とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

自動車運転免許学科試験の「変な問題」について

休憩中にヤフーを見ていると、こんなニュースに目がとまる。

東大王・伊沢拓司、運転免許試験に落ちていた! 「合格を確信していた」が...まさかの「筆記」で落第(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

ふむふむ。

東大のクイズ王でも落ちるなんてことあるのね。

そう思いながらコメント欄を覗いてみると、次のようなコメントがあった。

Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。

  答:×30km/h以上で走ってはならないから

Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。

  答:×昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから

常識人ほど不正解になる。
もっとマシな問題にすべきでしょう。

この問題、私は知っている。
たしか2年ほど前にキズナアイの動画で目にしたのである(中国からはYouTubeみれないので、中国側のキズナアイ公式動画をリンクしときます)。

www.bilibili.com

免許を持っていない(というか自動車学校に通ったことすらない)私だが、強い印象を受けた記憶がある。

なぜか。

どう見ても「変な問題」だからである。

「へー。でも、ほんとうにこんな問題が出るんかね」

「車校」に通ったことがないので、私にはわからない。

ということで、いろいろとネットで調べてみて、自動車免許学科試験に「変な問題」が出題されるというのは衆目の一致するところらしいとわかった。

ふーん。

さらに「これって日本だけなの?」とも気になった。

なので、学生さんに聞いてみた。

すると、中国の学科試験(“科目一”と呼ばれる)でも同じような「変な問題」が出題されるそうだ。

なるほど。

で、そうやって調べるなかで気づいたのだけれども、日本でも中国でも、どうも多くの方々は「この変な問題」を「悪問だ」「クソ問題だ」という怒り・不満の態度で受け止めておられるようである。

なかには「問題作成者はバカだ」という声まで散見される(このニュースのコメント欄も然り)。

先にも述べたとおり、私は自動車の運転はおろか、自動車や交通法規に関連する知識すら有さないので、残念ながらその心中を察することができない。

もしかしたら、自分が将来自動車学校に通うことになったとき、学科試験対策をするときに、初めて理解できるのかもしれない。

そう思いながらも、それでも「ちょっとまってね」と思うところがある。

つまり、私は自動車運転免許証の試験問題に「変な問題」が含まれているという言明に対しては「そうだね」と同意するが、「悪問だ」とか「クソ問題だ」とか「バカが作った問題だ」という評価には「ちょっとまってね」と言いたいのである。

このことについて書いてみたい。

ほんらい「変」とは、価値中立的な言葉である。

この言葉は「見慣れないものごと」や「一般的ではないものごと」を指すものであって、快/不快、善/悪、正/誤などの価値対立・価値判断を含むものではない。

私はそう考えている。

たとえば、「変な人」=「悪い人」ではない(私から見ればクロヤナギさんやミワさんなんかは明らかに変な人だが、悪い人だとは思わない。知らないけど)。

同じように、「変な感覚」=「間違った感覚」でもない(変だけど心地よさを感じさせるものごとだってある。私が子どもの頃に流行った「スライム」とかね。おお、懐かしい)。

ここから分かるように、「変」が示すのは、たんにそれが「自分にとって馴染みない」という意味に過ぎない。

そこに快/不快、善/悪、正/誤などの意味合いを付与するのは、いうまでもなく私たちである。

話を自動車運転免許の試験問題に戻す。

私は学科試験で課される問題に「変な問題」が含まれているという意見に心から首肯する。

しかしだからといって、私はそれを「悪題だ」とか「クソ問題だ」とか「バカが作った問題だ」という方向に持っていくことには興味がない。

私がむしろ興味を惹かれるのは「なぜこんな変な問題が出されているのだろうか」についてである。

そこで、2年前の私はいろいろと考えてみた(ひまだね)。

問題作成者はいったいぜんたいどうしてこのような「変な問題」を作成し、そして出題するのか。

当然ながら、作成者の実際の意図など、そもそも外野である私たちにはわからない(わかるはずがない)。

なので、ここで事実上の問題となるのは「作成者の意図」に関して、私がどのような解釈を採用するかというものである。

同じ論題についてであっても、人それぞれ視点なり考え方は異なりうる。

だから、この「作成者の意図」に関しても人によってさまざまな解釈が可能であるし、どのような解釈も存在していい。

私はそう思う。

さまざまな解釈の間で唯一扱いに違いが出るとすれば、それはその解釈がほかの解釈と比べて「面白いかどうか」だけである。

注意が必要だが、その解釈がほかの解釈と比べて「正しいかどうか」ではない。

というのも、如何に真剣に情報収集して「現実的な」解釈を編み出そうと努力したところで、その妥当性・実際性を決定することなど不可能だからである。

何度も言うように、私たちはみな問題作成者の意図など知り得る立場にないのだから。

この論題に関しては、「あくまでこれは私の勝手な推測なんですけど」という但し書きがある限り、いかなる解釈も平等に存在していい。

私はそう思う。

なので、気楽にいろいろ解釈してみる。

すると、さまざまな可能性が指摘できて楽しい。

こうして私は、「おお、面白い問題だな」と思うに至ったのである。

それが2年前のこと。

あまりに面白かったので、私はこの題材を作文の授業で使ってみた。

キズナアイの例の動画を見せたあとで、このような「変な問題」が存在することに関して、学生諸君にそれぞれの解釈を書いていただいた。

学生さんに書かせるだけじゃフェアじゃないので、「あくまで私の勝手な推測ですよ」という但し書きとともに、私も自分なりの解釈を作文してみた。

それが先学期のこと。

さっきニュースを見たおかげで、その文章の存在を思い出した。

ずっとハードディスクの奥底でホコリ被らせておくのもなんなので、いい機会だから、ここに掲載しておく。

以下は免許を持っていないどころか「車校」に通ったことすらない私の根拠なき思弁(というか妄想)である。

奇論・妄論に興味がある方はご笑覧ください。

  

 

       自動車運転免許証試験の「悪問」について

 

 運転免許証をとるための学科試験が難しすぎると紹介するビデオを見た。このような問題だ。 

 

問題1.エアバッグのついている車は安全なので、シートベルトをしなくてもいい。

 答え × 

問題2.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。

 答え × 理由)30km/h以上で走ってはならないから。

問題3. 公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。

 答え × 理由)一般自動車ではなくてもシートベルトはしなくてはならないから。

問題4.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。

 答え × 理由)昼夜問わず気をつけて運転しなければならない。

問題5.制限速度30km/hの道路では、その制限速度を超えて走行することは許されない。

 答え × 理由)非常時はその限りではない。

 

 なるほど、確かに難しい。

 ビデオのなかで指摘されていたように、運転の知識を問う問題というよりは日本語の問題である。
 車の運転を学んだことがない私だが、このビデオを見て「なんでこんな変な問題が存在するんだろう」と考え込んでしまった。そこで、なぜこのような「変な」問題が出題されているのか、少し考えてみたい。

 もちろん、作成者が実際に何を考えてこのような問題を作ったのか、それは私には知りようがないことである。そのため、以下は私の推察に過ぎない。このことはあらかじめ断っておく。
 まず、この試験は何を問うているのかについて考えてみよう。それが知識だけではないことはすぐ分かる。というのも、ビデオで紹介されていた問題の多くは、その「正答」に客観的根拠が存在しないからである。

 知識を問う問題には必ず、正答とその正答の客観的根拠が用意されている(たとえば、問題2の正答「×」の客観的根拠は「道路交通法施工令第11条」である)。
 しかし、問題3~5は違う。これらの問題の“正答”は客観的に明らかな根拠だとは言えず、むしろ出題者・採点者次第だからである。

 とすると、「学科試験の問題はたんに受検者の知識を問うているわけではないのではないだろうか」という問いを立てることは不可能ではない。何が問われているのだろうか。
 忘れてはならないのは、そもそもこの試験は何の試験なのかという点である。いうまでもない。運転免許証の試験である。では、運転免許証の試験とはいかなる性質の試験か。それはつまり、これから車を運転しようとする「入門者」「ニューカマー」に向けて、彼らが運転の基本的な素養を身につけているかを問うものである。
 とすると、一見すると「変」に思える問題は、車を運転するための素養に関係している可能性がある。
 では、車を運転するための素養とはなんだろうか。

 まず私たちが思いつくのは自動車や交通法規に関する知識や操縦技術である。これらが欠けている者に免許は与えられない。

 しかし、私が思うに、それらはあくまで車を運転するための素養の一部に過ぎない。つまり、車を運転するためには、自動車や交通法規の知識や技術だけでは不十分だと私は考える。そこに欠けているものがあると思うからである。

 では、欠けているものとはなにか。「疑い深さ」である。疑い深さは車を運転するものにとって不可欠な素養である(と私は思う、運転したことないけど)。逆に言えば、疑い深さに欠けた人間には車を運転するための素養がないと私は判断する(免許持ってないけど)。なぜかというと、疑い深さに欠けてしまうと、人間は視野狭窄に陥ってしまうからである。その理路について、有名な「かもしれない運転」「だろう運転」をキーワードとし、以下に述べる。
 車を運転しているひとりひとりのドライバーには、自分が走っている道路状況を俯瞰的・一望的には把握できない。車の運転は必然的に視野の制約を受ける。同時に、運転の場である道路状況は、それぞれのドライバーにとっては思いがけないほど複雑である。そのため、運転する者はさまざまな事態を想定しながらハンドルを握ることが常に求められる。

 そのときにキーワドとなるのが「かもしれない運転」である。たとえば、前方の車が急に停車するかもしれないと想定しておく。その場合、あらかじめ車間距離を広めに取っておけばよい。そうすることで、先行車が急停車するという急な事態が生じた場合にぶつかる可能性を低くすることができる。同じように、路肩に寄せてトラックが停車している場合、トラックをやり過ごすときにはスピードを緩めるべきである。死角から子どもが飛び出してくるかもしれないからである。これが「かもしれない運転」である。

 「かもしれない運転」の根底にあるのは、道路状況は自分の予想を超える複雑な現実であるという認識態度であり、「私は誤りうる」という自己批評性である。私が思うに、これは運転に限らず、あらゆる場面において必要となってくる人間的素養である。
 一方の「だろう運転」はどうだろうか。この素養が欠けていると私は思う。「だろう運転」はすべてを自分の都合のいいように解釈するからである。「だろう運転」では、たとえば前方の車との車間距離が近すぎる場合、まあ別に問題ないだろうと考える。だから、前の車が予想外の急ブレーキをかけた場合、ガシャンとぶつかってしまうのである。「だろう」的思考を採用する運転手は、路肩にトラックが停車していても「別に大丈夫だろう」と思ってスピードを緩めずに走行し続ける。だから、万が一トラックの陰から子どもが飛び出してきた場合、避けられない。

 このように、「だろう運転」の根底にあるのは複雑な現実を自分の想定内に織り込んでしまう知的態度であり、「俺は間違わない」という自己認識の甘さである。
 よくよく考えれば当たり前のことだが、人が自動車事故を起こさないためにもっとも重要かつ根本的な素養は、知識の豊かさや運転技術の正確さではない(可能性から言えば、どんなに経験豊富な一流レーサーだって事故は起こしうる)。そうではなくて、的確な状況把握力と批判的自己認識である。極端な話ではあるが、「私には運転の才覚がまったくない」という自覚からハンドルをいっさい握らない人間は、絶対に事故を起こさないのである(だって運転しないんだから)。
 逆にいえば、いくら豊富な経験と正確な運転技術を有していても、「なあに、俺は大丈夫だよ」と自己を妄信する人間には事故を引き起こす可能性がある。どんなに一流のレーサーだって「ちょっと酒飲んだけど、まあ俺は大丈夫だよ。だって一流だから、へへん」と思い上がって車を運転し続ければ、いつかはきっと事故を起こすだろう。
 そして周知のように、自動車とはたった一度きりの失敗で大きな犠牲を生み出してしまう、恐ろしいテクノロジーなのである。

 いくら30年間無事故を誇るベテランドライバーであろうと、「ははっ、俺様はこれまで30年も無事故だぜ」と調子に乗って油断してしまえば、31年目にして大惨事を引き起こすことだってありうる。その場合、「30年間無事故」という事実には何の価値もない。しかし逆に、「おいらは免許とりたてだから、ちゃんと集中しないと」とか「そろそろ運転にも慣れてきたけれど、そういえば車校で『慣れはじめこそ危険だぞ』と言われたな。おい、油断するなよ」と日々心がけて運転してゆけば、思わぬ事故を起こす素因を減じることはできる。その一日一日の積み重ねが「30年間無事故」となれば、そこには大きな価値がある。
 このように、自動車を運転する人間に求められるものとは、目の前の現実と何より自分自身に対して疑い深くなることであり、自動車運転免許というものが、自動車の運転という一歩間違えば大きな悲劇を生む技能を公的に許可する資格である以上、これから車の運転をしようとする「入門者」「ニューカマー」の現実認識能力・自己批評精神を問うていると考えることはありうると私は思う。
 以上を踏まえて、最初の問題をもういちど見てみよう。 
 
出題者「夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない」
回答者「え、当たり前でしょ?  〇っと」
出題者「×です。昼だって危険です」
回答者「はあ?  そんなのあり?」
出題者「公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある」
回答者「そんなの常識じゃん。〇」
出題者「非常時は例外です」
回答者「なんだよ、ふざけんな!」 
 

 うん、たしかに。
 これらの問題はびっくりするぐらい理不尽である。

 受けたことがない私でも「そんなのあり?」と思ってしまう。

 しかし、車の運転って「そんなのあり?」とびっくりすること、「ふざけんな!」と言いたくなるぐらい理不尽な出来事とは切っても切り離せないんじゃないだろうか。だとしたら、だからこそ自分の「当たり前」や「常識」をとりあえず疑ってみる素養が求められるのではないだろうか(運転したことないからわからないけど)。

 話がやっと終わりに近づいてきた。

 なぜ自動車運転免許の学科試験では「変な問題」が出題されるのか。

 結論を言おう。

 私が思うに、自分たちの「当たり前」や「常識」で目の前の問題に望む入門者・ニューカマーたちに、「きみたちの『常識』や『当たり前』でやっていけるほど車の運転って甘くないぞ」とか「路上に出るってことは思いがけないことや理不尽なことだらけなんだぞ」と伝えるためである。

 「変な問題」が回答者に要求していることは「正しく答えること」ではい。「疑い深くなること」なのである。なぜなら、それが正しい知識や的確な技術と同様に(もしくはそれ以上に)重要な、車を運転するための基本的素養だからである。
 一見して「無駄な問題」「おかしな悪問」に見えるが、このような問いを出題することを通して「簡単に決めつけて運転すると、痛い目にあうよ」と教えてくれるのならば、受検者の資格や素養を問う問題として十分に意味がある。

 私はそう思う。
 もちろん、私のここまでの考えは車のことなんてぜんぜん知らない人間が捏ね上げた屁理屈なのかもしれない。実際には出題者はなにも考えていない「バカ」なのかもしれない。裏には免許人口の調節やら警察当局の陰謀やらが存在するのかもしれない。
 確かにそうかもしれない。
 しかし、私はそのような「俺は正しい」という前提で頭を使い文章を書くことには興味はないのである(私には知りようがないし)。

 だって、「俺は正しい」って言いたいのなら、「俺は正しい」って書けば済む話だし。

 わざわざ頭を使う必要なんてない。

 誤解してほしくないが、それは私が私が語っていることを「正しい」と思っていないとか、「正しくない」と思っているということではない。

 そうではなくて、私は「自分は正しいと表現すること」よりも「自分が考えていることが正しいかどうかを考えながら表現すること」のほうに心惹かれるということである。

 私の興味は、私が正しいとしたらどこがどれぐらい正しいのか、私が間違っているとしたらどこがどれぐらい間違っているのか、つまり私の知性の実態でしかないからである。

 それにさ。

 仮に私の「かもしれない」が考えすぎだとしても、私はこの問題から「車を運転するときには用心深くならなくちゃ」と学んだのである。

 そういう意味で言えば、私にとって、この試験問題には立派な教育的意味があったと思いませんか。

 あ、車校行ってみたくなってきた。行ってみようかしら。

 そしてらやっぱり「あのクソ問題め!」とか思うのかもしれないし。