけど……なんかそれって可哀想ですね」

うん、それは言わないで。

 

などと戯言にかまける暇と余力はあるのだから、私はまだまだ大丈夫です。

 

気分転換の散歩ついでにネットで注文した商品(迷彩柄のカーゴパンツとパスタソース)を受け取りに行く。

お腹がすいたのでオフィスに戻り「出前一丁」(しょうゆ)に乾燥わかめと乾燥ほうれん草たっぷり入れて食べる。

うまし。

 

14時半から17時過ぎまで作文ゼミ。

作文の種類分けについて話し合ったあと、私が書いた「ハとガ」「こそあ」の原稿を輪読し、忌憚なきご意見を伺う。

みなさんご意見ありがとう。

4人の学生さんが帰ったあとに少し原稿の直しをする。

窓の外を見ると、とっぷりと日が暮れている。

明日は朝から6コマなので早めに休まなければ。

慌てて家へ帰り食事をしてお酒を飲んでシャワーを浴びて就寝。 

 

7日(木)

6コマ詰まった奇数週の木曜日。

鉛色の空はまるで私の心を映す鏡のよう。

5時半にアラームにたたき起こされ、とりあえず熱いシャワーで気合を入れる。

ヒゲを剃り、アフターシェーブローションを塗り、髪を乾かしたあとにさっさと大学へ。 

作文の授業用に「文章を書く際の支持詞の基本的使い方」をまとめて資料にする。

そのあとパワポ(中国では“ppt”と呼ぶ)を作る。

そんなこんなしている間にあっという間に8時になり授業。

 「視聴説」「作文」と3年生の授業が続くので、「仕事の流儀」(井上雄彦)、やマーカス・ミラーの“power”、日本の雅楽などを引き合いに出し、豊かな語彙を持つことが思考しものを書く上でどれだけ重要かについて力説する。 

「え~これって日本語の勉強と何の関係があるの?」

分かる人はわかるし、分からない人はわからないのよね。

 

お腹がすいたのでオフィスに戻り昼食(イカ墨パスタとスープ)をとる。

美味しい。

腹を満たしたあとはフォークから赤ペンに持ち替え研究計画書のチェック。

Oさんの計画書を真っ赤っかにする。 

14時から2年生の「会話」。 

最近言語系による認識の限界の問題に夢中になっているので、「なぜ青信号は緑なのに青信号なのか」などについて雑談を交える。 

そのなかで明らかになったのが、日本語の「祖父」と中国語の“祖父”(zu3fu4)に関する認識のギャップである。 

中国語は親族呼称において日本語以上に「父方か母方か」を重視する言語である。 

中国人(漢民族)が「父方か母方か」を重視するゆえ中国語がそうなっているのか、はたまた中国語がそうなっているから中国人の価値観がそのように形成されたのか。中国語の生成の全過程を見ることができない以上「鶏が先か卵が先か」であるが、いずれにせよ日本語や日本人と比較して中国語や中国人が「父方か母方か」にうるさいのは事実である。 

もっともこれは日本語で世界を認識している日本人の立場からの表現であって、中国人から見れば日本語や日本人の方が「ゆるい」はずである。 

以前『ハリー・ポッター』の第1巻で同じような問題があったことを思い出す。 

主人公ハリーには、母リリーの“sister”であるペチュニアという「おばさん」がいるのだが、原作では“sister”としか表記されていない。それを日本語版翻訳者は「リリーの姉」と翻訳したのだが、のちのちになって「リリーが姉」と変更した(何巻だったかわすれたけど)。 

これも日本語という系で世界を分節する日本人が「長幼の序」という意識に強くとらわれているからである。 

これと同じことが、中国語の親族呼称と日本語の親族呼称との間に言えるのである。

で、話は戻るけれども、私は日本語的な考えで「祖父」という言葉を使ったのだが、それを学生さんたちは中国語的な認識で聞いたので、誤解が生じる一幕が先ほどあった。 

つまり、中国語では「祖父」とは「父の父」なのである(母の父は外祖父)。

もちろん「外祖父」という言葉は日本語にも存在する。 

しかし、日常的に使うものではないし、「祖父」といえば「2人」存在するという認識が自然だろう。 

面白い。 

 

16時から1時間ほどOさんと話し合い。 

少し不勉強なところが散見されたのでねちねち説教する(ごめんね)。 

でも、頑張れ。 

 

そのあとちょっと仕事をして、18時に2年生のOくんと北二門で待ち合わせ。

Oくんが通っているジムを見学させてもらう約束をしていたのである。 

なにしろ30を過ぎた私の身体は代謝や筋肉が落ちる一方なので、やっぱり基本的な筋力トレーニングはしておいたほうがいい。

1時間ほどインストラクターについて大胸筋や上腕三頭筋、大腿筋などをみっちりしごいてもらう。

スピンバイクがあったので、ついでにOくんもしごく。

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それはそれとして。

おお、これはきつい。きっと明日は筋肉痛だな。

だけど楽しいぞ。

会費は一年で780元。

うーん、どうしよう。

悩む。

家に帰って悩みながらお酒を飲む。

そのうちにまぶたが重くなってきたのでズルズルとベッドへ。

おやすみなさい。