とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「どうでもいいこと」を「俺が言いたいこと」として真剣に語ることの意味について

金曜の深夜。
いや、土曜の未明というべきか。
外は冷たい雨。
アパートの住民がみな寝静まったであろう時間帯に、キッチンにパイプ椅子を持ち出し、ウイスキーを生(き)でちびちび啜りながら、筒井康隆『文学部唯野教授』を読む。
通読するのは2回目。
大学教授を主人公とし、文学部を舞台としながら、アカデミックな世界の醜聞やみみっちさを茶化す作品である。
と同時に、文学評論論をおさらいできるしっかりとした教科書的側面も持つ。
詳しい内容に関しては割愛。
で、そんな本を読みながら思ったことを以下に述べる(最近、校正の忙しさを口実にあんまりブログをアップしてないしね)。
どうでもいい・くだらないことなので、「あっそ」と思う方は「回れ右」でお願いします。

まだまだ未熟ながらも、33年という年月を生きると、いろいろとくっちゃべったり書き散らしたりすることとなる。
で、その都度の「俺の言いたいこと」を目の当たりにしてきた。
そんな経験がある程度蓄積されると、さすがに気づくことがある。
つまり、私の「俺の言いたいこと」なんて、子どもの頃から結局何一つ変わってなどいないのである。
で、ここからが肝心なところなのだが、そう自覚したうえで、私はなおもこうして「俺の言いたいこと」を書き綴っている。
「俺の言いたいこと」なんて代わり映えしないのに。
もっと言えば、「俺の言いたいこと」なんて、わざわざ書くまでもなく、わかりきっていることなのに。
というのも、私の「俺の言いたいこと」とは畢竟「私には『俺の言いたいこと』がある」というものに帰すのである。
私が文章を書くのは「言いたいことがある」と言いたいからである。
それ以上・それ以外の目的はないのである。
だから、私の「俺の言いたいこと」の正体なんて、私はとうに知っているのである。
にもかかわらず、私がこうして言葉を重ねるのは、なぜだろうか。
それがやっと、いま、わかった。
私は「俺の言いたいこと」が知りたくて言葉を重ねていたのではなかったのだ
つまり私は、「私は『俺の言いたいこと』をどう言えばいいのだろうか」と模索するために、言葉を発し続けてきたのである。
この模索の根底にあるのは、よく言われるような「俺の内面」なんてものへの興味ではない(そんなものはくだらない)。
そうではなくて私は、「みんな」に飲み込まれずかつ「俺」という独善に陥ることない、独立しつつも孤立しない人間として生きるために必要な適切な距離間を知りたいのである。
だからこそ、私は「どうでもいいこと」をさも「俺の言いたいこと」として、真剣に語り続けてきた。
そして、これからも「どうでもいいこと」をさも「俺の言いたいこと」として、真剣に語り続けていくのである。
なるほど。
そうだったのか。
このブログもそんな模索の一環なんだね。
というわけで、みなさん。
おやすみなさい。
良い夢を。