とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

いよいよ始まる新学期

4日(月)

6時に起床。

カーテンの隙間から久しぶりの陽光がチラチラと差し込んできて、机上に光の筋を描いている。

月曜日から天気がいいと、「よし、今週は頑張ろう」という気持ちになれて、ありがたい。

いよいよ新学期の開始である。

私は今学期偶数週は6コマ、奇数週は7コマの受け持ちである。

奇数週は毎日授業が入っているが、偶数週は水・木が終日フリー。

週の中日が「休み」というのはいいね。

もちろん授業がないだけで、私はこの「休み」を利用して、ちゃんと机に向かいお仕事をするのである。

今日はまず10時から1年生の会話が入っている。

一年生のみなさんと教室でお会いするのは、考えてみると昨年9月の「師生顔合わせ」以来である。

このクラスを教えるのは初めてなので、少し緊張しながら教室へ向かう。

こういうときは「最初だからとりあえず自己紹介をします」という流れが一般的なのだろうが、毎年毎年自己紹介をしてきたので、もういい加減にその流れには飽きた。

それに、自己紹介をする時に自分が自分について口にする言葉には「俺が思う俺らしさ」とか「みんなにこう見て欲しい私」がプンプン充満している感じがして、私はあまり好きではない。

なので、今回私から自己紹介を行わないことにした。

そのかわりに、日本語の「5W1H」をおさらいし、学生さんたちにその「5W1H」で私について全方面から質問攻めにしてもらうことにする。

こうすれば学生さんは私についての「知りたいこと」や「興味あること」だけ引き出せる。

それだけでなく、学生さんたちが私について「知りたいこと」や、私に対して望んでいる人物像を、私は理解出来る。

さらには、学生さんたちの質問に答えながら、私が私自身について多種多様な角度から引き出していくことで、自分でも知らなかった「私についての語り方」を発見できるかもしれない。

なによりも学生さんたちに発話や質問の主導権を握っていただく点が良い。

で、どんなことをきかれたのか。

 

「先生はなんで中国に来たんですか」

うん、よく聞かれる質問ですね。自分自身に挑戦するためですよ。

「でも、なんで中国だったんですか」

それはね、中国に来る前の私は中国語も全くできなかったし、中国についての知識や理解がゼロだったからだよ。

ようするに「未知」に身を置くことで、自分でも知らない自分に出会いたかったということだね。

「先生は日本の女性と中国の女性、どちらと結婚したいですか」

自分が好きになったなら異星人でもオッケーだと思うけれど、そういうものじゃないですか? 違うかな。

「麻雀できますか」

大学二年の時はむしろ麻雀しかしてなかった気がする。

「月給はいくらですか」

うーん、なかなか答えにくい質問だね。はにゃらら元以上ほにゃらら元以下だよ。あとは勝手に想像してね。

「安徽料理は好きですか」

もちろん。というか、私には嫌いな食べ物が全くないのです。(バカ舌だから)

「日本と中国どっちが好きですか」

どっちも好きだけど、最近では中国生活が長いせいか、日本に帰るたびに日本を外国のように感じてしまって困っています。

「日本のどこにピカチュウがいますか」

いると思えばそこにいるし、いないと思えばそこにはいないと先生は思う。‘皮卡丘在你心中’(ピカチュウは君の心の中にいる)

「先生は楽しいですか」

楽しいですよ。(なにについてかわからないけれど)

「日本人と中国人を識別できますか」

あくまで私の偏見かもしれないけれど、男だったら頭が「こんな」ふうになってるのが中国人だと思う(サイドとバックを刈り上げる仕草をしながら)

「体重はいくらですか」

いま〇〇キロです(自主検閲)。

みなさんが9月に入学したての頃は今より10キロは痩せてたから「なにがあった?」と気になるよね。

「先生は今私たちに日本の幼稚園レベルのことを教えていると思いますか」

日本語の語彙や発音、文法のレベルのことを指しているのなら、もしかしたら日本の幼稚園児の方が君たちより「高水準」かもしれない。でも、気にするべきポイントはそこではないと私は思います。

だってみなさんは大学生なんだから。

私がみなさんに期待すること、それはいかに感じ、思い、考えたことを、自分の言葉で表現できるかということです。

大学生の日本語運用能力という概念にはそこまで含まれると私は思います。

いくら日本語をネイティブ並にペラペラ話すことができたとしても、心や頭が「幼稚園児」並なら、それは大学生としてアウトではないでしょうか。

違うかな?

「どんな天気が好きですか」

気分次第ですね。

嬉しい時は晴れが好きだし、悲しいときは雨が好き。

自分がひどく悲しい時に外がやたら晴天だと、むしょうに腹が立つのよね。わかるかしら。

「先生はアイちゃんのようなVチューバーに興味がありますか」

Vチューバーそのものが好きなわけじゃないけれど、キズナアイは好きです。

彼女、なんか変だし、私変なもの大好きなので。

 

などなど。 

さまざまな視点から広い範囲に及ぶ雑多な質問を(中国語を交えながら)バッサバッサと捌いていく。

こういうふうに他人から私に向けられた質問と、その質問への私の回答を書き出していくと、「話がくどくて、理屈っぽく、好奇心が強いが、しかし気分屋で飽きっぽい」という人物像が浮かび上がってくる。

それは確かに私が自覚している「私」と被るところがほとんどだが、結果がどうこうよりも、「私はどんな人間?」と自問自答するとき特有の閉塞感が感じられないので面白い。

このような自己理解のプロセスが持つ重要な点は、私によって私自身に自己についての問いかけや提示がなされているのではなく、私が他人からの問いかけへ応答するという形で、問いかける者と答える者(私)を包括しているコミュニケーションの場に、応答態度と応答結果をひっくるめた「私」という人間そのものを提示しているということである。(くどいな)

これまで自己紹介を飽きるほどしてきたし、一方で飽きるほど見てきた。

その経験から思うことだが、「私が思う私」や「私らしい私」という語り口で提示される自己は、大抵つまらなくてありきたりなものになってしまう。

その理由は、おそらくそのような自己表現には「私についての解釈権をみなさんに委ねます」(私だってよくわかんないし)という寛容さや謙虚さが欠けているからである。(もしくは感じられないからである)

その結果、「私」の人物像や評価、人間性をめぐって済々たる他人がそれぞれがそれぞれの視点から「私」について解釈し、探り、「私」を交えて語るような奥行きあるコミュニケーションが展開されにくくなる。

私が「うちの料理はこういうもんだからこうやって食べてください。嫌なら来ないでね」という態度で、食べる手順や方法、秒数まで事細かく指示してくる飲食店が苦手なのも同じである。

確かにそっちはプロかも知れないし、自分の料理について「一番よく知っている」のかもしれない。

だからちゃんと「この肉は片面をサッと5秒炙るだけ」とか「この刺身にはわさびではなく柚子胡椒を」という店側からの細かな指示を守ったほうが、私の好き勝手な食べ方より「おいしい」のだろう。

それはよくわかる。

でも、そうやって事細かに「うちの料理」について「うち」に言及されると、私は息苦しく感じてしまう。

いちいち指示されると、私なりの「解釈」を言外に「あ〜、その食べ方じゃ不味いよ」と言われているようで、あまりいい気分にはならない。

私は「料理」とは一方的なサービスではなくて、作る側と食べる側との双方向的なコミュニケーションだと思う。

そしてそのコミュニケーションの根幹は、「この料理ってこんな料理」という解釈権を「食べる側」にお任せできるかどうかにかかっているのではないかと思う。

その結果生じる「食べる側」のさまざまな反応や行動は、結局のところ「うちの料理」の豊かさや奥深さに繋がってゆくのではないだろうか。

「自己」というものもある意味では「料理」と同じく、自分から他人に向かって差し出すものである。

したがって、自己を他人が解釈する権限を広くオープンにしておくということは、もっとも豊かなコミュニケーションを志向する態度ではないかと思うのだ。

別に誰かを批判しているつもりはないので、そのつもりで読んでいただきたいのだが、たとえば私は「自撮り」が苦手である。

自分で自分を撮るのも苦手だし、他人が自分の自撮りをアップしているのを見るのも苦手である。

別に「うっわブサイク」とか「うげ、ダサい趣味」と感じるから苦手なのではない。(そんなこと思ったとしても、こんなとこに書かない)

それが美人さんであろうがセンス溢れる人であろうが、なぜだかわからないが苦手なのである。

私は最近「なぜ俺はこんなにも『自撮り』と、そのアップに対して違和感を覚えるんだろう」と結構考えた。

ひょっとして私は「自撮り」するに値しないルックスしか備えていないから、嫉妬や妬みを覚えているのだろうか。

そんなことも考えた。

うん、確かにそうかもしれない。

それはあるかもしれない。

もし私が「イケメン」だったら、毎日パシャパシャ自撮りをして、喜々としてSNSにばらまくかもしれない。

しかし、私が自撮りを好きになれない理由は、ほんとうにそれだけだろうか。

ほんとうにそれだけだとすると、あまりに救いがないよね。(ただの僻み根性じゃん)

そんなことを考えていた。 

そのうえで一つの仮説に思い当たった。

それは、私は自撮りから滲み出る「自己による自己に対する注釈過剰」に対して、息苦しさやコミュニケーションの一方通行性を感じているのではないか、ということである。

わざわざテーブルにつきっきりで肉を焼き、切り、とりわけ、味付けまで「教えて」くれる料理店が苦手なのと同じである。

たとえば、自分の作品ごとに「正しい読み方」を「教える」ための自作自注を発表するような作家がいるとしたとしたら(そんなのいるのかどうか知らないが)、私は同じような苦手意識や息苦しさを感じるだろう。

もし仮に自分についての文脈や解釈や切り取り方を他人に委ねることが最もコミュニケーションに開かれた姿勢だとするならば、自分の写真って「自分で撮って他人に見せる」ものではなくて、やはり「他人に撮ってもらうことで、自分を見せられる」ものだという気がする。

しかし、自撮りとは、自分を自分に撮られる被写体として、その構図や衣服、表情、髪型、時、場所にいたるまで全て「自分好み」に設定し、そうして作られた「作品」を「自分好み」に編集・加工したものである。

自撮りを公開するとは、その成果を自分という検閲にかけて「私が思う私」と照合し、認可された結果を他人に差し出す行為である。

おそらく私はそこに充満する「自己についての自己定義」に息苦しさを感じているのだ。
でも、「私」についての評価や解釈や構図がどうであるかという決定権は、結局のところ、私の預かり知らぬところに委ねるしかないのではないだろうか。

しかし実際のところ、SNSは「自分に関する情報を他人に差し出す」というよりも、まるで「公共オフィスにある自分の机に私的な自分に関するものを飾っておく」という使い方をされていることがほとんどので、他人からの異議申し立ては「嫌なら見るな」とか「わざわざ覗き見するなんて悪趣味」という言葉で撃退可能なのである。

しかしコミュニケーションにおいて、私という存在や私という存在のパフォーマンス(たとえばこの文章)の最終的な解釈権は、私だけが独占的に握っているものではないのだと思う。
写真も文章も私を客観的に解釈・判断し、できれば理解してもらう一材料として、私がおずおずと供するものであって、私が私を皆に正しくアピールし理解させるための手段ではない。

写真であろうと文章であろうと、それが自己言及に満ちたものであればあるほど、私は苦手である。

村上春樹は次のようなことを言っている。

 

「ほかのことについてどう考えるかという、姿勢や考え方の中に“あなた”はいます。その関係性が大事なのであって、あなたが誰かというのは、じっさいにはそれほど大事なことではありません」

   村上春樹『村上さんのところ』、新潮社、50頁

 

私は村上のこの考え方を素敵なものだと思う。

私は私を私が「ほかのこと」を考えるなかにしか、見いだせない。

私は私について私自身では「わからない」。

だから私は私について「ほかのひと」の声を通じて知ろうとする。

しかしそれは私が考える「私」を「ほかのひと」に提示し、認可や理解を求めるということではない。

私が「ほかのこと」を考えた結果や、そうやって「『ほかのこと』を考えている私」に対する私そのものが、「ほかのひと」との関係や「ほかのもの」との位置づけにおいてどうであるのか見ることを通じて、「まあ、私ってこんな感じかもね」というふうに把握していくということである。

めんどくさいね。(この文章もめんどくさい)

そういうことで話は戻るけれども、私が「私が思う私」に基づいて自己紹介をするよりも、学生さんたちからの私に関するてんでばらばらな質問に答えていくことで、その答えと答え方を私の判断材料として教室にばら撒くほうが、よりオープンな「自己紹介」だと私は思うのである。

そういう態度で初回の授業に臨んだことと、そのような私への学生さんの反応を振り返ってみると、「まあ、確かに俺ってこういう人間だわな」とおぼろげでわかっていたことではあるが、それでも新鮮感を持って実感できるのだ。

 

 そういうふうに、私についていかなる情報開示がなされるかを学生さんに任せながら授業が進んでいたのだが、60分経過した時点ではっと気づく。

「って、なんで誰も私の名前を聞かないんだろう」

だって、みなさんのお手元の時間割には私の名前書いてないでしょ?

外国人だからって「外教1」(外国人教師1)としか書いてないでしょ。

でもわたしにもちゃんと名前はあるのよ。

気にならない?

まあ、いい。 

幸運にも「外教2」とか「外教3」ではないのだから。

やっぱり名前くらいは自分から名乗らないといけないということなのかもしれない。(そういえば自分の名前は自分で決めたものではないしね)

 

話は変わるが、この前の日記には「親切心」が大事だと書いたけれども、すくなくとも一年生の会話の授業に関しては「親切心」以上に「サービス心」が重要である。

だって、学習歴半年の彼ら彼女らの日本語はまだまだ不自由だし、外国人教師の授業を受けるのも初めてなのだから、こっちが「高み」にたってしまうと学生さんたちは萎縮してしまうだろうから。

コミュニケーションが円滑に動き出してくれるためにも、まずは私が「私は皆さんとコミュニケーションしたいんですよ」というメッセージを、それこそ身体全体から発信しなければならない。

そのためにはどんどん「サービス」することが求められてくる。

答えにくい質問(「給料は?」とか「これまで付き合った彼女の数は?」とか)にも出来る範囲でにこやかに答え、日本語がわからない人間が見ても意味がわかるような大げさなジェスチャーで場を盛り上げ、下手な中国語でジョークも繰り出し、自分の体験した「日中比較論」で好奇心を刺激し、絶えず笑顔を保つ。

そうやって90分間「サービス」に専念したので、へとへとになって事務室に戻る。

会話の授業のあとは頭の疲れというよりも体育の授業のあとに似た疲れを感じる。

まあ、でもみんな笑顔で積極的に日本語を使ってくれたから、とりあえずよかったかな。

 

お弁当を食べて少し休憩した後に、気持ちを切り替えて3年生の「視聴説」の授業に望む。

相手が3年生なので、さきほどまでの「サービス精神」溢れる教師から態度をガラッと変えて、演説をぶつ。

さて、諸君は一年後に卒論執筆を控えているわけだが、論文を書くために必要なものは何だろうか。

なに、知識だって?

なるほど。

では、論文執筆にあたって「私はどんな知識を学ぶべきか」という根本問題を、君はどう決めるのか。

図書館を見ればわかるように、知識は膨大に存在する。

その全てをカバーすることなど人間には不可能だ。

だからそのような膨大な量の知識のなかから「必要なもの」と「必要ではないもの」を見極め、収集し、仕分けていかなければならない。

しかし、そもそも知識を見極め、かき集め、仕分けるための拠り所がなければ、どのような領域で知識を探すか決定したり、「必要なもの」と「必要ではないもの」を判別することは、果たして可能だろうか。

無理だね。

つまり、知識が必要である以前に、知識をかき集めるための拠り所となる「なにか」が必要なのである。

この「なにか」が問題意識である。

料理に例えるならば、「これを作りたい」にあたる。

「これを作りたい」が分からなければ、いくらキッチンに調理器具や香辛料が豊富に揃っていても、料理は作れない。

だって「これを作りたい」が分からなければ、スーパーに行って買い物かごを右手に提げ「さて、何を買えばいいんだろう」と考えたとたん、「何買えばいいんだろ」とフリーズしてしまうからだ。

「これを作りたい」がなければ、材料を仕入れることはできない。

「これを作りたい」があれば、材料の選別や調達が可能になる。

論文において「これを作りたい」は「これを知りたい」と言い換えることができる。

だから問題意識とは「これを知りたい」にほかならない。

ただし、ここでいう「知りたい」とは、みなさんに馴染みのある「本で読んで知識を得たい」という意味ではない。

それだと「これを食べてみたい」にとどまってしまう。

論文執筆における「これを知りたい」とは「自分の言葉や考えで究明したい」という意味である。

つまり料理における「これを自分で作ってみたい」である。

なぜ「自分の言葉や考えで究明したい」かというと、「本で読んだ知識」では、自分が「知りたい」ことへの答えとして、いまいち納得できないからである。

それはつまり、自分の「知りたい」ことへの答えが「本の知識」や「既存の情報」には存在していないということである。

たとえば「カレーを食べたい」と思っていろんなレストランや料理店で食べてみた。 

それらはどれも「おいしい」けれど、今ひとつ「わたしが食べたいもの」ではないと感じはじめた人がいるとする。

じゃあ、彼は「私が食べたいカレー」にどうやって出逢えば良いだろうか。

もちろん「自分で作る」しかないのである。

そういう紆余曲折の上で、人は「じゃあ、いっちょ自分で作ってみるか」と思うに至る。

だから、みなさんも卒業論文を執筆する際には、「自分の知りたいこと」を書籍や他人の業績から仕入れるのではなく、「自分の言葉や考えで究明」するしかないのである。

ここまでくれば、問題意識がはっきりする。

「わたしが知りたいことは未だ存在しない」のである。

それが分かって初めて「問い」や「仮説」を立てることが可能になる。

まずは「私が知りたいことは、なぜ未だ存在しないのか」と問うてみる。

「ひょっとしてこういう原因や背景があるのではないか」と仮説を立てる。

そうすれば、あとはその「問い」に回答ししながら、「仮説」を検証し、修正し、立証すればよいだけである。

そのために必要な材料を「スーパー」や「市場」へ行って、仕入れる。

仕入れた材料を処理しながら、必要な「調理器具」を探りつつ、もっとも旨い料理が作れそうな「器具」や「工程」を探る。

結果的にできた料理が「これまでにないもの」として「食べる人」に認められれば、いっちょ上がりである。

つまり、問題意識さえあれば誰でも論文を書くことができるということだ。

逆に言えば、問題意識がなければ論文を書くことは不可能ということでもある。

問題意識は「なんでだろう」という疑問や「なんか、変」という違和感をかき集めていくことで、徐々に形成してゆくことでしか得られない。

一朝一夕で手に入るものではないよ。

これまでの学生さんを見ている限り、ほとんどの学生さんは4年生の「さあ、卒論だ」という段階になってから問題意識を探し始めている。

それじゃあちょっと遅いと私は思う。

問題意識の自覚には時間がかかるものだからだ。

 

問題意識が自覚できない学生さんは、必要な知識を集める際に自分の興味関心に頼ることになる。

興味関心とは「好きだから」とか「面白そうだから」である。

料理の比喩をしつこく繰り返して言うならば、「好物だから」とか「美味しそうだから」である。

論文を書くことが「好き」や「面白い」をもたらしてくれるのは事実だけれども、「好きだから」や「面白そうだから」だけで論文を書くことができるというのは事実ではない。

日常的な興味関心に過ぎない「好きだから」とか「面白そうだから」では、論考を深めるには不十分だからだ。

「食べたい」理由が「好物だから」「美味しそうだから」にとどまるなら、お店に行って食べればいいでしょ。

だから、多くの学生さんは自分の「好物」や「美味しそう」を基準として、「お店」にいってたくさんの「料理人」が作った「料理」をかき集め、お盆の上に載せて「はい、これが私の料理です」と差し出す。

でも、それってどこが「私の料理」なの?

ただ単に「好きなもの」や「美味しそうなもの」を集めただけでしょ?

それは論文を書く場合も同じである。

とりあえず、自分の興味関心に引き寄せて他人の論考や既存の知識をかき集めて文章を書いても、それは論文だとはみなされないということは覚えておいて欲しい。

そういう文章は「論文」ではなく、「レポート」と呼ばれるからだ。(他人の料理ばかり載ったお盆を「私の料理」とは呼ばないように)

もちろん論文執筆でもレポートを書くとき同様、調べものが必要不可欠なのは事実である。(「私の料理」を作るためには、ほかの人の料理を一通り味わってみることが必要なように)

しかしレポートでは必ずしも必要とはされず、論文では必ず必要とされることがある。

それは「論じること」である。(「論じる文」なんだから、当たり前だ)

では、「論じること」に必要なのは?

そう、「問い」である。

しかも、「自ら問うこと」なのである。

「自ら問う」ためには、日常的な「好き」や「面白い」から出発してもいいけれど、それにプラスして「でも、よくわからない」「だから、わかりたい」を重視しながら、自分の問題意識をすこしずつ作り上げていくことが必要なのだ。

自分の問題意識をすこしずつ作り上げていくためには、日常に転がる些細な「なんでだろう」や、とるにたらないが脳裏を離れない「なんか、変」を、日々大切に拾い上げ、言語化していくしかない。

今学期私が諸君の授業で徹底して強調するのは、そのような地道な作業の大切さについてである。

今学期の諸君にとって、まず大切なのは「考える」ことではない。

「考えるべきことについて探す」ことである。

それは思考以前の段階、「感じる」というレベルが担っている重要な知的課題である。

どうか自らの皮膚感覚を研ぎ澄まし、アンテナを張り巡らしながら、授業で扱う映像や文章を受け取って欲しいと思う。

 

というようなことを滔滔と説いたあとでお見せしたビデオが和牛の漫才だから、その落差たるや。

なぜ和牛を見せたかというと、私が最近ハマっているからである。

「なんだよ、そんな個人的な理由で」とツッコミが入るかもしれない。

しかし「ハマる」のにもいろいろな理由がある。

たとえば「ルックスが好み」だとか「私と価値観が一緒」だとかというだけで「ハマっている」なら、このビデオを教室で流す教育的意義は薄いだろう。

私の「好み」や「価値観」を学ぶ意味など学生さんにはないのだから。

しかし私が彼らに「ハマっている」理由はそういうものではない(と思う)。

私が今自覚している「ハマっている理由」は、単に「なんか説明できない面白さがあるなぁ」と思うからである。

つまり彼らの漫才は単に面白いだけではなく、私の「なんかわからないけど」という好奇心と「説明したい」という知的欲求を刺激する、知的な「なんか」を含んでいるということである。

もし仮に、その知的な「なんか」が私個人の領域にとどまらない普遍性を持つものであれば、このビデオを見せることは知的に教育的意義を持つ。

ということで、「もし俺がゾンビになったら」「彼女の手料理」などをご覧いただく。

結構ウケたようで一安心。

私の見るところ、和牛のネタは日本語の語感や日本文化や日本社会の背景に多くを依っているわけではないし、ブラックジョークや差別ネタを入れ込むわけでもないので、翻訳したうえでも笑いが伝わりやすいものだと思う。(「まだまだ水田」「そこそこゾンビ」みたいに語感にも優れたネタであるのは確かだけれども)

いわば「普遍的な笑い」と言えるだろうか。

 「普遍的な笑い」で私が真っ先に思い浮かべるのはアンジャッシュである。

彼らのコントは「文脈をずらすこと」を笑点にしている。

コントの中で会話しているそれぞれの当人にとっては「当たり前」のことが、俯瞰的に見てみるとすれ違っている様子を観客にメタな視点で提供し、面白みを生み出している。 

なので、たとえ言語が違っても彼らの笑点は翻訳可能なのである。(実際、BiliBIli動画などではアンジャッシュは人気である)

ただ、アンジャッシュのネタには必ずと言っていいほど下ネタが入るので、授業では使えないのが残念である。

逆に「翻訳不可能」な笑いが特徴なコンビとして、今思いついたのがサンドウィッチマンだ。

私は彼らの漫才やコントが大好きで、眠りにつくときに時々流しているのだが、このコンビの笑いのセンスは「ダジャレ」や「音韻遊び」、人名イジリや漫画ネタが中心になっている。

だから、翻訳してもサンドウィッチマン独特の笑いは伝わらないのではないかと思う。

日本語を相当なレベルで身につけていて、なおかつ日本文化や日本社会、日本に関する雑学が相当備わっていないと、彼らのネタの面白みを理解するのは非常に難しいのではないかと思う。

 

 閑話休題

和牛のネタを数本見せて、どんなことでもいいし、考えや答えがまとまってなくてもいいから、自分が感じた疑問や違和感を発表するよう課内課題を出す。

今学期の視聴説で私が重視するのが「問いのシェア」である。

ある対象に対する問いが多種多様であればあるほど、私たちはその対象をより深く理解することが可能になる。

それは単にさまざまな角度から対象を検証することが可能になるという意味ではない。

さまざまな「問い」を一覧的に見てゆくことで、やがて「問い」に対する「問い」が連鎖反応を起こし、「問い」のフェイズが繰り上がるということである。

そうすることで、私たちの思考は(内田樹風に言えば)「垂直方向に」深く深く切り込むことができる。

それに「考え」や「意見」のシェアは批判や対立へと結びつきやすいが、「問い」のシェアはそうはなりにくい。

なぜなら「問い」はスタートにすぎないのであり、そのあとどう進むかに関してはそれぞれの自由裁量に委ねられているからである。

そして「問い」の評価基準は、結局のところ「面白い」とか「鋭い」とか「独特」とかになるのだが、これらが意図するところはその「問い」が「見慣れない、新しい、広々とした知的展開」をもたらしたか(もたらしそうか)どうかというものである。

 

「二軒目どこにする~?」

「カラオケはどう?」

「いいね」

の「カラオケ」部分である。

「いいね」は、要はオープンな展開が予感されるから感じられるのだ。

もちろん店選びに失敗して「冷める」ことは十分にありえるが、それは段取りにとちったからであって、「カラオケはどう?」という提案そのものの問題ではないのである。

 

私は「問い」の質を評価することは、予備知識抜きの感覚で行われてもけっこう適切に下せるのではないかと思っている。

「学び合い」という点では、ディベートなどよりもむしろ「問い」のシェアを活発に行った方が良いのではないかとも思う。

テーマが定められ二元的に展開されるディベートでは、「賛成反対」が存在する知的次元以上の知的パフォーマンスを展開することが無理だと思うからだ。

もっとも根本的で創造的な知的パフォーマンスは、「賛成反対」が成立している知的基準を根本から覆し、そこで「賛成反対」論じていた人間をひとまとめにゴミ箱に叩き込むようなかたちで姿を現す。

そのような知的パフォーマンスの来源は、結局のところ「こいつら賛成反対いってるけど、同じ基準でじゃれあってるだけじゃないの?」という感覚であり、その感覚から飛び出す「あなたたちがいっていることよくわかんないけどさ、それって~じゃないの?」という「問い」である。

その「問い」が根本的であればあるほど、その「問い」によって現在の議論の向こう側に広広たる未知の世界が広がり、現在の「賛成反対」がいっきに「とるにたらない」知的課題としてゴミ箱に叩き込まれるのである。

 

それはさておき、和牛の漫才を見た学生さんたちが出してくれた疑問や違和感の一部がこちら。

 

①ユーモアと屁理屈にはどんな違いがあるか

②どうして屁理屈は理屈に合っているのに他人に不快感を与えるのか

③屁理屈と理屈の違いは何か

④「理屈っぽい交流」と「論理的な交流」の違いは何か

⑤もし水田さんの屁理屈を実際に彼氏に言われたら不快なのに、漫才の形式になるととても面白いのか。

⑥なぜふたりの服装は普段着とスーツというように非統一なのか

⑦どうしてふたりの人間の衝突に富む漫才に私は笑わせられるのか

⑧水田さんがゾンビになったあとの「ポー」は音で、ゾンビになる前の「鳥と豚あるけどどっち食べる?」は言葉だが、何を以て「音」と「言葉」が区別されるのか

⑨互いに本当の意味を隠した(心地よいが実はわかりにくい)会話をするのはなぜか

⑩どうして他人の気持ちを理解できない人間が存在するのか

 

などなど。

ふむふむ、面白いね。

①から④は「屁理屈とは何か」について自分なりに理解し表現できるようになることを問題解決の「登山口」とするのが一番正攻法だろうか。

当然そこには「コミュニケーション」に関する論考が求められてくる。

だから、「問い」に対して「問い」を重ねることで、より根源的なフェイズに問題を発見できるかもしれない。

⑤も「屁理屈」や「コミュニケーション」に関係するけれど、それにプラスして「漫才」や「お笑い」という文化行動に対する考察も関わってくる。

⑥⑦もそうだね。

⑧はまさに言語学の領域の論題だと思う。

「音」と「言葉」、そして「意味」についての根本的問題については、たぶんたくさんの古典的名著や研究があると思うから、調べてみるといいかも。(私は専門外なのでわからないが)

⑨⑩もコミュニケーションに関する問題。

これに答えるには、この問いが出てきた背景にある自分自身の問題意識を、もう少し掘り起こす必要があるのではないかと思う。

 

今授業では言い忘れてしまったことだけれど、内田樹が言うところの(今回はよくご登場願うなあ)「『資料が整い合理的に推論すれば答えることのできる問い』と、『材料が揃っていても軽々には答えの出せない問い』と、『おそらく決して人間には答えの出せない問い』については三色ボールペンでアンダーラインを引き分けるくらいの節度」についてはちゃんと説明しておかないと、この進め方だといたずらに学生さんを混乱させるだけかもしれない。

これまた内田樹がどこかで書いていたように、「根源的な問題」とは、その問題について語る言葉そのものがその問題に含まれていたりするからだ。

たとえば「問とは何か」と問うように。

こういう問題を考えるときには、それなり知識や方法論が手元に揃え、慎重さを心がけなければ、簡単に「禅問答」や「堂々巡り」に陥ってしまう。

それじゃ卒論は書けない。

だから「問い」の見極めも大切だと説明しておかなければなるまい。

気を付けよう。