とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(料理、昼寝、料理)

23日(土)

晴れ。

7時半に起きる。

今日はとりあえず校正を4課分進めることだけはしておかないといけない。

あ、あと期末テストの事務処理もあったな。

なのでシャワーを浴びて目を覚まし、学校へ。

とりあえずカップスープ(トマト味)片手に今週の日記をアップしたあと、作業にとりかかる。

日本語監修のお仕事も兼ねているので、イントネーションが正しいかどうかにいたるまで、細かくチェックする。

で、この仕事をしていて、私が普段口にしている日本語のイントネーションと辞書や教科書的な「標準語」(「共通語」ではない)のイントネーションが一致しないことがあると気づいた。

「標準語」とはある国の国語として「標準である」と定められた規範的・模範的な性質を帯びた言葉であって、みんなが「共通して使っている言葉」ではない。

私は授業では「共通語」を使っているが、それでも辞書や教科書のような「お堅い」標準的な日本語からすると、アクセント的には「標準的」ではないのだろう。

なので、校正しながら「うん? このアクセント表記は正しいのか?」と思ってアクセント辞典をひくと、私のほうが間違っていたというケースが続出する。

さらに私が愛用しているアクセント辞典は三省堂の「新明解日本語アクセント辞典」であるが、これは「共通語」にしたがって編集されているNHKのアクセント辞典と比較した場合、「東京語」に寄せて編集されている(監修の金田一春彦先生が第二版「序」でそう言明している)。

だから、私が使用している「共通語」のアクセントは辞書的に載っていないことが多い。

これは私の方言の影響というよりも、日本語のアクセント自体がどんどん平板式(高低の起伏がない)になってきているからだろう。

 

たとえば「網」の外来語である「ネット」は①、つまり「ネ↓ット」と発音するのに、「インターネット」の略語である「ネット」は「ネット↑」と発音する。

最近の日本語はどんどん平板式になっていっているのだ。

で、私もまだまだ若い人間なので、アクセントが平板式になっていることが多い。

「プログラミング」を平板式だと思っていたら、辞書的には「プログラ↓ミング」だったとかね。

「キャラクター」とかもそう。

 

このような外来語アクセントの平板化については、「私たちの年代では全く使わない」と三省堂のアクセント辞典の中でも指摘がある。

私は外来語アクセントの平板化を多用しているが、これは年代の問題なのだろう。

しかし、最近は外来語ではない単語のアクセントも平板化してきている。

たとえば、最近の若い人のなかには「彼氏」(かれし、①、つまり一拍目で下がる)という単語のアクセントを平板式に、つまり「かれ↑し↑」というふうに発音する人がいる。(私はしないが)

そういえば思い出したが「エリンギ」の「標準的」アクセントは「エ↑リ↓ンギ」だし、そもそも「エリンギ」って外来語なんだよね。(eryngii 、ヨーロッパ原産のきのこだから

でも、私は「エリンギ↑」というふうに平板式に発音していた。

三省堂の辞書では「エ↑リ↓ンギ」だが、NHKのアクセント辞典は「共通語」を載せているので、「エリンギ」は平板式で書いてあると思う。 

めんどくさい。

そんなことを考えてながら作業を進める。 

 

校正は昼前には終了。

事務仕事は気が乗らないので、また今度にする。

市場に寄って野菜を買ったあと、帰宅。

冷蔵庫の余った野菜とアゲマキガイ、ちくわを炒めて、そこにとんこつスープを加え煮立たせたあと、麺を入れて「ちゃんぽん」を作る。

 ずるずる食べる。

満腹したので日当たりの良い窓際に行き、外から聴こえてくる一家総出「家対家」の口喧嘩をBGMに、お昼寝。

zzz……。

気持ちよく惰眠を貪っていたら、いきなり電話に起こされる。

 

「……ふぁい」

「あのー、この前買った鍋はどうでしたか?」

「はあ?」(頭が働いていない)

「鍋です、鍋!」

「あなた、だあれ?」

「お客さん、このまえTaobaoでうちから鍋を買いましたよね? 炒める用の。あれの評価をサイトからしてください」

「ああ」(このへんでようやく「こっち」の私に意識が同期する)

「はいはい、わかったから、後でしますから」

「ご面倒をお…」

ガチャ。

 

私は思うのだけれども、人は「あ、これいい! ぜひ評価したい」と思えば進んで評価するものである。

私は確かにそのお店でお鍋を買ったが、「ぜひ評価したい」とまでは思わなかった。

しかし、それこそが私の「評価」である。
「何も評価されない」というのは、それ自体がすでにひとつの客観的「評価」なのだ。
「評価」というのは、そういう自然なものであって、相手に自分から「評価せよ」と期待したり、求めたりするものではないと思う。(弟子入り志願する際に「私の技を見てください」とかいうならいざ知らず)
何が言いたいかといえば、人がせっかくのお休みに気持ちよくお昼寝しているところに、「この前うちで買った商品を評価しろ」と電話かけてくるお店は“差评”(低評価)だということである。
こういう店は何度も電話をかけてくるので、電話番号を「ブラックリスト」に放り込む。

 

目が覚めてしまったので、夕飯の買い出しと荷物の受け取りのために、外へ出る。

野菜を買いに市場へ行く。

新鮮な筍が売られている。

安い。

そういえばそういう時期だね。

とりあえず一つ買う。

ほかに豚バラ肉と人参と山芋もゲット。

家に帰って夕飯の支度。

昨夜見たグルメ動画に出てきた「蒸肉」(zheng1rou4)が美味しそうだったので、夕食につくる。

豚バラブロックを5ミリ程度の厚さに切り、にんにくと生姜のみじん切り、醤油、オイスターソース、一味唐辛子、酒などの調味料を混ぜたものにしばらく漬ける。

その後、もち米粉などからなる「蒸肉粉」を肉にまとわせ、にんじんや山芋などと一緒に40分ほど蒸す。

最後にパラパラっと万能ネギを散らせばできあがり。(まあ、散らすのわすれちゃったけど)

重慶にいたときはこれをよく食べていたので、懐かしい味である。

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肉を蒸している間に買ってきたばかりの筍を下処理しておく。

明日のお昼に「筍ご飯」にする予定。

ふふ、楽しみ。

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25日(日)

天気の良い日曜日。

7時半ぐらいに自然と目が覚める。

そのまま30分ほど布団の中でグダグダする。

布団の中でグダグダうだうだできるのは、休日ならではの醍醐味である。

とはいえ、いつまでもそうしているわけにもいかない。

起き出して顔を洗ったあと、散歩兼買い出しへ。

いつもの「杏花公園」を通りがかる。

天気がいいので人がたくさんいる。

そろいの「学士服」を来て卒業記念の写真を撮る学生たちやベビーカーを押す若い夫婦、勝手にどこかへ行ってしまわないように子どもに「腰縄」をつけているおばさん、凧あげする親子連れなどなど。

そんな公園のすぐ脇にあるスーパーで日本焼きのお皿などを購入。

帰りに市場で大根も購入。

 

帰宅するなりさっそく「筍ご飯」の制作にとりかかる。

昨日の夜にコメのとぎ汁と一緒に茹でておいた筍の皮を剥く。

テキトーな大きさに切ったあと、これまた昨夜から吸水させておいたお米と一緒に炊飯器に放り込み、そこにかつおと昆布からひいた出汁を合わせ、薄口醤油を適量投入し、スイッチオン。

ご飯が炊けるまでの時間を使って、大根と鳥の煮物、にんじんたまねぎピクルスのサラダ、わかめと春キャベツのお味噌汁を準備。

しばらくすると炊飯器から香ばしい香りが漂い始める。

幸せ。

ご飯が炊けた頃はちょうどお昼どきだったので、そのままお昼ご飯。

筍のコリコリした食感と香りが良い。

これだけ新鮮なら天ぷらにしてもいいかもしれないな。

炊きたては最高においしいので、ちょっとご飯を食べ過ぎる。

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お腹がいっぱいになったので、シャワーを浴びたあと、本を数冊持ってベッドに戻る。

村上春樹『職業としての小説家』を読む。

「オリジナリティ」について私が3年生の作文でお伝えしたかったことと同じことが、より洗練された無駄のない言葉で綴られている。

村上はこう書いている。

 

あらゆる表現者がおそらくそうであるように、僕も「オリジナルな表現者」でありたいと願っています。しかしそれは先にも述べたように、自分一人で決められることではありません。僕がどれだけ「僕の作品はオリジナルです!」と大声で叫んだところで、あるいはまた批評家やメディアが何かの作品を「これはオリジナルだ!」と言い立てたところで、そんな声はほとんど風に吹き消されてしまいます。何がオリジナルで、何がオリジナルではないか、その判断は、作品を受け取る人々=読者と、「然るべく経過された時間」との共同作業に一任するしかありません。作家にできるのは、自分の作品が少なくともクロノジカルな「実例」として残れるように、全力を尽くすことしかありません。つまり納得のいく作品をひとつでも多く積み上げ、意味のあるかさをつくり、自分なりの「作品系」を立体的に築いていくことです。

(村上春樹『職業としての小説家』102頁)

 

 

先週の授業で論文のオリジナリティや論証の正しさを判定するのは筆者ではなく「みんな」だとお話したら、授業後の感想で「他人の判断が常に正しいと言えるのだろうか」というご質問があった。

とても良い質問である。

私は「みんな」とは言ったが、「他人」とは言っていないことに注意していただきたい。(みんなとも言っていない)

私が言う「みんな」とは、「私」や「あなた」という筆者と読者の二元的な世界観では捉えられないような未知の存在をも含んでいる。

たとえば、「執筆後の私」とか「読んで1年経った後の読者」も「みんな」は含む。

なぜならば、筆者としての「私」が純粋に筆者であるのは、まさに自分の書き物を公開したその瞬間が最後であって、その後は筆者という主宰的な立場というよりも、自分の書き物を受け取った一読者として、自分の書き物を巡るコミュニケーションに参加するという姿勢こそ、筆者には求められると私は考えているからだ。

だからこそ私は「みんな」という表現をする。

そこには「時間」や「未知の存在」が含意されている。

「みんな」が指すのは「いま、ここで、俺らだけで白黒つけよう」という態度ではない。

「私」は間違う。

「他人」も間違う。

だから「みんな」を信頼する。

そういうことを言いたかったわけです。

村上は作品のオリジナリティは「作品を受け取る人々=読者と、『然るべく経過された時間』との共同作業」によって検証されるべきだと書いているけれども、これは小説というジャンルやオリジナリティという論件だけではなく、人間の関わる活動全てに対して言えるコミュニケーション原則なのではないだろうか。

(満腹とふかふかの布団と午後のお日さまのせいで)薄れゆく意識の中で、そんなことを考える。

 

目が覚めると15時前。

あわてて夕食の準備をして、1時間ほど散歩に出たあと、お風呂に入って晩酌。

眠くなってきたので(なんか食べて寝てばっかりだな)23時には就寝。