「あやまる」ってのはあれだね、恥ずかしいものだね。
今日私は謝った。
なぜかというと、自分の過去の誤りに今日になって気づいたからである。
2週間前の夕方のこと。
O主任から「この文章の日本語の意味がとれないんですが」と相談を受けた。
確かにその文章は少しごちゃごちゃしていて、よく文意が理解できない。
その文章を翻訳した中国語は更に「意味ぷー」である。
読みかえすと、文章中に「食料があったから良かったものの、命あってのものだねも危ういところだった」という一文があった。
うーん。
よく意味がわからない。
これを私は「食料があったから良かったものの、危ういところだった。命あってのものだね、ははは」と理解し、O主任にそのようにお返事した。
そう。
ご賢察のとおり。
私は「命あっての物種」の「ものだね」を、「もの+だ+終助詞『ね』」と誤解したのである。
なぜそんな誤解をしたかというと、まず「命あっての物種」という言葉を知らなかったからである。
恥ずかしい。
もちろん「命あっての物種」と漢字で表記してあれば、「物種」に「ん?」と引っかかって、きちんと辞書を引いたことだろう。
しかし、どうあれ引かなかった。
さらに私はこの意味不明な文章の意味不明さを、「ああ、これはきっと機械翻訳だな」と安直に考え、そこから「意味わからんのは文章のせいだ」と「理解」し、「まあ、たぶんこれは機械翻訳ですよ。日本語を中国語に機械翻訳したものをさらに日本語に機械翻訳し直したりしたんじゃないですかね、ははは」などとO主任に「解説」したのである。
それが今日読書している時に「命あっての物種」という表現に出くわし、真っ青になった。
「やべえ、嘘教えちゃった」と。
私は「正しい日本語」を指南する役割を期待されるネイティブ教師として俸禄を食んでいるわけだから、これはいけない。
ということで、お詫びと訂正メールを慌ててO主任に送ったのである。
ふう。
まったく、恥ずかしいものである。
できることならば私は人に頭を下げたくない。
私は人に謝るのが死ぬほど嫌いな人間だからである。
だって悔しいじゃないか。
しかし同時に私は「死んでも人に謝らない人間」も死ぬほど嫌いである。
なぜならそんな人間に無性に腹が立つからである。
だから私は、私が死んでも「死んでも人に謝らない人間」とはならないことを切望するのである。
自己矛盾ってカッコ悪い。
ところで、これまでの自分の人生を振り返る限り、私が「人に謝らないといけない」場面とは、大抵私が「誤った」ときである(今回のように)。
つまり、「謝る」とは自分の「誤り」を認めることである。
だとすれば、私が「誤らない」人間ならば、私は「謝る」必要性から解放される。
しかし言うまでもないが、私は必ず「誤る」だろう。
「絶対に謝らない人間はいるが、絶対に誤らない人間はいない」
これは私がこの数年身銭を切って学んだ知恵のひとつである(もうひとつに「真の嘘つきは『俺は嘘をつかない』という嘘『だけ』つく」というのもあるが、それについてはまたの機会に)。
私は不完全な人間である。
もし私が私の「誤り」を死んでも認めなければ、その心理が「俺は死んでも謝らない」という行動として具現化するだろう。
だから、私は「私は誤りうる」という事実と「誤ったら謝らないといけない」という道徳原則を自分に課した上で、
「謝るのは死ぬほど嫌だ。悔しいし」
という私と、
「そもそも誤るのも死ぬほど嫌だ。恥ずかしいし」
という私とのあいだで折り合いをつける私を確保しなければならなくなるのである。
「できるだけ謝らないために、できるだけ誤らない人間になろう」
「でも俺はバカだから必ず誤るだろう」
「だから誤ったら、ちゃんと謝ろう」
「それに人に教えを請うべきときは、素直に人に訊くべきだよね」
「恥ずかしいけど、できるだけ頭下げて謝りたくないから仕方がないわな」
頭を下げないために、頭を下げる。
矛盾に見えるが、大切なことってたいてい矛盾して見えるものである。
これも身銭を切って学んだ大切な教訓である。
ということで、「人に謝り『頭を下げる』ことが死ぬほど嫌いな私」は、合理的な思考のうえ、人に頭を下げるのである。
「すみませんが、私が間違っているときは教えてください。お願いします」(ペコリ)。