とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

生きてますよ。

最近身辺雑記を更新していないが、ちゃんと生きているので、とりあえずは生存報告をさせていただく。
身辺雑記だって、ちゃんと毎日記録はしているのだが、文章として統一性を持たせてひとまとめにアップするために推敲する時間がなかなか取れないのである。
「おまえなんかの身辺雑記を真面目に読んでいる人間がどこにいるんだよ」
いるんだな、これが。
そう、私自身である。
たとえ他人が一人たりともこのブログを読んでくれずとも、必ず一人の読者が存在している。
だって私が読むから。
「おめーが自分で読むだけなら日記帳にでも書いてやがれ」
やれやれ、そういう感想をお持ちの「おめー」さんは、きっと「私」というものへの理解があまりに「かたい」のだろう。それはまるで4ビートでしかリズムを理解できず、正面からしか人物画を描けないのと同じ「かたさ」がもたらす不自由さである。 
しかるにご本人だけはその「かたさ」に気づけない。だからこそ「不自由」なのである。
私にとってわかりきった身辺雑記を私にでも楽しめるように書くという私の試みは、身体運用における柔軟体操であり、楽器演奏における「メトロノームをウラで聴きながら1/4ずらしつつ音階練習する」ようなものであり、料理における「じゃあ一番出汁を引いてお吸い物を作ったあとに出汁ガラ煮立たせて二番出汁取ってゴロ煮でも仕込もうか」という、「分節」の練習である。
それは私にとって「私」に飽きずに「私」と折り合っていくための大切な作業であり、その「分節」作業のためにはクローズドな日記帳ではなく公開された場こそが必要不可欠なのである。 
だからさっきの「おめー」も分節された私にほかならないのであるが、もし私がクローズドな日記帳に身辺雑記を書いていたら、この「おめー」さんは誕生しなかったはずなのである。
「おめー」さんと出会えた新鮮さこそが、私のありきたりな日常を彩るクレパスの一色になる。
だから、身辺雑記だからこそ風通しの良いオープンスペースに記しておきたいと私は思う。
とはいえ、私にも仕事上の優先順位があって、ここ数日は自分の「分節」よりも学生さん「を」分節させる作業(まあ、教育ってそういうことよね)に忙しく、自分の柔軟体操に割く時間がないのである。
久しぶりに寝る前に閑と余力に恵まれたので、生存報告に代えて駄文でお目汚しするまで。
というわけで、私は無事です。
みなさん、お休みなさい。