とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(10.21~24)

21日(月)

清々しい秋晴れ。

学期9週目である。

6時起床で大学へ。

授業の合間を縫って原稿書き。

今日は中国語の構造助詞「的」と日本語の格助詞「の」を比較しながら説明する。

中国語の構造助詞とは、ある文における単語や句の構造を示す助詞のことであり、つまり2つ以上の言葉の関係性を示すための働きを持つ助詞のことである。

と書いてもなんのことやらわからないかもしれない(私はわからない)。

たとえば、

 

我的朋友。

无聊的生活。

 

という文には、それぞれ“我”(私)と“朋友”(友達)、“无聊”(退屈)と“生活”(暮らし)という2つの単語が存在するわけだが、それだけだと意味が分からず文が成り立たない(ですよね?)。 

そこに“的”という構造助詞が入ると、それぞれ「私の友達」「退屈な暮らし」というふうに2つの単語の関係性を明らかにすることで意味が生じ、文が成り立つわけである(だよね?)。

 

中国語の構造助詞には「的」「地」「得」の3つがあり、発音はすべて“de”であるが、それぞれ役割が違う。

基本的に「的」は連体修飾、つまり名詞の前に来て後ろの名詞を説明する働きを持つのに対し、「地」は連用修飾、つまり動詞の前に来て後ろの動作を説明する働きを持つ。

たとえば、

 

我喜欢的人。(私の好きな人)

拼命地努力。(懸命に努力する)

 

といった具合に。

 

「得」の役割は、基本的には動詞と形容動詞の後ろに来て、両者の関係性を明示することにある。ここでいう「関係性」とは、たとえば「できるかできないか」とか「うまいかどうか」などの動作に関わる説明である。 

たとえば、

 

我写字写得很难看。(私が書く字は汚い⇒私は字を書くのが下手だ)

我什么时候买得起自己的房子?(いつになったら自分の家を買えるのだろうか)

 

などである。

日本語作文を書く中国人学習者にとって問題となるのは、一番最初の連体修飾の「的」である。

なぜなら、 以下の例のように、この「的」は多くの場合、日本語でいう「の」と置き換え可能だからである。

 

例 

  我的老师。(私の先生。)

  日本的食物。(日本の食べ物) ※この「的」は省略可能

 

中国語と日本語は漢字を共有しているので、日本語を勉強したことがない中国人でも上のような簡単な日本語なら読めてしまう(読めた気になってしまう)ことが多い。

そのため、「ああ、中国語の“的”は日本語では“の”と書くのね」と覚えてしまった中国人も多いのだろう。中国の町中を歩くと、日本製品や日本ブランド(のようなもの)であることをアピールするために、結構「の」が使われているので、簡単に「の」を目にすることができる。

さっき中国のヤフーの知恵袋のようなところで「の」を検索したところ、「『の』って漢字なの?」という質問もあった。それだけ「の」は一般的な中国人のあいだでも馴染んでいるということだろう。

学生さんの作文でも中国語の“的”をそのまま「の」に置き換えているケースを時々見かける。

とはいえ、先に“无聊的生活。”で見たように、“的”が常に「の」になるかというと、そんなことはない。

たとえば 、

 

  很好的人。

        漂亮的花。

 

のような形容詞・形容動詞の後の「的」は、日本語では「良い人」「綺麗な花」となる。

基本的に、形容詞(日本語のね)+的+名詞の場合、「~い〇〇」になって、形容動詞(同じく)+的+名詞の場合、「~(い)な〇〇」になる(と思う、前者は“可爱的姑娘”「可愛い女の子」とか“最美味的菜”「一番美味しいご飯」とか、後者は“干净的房间”「きれいな部屋」とか“安静的环境”「静かな環境」とか)。

ところが、学生さんにとっては形容詞と形容動詞を整理して覚え、それを適切に活用させるのって難しいのである。 

だから、作文を書かせると

 「美味しいなご飯」(「美味しいな、ご飯!」の意味ではない)

とか

 「良いな人間」(これも「人間って、いいね!」という人間賛歌ではない)

 という「余計な『な』」が増殖することになる。

難しい。

「的」の訳し方はほかにもある。

たとえば、

 

      我买的车子。

  他写的书。

 

のように、後ろの「車」「本」という体言(名詞)を「買う」「書く」などの用言(動詞)で修飾した場合、日本語は「私が買った車」「彼が書いた本」となる。

難しい。

「あー、もうめんどくせー」タイプの学生さんは、もうめんどくさくなっちゃって「的」が出てくると全部「の」にしてしまい、「わたしが買うの車」「彼が書くの本」としてしまう。 

さらにズボラな学生さんは、「我買の車子」や「美味の菜」などと日本語の品詞活用すらやめてしまい、なかには最終的に「安静的環境」などと中国語の単語をそのまま書いちゃったりするとんでもない逸材すら出てくるのである。

真面目にコリコリ勉強している学生さんだって、形容詞・形容動詞の後の「的」を、「良いなひと」とか「綺麗の花」とか間違うことがよくある。

「的」は“很难的问题”(難しいな!問題)なのである。


ということで、これは是が非でも説明しなければならない。

しかし、この問題は日本語と中国語に跨って生じている問題である。

つまり、この問題を説明するために、結局私は中国語の勉強もしなければならないことになる。

大変だ。


午前中の授業をこなしたあとも、カップスープと食パンとりんごを口にしながら、キーボードを叩き続ける。

 

ところで、さきほど授業中に学生さんから聞いた話だが、今週は大学の運動会があるので、木・金は授業がないらしい。

……マジ?

常々ご案内のとおり、今学期の私はもともと水・金は授業が入っていない。

おお!

これって、もしかして今週は水曜から5連休ってこと?

おお、神様! ありがとうございます。

いやいや、待った!

そんな世の中そんな甘くはないぞ。

期待させて後でがっかりさせるつもりだろ。

お前らの考えていることはまるっとお見通しだ(by 山田奈緒子)。

ということを(授業中に)口走る。

学生さん、苦笑。

 

とはいえちょっとだけ「5連休」の夢を見たおかげですっかり上機嫌になり、午後も校正2課分と授業をバリバリとひとつ片付ける。

で、18時には退勤。

昨日同様鍋を食べ(今日はラムしゃぶ)、ちょっと散歩して、就寝。

 

22日(火)

風邪をひいた。

私はもともとめったに風邪をひくタイプではなかった。

日本にいた頃は全然ひかなかったはずである(なんとかは風邪をひかないというし)。

それが中国に来てからの7年というもの、毎年2回(春と秋)必ず風邪をひく。

おお、バカがなおったのかな。

んなわけなく、たんに中国(というより内陸都市の重慶・合肥)は寒暖の差が激しいからである。

「7年も住んでんだからいい加減どうにか対応しろよ」と思われるかもしれないが、無茶なことを言ってもらっちゃ困る。

私がここでいう「寒暖の差が激しい」ってのは、季節単位で見た話ではなく、1日スケールでの話である。

重慶なんて「一日の中に四季がある」と言われるぐらいあって、朝10度だったのに太陽が昇ると30度を越すことだってざらなのである。

いくら服を調整しても、身体がついていかないのよ。

そんなわけで今年もちゃんと秋かぜをひいた。

ある意味ではノルマをこなしたので、一安心である。

朝から薬局へ行き、薬を買って飲んだあと、大学へ。

 

机の上を見るとりんごがふたつ置いてある。

これはたぶんO先生(うちの日本語学部にはO先生が3人いる)がくださったものだろう。

なぜだか知らないが、うちの中国人の先生方はときどき私にチョコレートやら果物やらビスケットやらをくれる。

ひょっとして餌付けすべき珍獣かなにかだと思われているのだろうか。

なんてこと言っているが、こういう「小さな親切」は嬉しい。

後で食べよう。

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今日は授業はひとつだけ。

3年生の視聴説である。

先週は教科書を使って授業したので、今日は教科書を使わないことにする。

なにごとも緩急が大事だからね。

ということで、NHKのドキュメント「極夜 記憶の彼方へ~角幡唯介の旅~」を見る。

これは探検家の角幡唯介が極夜の北極を一匹の犬とともにひとりきりで探検する様子を写したものである。

ほんとうに素晴らしいドキュメントである。

私はもう10回は見た。

それをご覧いただくのである。

結構長い映像であるが、始めから終わりまで学生さんたちは画面に釘付けとなり、60分間席を立つものが一人も現れなかった。

すごいね。

角幡の言葉には説得力があるし、人を納得させる不思議な力がある。

私が今回印象に残ったのは「冒険とは現在の認識の外側に飛び出ることだ」という、当たり前と言えば当たり前だが、当たり前すぎて意識していない本質を角幡が実践していたことだ。

これはこの前書いた「書きながら考える」に通じるところもある。

私がこのビデオを学生さんにお見せしたのは、「さあ、みなさんも大学なんかやめて探検の旅に出ましょう!」などとアジるためではない(当たり前だ)。

そうではなくて、「私たちだって日常で『冒険』できるんじゃない?」と問いかけるためである。

学生さんたちに文章を書かせると、よく「私の生活は毎日同じだからつまらない」という文を綴る人がいる。

悪いけど、それは違うよ。

生活が毎日同じなんじゃなくて、あなたの認識が毎日代わり映えしないだけでしょ。

だってさ、天気だって周りの人間だって、そしてあなたの心身だって、ひとつとして「毎日同じ」なわけないじゃないか。

そんなの「当たり前」かもしれないけれど、私たちはその事実を当たり前すぎて意識していない(二回目)のである。

「つまらない」のは生活のせいではない。自分の現在の認識という「壁」を自分自身が設け、強化し続けているからである。

だとすれば、「楽しい」生活のために本当に必要なのは、お金や恋人ではない。

そういうものも大切だし、得た瞬間には新鮮さを感じるだろうと思う。でも、自分の認識が変わらない限り、結局は「飽きる」し「替える」だけじゃないだろうか。そして、それって結局お金や恋人を「大切」に出来ていないと思う。

私にとっての「楽しさ」とは、まさに角幡が言うところの「認識の外側に飛び出る」ことそのものに存在する。

角幡は探検家だから、それを地理的・物理的な旅を通して追求するわけだけれども、同じことを私たちの日常生活で実践することだって可能だと私は思う。 

私にとってそれは、新しい授業のやり方を模索するとか、こういう「ありふれた」身辺雑記を付けるとか、そういう取るに足らないことである。しかし、それらは私にとっては間違いなく「探検」的な試みなのである。 

こういう「ありふれた」「取るに足らない」試みで得られる「楽しさ」は、もちろんささやかなものである。しかしこれは私の努力次第で確実に得ることが出来る「小さいながらも確実な幸せ」(By 村上春樹)なのである。

 

ということを学生さんにお話する。

それ以外にも学生さんたちがこのドキュメンタリーから学ぶことは多い。

たとえば文章を書く時の態度である。

角幡は今回の探検にGPSを使用しなかった(一日中真っ暗な北極でだぜ、頭おかしい)。

理由は「GPSを使うとかえって周りの状況がわからなくなる」からであり、何より「GPSを使うと面白くない」からである。

このような理由で彼は六分儀を携帯し天測をしながら探検を進める算段だったのだが、出発3日目にして波に六分儀をさらわれてしまい、結局北極星を頼りに70日間極夜を旅することになったのである。

学生さんが文章を書くときに当てはめて言えば、「GPS」とは「みんなの意見」である。

確かに「みんなの意見」は正しく便利かもしれないし、安心・安全かも知れない。

でも、それだとかえって「本当に自分が言いたいこと」がわからなくなる。

そもそも「本当に自分が言いたいこと」なんて、「探検」が終わるまではわからないのだ(角幡が70日間さまよった挙句にたどり着いた太陽こそが今回の「出生の記憶」という結論を与えてくれたように)。
 だからさ、まずはさまよいながら歩けばいいと思う。

それはつまり「書きながら考える」ということである。

ということもお話する。

 

お話したあとに時間を上げて感想や考えたことを書いてもらい授業後に提出してもらった。

さすがに「犬がかわいそうです」とか「冒険は怖いです」みたいな文章はなかった。

みんな基本的にはよく考えて書いてくれている。

非常に身体感覚を研ぎ澄まし角幡に同調しなければ得られない着目点を書いてくれている学生さんもいる(最後のりんごがおいしそうとか、角幡さんの目が綺麗だとか)。

その調子。

頑張れ!

 

教室に戻りカップスープとサンドウィッチとO先生からもらったりんごでランチを済ませ、13時から研究計画書作成のゼミ。

あいかわらずOさんが苦しんでいるので、いろいろお話したあといくつかアドバイスを送る(長くなるので詳細は省略)。

 

14時すぎからオフィスで中国人の先生方が会議を始められた。

私のこの仕事の良いところは、会議が全くないところである。

それは言い換えれば権限も責任も与えられてはいないということだが、まあ「外の人」として仕事をするのが私に求められている仕事なので、いいのである。

それに私は会議は嫌いだ。

いや、表現が違うな。

私は「その場にいて話を聞かされるだけの会議」は、嫌いだ。

そして私のようなちんちくりんが会議に参加したところで、結局は「その場にいて話を聞くだけ」なのだから、結局は同じなのである。

というわけで、会議を尻目に仕事を片付け、16時前にはお先に失礼して退勤。


スーパーへ行き、トマトやらセロリやら白ワインやらと一緒に牛モツを買い込む。

これはさっき校正していた教科書の中に「トリッパのトマト煮」が出てきたからである。

なんじゃそれ。

すぐにネットで調べると、どうやらイタリア料理であり、平たく言えば「イタリア風牛モツトマト煮込み」らしい。

なにそれ、美味しそう。

私は自分の「なにそれ、〇〇そう」に素直な人間なので、さっそく自分で作ってみることにしたのである。

ネットで調べたレシピだと牛もつは「ハチノス」(牛の第二胃)を使っていたが、残念ながら売り切れ。なので、センマイ(同じく第三胃)とミノ(第一胃)を購入。

センマイはさっと火を通しただけでも食べられるが、ミノは十分に煮込まないと硬い。

なので、鍋をIHに乗せてミノをセロリなどの香味野菜と一緒にトマトベースのスープでコトコト煮込む。30分ほど煮込む間に自転車でローラーに乗る(ついでに白ワインも冷やす)。

シャワーを浴びてすっきりしたあと、いただきます。

キリッと冷えた白ワインで乾杯(ひとりで)したあと、まずはセンマイをしゃぶしゃぶして頂く。

うまい!

トマトベースのスープとセンマイってあうんだね。

お次はミノ。

これもうまい!

コリコリしていてセンマイとの食感的コントラストが楽しい。

ほかにもセロリやら大きめに角切りしたトマトやらを煮込みつつ白ワインを頂く。

あっという間に750mlを飲み干してしまった。

お腹もだいぶ落ち着いたので、スマホで映画かアニメを見ようとビリビリ動画(中国版ニコニコ動画)を開くと、なんとアニメ版「ピンポン」が全話アップロードされている。

これはビリビリ動画が公式に版権を買い取ってアップしているので、違法動画ではない。

最近の中国は著作権に対する意識が高まっており、以前のようになんでもネットに「落ちている」わけではないのだ。

それはそれとして、おそらく20回目となる「ピンポン」を1話から見る。

やはり素晴らしいアニメである(どこがどう素晴らしいかは語りだすと長くなるので省略)。

素晴らしすぎて最終話(11話)まで一気に見通す。

気づけば23時前。

まずい、明日は原稿書きするために早起きしなければならないのに。

慌てて歯を磨き就寝。

 

23日(水)

 早起きするはずだったのに、目が覚めてみると8時すぎ。

まあ、いい。別に授業があるわけではないし。

 あいかわらず「三本ローラー」に30分乗りながら、こんどは「のだめカンタービレ」を見る。

日本の漫画や漫画原作のアニメには、学びや成長について説得力を持って描いたものが多い。 

なかでも私が学生さんにおすすめするのが、「ピンポン」「ヒカルの碁」、そしてこの「のだめカンタービレ」である。

それぞれ素晴らしい作品であるが、「のだめ」の場合、主人公の千秋(主人公ってのだめじゃないの? という意見もあるだろうが、ストーリーテラーは千秋だし、なにより彼の成長物語だから、私は千秋を主人公として扱うのだ)とヒロインのだめの関係が複雑である。 

つまり、のだめにとって千秋は音楽的にも異性としても憧れの存在なのだが、肝心の千秋が、自分についてくるのだめに対して師匠として振る舞うべきか、それとも男として接するべきか、最後の最後まではっきりしないのである。

のだめ自身も最初は千秋に対して「かっこいい先輩」として憧れているだけだったが、ピアノの楽しさと奥深さを徐々に追い求め始めるに連れて、千秋を音楽的な師として意識し始める。 

まあでも、そもそも千秋に「胸がドキドキ」したきっかけが二人一緒にモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」を弾いたことにあるのだから、実は千秋の音楽がのだめを「フォーリンラブ」に導いたのである。

そんな千秋は千秋で、のだめの音楽を諦めきれない。のだめの音楽に惹かれてのだめの「お世話」(ご飯作ってあげたり勉強教えてあげたり)しているうちに、のだめそのものへの思いも増していく。しかし同時に、のだめが自分を追いかけてくることの真意と、なにより自分ののだめへの感情を読みきれないからこそ、(ミルヒーに「みっともない」と形容された)煮え切らない態度をとり続ける。

だからこそ物語が立体的に膨らみ、前へ前へと進み続ける。

面白い。

このままずっと「のだめ」を見ていたいのだが、そうもいかない。

10時過ぎに大学へ。

朝食兼昼食(ヨーグルト、バナナ、りんご)をとりつつ、とりあえず校正にとりかかる。

残り4課なので、これは今日中に終わらせたい。

そして心置きなく自分が編集している教科書の原稿書きに勤しむのである。

ということで、昼過ぎまでには校正を終わらせるのである。

 

はい、時刻は14時前です。

予定通り校正を完了し、担当者の先生に送信。

ふう。

これで仕事がひとつ片付いた。

とはいえまだまだ仕事が残っている。

自分の教科書作業もあるが、30枚の作文を添削し、それぞれの作文テーマを書くときに参考となる文章を探してあげる作業をしなければならない。14時からはTさんとSさんが作文の検討に来るし、蔵書一覧を作成する仕事も残っている(デスクの脇にはまだリスト化していない書籍が小山になっている)。

忙しい。

「忙しいならそんな駄文書いてんじゃねえよ」

たしかに。

でもね、こういう文章を書くことで、カオスに渦巻くそれぞれの仕事や作業を整理し、その関係性を一望的に俯瞰できる主体としての「私」を確保できるのだ。

大事な作業なのである。

そうこうしているうちに2人が来たので16時前まで検討。

お腹がすいたし、疲れた。

家に帰ろうかと思ったところで、Tさん(さっきのTさんとは別人)が作文の検討を16時半からしたいと連絡してくる(明日明後日は大学の運動会なので、参加しない学生さんたちは明日から四連休なのだ)。

仕方がないので仕事をしながら待つことに。

お腹が減ってたまらないので、袋ラーメン(重慶小麺味)を半分に割って作って食べる。

重慶小麺といえば、その辛さで有名であるが、多種多様な香辛料と牛脂がふんだんに使われているため、香りが強い。

必然的に日本語学部のオフィスにラーメンの匂いが充満することになる。

ズルズルと完食したあとに、学院全体会議に出席していた中国人の先生方が戻ってきて、「インスタントラーメンの匂いがする」と口々に口にする。

なんかすみません。

 

TさんとCさんが来たので、18時前まで検討会。

疲れた。

残業しているO先生に挨拶して、さっさと退勤。

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前の方で書いたように、今週の木・金・土はうちの大学の運動会が開かれるらしい。

もし明日大雨が降れば 運動会は中止となり、いつもどおりの授業となるのだが、そうなると私は朝から夕方までぶっつづけで6コマこなさなければならない。

頭の隅っこで「雨が降らなきゃ4連休だぞ」と甘く囁く悪魔がいる。

いるが、もしこの悪魔の言うことを信じて「わーい、やったー!」と無邪気に喜んだあとに、「あ、やっぱ雨降ったから授業ね」となってしまっては、多分私は授業に行けないほど落ち込むだろう。

だから、「いや、そんなうまい話があるはずない」「絶対明日は大雨が降る」と逆フラグをいっぱい立てながら、就寝。

 

24日(木)

などといいつつ9時起床。

もし運動会が中止になっていればとっくに遅刻の時間である。

窓の外を見る。

私が授業でも事務室でも「いや、絶対に雨が降ると思いますよ。そんなに人生甘くない」と逆フラグを立てまくったおかげで、ほらご覧なさい。見事な秋晴れでしょ。

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気温も程よく、窓から寝室に吹き込む秋風が頬に気持ちいい。

あまりに気持ちがいいので、今日は仕事をいっさいせずに、一日ゴロゴロすることにする。

なにせこの2週間、土日も大学に行って仕事をしていたのだ。このままでは頭がパンクし身体が潰れる。

休憩することも仕事のうちである。

ということで、カウチポテトで「のだめ」を楽しむべく、近くのローソンに「キンキンに冷えたビール」やら「あったかいおでん」やらを仕入れに行く。

途中でキャンパス内を通ると、おおやってるやってる。

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各学院(ここでいう学院とは日本の大学でいう学部のこと)の上りやら風船やらでグラウンドが飾られて、秋風に揺られている。

スタンドには多くの学生さんがいる。 

彼らはどこからもちだしたのか、金ダライやらバケツやらをドンドコドンドコと叩きながら旗を振り、拡声器でアジるリーダー格の学生さんといっしょに自分の学院の選手を「加油!加油!」と応援している。

結構迫力がある。

この大学に勤務し始めて3年になるが、実は運動会を見るのは初めて。

うちは農業大学なのだが、運動系のサークルや部活が結構盛ん(かつ強い)らしく、学生さん情報によると地元の人達からは冗談交じりで「体育大学」と呼ばれているそうな。

たしかに。

参加している学生さんたちも「マジ走り」である。

運動会に3日もかけるってすごいね。

そんな若人たちを横目に家に帰宅し、ひだまりでまどろみながら思う存分ゴロゴロする。

ああ、極楽極楽。

昼酒で眠くなったので、夕方には就寝。