とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

私の左肩が凝って仕方がない理由について

1月18日(月)

 

快晴。

朝の気温は氷点下1度と寒いが、空を見上げれば雲一つない青空が広がっている。

8時に起きて身支度をし、大学へ行く。

今作っている教科書は先週無事「脱稿」したはずなのだが、そのあとに「あれを書いてください」「これを追加してください」という注文をいただいたので、机に向かって書き物をするのである。

以前から申し上げているように、自宅で物を書けない私はいつも大学で文章を書く。

大学の事務室には豊富な資料が揃っているし、空調設備・ネット環境が整っている(なお、中国の大学では「研究室」とはいわないし、同じ科の先生方数人でひと部屋共用するのが一般的である)。

というわけで大学へ。

お湯を沸かして熱いコーヒーを淹れたあとに、とりあえず気分が乗ったものから片付ける。

さらさらと2000字程度作文。

ふう。

あと8つほど書くべきものが残っているが、昼前なのでとりあえず小休止。

ネットで日本のニュースを見る。

すると、「置き勉」禁止に関するニュースが目に留まる。

このような記事である。

 

文科省が正式に認めたのに、多くの学校が「置き勉」を認めない残念な理由(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

 

へえ、「置き勉」って文科省の通達ではもう認められていたんだ。

知らなかった。

そういえば、私の中学校も「置き勉」禁止だった。

記事の中でも指摘されているが、私が入学する前の数年のあいだ非常に荒れていた私の中学では、「置き勉」禁止を生活指導(というのも大嫌いな言葉だが)の一環として捉えていた。

まったくご苦労なことである。

記事を読んだうえで、自分自身が中学生だったころを振り返る。

そして、自分自身が教師なのにこんなこと言うのもどうかとわかったうえで、こう思う。

「なんで学校の先生たち(一部)ってこんなにバカなんだろう」 

うちの中学にもこういう教師たちがいて、謎ルールを設定し、それに沿わない学生や逆らう学生を追っかけまわし、ひどい場合にはバシバシ叩いていた。 

私が思うに彼らは教育熱心だったのではない。 

自分を査定する存在(主任とか教頭とか校長とか教育委員会とか)に忠実だっただけである。

それか、ただの「善意のバカ」だったかである。 

前者に関しては同情しないでもないが、後者は勘弁してほしい。 

彼らは主観的には「善意の人」であるが、それゆえ自分を疑うという知的習慣を持ち合わせていない(なので「善意」に歯止めが効かない)からである。 

この記事が扱っている「置き勉」禁止も謎ルールの一つだった。 

推進派の先生方は言う。 

 
「忘れ物をしない習慣を養うためだ」 

「次の日の準備をきちんとする習慣を養うためだ」  

 

実際に私の中学時代の教師たちもそう言っていた。 

たしかに、「上」からそう指導するように言われて仕方がなく言っていた先生もいたと思う(「奥歯にものが詰まったような」言い方から察するに)。 

そういう先生に対して、重ねていうが私は別に何も思うところがない。 

ただし、「置き勉」を許さない先生たちが本気で「これは教育だ」と思っているなら、申し訳ないけれど、教師として頭が悪すぎると私は思う。 

そんなもの禁止したって守らない子どもは守らないからである。 

子どもはもっとタフでずる賢い。 

なぜそのことに気づかないのか。 

現に中学生時代の私がそうであった。 

「置き勉」禁止のルールは意味不明である。 

入学式の後に配られた「中学生の心得」(みたいな名前のプリント)を見ながら、中学入学早々、私はそう思った。

生徒に「勉強道具を持ち帰れ」とおっしゃる先生方だってさ、自分が教える教科に関わる資料すべてを毎日持ち帰って勉強しているわけではあるまい。 

家には家で使う資料・家で勉強するための資料を置いているはずである(違うのかな?)。 

同じように、教科書を持ち帰らない子どもたちだって、「置き勉」しているからといってその教科を勉強していないとは限らない(現に私は家では教科書以外の教材を使って勉強していた)。 

教科書はあくまで教科書である。

学校での勉強はあくまで学校での勉強である。

なぜそこを統一する必要があるのか。

なぜそこを「統一せよ」と口出しされなければならないのか。

昔はわからなかったし、今でもわからない。

「このルールって何の意味があるの?」 

中1の私はそう思った(今でも思っている)。 

しかし「置き勉」をして頭が悪そうな教師にガミガミ言われるのも勘弁である。 

彼らのなかには「教育」の名のもとに平気で子どもを殴るものもいた(生活指導の主任なんか、バンバン殴ることで校内では有名だった)。 

私は直感的に彼らを「バカだ」と認識した。 

たかだか学校の一教師に私の生活を「指導」なんかされてたまるか。

身体感覚でそう思ったのである。 

しかし、かといって、頭が悪そうな教師に「ああ? なんだテメー、俺に指図するな!」と頭が悪い反抗をしている頭が悪そうな連中と同じ「不良扱い」されるのもまっぴらごめんであった。 

数年前まで「荒れている」ことで市内でも有名だった我が中学には、そういう「頭悪そう」な連中がごろごろいた。 

彼らには彼らなりの事情があったのだろう。 

ある程度の社会経験を積むことで、今ではそう思えるようになった。

しかしそれでも、わざわざ学校に来てほかの生徒の勉強をじゃましたり、シューズを投げて体育館の天井に穴を開けたり、廊下に足を投げ出して他人の通行を妨げる様子を見て、私は単純に「バッカじゃないの?」と思っていた(今でも思う)。 

あんな連中と一緒くたに論じられてはたまったものではない。 

だから、「置き勉」禁止に歯向かうことで、バカ教師から「不良学生」扱いされることだけは避けたい。 

とはいえ、毎晩毎晩次の日の授業に合わせて教科書やらノートやらを準備して通学かばんに詰め替える作業もかったるい。 

私の本然は今も昔もぐーたら人間である。 

自分が熱中することにはとことんはまり込むが、興味を持てないことには力が全然入らない。 

この33年間、私はそういう人間として生きることで、私という人間を形成してきたのである(良くも悪くも)。 

毎晩寝る前に時間割を確認して教材を詰め替えるなんて、到底不可能に決まっている(今でもできない)。 

はて、この「置き勉」禁止問題に如何に対処すべきか。
一定期間の思考を経て、私が導き出した結論は単純なものであった。 

「そうか、全教科全科目の教科書とノートをカバンに入れておいて、それを毎日持って学校に行けばいいじゃん」 

なぜそれにもっと早く気付かなかったのだろう。

毎晩教材の「出し入れ」をするより、そっちのほうがよっぽど楽である。 

かくして私は中学3年間で教科書ノートを忘れたことが一度もないし、少なくとも「置き勉」という意味不明のルールに関して教師に歯向かったこともない。 

しかし、それは私が「優等生」だったからではない。 

単純に「バカと関わり合いになりたくなかった」からである。 

もちろん代償はあった。 

言うまでもない。 

パンパンに膨れ上がった重いカバンである(好奇心から一度計ってみたら6kgあった)。 

これを私は3年間左肩に引っ提げて通学していたのである。 

当然ながら、身体に影響が出ますよね(出ないはずがない)。

じっさい、中学を卒業して20年経つ今でも私の左肩はカチカチに凝り固まっている(バカだね)。 

肩を回すと周囲にはっきり「ボキボキ」「コリコリ」という音が聞こえるほどである。 

以前、宮崎駿が整体師さんにマッサージされている時に「私の肩を煮たら真っ黒なスープがとれますよ」みたいなことを言っていたが、それと同じぐらい凝っていると思う。

今はまだ若いから顕在化していないものの、もっと年をとるとこの「歪み」は目に見える問題として姿を現すことだろう 

こんなことなら、ちゃんと毎晩準備して、その日に必要な教科の教材だけ持ち運ぶんだった。 

今の私はそう反省しないでもない。 

しかし、それでも、である。 

合理的思考ができないバカ教師に「教育」という名のもと説教されたり、バカな仲間とつるんでバカな方法で反抗するあの連中と同一視されることに比べると、このくらいで済んでましだったと思うのである。

たしかに、あの対処法はバカなものだったかもしれない。

というか、バカなものだったと思う。

しかし、たとえそれがバカなふるまいであろうと、自分の決断の責任は自分で負いたいと思うのである。

ということで、左肩のひどい凝りは私なりのバカのけじめなのである。

文科省が「置き勉」を禁止していないという事実が広く教育現場と家庭に広がって、子どもたちの通学負担が少しでも軽くなるように願ってやまない(左肩を揉みながら)。
まあしかし、もしも仮に「置き勉」禁止という意味不明のルールが私のようなクソ生意気な中学生に「社会というのはバカの集まりだから、自分でなんとか対処しろよ」と伝えるものだとすれば、たしかに教育的な意味はあると思わないでもない(それはそれでちょっとあれだが)。