とある日本語教師の身辺雑記

日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります。

日記(ラーメン、パスタ、給湯器復活、パスタ、今週は「麺喰い」ばっかり)

18日(月)

8時半に起きる。

昨晩の「チョコレートビール」が効いて、軽い二日酔い。

白酒だけなら結構飲んでもめったに残らないんだけれど、二軒目でビールを飲んで「ちゃんぽん」になったのがマズかった。

反省。

しかし二日酔いで反省などするものではない。

ただでさえ頭は回っていないのだし、気分が滅入るだけである。

よろよろと身支度をして大学へ。

 

10時から1年生のみなさんと会話の授業。

ほかの専門から転科してきた学生さんが2人来ているので、最初の授業からいる学生さんたちに私について「他人紹介」してもらう。

がやがや90分おしゃべりして終了。

しゃべるとだいぶ頭と体がすっきりする。

 

お昼休みに自宅に戻り、麺を茹でたりどんぶりをお湯で温めたりしている間にトッピングの煮卵と白髪ネギとチャーシューを準備して、昨日仕込んだスープで「とんこつらーめん」を作る。

うまし。

スープはとんこつのコクにプラスしてカツオ出汁の深みもある。

背脂などは入れずにけっこうあっさり目に仕上げたので、スープだけおかわり。

二杯目は「かえし」を醤油と胡麻油多めにして、これはこれで美味しい「醤油とんこつ」。

ネットで「かん水」も仕入れたので、次回はぜひ麺も自家製にチャレンジしたい。

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満腹して眠くなるが、このあと14時からもう一つ授業があるので昼寝するわけにはいかない。

 

大学に戻り、授業が始まるまでの時間に、昨日頼まれていた日本語チェックのお仕事をサラサラと片付ける。

で、授業。

3年生の視聴説。

「仕事の流儀」(料理家 栗原はるみ)を見る。

見た感想。

やっぱり「親切心」は大切だよね。

栗原さんが言う「100人が作ったら100人ができるようなレシピを作る」という態度は、文章を書く際にも言える大切な態度だと私は思う。

「誰も言わないこと」や「みんなには理解されないこと」を綴れば、「俺はすごい」とか「自分は個性的だ」なんて言えるのだと勘違いしている人をたまに目にする。

だけど、(バカな考えすぎて)「誰も言わないこと」「誰にも理解できないこと」や(アホな言動過ぎて)「誰も反応をしてくれないこと」を繰り出すだけなら、恥や外聞を気にしなければ、誰にでもできることである。

それに「誰も言わないこと」や「誰にも理解できないこと」を言うことが凄いことであると設定した以上、そういう姿勢で他人に向けて言葉を発する意義はどこにあるのだろうか。

宛先もなく、理解されることも想定されていない言葉たち。

そのような言葉を自分の外に向けて繰り出す必要性は、どこにあるのだろうか。

「俺はすごい」といいたいなら、そういえばいいだけである。

「あー、そうだね。わかったわかった」の一言で対処可能だし。

5秒もかからないし、時間の節約になる。

 

私が考える言葉を差し出す上で大切なことは、自分なりの「見えたこと」を表現するという点では決して譲らず、同時に「100人いたら100人が理解できる」ための理路を準備しておくことに対しても、決して妥協しないということだ。

それを「矛盾だ」とか「迎合だ」としか捉えられないのは、ちょっと考えが乏しいと思う。

栗原さんの「100人が作ったら100人ができる」とは、決して「ハードル」をとっぱらったり、べたべたした「サービス」をしまくったりするという意味ではないと私は感じた。

むしろレシピを再現しようとする側へ最低限の態度や技術を要求することを通して、レシピを読む者に対する最大限の信頼や敬意を示しているのではないだろうか。

そんなことを考えた。

 

 授業が終わると疲れたので、16時には家に帰り、ありもので夕食を済ませ、19時過ぎにはベッドに入って眠りにつく。

おやすみなさい。

……。

しかしなぜだか21時にパッチリと目が覚めてしまい、眠れなくなってしまう。

ウイスキーの力を借りて寝付こうとするが、結局2時過ぎまで寝付けず、寝不足解消は明日へと持ち越しに。

ぐすん。

 

19日(火)

朝からスモッグで霞んでいる。

6時に目が覚める。

ねむい。

身体が鉛のよう。

それでも一限から授業なので大学へ行き、準備。

3年生の作文授業。

他人の文章を引用をする際に求められる態度や「客観性とは何か」などについてお話する。

言うまでもないことだけれど、他人の意見を山ほど引用したからといって、それで持論の「客観性」が担保されるというわけではない。

山ほど引用したところで、そうやって「引用する自分自身の主観性」から逃れきることは不可能だからだ。

だから、大切なことは、引用する際に「なぜ私は引用したのか」について自らの説明をはっきりと併せておくこと、そして引用の際に「この文章はどういうものなのか」と自分なりの理解を付け加えて明示しておくことである。(人文社会科学系の論文なら特に)

「この人はこう言っています。私もそう思います」だと、「この人のこう」と「私もそう」が本当に一致しているのか、そもそも「この人のこう」を「私」が本当に理解できているのかがわからない。

そのような引用では根拠にできるだけの説得力にかけると私は思う。

「この人はこう言っています。これを私はこうこうこんな風に理解しています。」と一言添えておく。

そうすれば、書き手の理解度や主観性を読者たちがはっきりとした形で検証できる。

そしてそうやって書き手の主観性を検証する機会や材料を読者に委ねることこそ、私が考える「客観性」を担保するために不可欠な態度なのである。

というのはあくまで私の主観的な意見である。

学生のみなさんはあくまで参考にしてくださいね。

 

授業が終わったあとは、14時半から給湯器の交換(やっと)が来る予定だったので、家に仕事を持ち帰る。

が、土壇場になって「今日は来ない」との連絡。

なんとなくそういう予感がしてたし、こういうことにももう慣れっこなので、気にしない。

気にしないが、なんだか急にやる気が失せる。

だって、楽しみにしていた「温かいシャワー」は明日まで持ち越しなのだ。

ぐすん。

ふて寝。

 

20日(水)

暑い。

明け方から強い南風がびゅうびゅう吹いているせいか、暑い。

空も雲が立ち込めて、雨を予感させる天気である。

8時に起きて、9時に大学へ。

10時の授業まで校正作業をする。

さらさら。

時間になったので1年生の会話授業へ。

一年生は相変わらず「陸揚げしたてのハマチ」みたいにピチピチで元気である。

対する私はけっこうバテ気味。

老いを感じる。

授業を終えて事務室に戻り、今日済ませる予定の校正を全部終わらせてから、市場に寄ってトマトを買い、帰宅。

13時半から14時半の間に給湯器の交換をしに来るとのことだったので、昼食(トマトとツナ缶のパスタ、人参と玉ねぎのサラダ、インスタントのスープ)を食べたあと、読書しながら待つ。

 

満腹になったこともあり、うつらうつら。 

そうしていると14時45分ごろにやっと業者が来るが、給湯器を持ってきただけで取り付けは明日するという。

がーん!

今日こそ「温かいシャワー」を楽しめると思っていたのに!

あああああ。

それにこっちも仕事があるので、そうしょっちゅう「この時間からこの時間まで家で待機していろ」というのをやられてはたまらない。

結構カリカリする。

拙いながらも十分に主張が伝わる中国語を繰り出し、明日の九時前後に絶対来るという約束を取り付ける。

まあ、仕方がない。

また土壇場で約束を変更される可能性があるけれども。

私が昔から今まで変わらずこの世で一番嫌いなのは、予定を急に変更されることである。(急に予定を入れられることも同じく嫌い)

その予定のためにこっちの時間を組み立て、その後のスケジュールも考えておくわけだから、変更されると単純に腹が立つ。

なんだか自分の時間が無駄にされたように感じられるからだ。

お願いだから、明日で終わりにしてください。

頼むから。

 

おっといかん、イライラしてしまった。

他人にイライラしてしまうと、他人にイライラしてしまった自分自身にも腹が立つ。

なので、気分転換にキッチンに立って料理。。

冷蔵庫を覗くと餃子の餡がまだ残っている。

餃子はもう飽きた。

なので、余った餡をソースパンで炒め、刻んで炒めた玉ねぎ、ネットで注文し今日届いた「トマトの水煮缶」と一緒に煮込んで、「ミートソース」にする。

明日のお昼に茹でたパスタにかけて食べよう。

夕食はにんじんと玉ねぎのサラダ、キャベツの塩昆布あえ、鮭とばとレモンチューハイ。

満腹したので「よつばと!」を読みながら、早めに寝る。

おやすみなさい。

 

21日(木)

7時起床。

空気が悪いようで、窓の外は灰色に霞んでいる。

8時過ぎに業者さんから電話があり、あと30分ほどで給湯器の取り付けに行くという。

『よつばと!』を読みながらゴロゴロ待っていたら、宣言どおり30分後にご到着。

キッチンに案内し「じゃあ、よろしくね」と給湯器の設置をおまかせする。

業者さんがキッチンでごそごそお仕事をしている間に、ちょこっと日記を書く。

書き終わったので堺雅人『文・堺雅人』を読む。

おもしろい。

文体から感じられるのは「半沢直樹」や「リーガル・ハイ」の演技とは正反対の人物像。

素朴で素直でいて、なおかつ自分の心境を深く掘り下げようという態度が感じられて、非常に好感が持てる。

文章の印象だけでいうけれども、『南極料理人』で演じていた西村君なんかは、けっこう素の堺さんに近いのかもしれない。(原作の西村君はけっこう性格が悪いけれど)

そんなことを考えながらパラパラっと読んでいるうちに、10時すぎに作業が完了。

おおおおおおお!

約1ヶ月ぶりにシャワーからお湯が出た!

感動。

業者さんを「ありがとう、お疲れ様」と見送ったあと、朝食と昼食を兼ねた食事(ミートソース・パスタ、にんじんとツナの胡麻風味サラダ、ほうれん草のスープ)をとる。

美味しい。

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そのあとさっそく久方ぶりのシャワーを浴びる。

蛇口をひねればすぐさまお湯が出る快適さを満喫。

思わず鼻歌交じりになる。

さっぱりしたあと、12時過ぎには大学へ。

まずは校正の続きをする。

とりあえず今日の分は終了。

そのあとは14時の授業まで2年生の作文を読む。

うーん。

全体的に「自分の思ったこと」や「考えたこと」が欠けている。

「感情」はたくさん書いてある。

「楽しかった」とか「悲しかった」とか「怒った」とかね。

でも、感情だけだと文章を深くすることは難しいし、自分が知らない新しいことを引き出すことも困難だと私は思う。

なぜなら、感情は「もうわかっていること」だからである。

「怒った!」と書いてしまった瞬間、「怒っているということ」は書き手にとっても読み手にとっても、自明の前提になってしまう。

そのあといくら「なぜ」や「どうして」を投げかけても、結局は「怒っている」ことを強化し、正当化する方向に向かうだけである。

「あいつが悪い!」とか「いかにムカついたか」とかね。

そういうのを詳しく描写しても、何も新鮮さや開放感は得られないだろう。

もちろん文才があればそういうことも可能なのかもしれないけれど、それは一般的ではない気がする。

それに正直、「私は怒った」など、個人的な感情で書いてしまうと、読み手にとっては「うん、で?」という文章になってしまうことが多い。

少なくとも私が読み手ならそういう反応をする。

冷たい事を言うようだが、私は学生さん個人の喜怒哀楽にはほとんど興味を示さない。

だって、学生さんたちは「私のアイドル」でもなければ「私の恋人」でもないからね。

「感情」だけで乗り越えられる他者の壁は、けっこう少ない。

より遠くに感じられる人間に読んでもらうためには、「感情」だけでは心もとないと私は思う。

だから私が学生さんたちに求めたいのは、「感情」ではなく「感覚」である。

ここでいう「感覚」とは、疑問や違和感である。

疑問や違和感とは、つまり「すっきりしていない」から生じる。

「すっきりしていない」のは、それが既存の言葉や手持ちの考えでは説明できないからである。

それを自分で自分に説明するために私たちはこの授業で文章を書くのであって、決して「感情」を吐き出してすっきりするために書くわけではない。(それでもいいけれど、そのような文章は公共性を決定的に欠いていると思う)

親しい人間だけに向けたsnsやおしゃべりなら、「ムカついた」とか「悲しいよ」だけでも十分伝わるかも知れない。

でも、そういう言葉の射程は短いし、新しさや面白みがない。

言葉の射程を伸ばし、自分とは遠く離れた他人にでも「伝わる」ような力を持たせるためには、自分自身が心の底から感じるような疑問や違和感、「声にならない思い」を拾い上げるところから始めるしかない。

私はそう思う。

で、問題は、この私の考えをいかにしてお伝えすればいいかという問題である。

頑張ろう。

 

そういうことを考えている間に時間が来たので、14時からひとつ授業をこなす。

 授業後、追試を受ける学生さんのために追試験をひとつ実施。

終わった頃には17時を回っている。

基本的に私は17時で「閉店ガラガラ」である。

以前は家にまで仕事を持って帰って遅くまで作業していたが、結果的に見ればパフォーマンスが低下しただけだった。

やっぱり早めに家に帰って、毎晩自分でごはんを作って、洗濯をし、ゆっくりお風呂に入ることは大切だと思う。

それも「仕事」の一環ではないか。

別に言い訳をしているわけではない。(言い訳すべき相手もいないし)

ということで、家に帰る。

 

家路にて、ビラ配りのバイトさんたちが歩道橋の上でビラ配りをしている。
ビラを受け取った人たちは、それを一瞥し歩道橋を降りてゆく。
すると歩道橋の下には「古紙回収」のおばあさんが待ち構えており、人々がさっと目を通し終わったビラを回収し、袋に収めている。
まあこれを「リサイクル」と考え、エコロジーと呼ぶべきか、そもそもその程度にしか見られないビラに紙資源を使うことを「資源の無駄」というべきか。

ちょっと考え込む。
とりあえず、こんなに寿命が短いビラ、私はかつて目にしたことはない。(ポイ捨てされたビラは捨てられた後も人目に入り続けるからね)

 

そんなこと考えていても何にもならないので、さっさと帰宅し夕食。 

「鮭とば」と「こんぶとアサリの佃煮」と「にんじんサラダ」を食べ、レモンチューハイをちびちび飲みながら、明日のお弁当を仕込む。

七時過ぎにお風呂に入る。

給湯器があればこんなに速くお湯がバスタブを満たすのだと感激。

ゆっくりお湯に使ったあとは、ウイスキー・ロックで涼みながら田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』を読みながら、就寝。

 

22日(金)

晴れを予感させるような曇り空。

薄手のダウンジャケットを着ないといけないぐらいの肌寒さ。

 目覚ましに叩き起こされる前に6時に目覚める。

8時から授業なので、顔を洗って支度。

蛇口をひねればお湯が出る便利さを噛み締める。(昨日もこんな表現したな)

7時には大学へ。

とちゅうで買ったサンドイッチ(3元)と牛乳(2.5元)に事務室に備蓄しているインスタントスープ(コーン味)を朝食としていただきながら、授業の準備をする。

 

で、授業。

2年生の作文。

基本的に頑張って書いている。

むしろ今までの学校作文で学んだことを忠実に守っているといっても良い。

そういう点で努力の痕跡が見えることは事実だ。

でも、昨日も少し書いたが、現在の彼ら彼女らの作文には形式面でも内容面でも課題がある。

とりあえず原稿用紙の使い方についてお話する。(これは形式面、日本と中国では原稿用紙の使い方も違うからね)

そのあと、「何をどう書けばいいか」について、お話する。(これは内容面)

とりあえず「感情」と「感覚」の違い、「わかっているからつまらない」「わからないから面白い」という視点、「自分の感じたことを表現すること」と「人に伝わるコミュニケーション」との関係について、私の意見をご紹介する。

簡単に言えば、私が学生諸君に求めたい作文とは、次のような構成からなる。

 

・「わからない」の発見

・「わからない」の描写

・「わからない」の説明

・「わかった」の提示

・新しく出てきた「わからない」の描写

 

ご覧のとおり、キーワードは「わからない」という感覚である。

単なる感情だと、そのような感情をもとにして書かれた文章の伝わる範囲は、親友や家族など、とても狭い範囲に留まる。(書き手がよっぽどの文才ある人間か、はたまたアイドルや有名人でない限り)

しかし、もし「わからない」という感覚から描写されるものごとが「わわわ、その疑問ってなんかドキドキするね」という我々の普遍的な知的好奇心や感性の琴線に触れるものだったならば、そのような「わからない」から展開される文章の届く範囲や伝わる力は、「感情」に頼った文章よりも、広く、強いものになるのではないだろうか。

以前、アニメ監督である庵野秀明が「ようこそ先輩」(NHK)に出演した回で、こういっていた。

 

 「自分で感じたもの」っていうのを大事にしてください。「自分自身の答え」っていうのを皆さんで考えてください。学校のテストっていうのは答えがひとつしかないんで、それから違う答えを書いちゃったら×になったり△になったりするんだけど、実際の世の中っていうのは、そんな〇か×かだけじゃないんで、自分自身で考えてそれを言葉なり絵なりで表現をする。それが人に、他の人にコミュニケーションとして伝わるわけなんです。それを大事にしてください。

 

私は創作について語る庵野が「コミュニケーション」という言葉を使っていることに「なるほど、そうだよな~」と納得する。

創作とは、結局のところ、「私」と「みんな」が「私であり、私ではないもの」を通してコミュニケーションする人間的活動なのだと思う。

「私であり、私ではないもの」とは「私」が創作したものごとである。

なぜそれが「私であり、私ではない」のかというと、それは確かに「私」の一部ではあるが、同時に「私」の理解や範疇を離れて初めて存在するからである。

なぜ自らの創作物が創造主である「私」の理解や範疇を離れるような存在として「私」自身に感じられるのかというと、結局のところ「私」は「わからない」から作り始めたためであり、作っているときは無我夢中で「私」など消え失せているためであり、作り終わったら作り終わったで「私」にとって「つくるはずもなかったものができちゃった」からである。

つまり、その活動の全過程において「私」の支配から独立して運動してゆく「結局、よくわからない」ものこそを創作物と呼ぶのである。(私の勝手な理解だけれども)

学生さんの作文に共通するのは「巧い作文を書こう」とか「自分が言いたいことを正しく書こう」としている点である。

これはまさに学校作文の考え方だけれども、こういうのには「模範」があるので、結局みんなそれを真似してしまう。

真似することが「他の人にコミュニケーションとして伝わる」とは私は思わないし、そういう文章が「面白い」とも私は思わない。

それに第一「自分が言いたいこと」というのは「もう、わかっていること」なのであって、そういうものを紙に書き出していく作業は、書き手にとってもあまり愉快なことではない。

それに書き手が「もう、わかっていること」とは読み手にとっても大抵「もう、わかっていること」なので、そうやって綴られた文章は、読み手としても面白くないのである。 

 

これまたNHKの番組で(仕事の流儀だったかな?)庵野さんの師匠である宮崎駿が、こんなことを言っていた。

 

「子どもたちにこれを伝えたいから映画を作る」ってのはかっこいいけど、あんまり信用してないんですよね。世の中で一般的にいっぱい言われているような「こういうものを訴えたいから」。しかしそういうので作品を作るのはくだらないものです。「命は大切」って、それなら「命は大切」って書けばいいじゃないですか、それでそういうふうにテーマを簡単に抜き出せるものはみんないかがわしいと思いますね

 

彼は常に「わからないからつくる」と口にしている。

私はこれを「彼は天才だから」とか「一般人には一般人なりのやり方がある」というふうには片付けない。

「無我夢中」とか「我に返る」とか、そう言う言葉が示しているように、私たちは単なる「私」を超えて何かを見ることができる存在だし、そこで見たものを再現した成果を介して、遠く離れた他者と繋がることができる存在であると私は思う。

作文の教育的意義はそのことを自分自身で体感することにあると思うし、「正しい書き方」とか「起承転結」とか「美文」とかは、その「後の後」ぐらいでいい。

 

授業が終わったので、事務室に戻り、今日の分の校正作業をサクサク進める。

サクサクサクサク……。

終わったので、気分転換に40分ほど散歩に出る。

戻って来た頃には、ちょうどお昼どき。

お弁当(にんじんとツナのサラダ、煮玉子、チャーシュー、あさりと昆布の佃煮、ピクルス、というあり合わせ詰め込み弁当)と野菜スープで昼食を済ます。

コーヒーを淹れたあと、14時の授業まで校正を続けつつ、事務作業を片付ける。

 

時間が来たので授業。

午前に引き続き2年生。

科目は「会話」。

今学期試している「疑問や問いのシェア」を実践。

題材はアニメ『ピンポン』(松本大洋原作)の第10話。(ペコとドラゴンの一戦)

『ピンポン』の言い回しや描写には「謎」が多く仕込まれていて、私は見るたびに解釈欲求を刺激される。

学生の皆さんにも、より深く広い理解に達するために、たくさんの疑問を幅広い角度から出してもらう。

この授業でシェアした疑問や問いは作文課題として利用するので、一石二鳥である。
ちなみにこの10話は、それこそ上に書いた「無我夢中」とか「我に返る」とか「飛ぶ」とか、いわゆる「没我」がもたらすブレークスルーが描写されている。

背景をよくよく見てみると、会場の横断幕にも「無我通天」とか「飛翔」とか、そういう「らしい」言葉が。

ドラゴンがペコに引っ張られて「ゾーン」に入って卓球の面白さに再開するシーンなんか、まさに「夢中」ですよね。

ああいう心理描写や「飛ぶ」のメタファーが可能なのは、作者自身が漫画を描きながら「私」から飛び出したことがあるからだと、私は勝手に思う。

 

授業が終わる頃には16時。

 近くの大型スーパーによって、「アゲマキ貝」や「牛肩肉」などを購入。

早速家に帰り、換気扇の下に電熱網焼き機をセットし、大ぶりに切った牛肉ににんにくを刷り込み塩と粗挽きブラックペッパーをまぶしたものを網に「ダーン!」と乗せ、焼いていく。

ピーマンやニンニクの葉など野菜もちょこんと載せて焼く。

飲み物は赤ワイン。

1週間よく頑張ったので、今日ぐらいは肉を食べてもいいのだ。

直径15センチ、厚さ2.5センチはある牛肉をぱくつく。

うまい。

オージービーフなので脂っこさもないし、事前に念入りに筋切りしておいたので柔らかい。

パクパク食べながら、今日届いた「乾燥粉末バジル」を何気なく手に取る。

 最近久しぶりに「パスタ熱」が再来しているので、ネットで安くで買ったのだ。
で、ラベルを見てみたら、こう書いてある。

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うーん、この「保質期」のとなりに印刷されている「2019.03.20」というのは、下の段の「生産日」がズレて印刷されてしまったのかな?
まあ、でも注文したのはまさに今年の3月20日の夜なんだよね。

もちろんお店が私の注文を受けて直後にパッケージした可能性はある。(それを「生産日期」と呼んでいいのかはさておき)

でも、さすがにそこまでめんどくさいことはしていまい。
ということは、このバジルは私のもとに発送された時点で、すでに「質」が失われているのである。

返品し「新しいのを送れ!」というのが普通なのだと思う。
でも、私は「バカ舌」だし、なによりズボラだから、そういう細かいことは気にしないのだ。

 

満腹し、温かいお風呂にゆっくり浸かったら、もう眠い。

ベッドに入り、田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』のページを繰っているとすぐに眠気に襲われ、就寝。

 おやすみなさい。

 

「変化すること」と「変化しても変化しないもの」について

私の授業を受けたことがある学生さんたちはご存知だと思うが、私は学生さんたちに毎週日記ならぬ「週記」を書かせている。

その一週間にあった出来事と自分の思ったこと、感じたことを作文してくるという課題だ。 

今の大学生たちがどんなことに興味を持ち、どんな日々を過ごしているのか、一教師としても一個人としても非常に興味津々なのでこういう課題を課しているのだが、時々困った表情でこう私に訴えてくる学生さんがいる。  

「先生、私の生活は毎日同じで変わったことがなにもないから、この課題は苦痛です」

このような言葉を聞くたび、私はいつも考え込んでしまう。

毎日の生活が同じで変わらないということが、本当にありうるのだろうか?

たとえば、言うまでもないことだが、季節は絶えず変化している。

春が深まるごとに東の空が赤く染まり始める時間がだんだんと早くなり、それに誘われ鳥たちの鳴き声も少しずつにぎやかさを増す。

出勤途中に見かけた小さなつぼみが、春の暖かさのおかげか翌朝には大きく花開いていることはよくあることだし、花が咲けばふわりとした春風の中にも柔らかな春の雰囲気がますます増してくる。

浮かれ気分に任せ近くの公園まで足を伸ばせば、春の陽気に誘われた人々がさまざまな春の楽しみ方をしている。

凧揚げを楽しむ人、冬のあいだ干せなかった布団を思う存分干す人、気の合う仲間と芝生の上でバーベキューをする人、仲睦まじく手をつないで歩く恋人たち、バドミントンに興じる若い子連れの夫婦などなど……。

私の家から半径3キロメートルの世界だけとっても、こんなにはっきりとした変化が日々起きている。  

古人いわく「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。

実際には、花の咲き方ですら年によって微妙に違う変化がある。

いわんや人をや。

いうまでもなく、私たちは日々変化している。

ここでいう変化とは、昨日や一昨日、一週間前、一年前、つまり過去の自分と比べた時に変わっているかどうかということだ。

それは身体的に発達し、成熟し、老い衰えてゆくという意味だけではない。

昨日までは見えなかったことが見えるようになかったり、感じなかったことを感じられるようになる、そんな内的な変化もあるはずだ。

みなさんにも覚えがあるかと思うが、私は自分が小さいころによく遊んでいた場所を大人になって訪れるたびに「ここはこんなに狭くて小さかったのか……」と愕然とすることがよくある。

よく登った木も、必死でペダルをこいだ坂も、ワクワクドキドキさせてくれた洞穴も、すべてが小さくなってしまったように感じる。

当然、それらが小さくなったのではない。私が大きくなったのである(縦にも横にも、ね)。

内面の成長も同じことである。

以前の自分を現在の自分から見たときに「小さく感じる」、そういうときがある。

例えば、過去の自分が書いた論文や日記、酔っぱらった時に書き散らかした雑記メモを見るたび、私は枕で顔を隠しベッドの上をゴロゴロ転げまわりたくなるような恥ずかしさを覚える(こういう文章とかは特に)。

でも、それは恥ずかしいことではない(決してそうではない)。

過去の自分は自分なりに一生懸命やったのだ。それを「小さく」「恥ずかしく」感じるのは、ただ単に私が変化したから、つまり成長した過去の自分の未熟さに目を覆いたくなる、それだけのことだ。  

おそらく、毎日が変わらないのではない。

日々の微小な変化に自分が気づけていないだけなのだ。

そしておそらく、そのような人間は自分自身の微小な変化にも、気づくことができていないし、それらの取るにならないような、しかしとても貴重な変化のサインを大事にし育てていけない人間は、成長することも難しい。

私はそう思う。  

ばっさり言ってしまえば、週記を書く際にその一週間の一日一日が同じに感じるというのは、その一週間全く変化していない、つまり成長していないということだ。

それが一ヶ月、一学期、一年、四年、十年、……と積もり積もって行けば、体と態度だけ大きくなった、「見た目は大人、頭脳は子供」(コナン君の逆だね)のオジサン、オバサンの完成である。

うー、考えただけで恐ろしくありませんか?

私は自分がそうなってしまうのが恐ろしい。

だから私は、こうしてささやかながらカリカリと、自分の思いを書き綴るのである。

 

 

というこの文章、2年前のちょうど今頃の私が書いたものである。

そういえば「週記」なんて書かせていたね。(あまりに仕事が増えてしまうのでもうやめてしまったが)

こうやって自分で読み返してみて、文体やキーワード(この文章だと「成長」と「変化」)が今とは違うことに気づいた。

今の私は2年前ほど「成長」や「変化」にたいして、ここまで初々しい思いを抱いてはない。

けれど、言っていることは、だいたい今も同じことである。

私はようは自分の言葉や自分自身に「空気穴」を確保しておきたいだけなのである。

そして、その「空気穴」を塞ごうとする言葉や人間が、私は大っ嫌いなのだ。

私がよくある定型文で書かれた文章や、受け売りばかり話す人間や、「俺はすごい」と(言外に)言い張る行為を嫌うのは、それが「正しくない」とか「間違っている」からではない。

単に「息苦しい」からである。

そして、もし自分自身がそういう言葉を繰り出したり、他人の言葉を移動させるだけだったり、「俺はすごい」という態度で振舞ったりしているのならば、それは自分で自分を窒息死させているわけであり、そのことに自分で気づけていないということは、「愚かなこと」を言う以上に愚かなことだと私は思う。

思えば卒論を書いた頃から比べれば、語彙や表現や文体はだいぶ変化してきているが、しかしこの「隙間を縫う」ように書き、「空気穴を求める」ように語りたいという欲求だけは、一度も変化していない。

おそらくそれが私にとっての「いくら変化しても変化しないもの」なのだろう。

自分の「いくら変化しても変化しないもの」は「今」の経年比較でしか浮き彫りにならない。

だから、やっぱり「書く」っていうのは大切な作業だと私は思う。

週末日記(餃子を包み、とんこつを煮る)

16日(土)  

10時起床。

ねむい。

なんだか体の奥底から疲れを感じる。

このまま一日ベッドでダラダラしていたいが、経験上、「疲れたし、ダラダラするか」という姿勢で一日を過ごしてしまうと、かえって疲れがたまってしまう。

なので、頑張って起きる。

今日は餃子を作るつもりなので、とりあえず市場にゆき、餃子の具材を買う。

なぜ餃子を作る(というより「包む」)かというと、昨日の夜キッチンドランカー状態でお酒を飲んでいたら手持ち無沙汰になったので、なんとなく小麦粉から餃子の生地を仕込んでしまったからである。

別に餃子を食べたかったわけではなく、生地を打ちたかっただけ。

とはいえ、皮を作ってしまった以上、包まねばなるまい。

というわけで、市場へ餡の具材を買いに行くのである。

「市場へ行く」という言葉はなかなか日本にいた時には使わなかった言葉だが、いいね。

言葉に温かみがある。

訪れた市場は家から徒歩で5分程度の場所にある。

ちょっと割高だが、野菜が新鮮で品数も多い。

いろんな色をしたいろんな果物がいろんな形で並んでいる。

よく晴れた休日の昼前ということもあり、とても賑わっている。

ものを売る人や買う人、冷やかし程度にぶらぶらしている者、野菜やら果物やらがひしめき合った売り場を所狭しと走り回る子どもたち、そんな光景をすっかり見飽きたものかのような目つきで見つめているワンちゃんまでいる。

なぜだか市場の犬にはこの世の真理を知り尽くした思想家のような雰囲気がある。

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まずは肉屋さんで豚肉を買う。

ミンチが欲しかったのだが売ってなかった。

ミンサーがおいてあるので、「挽いて」といえば挽いてくれるのだろうが、あいにく「肉を挽く」という語彙が私の中国語にはない。(いま事務室にいたO先生に聞いたところ、「肉を挽く」は绞肉,「挽肉」は肉馅とのこと)

6年も中国で生活しておきながら、今日まで「挽く」という単語を知らなかったということは、私はあまり「挽肉」に興味がないということなのだろう。

語彙に好みが出るね。

仕方がないので塊のまま買って帰って、家で包丁を使いミンチにすることにする。

肉を買ったあと、野菜売り場で「にんにくの葉っぱ」「長ネギ」を購入。

とりあえず買い出しが終わったので、昼寝。

3時に目覚める。

夕食の準備。

豚肉を細切りにしたあと、中華包丁と出刃包丁の二刀流でガンガン叩いてミンチにする。

それをボウルに放り込み、「にんにくの葉っぱ」「長ネギ」のみじん切りや「とうもろこし」を加え、卵をつなぎとしてひとつ割り入れ、鳥ガラスープの素、オイスターソース、醤油などなどで味付け。

そうやって出来た餡を自家製餃子の皮で包み、茹でる。

銀色夏生『つれづれノート』を読みながらビールとともにちゅるっといただく。

うまし。

満腹したので、寝る。 

 

17日(日)

8時半起床。

唐突にとんこつラーメンが食べたくなった。

バスで30分ほどのところに「味千ラーメン」があるし、大学のそばに「一蘭ラーメン」のパチもん「蘭池ラーメン」があるのだが、高いし味もイマイチ。

ということで、自分でスープから作ることにする。

散歩がてら歩いて杏花公園近くのスーパー行き、まずは招き猫がイラストされたラーメンどんぶりを買う。49元。

その帰りに市場で「げんこつ」(豚の大腿骨)や一緒に煮込むための野菜を買い、とんこつスープとチャーシューを同時進行で制作。

まずは「げんこつ」をさっと洗ったあと、下茹で。

下茹でしたものをさらに水洗いして汚れや血を落としたら、長ネギと一緒に鍋に放り込み、アクが出てくるまで煮込む。

アクを取りきったら、にんにくやにんじん、昆布なんかと一緒に30分圧力鍋でさらに煮込む。

圧力鍋の圧が抜けるのを待つ間、グランドに行き、5キロほどジョグ。

圧力鍋で煮込んだおかげでだいぶ「ホロホロ」になった「げんこつ」を、もっと大きな鍋に移し替えて、鰹節をくわえ、さらに2時間ほどグラグラ煮込み続ける。

こうやって17時過ぎまでスープ作り。

なぜだか知らないが、私はこうやってキッチンに立って何かを煮込んだり、出汁をとったりしているとき、すごくやさしい気持ちになることが多い。

たとえそれを口に入れるのが自分だけだとしてもだ。

たぶん、その「口に入れる自分」はまだ存在していないにもかかわらず、そのような存在のために今を使うという作業に、「やさしさ」を感じさせる何かが含まれているのだろう。

料理は本質的に他者に向け、時間をオーバーラップするものだ。

そういう営みをできる自分の「優しさ」に自分で感動しているのかもしれない。

コツコツ煮込む作業は、まさに時間という要素が全面に出るからね。

そんなことを考えながら寸胴鍋と向き合っていたら、電話がかかってきて、夜に会食の予定が入る。 

「日曜日はネジを巻かない」ので基本的に他人には会わないのだが、食事のお誘いは嬉しい。

ということで、夕方から家の近くの安徽料理屋さんで食事会。

 「ガチョウ」や「チンジャオロース」などの美食と美酒をたっぷりいただく。

二軒目で「チョコレートビール」なるものを試したりしている間に、あっという間に11時すぎ。

慌てて家に帰ってコンロでお風呂を沸かし(まだ給湯器は直っていない)、お風呂に入って就寝。

ラーメンは明日のお昼にします。

日記(新学期第二週目、というかこれじゃ「週記」だな)

 

 

11日(月)

新学期第2週目。

先週同様、1年生の会話と3年生の視聴説が入っている。

1年生のクラスは雰囲気もよく、順調に進む。

今日は教科書を使って「~は…です」「~も…です」「~は…ではありません」「…でもありません」などの文型を練習したあと、パワポで「ばなな」や「りんご」、「すいか」などの写真をお見せしつつ、「ばななは果物です、野菜ではありません」などと語りかける。

1年生の諸君は「なにいってんだこいつ」みたいな目で見ていたが、ちょっとまってね。

ちゃんと意味あるから。

もっとも重要なのは、

「いちごは野菜ですか? 果物ですか」

という質問なんです。

学生さんはくちぐちに「果物!」とお答えになる。

よろしい。

ならば「すいか」は果物だろうか。

「果物!」

ふふふ、本当にそうだろうか。 

はい、みなさん。スマホで調べてみてください。

いかがだろうか。

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、「すいか」は「野菜」であるとされているのだ。

私が勝手に言っているのではなく、ご覧のとおり、農林水産省がそう言っているのです。

 

農林水産省では、園芸作物の生産振興を効果的に推進するため、概ね2年以上栽培する草本植物及び木本植物であって、果実を食用とするものを「果樹」として取り扱っています。
従って、一般的にはくだものとは呼ばれていないと思われる栗や梅などを果樹としている一方で、くだものと呼ばれることのあるメロンやイチゴ、スイカ(いずれも一年生草本植物)などは野菜として取り扱っています。

果樹とは:農林水産省

 

学生さんたちもそれぞれ「野菜と果物」について解説するサイトや記事を発見し、読みながら「はぁ?」「うへ!?」などと言っている。

だよね。

いくら農学や食品管理の専門的知見から「すいかは野菜」と言われても、やっぱり「スイカやメロンが野菜」って、一般的な生活感覚だとなかなかピンと来ないよね。

「納得できますか?」と聞くと、「できませーん」とのこと。

そうだね。

じゃあ、来週は「野菜と果物の違い」について、自分の考えを発表しましょう。

他人の意見や考えじゃないですよ。

自分で自分を説得できるような自分の言葉で説明してください。

 

この「野菜と果物」については、以前「ガキの使い」で松本人志がフリートークのネタにしていた。

その中で松本は、「何が野菜で何が果物か論争」が永遠の課題であることを指摘し、よく耳にする「木になってるのが果物で、土から生えるのが野菜」説や「甘いのがフルーツで、甘くないのが野菜」説に対して痛烈な批判を加え、「フルーツトマト」なる新たなトリックスター的存在の出現について確認したあとに

「マヨネーズでイケるのが野菜や!」

という新説を唱えたのである。

私はこの一連の思考過程は、まさにコミュニケーションや研究という人間的営みを体現していると思う。(「いやいや、それはどうか」という新たな議論の呼び水となるところまで含めて)

だから「野菜と果物論争」と松本人志の「マヨネーズでイケるのが野菜」という補助線的仮説を、導入のための題材として、ときどき学生さんたちにお話しているのである。

1年生の諸君も松本さんのように「斬新である程度の説得力があるが、その新説によって却って議論が紛糾する」ような「おもろい」考えを準備していただきたい。

 

どうでもいいことだが、学生に配布されている教科書と私の手元にある教科書は版が違うらしく(私のほうが古い)、例文や単語が細かいところで一致していない。

「田中さん」「王さん」のような人名まで語彙の欄にあって、授業の最初にいっしょに発音練習していた時に発覚したのだが、私の教科書の語彙欄にはしっかりと書いてある「林さん」が、学生さんの教科書から消えている。

林さん、なにをしでかしたんだろう。

気になる。

 

午後は視聴説。

これまで和牛の漫才をたくさん見たので、実際にこのコンビがどのような奇跡を辿り、どのようなことを考えているのかに注目した番組を見てもらう。

ふたりの出会いから浮き沈み、互いに支え補う合う関係を、みなさん食い入るように見ている。

何人かの学生さんの口から「これ、夫婦じゃん」みたいな言葉が漏れる。

そうだね。

漫才という文化は人間のコミュニケーションや言語の本質について切り込むいい題材になると私は思う。

 

12日(火)

朝から快晴。

キャンパス内にはイベント勧誘をしている学生さんたちが使っているテーブルやらテントやらが置いてあるのだが、それらをひっくり返し吹き飛ばすほど強い風が吹いている。

それでもコートを着ずとも出勤できるほどの暖かさ。

「春一番」かしら。

 

理由や背景はまったくの不明なのだが、図書館前の広場にある池にどこからか白鳥が1羽突如出現して、朝からガーガーギーギーやっている。

数十メートル離れた外国語学院の5階からでも十分にうるさく感じるほどである。

事務室から見下ろしてみると、珍しいものずきの学生さんたちがおずおずと近づいて、写真をぱしゃぱしゃ撮ったり、遠巻きに眺めたりしている。

同じ合肥市内では、安徽大学や工業大学がキャンパス内の湖で白鳥や黒鳥を放し飼いにしているが、うちもそういうの始めたのかしら。

でも、だとしたら1羽だけってのも妙な話である。

とすると、どこからか迷い込んだのか。

しかし、いったいどこから。

まったくもって「春の珍事」であるが、そんなこと気にしても仕方がないので、仕事に取り掛かる。

 

今週は偶数週なので、今日は8時からの授業に加えて16時からも授業(2年生の会話)がある。

しかし明日とあさっては「真っ白」。

あさっては午後から中国の大学院を受験する4年生向けの面接練習に付き合う予定になっているが、私にとってこういう作業は仕事というよりも好き勝手に「半畳を打つ」楽しい娯楽であるので、気楽である。(もちろんちゃんと真面目にやるけどさ)

だから気分としては、まだ火曜日ではあるが、ほとんど「週末」のようなものである。

8時から3年生の作文授業。

今週は「他人の研究やデータを引用する方法」について、その方法や技術はもちろん、理念についてまでお話する。

3年生は真面目で素直な学生さんが多いので、私語をすることもスマホをいじることもなく、ちゃんと話に耳を澄ませている。

よいね。

ちゃんと話を聞いてくれる学生さん相手だと、声を大きくしたり、同じことを繰り返したりする必要がない。

結果的に私の話も聞きやすく、わかりやすいものになり、学生さんたちはますますちゃんと聞いてくれるようになる。

対して学生さんたちが「おれ、お前の話なんか聞きたくなかけんね」というオーラをバンバン出しているクラスだと、「俺の話を聞け!」という態度になってしまい、口角泡を飛ばして大声で喚き散らし、話す内容がループし、それを聞いている私自身も退屈し、しまいには「もう、今日はやめときましょう」となってしまう。

それを思うと、このクラスは非常に授業がしやすい。

ちゃんと聞いてくれてありがとう。

頑張って聴く価値があることをお話できるよう、頑張ります。

 

授業のあとは事務室で2年生の作文を少しだけチェックする。

11時頃までやったあと、お腹がすいたので一旦家に帰り、昼ごはんとして、昨日タネを仕込んで寝かせておいた「自家製中国クレープ」を焼いて、薄くスライスしたトマトやらピクルスやらチーズやらをロールしたものとポトフを作って食べる。

満腹したので、1時間ほど昼寝。

うちの大学は冬季は二時間、夏季は二時間半の昼休みがあるので、こうして昼寝をして頭をすっきりさせることができるのがありがたい。

昼寝から起きたあと午後に大学に戻り、16時の授業まで、午前中にチェックしきれなかった残りの作文をさくさくチェックする。

2年生は今学期「日本語専攻4級試験」という、日本語を大学で専門として学んでいる学生向けの大切な資格試験を控えている。

この試験にも作文はあるので、その対策もしなければならない。

「4級試験」対策用のクラスが特別に開かれていて、そのクラスを担当されているのは中国人のO先生である。

今回は私の作文の授業で書いてもらう作文のチェックを、私とO先生とが連携して行うことにした。

正直な話、日本語の文法指導に関しては、私はほとんど役立たずである。(そっちが専門ではないし)

たとえ日本語の文法指導を専門的に学んでいたとしても、それでもやはり中国人の先生が中国語で指導したほうがいい。

だから、私は日本語の修正や論理の流れや心理描写云々について、学生さんにあーだこーだ言いはするが、こうやって中国人の先生と役割分担が可能ならば、それが一番だと思うのである。

 

 チェックしているうちに時間が来たので、教室へ。

2年生の会話。

2年生は今学期時間割がギュウギュウにつまっているので、たいへんお疲れの様子である。

教科書に「油を売る」(闲聊,偷懒)という慣用句が出てきたので、せっかくだから和ませてあげようと思い、「ガソリンスタンドで油を売る」という即興で思いついたジャパニーズ・ジョークを繰り出す。

結果、見事に滑る。
悲しい。

しかも日本語教師としては立場上「油を売る」という慣用句を解説しないといけない。

よって、「『油を売る』って『サボる』ってことですよね。で、ガソリンスタンドの仕事って『油を売る』ことでしょ? じゃあ『ガソリンスタンドで油を売る』って、仕事してるのか、サボってるのか、どっちかわからないよね? ね、面白くない? ねえ!」というふうに、結果として自分のジョークの笑いどころを解説するという地獄のような状態に追い込まれる。

さらにこのことをウィーチャットに書いたら、安大のI先生から「ジャパニーズ・ジョークというよりオヤジギャグですね」と「一针见血」コメントをいただき、ぐうの音も出ない。
こうして書き出してみて気づいたが、たしかに全然面白くないね。

つまらない話聞かせちゃって、ごめんね。

 

13日(水)

 授業が入っていないので、8時に起床。

窓の外には雲一つない青空が広がっている。

今日は自分の作文の授業を録音したものを文字起こしする作業に終日費やすつもりなので、ちゃちゃっとお弁当(干し鮭、ピーマンと人参のこんぶあえ、チーちく・キュウちく、)を用意し、ネットで買った「保温保冷のスープジャー」に野菜スープをいれて、大学へ行く。

私はけっこういろんな側面や性格を併せ持つ人間であり、「他人に興味がない」「おおざっぱ」とかいう性格とは相反するような「エプロンつけてキッチンに立つ」「手料理を振る舞うのは嫌いではない」という側面も併せ持つ人間なのである。

さらに、これらのさまざまな人格からどの人格を採用するかを決定している「私の私」がとても気まぐれで飽きっぽいので、結果的に私は先週まで洗い物が散在していたキッチンを急にピカピカに磨き上げたり、外食ばっかりだったのにある日突然毎朝早起きしてお弁当をいそいそと用意し始めたりするような、無節操な変化を遂げることを繰り返すのである。

まるで多重人格や人格分裂のようであるが、私の勝手な理解では、そもそも病的な人間は「俺は人格が分裂してる」とか「節操なく人格がくるくる変わっている」とかいう事実そのものを認識できないのであって、そういう点では私は「正常」なのである。

そんなことを考えながら出勤し、ランチボックスを座右にぽんと置いたあと、2時間ぐらい文字起こしをする。

あまり自分の声を自分で聞くのは好きではないのだが、仕方がない。

それに自分の授業を自分で聞くというのも、これはこれで意義があることである。

導入部分を文字起こし終わり、3000字近い文章となったものを読み返してみる。

やっぱり考えながら喋り、喋りながら考えているので、論考が急にぐっと深まるような文体にはなっていない。

それに学生さんたちに理解しやすいように比喩や事例を「これでもか」というぐらい多用しているので、話がくどい。

とりあえず全部文字に起こし終わったあとに、語り口や文体をいじることにする。

 

12時になったので昼食を取り、腹ごなしに散歩する。

昨日突然姿を表した「白鳥」は依然としてキャンパス内の池に浮かんでいる。

近くで眺めていたら、となりにいたおばあさんに「あれは動物学院が放したガチョウだよ」と話しかけられる。

あら、白鳥じゃなかったのね。

まあ、「白い鳥」だから「白鳥」でもいいじゃんね。

昨日ガーガー騒いでいたのは、おそらく突然見知らぬところに放たれたからだろう。

新しい環境に慣れたのか、今日はすっかり落ち着いて、湖面を悠々と泳いでいる。

でも、ガチョウってことは、それってつまり「食材」ってことだよね。

ハクチョウという響きだと食欲がわかないが、ガチョウといわれると途端に「美味しそう」と思ってしまうのはなぜだろう。

そんなことを思いながら、おばあさんとふたり湖畔に立って、ガチョウくんを見つめる。

おばあさんも水面をスイスイ泳ぐガチョウを眺めながら、「一般の人に食べられちゃうかもね」とか言っている。

ガチョウくん、頑張って強く生きるんだよ。

 

オフィスに戻り、4時まで仕事をする。

適当なとこで切り上げ、帰宅。

30分ほど走りに行き、晩酌。

8時頃に明日の弁当(カレー&ナン)に付け合わせるブロッコリーを買いに、近所のスーパまでゆく。

買い出しから家に戻ってきたら、私の住んでいる棟の前にパトカーがパトランプを点滅した状態で止まっている。
「あら、おいら何かやらかしたかしら」と一瞬考えるが、すぐに近くにいたおばさんが「泥棒が入って捕まったのよ」と(聞いてもいないのに)教えてくれる。
「え? なにそれ」という感じで詳しく話を聞いていると、泥棒さんが手錠をかけられた状態で出てきて、門の前で刑事さんにパシャパシャ写真撮影される。
その後泥棒さんが私とおばさんの前を通ってパトカーに誘導されている間、おばさんは目の前の泥棒さんにおかまいなしで、私に「そうそう、この人よ。あなたも写真取れば? がはははは」と話し続ける。

そんなおばさんを恨めしそうな目で見ている泥棒さん。
怖い。
とりあえず、今夜は鍵を2重ロックして、0時前には就寝。

 

 14日(木)

昨日同様8時起床。

昨日同様晴天。

昨日同様大学へ行き、自分の授業を文字起こしする。

 

途中、「説明」に関して説明しなければなあと思って授業では話さなかった部分を文章として書き足していたら、急に「なにか」が降りてきて、横道に逸れ文字おこしとは全く関係ない文章を2700字ほどバシバシ打ち込む。

だいたい満足したころにはちょうどお昼どきだったので、ランチにする。

自分で作っといていうのもなんだが、自家製ナンがもちもちでうまい。(あ、別にダジャレじゃないです)

ほんとうならば石窯の内側に「ビターン!」とひっつけて焼き上げるんだろうが、私のキッチンには石窯なんてものはないので、今回はホットプレート(2年前のスピーチ大会のくじ引き大会でもらったもの)で焼いた。

まあ自炊だし、細かいことはいいでしょ。

 

腹ごなしに散歩したあと、午後はほかの日本語学部の先生方といっしょに、院試の面接に臨む学生さんたちの面接指導。

昨年もそうだったが、「志望動機」に問題がある。

自分の問題意識ではなく、自分が行きたい大学から動機を説明しているので、説明があいまいで没個性で必然性に欠けてしまう。

やっぱり問題意識を自覚していただく授業づくりを意識しなければ。

受験する学生さん、頑張ってください。

 

15日(金)

8時から授業なので5時半起床。

さすがに早朝はまだ肌寒い。

「人参とサーモン」ロールと「たまねぎとピクルスと鶏はむ」ロールを用意し、ジャーに「野菜スープ」を注ぎ、大学へ。

 1限の「日本語作文」の授業では、全体的に共通する課題である「説明の足りなさ」「描写の欠如」について、そのような問題が発生する背景である書き手としての態度問題からお話する。

村上春樹はこう述べている。

 

「推敲は僕の最大の趣味です。やっていて、こんな楽しいことはありません。推敲ができるから、小説を書いているようなものです。最初はだいたい流れのままにさっと書いてしまって、あとからしっかりと手を入れていきます。最初からみっちり書いていこうとすると、流れに乗ることが難しくなるので。推敲にとってもっとも大事なのは、親切心です。読者に対する親切心(サービス心ではなく親切心です)。」(村上春樹)

 

 学生のみなさんは、村上さんがここでいっている「親切心」と「サービス心」について、どうお考えだろうか。

率直に言えば、今のみなさんの作文には「親切心」が欠けていると、私は思うのです。

私がここで言っている問題は、「説明」しようという態度が余りにも見られないということです。

なぜ「説明」しようという態度がみられないかというと、きっと「私が知っていること」を「私は知っているぜ」というスタンスで作文を書いているからだと、私は思います。

でも、本当にあなたは自分が書いていることについて、それを「知っている」のでしょうか。

 

そういう話をしたあとに、「情報を抜く」(By内田樹)や「わからないという方法」(By橋本治)などなどをお話しし、「10年前の自分がもし読むとしたら」という想定で、もう一度書き直して見るよう課題を出す。

こういう話は初めて聞いても「うんまあ、そうだね」とすんなり理解できる学生さんは理解できるし、「は? なにいってんの」と固まってしまう学生さんはなかなか受け入れることができない。

身体の柔軟さと同じで、ある程度の素質や習慣が関係してくる。

しかしここをわかってもらわなければ、これから3学期に渡って私がお話する「作文」に関する内容を理解できないので、様々な比喩や事例を引き出しつつ、わーわー説明する。

ということで、授業が終わる頃にはクタクタになる。

お腹もペコペコ。

本来はお昼どきに食べるつもりだったお弁当を10時すぎに「早弁」し、一度家に帰って昼寝。

午後に会話の授業をひとつこなして、今週の仕事は終わり。

夜はゆっくり料理しながら、「キッチンドランカー」となる。

日付が変わるころには就寝。

 

容儀検査

私の高校には容儀検査という制度があった。

これは制服の着こなしや髪型などについて、教師が生徒を検査するもので、検査項目は「前髪が眉にかかっていないか」とか「学校指定の靴下を履いているか」とか「スカート丈は膝上5cm以内か」とか、そういうものだった。

もし「不合格」と判断されたなら、再検査までに「修正」して来なければならない。
ほとんどの生徒はこの検査を面倒くさがった。

なかには「個性を殺す」制服制度そのものに反対する過激な者もいた。 
私自身は規則に反してまでおしゃれしたいとは思っていなかったし、制服を着たぐらいで個性が死ぬはずはないと思っていた。(今でもそう思っている)

だから、滅多に「不合格」になることはなかったし、この検査についても、正直どうでもよかった。
ただ、私がひとつだけ気になっていたことがある。 
それは、この検査を熱心に実施する大人たちの姿だ。 
彼らはわざわざ「ものさし」を持参してまで生徒の襟足やスカートの長さを測り、学生カバンの厚さをチェックし(カバンが薄いということは、教科書や資料を持ち歩いていない「不勉強」の表れとされたのだ)、学校が指定した靴下を履いているかどうかを細かくチェックした。

そして違反している生徒を見つけると、時には激しく叱責し、なかには体罰を振るう教師もいた。
その後、彼らはこう言うのである。
「いいか、世の中にはな、人を見かけで判断する人間がいるんだ。だからきちんとした格好をしなければいけないんだ」
私はそれを聞いて「なるほど」と膝を打った。
まったくもってそのとおりである。 
世の中には人を容姿や衣服の着こなしで判断する人間が多いのだ。 
そして、そういう人間は、彼らの基準に照らして「きちんとした」格好をしない人間を平気で頭ごなしに叱責したり、時には暴力を振るったりする愚かな人間なのである。 
あの容儀検査という「どうでもいい」制度には、私のような子どもに「世の中のバカな大人」について実演し、「俺みたいな大人にはなるなよ」と身をもって諭す教育的効果があったのである。 
「なるほど、よくできている」 
私は子どもながらに深く納得したのである。

日記(とくになにもない週末)

9日(土)

晴れ。

ポカポカ陽気である。

キャンパスでは桃の花が満開に咲いている。

春だね。

春眠暁を覚えず(春眠不觉晓处处闻啼鸟)。

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前日早く寝たが、それでも8時ぐらいまで爆睡。
布団の中で30分ぐらい「土曜日だし、昼過ぎまで寝てもいいじゃんね」と甘い言葉を囁く自分と戦い、もがく。

週末の生活の乱れは、たいていこの甘言に乗った瞬間に始まる。

なので頑張ってベッドから身を剥ぎ取り、身支度をする。

まずは大学に行き、今週の日記をブログにアップロード。
「そんなの、家からすればいいじゃん」と思われるかもしれないが、私は帰宅して家のドアノブを掴んだ瞬間に「おれ、もう仕事も勉強もせんけんね」というダメ人間になるので、ブログのような私的文章をアップロードするためにも、わざわざオフィスに行かなければならないのである。

それに、書き物をするときには、なぜだかしらないが事務室のキーボードが一番しっくりくるのだ。
無事にブログを更新したあと、バスに乗ってひさしぶりに街に出る。
街に出るといっても、別に可愛い女の子にあったり、趣味の良い映画を見るためではなく、合肥市中心の海外食品を広く扱っているスーパーに行き、納豆を仕入れるためである。
なにしろ合肥のような地方都市では、納豆のような「なにそれ、うげげ」的な異国の珍味は、なかなか取り扱っていないのである。

30分ほど路線バスに揺られ、目的地に到着。

買い物かごに納豆を4パック放り込み、ついでだからほかにもいろいろ見る。

日本では100円前後の「ちくわ」が30元(500円)近くで売られている。

そういえばこのまえ日本に帰った時に、スーパに立ち寄ったら、そこで売られていた「磯辺揚げ」が食べたくなってしまったが、合肥では「ちくわ」もなかなか手に入らないのだ。(と書いたあとでタオバオというネットショッピングのサイトで「ちくわ」を探したら、結構安いのを発見。試しに買ってみる)

ウロウロしていたら前任校の日本人教師であるS先生と遭遇。

しばらく雑談。

S先生と別れお会計を済ませたあと、バスに乗って家に帰る。

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買い込んだ食材を冷蔵庫にしまったあと、1時間ほどジョギング。

給湯器がまだ直っていないので、コンロでお湯を沸かしながら、夕飯と来週のお弁当の仕込みをする。

人間というのはなかなかタフなもので、シャワーからお湯が出ないのでわざわざ鍋をコンロにかけてお風呂を沸かすという面倒な作業にも、私はすっかり慣れてしまった。

むしろこの時間を利用してキッチンに立ち、ゆっくり自炊することができる。

コンロが使えないので、加熱は電子レンジに頼ることになり、今の私の電子レンジ活用術は以前とは比べ物にならないほどである。

せっかく沸かしたお風呂にゆっくり浸かったあと、映画を見ながら夕食。

毎日キッチンに立つようになることの悪い点は、「キッチンドランカー」になってしまうことである。

酔いも回って眠くなったので10時には就寝。

 

10日(日)

ねじを巻かない日曜日。

前日に引き続き晴天。

8時半に起床。

とりあえずスーパーへ行き、野菜を買い込む。

家に戻り、野菜を冷蔵庫にしまったあと、「キャベツとツナとチーズロール」をちゃちゃっと作り、昨日仕込んでおいた野菜たっぷりポトフと一緒にいただく。

うまし。

お腹がいっぱいになったので、村上春樹を手にベットに戻り、読みながら昼寝。

昼過ぎに目が覚める。

ジョギングウェアに着替えて、南肥河沿いを一時間ほどジョギング。

春の陽気に誘われて家から出てきたいろんなひとが、釣りや散歩やカラオケなどなど、いろんなことをしている。

プレーヤーをランダム再生に設定し、レッチリやらスピッツやらブーツィー・コリンズやら松任谷由実やら、いろんな人のいろんな曲を無節操に聴きながら、春の川辺をとろとろ走る。

ユーミンの「春よ、来い」が流れたので、ひさしぶりにじっくりと聴く。

やっぱり名曲ですね。

春は始まりの季節だし、色とりどりの花々が百花繚乱で華やかな季節でもあるが、やはりどこか物悲しさも漂う季節である。

春に一人ってのは、やはり寂しいことなのだろう。

村上春樹は『ノルウェイの森』で春の寂しさと青春をみごとに描き出しているが、それを読むたびに「ああ、おいらにもこんな時期があったのだろうか」と私は思う。

重要な点は「ああ、おいらにもこんな時期があったな」ではなく「あったのだろうか」という点である。

あったが思い出せないのか、ないから思い出せないのか、そこのところが私自身もよくわからない。

それにだいたい「一人が寂しい」と思うことが、最近どんどん減ってきている。

18の時から一人暮らしだし、むしろそっちが「当たり前」になってきてしまっているのだ。

なんだかそれじゃマズイ気がするが、今のところ困っていることもないし、あくまで「なんだか」程度の危機感なので、なんとかするために重い腰を上げる意欲もないのである。

そんなことをグダグダ考えながら走ると、一時間なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。

家に戻りお風呂を沸かし、さっぱりする頃には4時すぎ。

ビールとともにちょっと早めの夕食(エビの串焼き、ハマグリのお吸い物、ほうれん草とわかめの和物、納豆)をとる。

あっという間にまぶたが重くなってきたので、就寝。

こうしていつもどおり「ネジを巻く」ことなく、また一つの日曜日を塗りつぶしたのであった。

日記(新学期第1週)

 5日(火)

今日は一コマだけだけれども、一限から。

うちの大学の一限目は朝8時(!)からなので、つらい。

私は朝が苦手である。

非常に苦手といってもいい。

思い返してみれば、私は大学に入学したあとの最初の講義(8時50分開始)に見事に寝坊した。

私の大学生活は寝坊から始まったのである。

そのくらい朝に弱い。

でも、仕方がない。

仕事だからね。

5時半に起床。

のろのろと布団から這いずり出して身支度をしたあと、大学に行って授業の準備をする。

今日の授業は3年生の「日本語作文Ⅲ」。

今学期は卒論を書くための練習をするので、昨日に引き続き、とりあえず「論文とは何か」や「執筆過程」についてガイダンス的なことをお話する。

今学期私が担当する作文の授業は、この授業と2年生向けの「日本語作文Ⅰ」である。

この2つの授業は自分で録音し、あとで文字起こしして、作文の教科書を作る際の原稿にするつもりである。

出版できるかどうかもわからないが、こういうのは「やろう」と思った時にやっておいたほうがいいのである。

 

昼休みに散歩がてら荷物を受け取りにゆく。

新学期が始まったばかりのこの時期は、学生が実家から送った荷物や、学生に実家が送った荷物が大量に届くので、そこかしこに荷物が積み上げられてちょっとした小山となっている。

そこに荷物を受け取りに来た学生さんが長い列を作り、業者さんが文字通り額に汗してさばいている。

大変である。

私は列に並ぶのが大大大嫌いなので、学生さんたちが食後の昼寝をしているであろう時間帯を見定めたうえで受け取り所へ行く。

私の荷物の番号をつたえると、髪を後ろで引っ詰め結にしたおばちゃんが大量の荷物の中から手のひらサイズの小包をひっつかみ、こっちに半身だけ向けたまま(まるで熊が鮭を狩るときのような)豪快なフォームのアンダースローで、ゆうに5メートルは離れた私に向かって荷物を「パス」してくる。

惚れ惚れするほど見事なコントロールで私の胸元付近に飛んできた荷物を片手でキャッチし、「どうも、おつかれさん」と口にしながら、受け取り所を後にする。

よくよく考えたら荷物を投げよこしたあのおばさんは凄い。(サービス態度的もコントロールも)

それを平然と片手キャッチし、「どうも」と受け取って帰ってきた私もどうかと思うが。

まあ、別に割れ物ではなかったし、なんか面白い体験ができたからいいけれど。

 

6日(水)

朝から霧がすごい。

合肥ではあまり霧は出ないので、出勤に急ぐ車やぞろぞろと一限に向かう学生の群れが違って見える。

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 今週は奇数週なので、水曜日は一年生の会話が入っている。

月曜同様、サービス心を惜しげもなく披露し、くたくたになって事務室に戻る。

あまりに疲れたので、お弁当を食べたあと、いったん自宅に帰って昼寝。

 午後は教科書用に書いた原稿が出版社から戻ってきたので、ちょちょっと校正。

夜は学生さんから「火鍋を食べましょう」とお誘いいただいていたので、大学近くの火鍋屋さんへ行き、食卓を囲む。

 今回は「麻辣」(四川風辛いスープ)「三鲜」(あっさりスープ)「蘑菇」(キノコのスープ)「番茄」(トマトのスープ)という四つの味が味わえる鍋をチョイス。

具材も「ガチョウの腸」や「センマイ」、「ピリ辛砂肝」などなど、私が好きな“重口味”を中心に、「エビ団子」や「わかめ」などの海の幸もオーダー。

火鍋を食べる際には辛さから胃を守るためにも「つけだれ」が必要なので、ごま油にオイスターソースとにんにくみじん切り、刻んだパクチーなどを混ぜた私オリジナルブレンドの「つけだれ」を用意する。

今回美味しかったのは「豚の血」。

重慶で最初に目にしたときは、なぜ食卓に「赤い絵の具」が載っかっているのかと勘違いしたが、正真正銘の食材である。

こいつをオタマにとって、じっくり火を通したものに「つけだれ」を絡め、口に放り込む。

全く臭みはなく、優しい食感が美味である。

今回誘ってくれたのは「いつものOさん」と、日本の大学に交換留学に行っていたSさん。

いろいろお話をしつつ、お腹を満たす。

「前回先生がご馳走してくれたので」という理由で(そうだっけ?)、火鍋をご馳走になってしまった。

ありがとうございました。美味しかったです。

 

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7日(木)

朝から2年生の作文を添削。

日本語は思ったよりよくできているのだが、文章のバランスが悪い。

説明だけだと面白くないし、感じたことや考えたことは説明がなければわかりにくい。

これは明日の授業で扱うべき課題だな。

午後に授業がひとつ。

3年生の視聴説である。

月曜に引きつづき、和牛の漫才やアンジャッシュのコントをご覧いただく。

「天の声」システムの漫才がウケる。

なぜ普通の会話なのに、そこに「天の声」がくわわるだけで、面白みが感じられるようになるんだろうね。

授業後、O主任の高校時代の同級生が合肥に来ているということで、会食に招かれる。

場所はいつもの「名園」。

ここは大学のすぐ近くにあり、野菜や魚が新鮮でサービスもいいので、大学関係者が酒宴によく利用する。

メニューを選びに厨房付近の「食材置き場」まで行き、魚や野菜、乾物などを検分しつつ、卓に並ぶ料理を決めてゆく。

個人的には「どじょう煮込み麺」を食してみたかったのだが、「どじょう」はややトリッキーだし、酒席でいきなり主食を頼むのもどうかと思い、今回は見送る。

結局O主任にすべてを任せた結果運ばれてきたアヒルやエビ、中国ベーコンなどなどなど、山海の美食を頂きながら、淮北から来たお客さんと淮北の白酒をぐいぐい飲む。

 気づいたら二日連続の外食(しかもタダ飯)。

いかん、また太ってしまう。

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8日(金)

朝一で2年生の作文授業。

この授業では何を学ぶか、「文書」と「文章」の違いは何か、そして私たちが目指す作文とは何かについてご説明する。

そのあとに私が用意した3篇の文章(日本語初級教科書の例文、映画の紹介文、私の拙文)を読んでいただき、それらの文章を「説明・紹介・描写」の部分を黒で、「感覚・感情」の部分を赤で、そして「思う・考える」の部分を青で、それぞれ色ペンを使ってアンダーラインを引いてもらう。

そうすることで、その文章の構成や性格を学生さんに分析しながら、理解していただこうという意図である。

この授業も録音しているので、後で文字起こしして原稿にするつもり。(出版できるかどうかわからないけれどもね)

午後に2年生の会話の授業を終わらせ、一週間の授業は終了。

さすがにちょっと疲れた。

ひさしぶりに教壇で喋ったから喉がちょっと痛い。

さっさと家に帰って「野菜と魚たっぷり鍋」を制作し、ちょっとだけ焼酎を飲みながら食べると、もうまぶたが重くなってくる。

お風呂に入ったあと、9時には就寝。