とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(5月3日~10日)

5月3日(日)

暑い。

スマホを見ると、なんと現在33度。

予想最高気温は37度と表示されている。

おいおい、まだ5月が始まったばっかりだぜ。

やめてくれよ。

外に出たくなくなっちゃうじゃん。

今、中国は5連休の真っ最中。

メーデー休暇である。

休暇なので、誰に気兼ねすることなく、正々堂々と家でゴロゴロできる。

できるはずなのだが、やっておかなければいけない仕事があるのだ。

しかしぐーたら人間である私は家で仕事をやる気になれない。

仕方がない。

外は暑いけれど大学へ行こう。

半袖のTシャツ一枚に5分丈のカーゴパンツ(迷彩色)という、とても「大学の先生」には見えない風体で大学へ。 

日差しが強い。

道すがら、じっとりと汗ばむ。

ああああああ。

暑い。

涼感求めて木陰をふみふみ歩く季節が、またやってきたということか

内陸都市である合肥の夏は最高気温40度を越える。

「おいおいあんちゃん、まだまだこんなの序の口よ」

中天にふてぶてしく浮かぶ太陽がそう告げる。

はあ。

先が思いやられる。

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普段なら北二門から大学構内に入るのだが、コロナ騒動の影響で封鎖されている。

なので北一門からキャンパスに入って外国語学院に向かう。

こんなに暑い午後のキャンパスを動いているのは私ぐらいのものである。

鳥の姿や猫の影すら認められない。

暑いもんね。
きっと午前中に芝生を手入れしたり植え込みを刈り揃えたりしていたのであろう、“后勤”(後方勤務、つまり大学の管理や警備をする裏方さん)のみなさんが、木陰で気持ちよさげに食後の午睡をとっている。

そういうのんびりした風景が、私は好きだ。

静かなキャンパスをてくてく歩く。

コロナ騒動の影響で学生はいない。

うちの大学は7日から学生たちの“返校”が段階的に開始されるという。

やっぱり大学のキャンパスは若さあふれる学生さんたちあってのものだなあと感じる(って年寄り臭いことを)。

早くみんなが帰ってきて、賑やかになればいい。

迷惑するのは、人間たちが急にいなくなって思う存分伸び伸びしていた猫たちぐらいだろうし。

 

オフィスに到着。

コーヒを飲みながら、さっそく教科書の主審の仕事をひとつ片付ける。

ここでいう主審とは、教科書の日本語や内容をチェックし、必要があれば意見やアドバイスを出す仕事である。

出版されればちゃんと名が出て、教師としての業績になる。

昨年初めて主審のお仕事を頂き、結果的に教科書として出版された。

ありがたいことですよ、ほんと。

さらにありがたいことに、現在私は3つの教科書の主審を任されている。

ひとつはもう最終段階に入っているし、残り2つもこれから版を組むそうだ。

となると、今年は主審として名前を出していただける出版物が、現在のところ3つあるということになる。

ほんとうにありがたい。

もうひとつ、主編として自ら作っている教科書(初級作文)がある。

あるのだが、困ったことに、より重要であるはずのこちらの作業がまったく進んでいない。

別に何か大きな問題があるわけではない。

必要な知識は下調べ済みだし、構成案もちゃんと練っているし、作文指導の経験も7年積んできた。

原稿が進んでいない原因は、そこにはない。

つまりね、なんというかね、「書きたくない」のよね(おい)。

変なのって思うでしょ。

「自分でやりたいから主編なんでしょ」と。

うん、私もそう思う。

私にとって作文の教科書って「是非とも作りたい」ものだったのに。

なのに、いざやり始めてみると「まだ書きたくない」と思ってしまう。

なんでだろう。

たぶん、

「教科書書いていいよ」

「わあ、やった」

「なにをどう書こうかな~」(ワクワク)

「あれも書きたいな、これも書きたいな」(キョロキョロ)

の「ワクワク」と「キョロキョロ」の段階が、私にとって最大の愉悦なのだろう。

「快楽とは、その欲望が満たされようとするまさにその瞬間に、最高潮に達する」

誰の言葉だったか忘れたけど、多分そういうことだ。

原稿が完成しちゃって、ゲラが届いて、赤ペン片手に校正を始める段階になると、もうそれは自由に「書く」というよりは、一度引いたラインを最大限真っ直ぐにするための「手入れ」作業になる。

ページ数や版組みがすでに決定しているから、この段階では大きな変更はもうできない。

それに、過去の自分が書いたものだから、粗が多いし、自分の力不足が目立つ。

自分のバカさ加減と向き合いながら、問題をできるだけ解決しながら、粗をならして滑らかにしてゆく。

そういう作業である。

原稿を自由に書く作業を、原木から材料を切り出してノミとトンカチを手にガンガン形を削り出していく作業だとすれば、校正とは、そうやって削り出された成果に指を滑らせ、きめ細かさやなめらかさをチェックしながら、磨き上げていく作業だ。

最初は目が粗い(50ぐらいの)サンドペーパーでならしはじめる。

優しく、そして慎重に。

そうして、少しずつ200、500、1000と目を細かくしていく。 

推敲や校正とはそういう作業である。

その作業ももちろん楽しい。

けれども、この作業中は、どうしても自分が既に削り出しちゃった「像」に縛られてしまう。 

なぜだかわからないけれども、最近の私は「像」を磨き上げることよりも、原木からなにかを取り出す作業に心惹かれている。

だから、最近の私はやたらめったら「ワクワク」「キョロキョロ」しながら、いろんなものをインプットし、まとまらない言葉を書き散らしている。 

この時期って、ほんとうに楽しいのである。

楽しいのだけれども、まあちゃんと教科書は完成させないとね。

初めての主編企画だし。

この企画を持ち込んでくれた方々への感謝と責任を形にしないと。

それに、ここでちゃんとできない限り「次はない」からね。

頑張ろう。 

 

4日(月)

昨日同様暑い一日。

終日自宅にてゆっくり過ごす。

夜寝る前にじっくりシャワーを浴びたところ、身体が火照ってなかなか寝付けない。
仕方がないので、もうすぐ日付が変わるという時刻だけれども、着の身着のままLAWSONへ行って氷を買う。

中国では(上海や北京、広州などの大都市を除き)、まだまだコンビニが一般的ではない。

私が三年いた直轄市重慶は大都市なので市内にローソンがたくさんあった。

が、私が住んでいたのは、その市内から高速鉄道で50分の距離にある郊外だっため、コンビニどころか24時間営業という概念すら存在しなかった。

現在生活している合肥は人口800万を抱える安徽省の“省会”(日本的に言えば県庁所在地)であるが、全国的に言えば「第二級城市」である。

24時間営業のコンビニなんて一般的ではなかった。

ところが昨年あたりからポツポツと24時間営業のコンビニが姿を現し始めたのよね。

嬉しい。

日本にいたときにはわからなかったけれど、近くにコンビニがあって、気が向いた時に24時間いつでもフラっと行けるってのはほんとうに幸せなことです。

特に、自宅から徒歩10分圏内にローソンがオープンしたのは大きい。

だって中国に進出しているローソンは日系資本だから、おでんとかおにぎりとかキリン一番搾りとか、そういうもの「ああ懐かしきわが故郷」的な品々が揃っているのである。

そのローソンが、最近では北二門(家から徒歩3分)において開店準備をしている。

感涙。

なんてことを思いながらローソンへ歩いて行く。

氷を手に取りレジへ。

何やら店員が怪訝そうに私をじろじろ見ている。

「なんだ、失礼なやつだな」

などと思いながらも、まあ気にしない。

アリペイで会計を済ます。
で、店を出たあと、袋と自分のシャツを見て、やっと気づく。
確かに。
今の私、傍から見たら完全にLAWSONファンの身なりだわ。

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5日(火)

合肥の天気は百面相。

昨日までとは打って変わり、春の雨がしとしとと降る一日。

寒い。

朝起きて、毛布にくるまりながら、ヤフーニュースでホリエモンの「僕にとって絶対的に“悪い人”の基準」という記事を読む。

堀江貴文「僕にとって絶対的に“悪い人”の基準」(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

読んだ。

ホリエモンにとっての「いい人」って言葉は「(俺にとって都合の)いい人」ってことなのね。
なるほど。
「俺の時間を奪うやつは悪いやつ」で「俺の時間を増やしてくれる人」はいい人という考え方は、まあ確かに一理ある。
私だって、例えばスーパーの会計の時なんかに要領悪くグズグズする店員にイライラするなんてことがあるもの。

「おいおい、俺の時間を盗むなよ!」ってね。
でもさ。
最後の「くだらない人間関係や礼儀に執着している人は、やはり時間の大切さを本質的には理解できていないのではないだろうか」ってのは、やっぱり違うよね。

だって、君を産んで育ててくれた両親だって、君のために自分の人生を削ってくれたんだよ。

その親に向かって、君は「俺の時間を奪うやつは悪いやつ」「俺の時間を増やしてくれる人はいいやつ」って、同じように言えるだろうか。

いや、たぶん君は「いや、言えるね」って言うんだろうけどさ。

でもさ。

そこでほんとうにご両親に対して「俺の時間を~」を言ってしまったらさ、彼らはどう思うかしら。

「ああ、私たちの息子はなんて子に育ったんだろうか……心血注いだあの時間は、なんだったんだろうか」

そう思うんじゃない?

まるで生まれた時から自分でおしめを替えてきたような顔して話さないほうがいいよ。

バカに見えるから。

私はバカだけれども、「バカに見られる」ことは避けたい。

私は聡明ではないけれど、「頭いいな」と思われたい。

だから、「バカに見える」ことを避け、「頭いいな」と思われるためには、人間関係に配慮し、礼儀を重んじることは、ぜんぜん「くだらない」ことなんかじゃないと思う。

だって、自分で「俺はバカじゃない」とか「俺は頭がいい」とかいう自己評価を下す人間って、最高にバカで愚鈍だと、私は思うからだ。

自分の評価は自分では決められない。

それは「みんな」と「時間」に委ねるしかない。

私にできるのは、「みんな」と「時間」という試問官のまえに、私という人間を判断してもらうために、できるだけ沢山の材料を並べて、「どうですかね?」とお伺いを立てることだけである。

君はいつも他人や社会を「バカだ」とか「無駄だ」とか「くだらない」とかこき下ろしている。

だけど、だとしたら、なぜ君はそんな「バカ」で「くだらない」が含まれる「みんな」に向けて言葉を発するという、「無駄」な「時間」の使い方をしているのだろうか。

「お口チャック」して自分の世界に引きこもっていればいいじゃん。

なぜ君は言葉を「吐き捨て」つづけるのだろうか(私の目には、君が言葉を「差し出している」ようには見えない)。

ひょっとして、君は世間一般が重視していることを「くだらない」と唾棄することでしか、「自分の言葉」を語れないだけではないだろうか?

もしかして、君がそういう言葉を発信し続けるのは、結局はみんなに「認めて欲しい」からではないだろうか。

勝手に君の心を解釈して誠に失礼だとは思うけれども、私にはそう見えてしまう。

でね。

もし「認めて欲しい」ならさ。

簡単なことでしょ。

まずは君が最初に「認めてあげる」べきなんじゃないかな。

私はそう思うよ。

でも、きっと君はこういうだろうね。

「俺の言葉の価値は大多数のバカには理解されなくても、きっとどこかに理解できる頭がいいやつがいるはずだから、言葉を発するのだ」と。

ようは「俺はすごい」ってのが大前提の人物なのだと思う。

そういう人物の言葉は、別にその全てを舐めるように吟味せずとも、その言いたいことを「あ、要するに『俺、すごい』って言いたいのね」と一瞬で理解できるから、読むだけ時間の無駄だと、私は思います。

 

10時からオンライン授業なので大学に行く。

その途中、外国語学院のビルの手前で四葉のクローバーを発見。

幸運は意外と足元にあるってことよね。 

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授業が終わったので、散歩&買い物がてら家の近くを流れる南淝河沿いにぐるっと遠回りして帰宅(写真は別日に撮ったもの)。

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いままでいろいろなところに住んだけれど、やっぱり海や大きな湖、そして川などの水の気配があるところって、なんだか落ち着く。

合肥は紀元前3世紀に創られた歴史ある街だけど、それだけ長いあいだ人間が住み続けてきたということは、やっぱり住んでいて心地がいいロケーションなんだと思う。

いわゆる「風水がいい」ってやつ。

「何を非科学的な!」なんて怒る人もいるかもしれないけどさ、科学ってのはすべてを説明できるわけじゃないし、科学が説明しているものがすべてなわけじゃない。

っていうか、「科学ってのはすべてを説明できるわけじゃないし、科学が説明しているものがすべてなわけじゃない」と自覚したうえで「でも、出来る範囲ではきちっと説明できるけどね」と自負する態度こそ真に科学的なのである。

真に科学的な言説には、「今の科学で分かっている範囲では」という限定が伴う。

現在の人間の科学で判明しているだけに過ぎない「常識」で「そんなの科学的にありえない」って決めてかかる人間こそ、非科学的(というか反科学的)な人間だと、私は思う。

まあ、そんなのどうでもいいや。

で、この川の河畔にはクローバーがたくさん生えている。

私は3年前の春、唐突に四葉のクローバーを発見する才に目覚めた。(その経緯は省略、長くなるし、説明しても『は?』という反応しか得られないだろうから)。

なので、こうして散歩をしながらも、百メートル歩くたびに最低ひとつは四葉に出会う。

で、その結果気づいたのだけれども、四葉のクローバーはあるところには固まってある。

だから、ひとつ見つけたからといって満足せずに、そこでさらに探し続ければ、ふたつめ、みっつめと見つかることが多い。

それも幸運と同じですね。

「簡単に満足すんなよ」ってことです。

嘘じゃないぞ。

だって、ほらね。

これは南淝河で先月撮ったもの。

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おお、見渡す限り四葉だらけですね。

そもそも四葉のクローバーの確率って、どれくらいなのだろうか。

以前そう思って昔ネットで調べたことがある。

すると四葉のクローバーが見つかる確立は三葉に対して1万分の1らしい。

つまり0.01%。

ほう。

さらに気になって調べたところ、この1万分の1(0.01%)という確率は、例えば「自動車事故で死ぬ確率」と同じだとか。

ふーん。

そんなもんかね。

なんかしっくりこない。

じゃあ私だいぶ「死んでる」じゃん。

ちなみに四葉以上のクローバの確率はさらに低い。

五つ葉は100万分の1、六つ葉は1600万分の1だそう。

ほう。

何回か見たことあるけどね、五つ葉と六つ葉。

これが五つ葉(先月、学内の芝生広場にて)。

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で、こっちが六つ葉。

先月、川辺を散歩している時に見つけた。

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私がいままで見つけたなかでいちばん葉数が多かったのは、七つ葉。

これまた先月散歩中に発見。

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この「四葉のクローバーって探してみれば結構あるし、一回見つけたら次はもっと見つけやすくなる」という話は、授業で学生さんによく紹介する話である。

ほとんどの学生さんは「うっそだあ」と頭から疑ってかかるか、「先生は運がいいですね(何くだらない自慢してるんだよ)」と愛想笑いを浮かべるか、そのどちらかである。

いや、ホントかどうかはさ、自分で一回試してみればわかることじゃん。

「一回やってみてよ。一つ目を見つけるまでは時間がかかるけど、そのあとは少しずつ見つけやすくなるからさ」

そうお話するんだけど、ほとんどの学生さんは「いや、ありえないわ」とか「そんなことして何の意味があるの?」とてんで受け付けない。

そういうのをね、ほんとうの意味で「学力がない」って言うのよ。

自分の「ありえない」のせいで、世界への扉が閉じられている。

そういう人がどうやって新しい物事を学べるだろうか。

私は疑問である。
それにしても、南淝河の河畔は四葉が多すぎるよ。
土壌がケミカルな意味でやばいことになってんじゃないかと、少し心配。

たいていの四つ葉って遺伝子の突然変異で発生するわけだし。 

 

6日(水)

 

木曜の「日本語作文Ⅰ」の授業に備えて準備をする。

「日本語作文Ⅰ」なので、当然ながら基礎基本を教える科目なわけであるが、問題は「日本語作文」の基礎基本とは何かというところにある。

「え? 原稿用紙の使い方とか、敬体・常体の使い分けとか、段落の作り方とか、そういうことじゃないの?」

まあ、もちろんそういうのも基礎基本だよね。

だけどさ、そもそもの「文章を書くとはどういうことか?」とか「書くときにどういう態度であるべきか」とか「ってか、言葉ってなんじゃらほい」とかいうテーマについて考えるのも、やっぱり基礎基本だと私は思う。

学生さんはそういうことを考えたことが、たぶんない。

だから学生さんたちが持ち合わせている言語観って、「え? 言葉って人間の道具でしょ」という泣きたくなるほど乏しいものである。

授業で「言葉ってなんだと思いますか」と聞くと、みんな口を揃えて「人間の道具です」という。

異口同音に。

てことはさ、たぶんそのきみの「言葉は人間の道具だ」という言葉って、きみの言葉じゃないよね。

たぶん親や教師からくり返し聞かされてきた言葉だったり、本から「お、これいいじゃん」と学び取った考えでしょ。

で、それを「あ、先生から質問されたぞ、よし。『言葉は人間の道具です』、完璧」って使っているわけだ。

でもそれってさ、よく考えてみたら、「私が言葉を使っている」のではなくて「言葉が私にそう言わせている(のに自分では気づけていない)」んじゃない?

もしそうだとすれば、それってすっごいバカな振る舞いだと思いませんか?

古諺いわく「井の中の蛙、大海を知らず」

言葉は確かに私の道具かもしれない。

しかし同時に言葉は私を取り巻く世界そのものでもある。

でしょ?

私たちは言葉を使って「井戸」の内部を強固なものにすることができる。

しかし私たちが「井戸」の外の世界を忘れてしまったとき、言葉は私たちを「蛙」として決定的に閉じ込めてしまう。

もちろん、今こうして偉そうに語っている私だって、自分の意見を語っているつもりで、結局はいままで見聞きしてきた言葉たちに「語らされている」だけである。

しかし、私は「今こうして偉そうに語っている私だって、自分の意見を語っているつもりで、結局はいままで見聞きしてきた言葉たちに『語らされている』だけである」ということを知っている。

だから、私は私の言葉から少しでも離れるために、言葉を紡ぐ。

言葉を主体的に道具として使うのではない。

それだと、「道具」として操る主体としての私を強化する一方でしかない。

そうではなく、あえて言葉という存在を、私より上位的存在であるとみなし、その完璧な世界に没目的的に飛び込んでみるのである。

その結果、自分(主体としての私)にとって思ってもみなかった新しい言葉に出会うことができる。

それは非常に心躍る体験である。

学生諸君は自分を絶対的主体とみなし、言葉を「道具」としてしか捉えていない。

「自分は『蛙』ではなかろうか」と自省する習慣がない。

だから、「私が今いるのはちっぽけな『井戸』に過ぎず、その外には私なんかより広く高次な言葉の世界が広がっている」という事実を知らない。

だから、彼らが言葉を道具として書いた文章は、結果としてあくびが出るほどつまらないものになる。

それが「言葉は人間の道具だ」という言語観がもたらす弊害である。

その弊害はほかにもある。

そのような言語観に馴染んだ人間は、ある言語表現を目にした途端、「この作者は自分の『言いたいこと』を伝えたくて、それをありのままに言語化して伝えるために、言葉を発したのだ」と脊髄反射してしまう。

「自分にとって言葉は『言いたいこと』を表現するための道具なのだから、小説家や漫画家や映画作家だって『言いたいこと』があって、それを言葉を道具として表現しているのだろう」

そう思い込んでしまう。

しかし、小説家や漫画家や映画作家、いわゆる創作家たちは、「言いたいこと」がまずあって、それを言葉を道具として使用し、表現しているのであろうか。

むしろ、創作という活動は、言葉という世界に飛び込んで、そこで出会った言葉たちを必死で掴み、描写し、形としていった結果、「言いたいこと」を事後的に発見するものではないだろうか。

「言いたいこと」がない人間は言葉を発さない。

それは正しい。

たとえば、ご覧のとおり今の私だって「言いたいこと」があるはずだから、こうして言葉を綴っているわけである。
しかしあくまで私の場合だが、「私の言いたいこと」の予感だけ与えられた状態で、言葉を綴り始める。
書き始める時に結論はない。
いや、この書き方は正確ではない。
書き始める時の「結論」はあったはずなのである。
しかし、なんというか、書き進めるうちに忘れちゃうんだよね(頭悪いから)。
「なんだよ、こっちの方が言葉の動きとして自然出し、面白いじゃないか」って(移り気だから)。
だから、筆を置いたあと読み返してみると、自分でも「あれ、最初は何が言いたかったんだっけ」と思うことがある(脱線大好き)。
しょっちゅうある。
いくら考えても、分からない。
その当時の私は、すでに深く暗い深海に沈んでしまっている。
無我夢中で書いた結果、気づけば目の前に出来上がっている見知らぬ文章。

それは「もう少しで親友になれそうな友達」からの手紙に似ている。
「彼」が「言いたいこと」はわかる。

「彼」の「言いたいこと」に共感もする。
しかし、語彙の選択、論理の敷設、そして語り口に、ところどころ「ん、なんか違うよな」という引っ掛かりを覚える。

「それって、ちょっとズレてるよ」と。
だから、「言いたいことはわかるよ、でもね、それならこう書いた方がいいんじゃない?」と、「彼」と対話しながら、推敲を重ねる。
「彼」とは過去の私である。

過去の私から与えられた断片を今の私が繋ぎ合わせながら、何とかして「まあ、これなら他の人が読んでも意味は通るかな」という段階にまで持っていく。
こうしてようやく「私の文章」が完成する。
しかしさ。
よくよく考えてみると、それってほんとうに「私の言いたいこと」を「私」が言葉を道具として表現したと言えるのだろうか。

無数の「彼」との合作なのに。
むしろ、見知らぬ「彼」が差し出した言葉に、そのときどきの私が感化されてのめり込んでいき、頭を引っ掻き回された結果、何とか生還した果てに見えた景色ではないだろうか。
言葉と私たちの関係。
それはまるで、初めは「ん? なんだ、やたら視界の背後に映るこのフサフサしたやつ」と自分の尻尾を意識し始めたワンちゃんが、その「なんだ?」を主体的に確かめんとして自分の尻尾を追い回してグルグルしているうちに、「あははははは、なんだか分からないけど、楽しくなってきちゃった、あれ、なんだったっけ? あははは、まあいいや」とハイになってしまう様子に似ている。
いや、わかるよ。
確かに言葉の渦に飲み込まれて「グルグル」するのは楽しいもん。
でも、自分が尻尾に「グルグル」させられていることを気づけずに「グルグル」するのは、恥ずかしい。
なぜそのことに気づけないかというと、「尻尾」の方が「本体」を支配する時もあるという事実を、「本体」が知らない(振りをしている)からである。
私はそう思う。
私は安心して「グルグル」を楽しみたい。
だからそのために、「言葉は私の道具だ」なんてことは言わないことに、私はしているのである。
だってさ、「言葉は私の道具だ」って言った瞬間に、言葉は私を無意識のうちに「グルグル」へと引きずり込む「尻尾」になるから。
で、やっとここで冒頭に戻る。
小説家とか哲学者とか詩人とか、いわゆる言葉の芸術家たちは、自分が犬のくせに「俺は犬じゃない」と勘違いしたり、「あははは、なにこれ、めちゃんこ楽しいワン!」と言葉に弄ばれる人間ではない(と思う)。
だからさ、そんな彼らの表現を「彼らは言いたいことが予めあって、言葉という道具を使ってそれを表したのだから、私だって言葉を道具として使いこなせば、彼らの真意を理解出来るんだ」という価値観で処理する時点で、そもそも間違っていると私は思うんですよ。
彼らが言語表現を完結させ、手放し、受け手へと送り出し委ねた時点で、彼らにとっては「私」が消え去っているのだから。
だからこそ、「公」として広い評価を受けることが可能なわけでさ。

というわけで、「日本語作文Ⅰ」では毎回、「ほんとうに言葉は道具に過ぎないのか?」というところからお話する。

だって、これって文章を書くうえでの基礎基本だし、同時に奥義でしょ?

だったら教えなきゃさ、教師として。

 

7日(木) 8日(金)

 

記憶も記録もなし。 

 

9日(土)

土曜日だけど、メーデーの連休の振替出勤日。

10時からひとつ授業をこなす。

そのあと、久しぶりにカミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫)を読む。

コロナ騒動で『ペスト』が売れているらしいけれど、カミュの根本思想を理解するなら、やっぱりこの本を読む必要があると私は思う。

この本、ほんとうにかっこいい。

読むたびにビビッとくるし、思わず赤鉛筆でゴリゴリ線を引き、抜き書きしてしまうんだよね。

今日「ビビッと」来たのは、ここ。

この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、——この世界について言えるのはこれだけだ。だが、不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態である状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者に属する。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである(前掲書、pp42-3)

やっぱりカミュはかっこいい。

私にとっては哲学界におけるアイドルだな。 

 

10日(日)

日曜の朝から、あいさつや名乗りもなしに自分の用件を「通知」してくる学生さんがいる。
しかも中国語で。
「おはようございます」「私は〇〇です」
それさえできないなら、まあ期末テストは厳しいかもね

という憎まれ口はこのくらいにしておく。

私はけっこう「おせっかい」な教師なので、当該学生にこうお話した。
「ねえ、あいさつの重要性は今学期の最初の授業でずっと話したよね? 聞いてなかったでしょ」
すると返ってきた一言。
「聞いてました……ただ忘れてしまっただけで」
それを聞いて思い出したのが、J.K.ローリング『ハリーポッターと不死鳥の騎士団』のある一場面。
ある教師の演説を仔細に覚えていた優等生ハーマイオニーに対して、うだつのあがらないロンが「おいおい、そんなこと覚えてるわけないじゃん」的なことを言う。
そのあとの2人の会話。

ハーマイオニー「あなたがちゃんと聴いていないからよ」
ロン「僕だって聞いているさ。ただ忘れちゃうんだ」
ハーマイオニー「ロン、私は聴いているのよ」

原作だと、ここの「聞く」と「聴く」は、どうなってるんだろう。“hear”と“listen”かな?
っていうか、なぜこのふたりが惹かれ合い最終的にくっついたのか。
それは置いとくとしても、まあしかしこうして文章に起こしてみると、私のさっきの言い方も少しキツイな。
反省。
ごめんね。
清々しい日曜の朝、コーヒー飲みながらギター奏でているところに、唐突に身元不詳の人間から外国語のメッセージが来たから、ちょっとムッとしたの。
「おいおい、今いいとこなのに邪魔すんじゃねーよ」(ああ、やっぱりキツイ)
だからさ、あいさつは大切なの。
「いまからあなたとコミュニケーションしたいんですが、かまいませんか」という、コミュニケーションのコミュニケーション(メタ・コミュニケーション)なんだから。
お願いします。

……ってか、中国語版ではどうなっているんだろう。
あとで本屋に行こうかな。

 

はい、お昼になりました。

結局本屋へは行かず、家でアニメを見ている。

先週まで、おそらく10週目の『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』を見ていた。

今日は同じ作者の『銀の匙』を見る。

 

第2話で、バリバリの進学校から農業高校に入学してきた主人公八軒くんは、数学がまったくダメなクラスメイト常磐くんに「数学教えちくり~、教科書の1ページ目から意味がわからん」と頼まれる。

「まあいいよ。基本から始めよう。じゃあ、まずはこのXを……」と教え始めた八軒くんに、常磐が放った衝撃の一言。

「Xって、なに?」

学生生活を通して数学が最大の敵だった川野くんは、常盤くんの「教科書の1ページ目から意味わからん」という気持ちが、痛いほどわかる。
数学の教科書に決定的に欠けているのは、物語なんだよね。
確かに、数学においては「1」が決定されたら、その基礎の上で世界が完全に成立する。
しかし、それすら数学という物語であり、それが数学の魅力でしょう?
私が今までであった数学教師は、ほんとうに物語に欠ける授業しか出来なかった。
「公式を覚えろ!」
「1回証明して見せただろ、だから覚えろ」
「受験に出るから、覚えろ」
そういう「教師」だらけだった。

私が尊敬している数学教師は、高校時代に一年だけ教えを受けた山田先生だけである。
校内でカリスマと評されている彼の授業を初めて受けたのは、高三のとき。

もうね、凄かった。
授業中の彼は、目の前に並んで座っている生徒なんて放っておいて、黒板に生徒が書き記した数式との対話に耽溺していた。
意味は分からないが、すっごいかっこよかった。

私は当時も今も、高校数学すら全然理解できない。

しかし、確かに彼が添削したあとの数式は一直線で美しかった。

素人でもはっきりと「おお」と感動できた。
ほとんどの数学教師は(というか教師は)、このアニメの「Xって何?」という初歩的であり根本的である問いを、あまりにも忘れているのではないだろうか。
ということで、私は「そういえば、なぜ数学では未知数をXで置き換えるのか」と気になった。
で、調べてみた。
気になる人は https://www.gizmodo.jp/2014/11/x_20.html を読んでみてね。
なるほどね。
やっぱり「未知数X」ひとつのとっても、物語があるじゃん。
物語、大切だと私はおもうよ。

 

そういえば、この日は「母の日」。

だから、母上にメール。
「母の日おめでとう。何も大したものプレゼント出来ませんが、そもそも産んで頂いた時点で、どんなプレゼントを以てもお返しなどできませんね。せめて言葉だけでもお返しを」的な内容。
そしたら、「こんな未熟な親にありがたい言葉を」的な返礼の言葉とともに、甥っ子と姪っ子の写真が送られてきた。
うん、可愛い。
ほっこりした。
でもさ、母さん。
なんで今このタイミングでこの写真を。
それってもしかして……。


「あんたは私の心配なんかせんでよかけん、早くあんたもよか女の子ば見つけて子供ば産まんね。そいがいちばんの親孝行やろ。ってか、いつ日本に帰って来っとね? 中国行くってとも、1年って話やなかった?この親不孝もんが!」(※佐世保弁です)

 

ってことですか?
いやいやいやいや。
30過ぎてフラフラしている長男に嫌味ひとつ言わないうちの親が、そんなことを(たとえ思ってはいても)口に出すはずはない(私の耳には届いていないだけかもしれないが)。
あ、そうか。
これって私が勝手に脳内の「母」から「受信」しただけで、向こうは何も言ってやしないんだもんね。
お母さん。
あなたの息子さんは最近「テレパシー」に目覚めたようです。
この歳になっても人間って新しい素質に目覚めることが出来るんですね、ああ感激。
というわけで、ご覧の通り息子さんは元気に過ごしているので心配しないでね。
というわけで。
みなさん。
「母の日」、おめでとうございます。