とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

雑記(2月8日~12日)

8日(月)

晴天。

9時すぎに起床。

高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』(2013年)の製作過程を撮したドキュメンタリー『かぐや姫はこうして生まれた』を見る。

3時間近い長尺のうえ、春の午後のぽかぽか陽気も相まって、途中で眠くなる。

たまらず午睡。

起きると夜9時(!)

これはいかん。

あまりにも一日を無為に過ごしてしまった。

とりあえず運動がてら散歩に出る。

2時間ほど家の周囲をぶらぶらする。

小腹が空いた。

ちょうど屋台があったので夜食(じゃがいも炒めと焼き豆腐)を買う。

締めて10元なり(およそ160円)。

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帰宅。

持ち帰った夜食を口にしたあと、シャワーを浴びて汗を流す。

不思議なもので、今日一日とくに何もしていないのに、まぶたが重くなる。

本を片手にベッドでうだうだしているうちに夢の中へ。

おやすみなさい。

 

9日(火)

昨日と同様9時すぎ起床。

いい天気。

薄雲が出ているものの快晴と言ってよいだろう。

カップスープを飲みながら、養老孟司『養老孟司の人生論』(PHP、2016年)を読む。

天気がいいので、昼前に家を出て1時間ほど散歩。

てくてく。

さて、仕事しなきゃな。

いったん家に戻って支度をして、2時過ぎに大学へ。

キャンパス内の梅がほころび始めている。

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ああ、ほんとうにいい天気!

背中のリュックに入っている原稿なんて投げ出して、春の陽気を身体いっぱいに味わいたい。

そんな誘惑がしつこく「つんつん」してくる。

必死で振り払い、足早にオフィスへ。

机にかじりつき 夕方まで校正を続ける。

カリカリカリカリ……。

2課分片付ける。

ほかの先生方も校正しているのだが、それらはO先生がとりまとめている。

なので、今日済んだ分をO先生へ送信。

今日はここまで。

キャンパスを出る。

夕暮れが綺麗なので、すぐに家へ向かわずにお気に入りの散歩コースを散策する。

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市場へ向かう。

場内をいろいろと物色した結果、本日の夕食は北京ダックに決定。

「北京ダックとは皮だけ味わって他は捨てる料理だ」

そんな誤解をしている日本人もいるが、実際の話、本場では肉もちゃんと食べるのである(アヒル肉っておいしいんだよ)。

ひとり暮らしなので、1羽丸々は多すぎるので、買うのは半分だけ。

注文を受けたおばちゃんが薄く切り分けてくれる。

つけだれ・皮・薬味の白ネギもセットで、お値段は29元(およそ500円)。

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帰宅。

手を洗い、服を着替える。

北京ダックを食べながら、昨日途中まで見た『かぐや姫はこうして生まれた』を再生。

今日は最後まで見る。

今回印象に残ったのは、先行放映される宮崎駿『風たちぬ』(2013年)と合わせて流す予告編の内容に関する、高畑とプロデューサー西村義明のやりとりである。

ものを作るのはただでさえ難しい。

それが高い創造性を求める人たちのチームプレイとなればなおさらである。

お互いに「切った張った」だからね。

高畑と西村の会話は私にそのことを強く印象づけた。

映画の場合、映画を売る側(プロデューサー)としては、少しでも多くのお客さんに劇場に足を運んでもらいたいと願う。

したがって、予告編にはその映画のいちばんおいしいところ・目を引くところを持ってこようと考える。

一方の映画を作る側(監督)は、観客にはまっさらな状態で映画に望んでもらいたいと思うし、その映画の「いちばんおいしいところ・目を引くところ」は実際に映画を見てもらうまで隠しておきたい「隠し玉」なのである。

「隠し玉」を予告編で流されてはたまらない、「隠し玉」なんだから。

『かぐや姫の物語』の「隠し玉」は、まるで閻魔大王のような形相のかぐや姫が疾走するシーンである。

あそこの作画はすごいし、「おお!」と思う。

背景と動画が一体となって躍動している感じが、いわゆる「ジブリらしさ」を裏切っていて、とても新鮮である。

プロデューサー西村としては(ジブリの元締めである鈴木敏夫としても)、これは予告で流したい。

私たちが『竹取物語』やかぐや姫、そしてスタジオジブリに対して抱いている一般的なイメージをひっくり返すシーンであり、私たちに映画館へと足を運ぼうと思わせる強いシーンだからである

しかし、監督高畑は「ええ? あれを流しちゃうの?」と承服しかねる。

「いちばんおいしいところ」や「目を引くところ」は、実際に観客が劇場に来て、椅子に座り、スクリーンと向い合う瞬間まで、とっておきたいわけである。

とっておきたいから「とっておき」なんだから。

それを先に見せちゃうなんて、ありえない。

というわけで、両者の話し合い(というより西村による高畑の説得)は難航する。

結局、高畑が折れる(というよりめんどくなる)。

1分近く沈黙したのち、高畑は「あ、眠くなってきた」と言い放つ。

そして、「まあ、よろしくやってよ」「わかんない、宣伝は」「まあ、それはそれで難しい仕事だし」的なことをごにょごにょと言い残して、その場を去ってしまうのである。

あとにぽつんと残されたのは片付かない表情をしたプロデューサー西村だけ。

その胸中の寂しさ・やるせなさ、いかほどばかりか。

まったく、プロデューサーというのもストレスフルである。

このやりとりのあと、西村は車を走らせながらインタビュアーにこう漏らす。

企画・脚本・絵コンテ、そういうことで現場にへばりついてやってるときには、ぼくは作り手なんですよ。おれ、高畑さんに言ったことあるもん。「これはぼくの映画ですから」って。

高畑さん笑ってね、「そうですよ」って。「自分の映画だって思った人間が多い作品は、やっぱり良い映画になる」って。「これは自分が作った」って思える人間が多い方が、やっぱり良い映画なんじゃないかって。

もちろん、アニメーション映画って、だって画を修正していく作業があるから、独裁的にならざるをえないじゃないですか、高畑さんがよく言うように。でも、そのなかでも、この作品をね、自分の作品だと思って作る人間がいて、世に送り出してくれる人間がいた方が、そういう人間が多ければ多いほど、やっぱりね、映画は良くなるし、映画は当たるんじゃないですかね。 

西村のこのつぶやきを聞いて、私はそれまでの「プロデューサー=映画を売る人、監督=映画を作る人」という安直な捉え方を反省した。

たしかに、プロデューサーは広告主や協賛企業、そして市場を意識しなければならない。

その観点から、作り手である監督に意見をしなければならない立場だし、ときには監督の意向を捻じ曲げることだってあるだろう(宮崎駿監督の「アシタカせっ記」というタイトル案を差し置いて『もののけ姫』というタイトルを独断でマスコミに公表した鈴木敏夫のように)。

しかしそれは、「映画は売れればいい」と投げやりな態度になったり、「売れるような映画を作ろう」と商業主義に走ることと、決してイコールでは結べない。

どうすれば監督が創ろうとしている世界をできるだけ損なわずに、むしろそれ以上に受け手へとパスできるか。

優れたプロデューサーは、そんな問題意識と創意工夫を備えているはずである。

よく言われるように、物語とは作り手の意図や主張をそのまま受け手へと伝達する装置ではない。

村上春樹は川上未映子によるインタビューのなかで、こう語っている。

村上 頭で解釈できるようなもの書いたってしょうがないじゃないですか。物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くも何ともない。読者はガッカリしちゃいます。作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている。
ーーそれが村上さんの小説にとって大切なことであるのはわかるんですけど、でもそれはそれとして、実はこれが何を表しているとか、そのつながりが本当はこういう意味なんだ、みたいなこと、村上さんの中にはない?
村上 ない。それはまったくないね。結局ね、読者って集合的には頭がいいから、そういう仕掛けみたいなのがあったら、みんな即ばれちゃいます。あ、これは仕掛けてるな、っていうのがすぐに見抜かれてしまいます。そうすると物語の魂は弱まってしまって、読者の心の奥にまでは届かない。
   村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』pp.116,117

私は村上の「読者は集合的には頭がいい」という考え方を素敵なものだと思う。

たしかに、なかには「バカな読者」もいれば「自分で考えない読者」もいるだろう。

しかし、だからといって書き手が「バカにでもわかるように書く」「自分で考えられない人間でも理解できるように作る」という道を選択すると、創作の楽しさや物語を受け取る喜びは失われてしまうだろう。

それは啓蒙の道である。

ストーリー・テラーの役割は受け手を啓蒙することではない(というか、啓蒙という発想自体がどうかとは思うが、まあそれはそれとして)。

物語を語る者の役割は、物語に豊かな素材を散りばめておきながらも、物語それ自体を空白として差し出すことにある。

というのも、点在する素材と素材を結びつけ、空白に意味を見出し、物語と自分との関係を構築するのは、それぞれの受け手の仕事だからである。

だから、原理から言えば、優れた物語は受け手の数だけそれぞれの意味を生じせしめるはずである。

村上の言葉を借りれば、「一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいく」はずである。

それは映画でも変わらない。

物語の語り部である監督が優れたストーリー・テラーならば、その映画を受け取った人間はそれぞれ自分なりの意味を見出す。

結果的に、受け手が多ければ多いほど、その物語は豊かな解釈を実現する。

だから作品を供給することを役割とするプロデューサーは、その「媒介者」としての本然からいえば、優れた物語だからこそできるだけ多くの観客に見てほしい=物語の意味や解釈を少しでも最大化させたいと願うはずである。

それは「売れればいい」「投下した資本を回収できればいい」という功利的な動機と表面的にはよく似ているが、創作という観点から見れば全然異なるものである。

西村の「おれは作り手でもある」という自負から、私はそのことを学んだ。

難しいね、ものを作って提供するって。

そんなことを考えていたので頭が冴えてしまい眠れなくなる。

寝ついたのは結局4時過ぎ。

 

10日(水)

11時起床。

空が白く霞んでいる。

旧暦に則れば明日は除夜である。

ということは、中国人の生活感覚ではもう年の瀬もいいところなのである。

しかし、祖国日本を離れて8年目となる私の時間軸は日本的時間軸にも中国人的生活感覚にも属していない。

結果として、私の行動基準と世間一般(日本・中国)的な時間軸には有意なズレが生じてしまうのである。

ということで、世間の皆様型が家族・親族一同と年末行事を楽しんでいる最中、私はとりあえず大学に行く。

まずは雑記を書く。

つぎに校正作業にとりかかる。

「文体」の課の構成がわかりづらい。

構成をいじったり、いろんな人のご意見を伺ったりする。

伺ったあとで、「あ、そうか。中国ではもう年の瀬もいいところなんだ。年末の家族団らんを邪魔しちゃったな」と気づくが、もう遅い。

反省。

反省したので、夕方で今年(旧暦)の仕事納めとする。

 家に帰る。

夕食(ビッグマック)を食べたあと、ぬるめのお風呂にゆっくりと浸かりながら、ドキュメンタリー『スタジオジブリ物語』を見る。

『アルプスの少女ハイジ』の制作に関して語る宮崎駿の言葉が印象に残る。

当時の常識から言うとですね、非常識の極みです。

子ども達には刺激を与えて気を引くように作らなければ視聴率がとれないとか、そういうことが一般常識としてテレビ界に染み通っている時に、それに真っ向から「違う」って言った訳ですよね。

かっこいい。
これを受け手(この場合は子どもたち)への愛と呼ばずに、なんと呼ぼうか。

宮崎こそ、子どもを「子ども扱い」しない、子どもへの愛に満ちた作り手である(あれ、これ前にも書いた気がするな)。

大人たちは簡単に子どもを「子ども扱い」する。

「これは子どもにはまだ難しいだろう」とか、そこから派生した「どうせ子どもはこうしておけば喜ぶだろう」とか。

でも、そこに子どもに対する見下しがどれだけ含まれているか、私たちはよくよく考えるべきだと思う。

私たちの幼少期を振り返れば誰でもわかることだ。
大人たちが子どもを舐めてかかると、子どもたちはその態度から「あ、こいつ私を子ども扱いしてる」と敏感に嗅ぎとる。
話はちょっと逸れるけれども、教科書もそうだ。

たとえば、日本語を教える教材(とくに初級)の中には、流れや内容から見てまったく必要性が感じられないイラストを載せているものがある。

私はそういうものを見かけるたびに怒りすら覚える。

イラストを使うことで学習者の理解を助けるのならば、ばんばん使えばいい。

学習者の学びを援助・促進するためならば手段は選ばない。

それが教育者として求められる臨機応変さだ。

だから、私だってこれまでの授業で、マンガやドラマ、漫才、カルタ、調理器具、楽器などなど、その都度の学習課題に合わせて、いろいろ取り入れてきた。

ときには「マンガで何がわかるのか」とか「アニメなんか底が浅い」という人間もいたが、そういうのは表面的な見かけだけで価値を判断するバカ特有の発想なので、取り合う価値などない。

私は必要性を感じればマンガだってアニメだって教育に取り入れる。

しかしそれは、目の前の個々の学習課題に際して、マンガやアニメを用いることで学生さんをより深い学びへと誘うことができると判断したからである。

決して「どうせ、マンガ・アニメを使っておけば学生は喜ぶんだろ?」と思ったからではない。

前者は教師としてとるべきテクニカルな問題である。

後者は学生を舐めたバカ教師特有の態度である。
「どうせ今の学生はバカだし怠け者だから、流行りのアニメやかわいいマンガでも添えとけば喜ぶんだろ?」

教師自身がバカだからそういう発想が生じるのであって、そういうバカ教師の目にはどんなに賢い学生だってバカとして映ってしまうのである。

おっと、失礼。

熱くなって話がそれちゃった。

話を戻すけれども、「どうせ子どもは気を引くような作り方してないと見ないんだから、こういうふうに作っておけば喜ぶだろうし、数字も取れるんだろ?」という作り手の傲慢さ・愚かさを、子どもは必ず理解する。
そして、そんな傲慢かつ愚かな作品を喜んで受け取る人間などいない。
当たり前だよね。

自分をバカで愚かな人間扱いする作り手が作った作品をぜひとも見たいと思う人間などいないからである。

そして、子どもは大人以上にそういうのに敏感なのである。

しがらみとか世間体とかから自由だから。

そんなの当たり前である。

宮崎駿の愛は、そんな「当たり前」を当たり前に貫いた結果である。

なぜ「数字」を気にする大人たちには、それがわからないのだろうか。

ひとつ思い当たる節があるが、それを書いてしまうといろいろと面倒なので、ここらへんで口を噤むのである(って、もうずいぶん書いちゃったけどね)。

 

長風呂から上がり、ベッドに移動したあと、今度は本を手にとる。

3回目となる村上春樹『国境の南、太陽の西』(1992年)を読む。

最初に読んだときも思ったことだけれど、個人的に村上の長編作品のなかではいちばん「怖い」と思う作品である。

別にお化けがわっと出てくるわけではない(いや、ある意味お化け小説なんだと私は思うけれども、少なくとも「やあ、私はお化けですよ」という形では出ない)。

恐怖心を煽るあからさまな描写があるわけでもない。

しかし、怖いものは怖いのである。

なおかつ、そこに妖しい美しさもある(本作にも登場するデューク・エリントン“The Star-crossed Lovers”のように)。

 それが怖いのである。

「ああ、おいらもひょっとしたらいつかこの『怖く妖しい美しさ』にひょいっと持ってかれちゃうんじゃないかな」とね。

別に私には心当たりなんてないが、その「別に心当たりなんてないが」という自分では決して気づけない自分の心の死角にこそ、いちばん怖いものは潜んでいるのである。

「自分では決して気づけない自分の心の死角」

それが怖いのである。

 くどいね。

 

11日(木)

除夜。

遅くまで本を読んでいたので、11時起床。

村上春樹を読んだ影響か、朝からパスタを茹でる。

プライパンでバジルソースを温めて、茹であがったパスタを投入、余熱でさっと和える。

マグカップにコーンスープ(インスタント)を注ぎ、ちょっと早い昼食を用意する。

本を読みながらゆっくりと食べ終わる頃には12時半。

食器を流しに放り込んだあと、食後のコーヒー片手に校正を進める(たしか昨日「仕事納め」した気がするが、まあいい)。

3時ぐらいに休憩。

散歩に出る。

これも村上春樹を読んだ影響か、昨晩本を読んでいると無性にウイスキーを啜りたくなった。

しかし手元には白酒しかない。

自ら試したからわかることだし、みなさんも自らお試しになればわかることではあるが、白酒と村上作品はまったく合わない。

スーツに裸足で便所サンダルを履くぐらい、合わない(別にどっちかが「便所サンダルだ!」とか「便所サンダルなんてクソだ!」とか言いたいわけではない、いまも履いてるし、部屋履きとして)。

ということで、少し離れたスーパーまで買い出しに行く。

道中、私の前を行く若い男がポケットから取り出した爆竹を一発だけ鳴らす。
あまりに唐突だったのでびっくりする。

というのも、合肥市では3年前から市内での爆竹が禁止されているからである。

中国には年越し前後に至るところで爆竹を鳴らす風習がある。

これは体験すればすぐわかるが、もうね、すごいです。

初めて体験したとき、私は「銃撃戦でも始まったのか」と思った。

それほどすごいのである(まあ銃撃戦なんて体験したことないんだけどね)。

この異国の風物詩、お盆に爆竹を鳴らす風習がある長崎県人である私としては、けっこう気に入っていた。

賑やかだしね。

ところが、近年の環境問題に対する意識向上のせいで、中国都市部では爆竹が禁止されたのである。

違反すると高い罰金が科せられるので、私はこの3年間というもの、合肥市内で爆竹の音を聞いた記憶がない。

ということもあり、目の前で久しぶりかつ突然“バン”とやられて、飛び上がるほどびっくりしたのである。
おい、びっくりさせんじゃねえよ。
それにこそこそ一発だけ鳴らしても意味ねえだろ、この根性無しめ!
やるなら罰金覚悟で堂々とやらんかい。

チキンなうえに中国語が苦手な私は心の中でそう毒づく。

 

気分を変えて川沿いへ。

てくてく歩く。

川に沿って焚き火の後が点々と残っている。

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これは春節(と清明節、日本で言うお盆)恒例の風景である。

この時期になると中国人は交差点や河岸で何やら黄色い紙を燃やす。

これはその痕跡である。

この黄色い紙、名を“纸钱”という。

けっこうリアルに紙幣を模した“冥钞”(ming2chao1)と同じく、死者を祭るときに燃やす紙であり、ようは「あの世」へ送るためのお金である。

中国人はこの“纸钱”を燃やして死者を供養する。

そうすることで、「あっち」の世界で暮らしている死者にお金を送り、生活に困らないよう心配りをするのである。

日本にも食べ物や飲み物を備える風習がありますね。

どちらも死者の安らかな「あの世暮らし」を願うという点では同じ発想だろうけど、それがお金であるところが中国らしいというかなんというか。

まあ、でもたしかに、私が「あっち」の世界に行って、もし「あっち」の世界でも俗世と同じように貨幣経済が発展していて、なおかつ「あっち」の私が「こっち」の私と相も変わらず欲だらけの人間だったならば、ありがたいかもしれない。まあそれはそれとして。

おそらくだが、春節はハレの日なので、「こっち」で暮らす私たちだけではなくて冥界のご先祖様たちにも贅沢してほしいという願いが込められているのだろう。

中国全土が同じような風習を持つのかどうかは知らないが、この「焚き火」、少なくとも合肥ではよく見かける風習である。

なので、この時期になると雑貨屋の店頭には“纸钱”が並び、死者を尊ぶ人々向けに売り出すのである。

では、この“纸钱”、いったいどこで燃やすのか。

ただでさえ広大な国土と多様な文化を有する中国のこと、これも一概には言えないが、一般的には道と道が交差する地点や河岸などの水辺で燃やすことが多いようで、そういった場所には焚き火の痕跡を確認できるのである。

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黄色いほうが“纸钱”、卵の左にある赤いほうが“冥钞”。

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では、なぜ交差点や河岸なのか。

この風習を知ったときから私は疑問だった。

授業中、学生さんたちに尋ねてみたことがあるのだが、彼らもあまり意識したことはなかったようだ。

「灯台下暗し」ではないが、自分たちに馴染みがある風習であるからこそ、その深意に思いを馳せないということはよくあることである。

で、そのときの授業ではいろいろと「あーじゃないか」「こーじゃないか」と盛り上がった。

その上で思ったことだが、おそらくそういう場所は、「こっち」と「あっち」が交わるポイントであり、「此岸」と「彼岸」を隔てるポイントだからだろう。

なるほど(って自分で納得してしまった)。

理にかなっている。

「三途の川」という言葉もあるし、ギリシャ神話でも“Styx”とか“Acheron”とかあるらしい。

長崎でも精霊流しは川や海でやるもんね。

「こっち」(此岸)と「あっち」(河岸)という思想、そして「こっち」の岸に立っている私たちは「あっち」側の岸に行ってしまった人たちとどうコミュニケーションすればいいのかという問題、それは古今東西を問わない発想である。

「集合的無意識」ではないが、人間とはまっこといろいろなことを考えるが根本のところで繋がっているらしい。古来から伝わる風習は私たちにそう教えてくれる。

こういうのを見て、「迷信だ」とか「非科学的だ」とか切って捨てる人がときどきいる。

たしかに、そうやって済ませることは簡単だ(ませた中学生にでもできる)。
だけど、ちょっと待ってほしいと思う。
だって、人間ってそもそも「こっち」と「あっち」に引き裂かれた存在ではないだろうか。

というか、「こっち」と「あっち」に引き裂かれた存在のことを人間と呼ぶのであり、「こっち」(此岸)と「あっち」(彼岸)の間でなんとかして折り合いをつける努力こそが人間的なのではないだろうか。

たとえば、埋葬がそうでしょ。

死んで動かなくなった者は「こっち」の世界にありながら、すでに「あっち」の世界へ旅立っている。

私たち人間は、その「こっちにありながらあっちにいる者」に対して、いかなる態度で臨むか。

私たちは「あっちへ行った者」を「こっち」にとどめ続けることはしないし、すでに「あっち」に行ったからという理由で無視することもしない。

必ず埋葬し、丁重に供養する。

そうしないと「祟る」からである。

「祟る」といっても、「あっち」から死者が戻ってきて悪さをするというわけではない。

「こっち」に残された者たちがきちんと「あっち」に送ってあげなかったせいで、「よし、これでおしまいね」と共同体の成員の死という出来事にきちんと折り合いをつけたという実感が持てず、「こっち」でなにか災いがあったときに「ああ、あのときちゃんと弔ってあげなかったせいだ」と受け取ってしまうということである。

私たち人間は動物の霊を「見る」ことはあるが、たぶん動物界に幽霊はいない(と思う)。

動物界には「こっち」しかないからである(たぶん)。

私たちは(信じるかどうかは別として)「こっち」と「あっち」を区別する存在である。

だから私たち人間は、まるで文をひとつ書き終わるごとに句点を打つように、死の一つ一つごとにきちんと死者を「埋葬」「供養」して弔うことで、「こっち」と「あっち」の間で折り合いをつけるのである。
一見すると正反対に見えるけれど、それは科学だって同じだ。
「既知」(こっちの岸)と「未知」(あっちの岸)の間で折り合いをつける知的営み、それが科学でしょ。

動物たちには科学がない(もしくは発達していない)。

動物たちには「こっち」しかないからである(たぶんね)。
科学者って、すでに馴染みある此岸と、まだ知らない・わからない彼岸の間で思考して、両者の間に橋を通す人間のことでしょ。

科学的人間は、自分たちが既に知っていることではなく、未知(あっち)と自分を取り囲む既知(こっち)のギャップを超えることを生きがいとする。

「今は説明できないことを何とかして説明すること」を重視する。

そういう人種を科学的人間と呼ぶのである。
だから、ほんとうに科学的な人間は「わからない」を惜しまないし、かんたんに「科学的にありえない」なんて言わないのである。

科学的事実なんてのは、「今はそうだ」(昔は違った、将来どうかはわからない)ってだけなんだから。
すべての事象を自分の既知に収斂してものを考える人間や、「あっち」(未知)の存在や彼岸の世界(わかっていない領域)を無視して思考する人間は、人間についてあまりに浅い理解しか持ちあわせていない。

私はそう思う。

それは彼が人間ではなくて「井の中の蛙」だからである。

私はそう考えている。 

 

そんなことを考えているうちに買い出し終了、またとことこと歩いて帰宅。

シャワーを浴びて、夕食を準備する(ホタテのバター醤油炒め・たこ刺し・ウイスキー)。

食後、ベッドに移動して『国境の南、太陽の西』の続きを読む。

いろいろと思ったことがあるけれど、ここで書くと長くなるので、稿を改めて論じる(っていうほどのものではないが)。

 

眠くなって就寝。

 

12日(金)

春節は晴天。

学生さんやお仕事関係のみなさんからの「あけおめメッセージ」にも気づかず爆睡。

1時に起きる(よく寝るなあ)。

とりあえず洗濯を済ませ、日記を書く。

今日は仕事はしない。

ごろごろする。

夕方に散歩へ。

途中の植え込みで新年早々「四葉のクローバー」を発見。

幸先がいい。

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ついでに夕飯の買い出しをする。

生食用サーモンブロックと鮭のアラをゲット。

気づけば夕暮れ。

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7時過ぎに帰宅。

シャワーで汗を流し、夕食。

サーモン刺しを食べながら、Bilibili動画で「ウォッカを飲んで初雪にはしゃぐノルウェイ人おじさん」の動画を見る。

なんのことかわからない方もおられるだろうが、そのままの内容である(YouTubeで検索してもらえばすぐに「あ、これのことだ」とわかります)。

このおじさんの動画を私はなぜだか大好きでよく見るのである。

なんでだろうね。

半裸のおじさんがウォッカをラッパ飲みしながら、ひとりで寒中水泳したり、雪を食べたり、スケートしたりしているだけの動画なんだけど。

しかし、なんだかこのおじさん、いつも心から楽しんでいるように見える。

私だけではなく、たぶんこのおじさんを見た人の多くが「楽しそうだな」と思うことだろう。

肝心なところは、このおじさんは見る者に「楽しそうだな」とは感じさせても、決して「うう、なんでこんなに楽しそうなんだ、くやしい」というような嫉妬の念を掻き立てなどしないということである。

まあ、当たり前と言えば当たり前である。

半裸のおじさんがウォッカをラッパ飲みしながら、ひとりで寒中水泳したり、雪を食べたり、スケートしたりしているだけの動画なんだから。

ふつうは誰も嫉妬しない。

というのも嫉妬という感情は、本来ならば自分も有しているはずの価値あるものごとが他人に専有されていることに対する(ときに理不尽な)怒りなのである。

だから、みんなが嫉妬するであろう「楽しそう」なものごと(莫大なお金とかかっこいいスポーツカーとか社会的ステータスの高い仕事とか)を享受している人間は、そのような「幸せ」を噛み締めているのと同時進行的に、周囲からの怒りを一身に集めているわけである。

その怒りの念は、その時々の局面で「これは重要な話だけど、あいつには教えないでおこうぜ。あいつイケ好かないし」とか、ときには「おい、おまえ調子乗ってんじゃねえよ。放課後に体育館裏に来い」という形で実体化し、結果として「楽しくない」「幸せではない」事態を招いてしまうのである。

唐沢版『白い巨塔』(2003年)のなかで、財前の愛人である花森ケイ子(黒木瞳)がこんな名言を残している。

「この世には誰からも好かれる人間なんていないものよ。だって誰からも好かれる人間を嫌う人間が必ずいるでしょ。世の中の仕組みはみんなそうだと思わない?」

私が言いたいことも同じことである。

みんなが理解できる価値あるものごと=「みんなが羨むこと」を現に享受している人間は、必ずみんなに嫉妬の念を生じさせ、災いを引き寄せる。

結果として、「ずっと幸せ」なんてことはありえないのである。

理不尽ではあるが、世の中の仕組みはそういうものである。

で、話はノルウェイおじさんに戻るけれど、私がこのおじさんを好きな理由はそこである。

私の目には、彼にはそもそも「みんなから好かれる」つもりが微塵もないようにみえる。

たぶん彼は自分が等身大で楽しめることかつ自分が心から楽しみたいこと(なおかつ徹底的に無価値であり無害なこと)を好き勝手にやっているだけなのである。
だから、このおじさんは誰が見ても「楽しそう」ではあるが、このおじさんを見て誰かが「けしからん!なにやってんだ、この不道徳な人間は」と頭から湯気することもないし(無害だから)、「ああ、これこそ私がほんらい手にすべき私らしい生き方だ。それなのに、このおやじはそれを勝手に奪っている、許せない!」などと思う人間もいないのであり、(無価値だから)、このおじさんを見て「わあ、このおじさん大好き」とみんなが思うわけでもないのである。

だって、おじさんが半裸でウォッカをラッパ飲みしながら、ひとりで寒中水泳したり、雪を食べたり、スケートしたりしているだけなんだから。

おそらく、このおじさんの動画を見ている人のほとんどは(生)暖かい目で見守っているだけだろう。
結果的に、このおじさんは「みんなから好かれる人」とも呼べない。

なので、「あの人、みんなから好かれてる、羨ましい! ううう……」と他人に地団駄踏ませることすらないのである。

というわけで、おじさんは他者から向けられる嫉妬や怒りとは完全に無縁なのであり、「楽しそう」「幸せそう」なのではなくて実際に「楽しい」「幸せ」な人生を送っているのである(たぶん)。
「誰がなんと言おうと、おいらはおいらで楽しむさ」

「気分が良くて何が悪い?」(by村上春樹)

私はこのおじさんのそういう生き様を心の底から「かっけー!」と思うのである。
まじで。

誤解していただきたくないので慌てて追記しておくが、私は別に「へん、人に好かれるなんてくだらね」と中学生的なツッパリをするさまを「かっけー!」と賞賛しているわけではない(そのツッパリこそ「人に好かれたい」という潜在的欲求の裏返しである、だっさ)。

そうではなくて、このおじさんが自分の行動を規定する原理を「人から好かれること」に設定していないところを、私は「いいね」と思うである。

 

「おいらはおいらの好きなことをやる」

「人がおいらを好きになるかどうかは、おいらにはどうしようもないや」

「え、そんなおいらが好きだって?」

「まじで?」

「ありがとう」

 

そういうものにわたしもなりたいからである。