とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

日記(進まない仕事とか、態度の悪いおじさんとか、「グローバルについて」とか)

30日(水)

 

月曜から引き続き教材編集のお仕事。

日本のテレビニュースを文字起こししたものと、実際の映像資料を照らし合わせて、間違いや欠落を探す。

昨日は「日本人なら誰でもできる」と書いたこの作業だが、やってみると結構楽しくなってきた。 

中国人向け教材に使うという視点で、日本人の言い回しや日本語の表現を眺めてみると、けっこう変なことに気づかされるからである。 

今日は「天気や気候」に関するニュースをチェックしていて「命に関わる危険な暑さ」という表現が「面白いな」と思った。 

日本では昔から天気予報でこんな表現使っていただろうか。

すくなくとも私が子どもの頃の天気予報では、こんな物騒な表現はなかった気がする。

そういえば、数年前に一年ぶりに日本へ帰り実家に滞在していたときのこと。

「田舎あるある」だと思うが、私のふるさとでは消防団の詰所や市役所支所のスピーカーから、よく町内放送やサイレンが流れる。

たとえば午後五時になると「ふるさと」が流れる。 

久しぶりに地元の夕日を眺めたりしながら「ふるさと」のメロディを耳にすると、けっこうジーンとくる。

サイレンがなる場合は、たいてい正午のお知らせとしてである。

で、数年前の夏休みにひさしぶりに実家でダラダラしていたときのこと。

いきなり「ピンポンパンポン」とお知らせの合図が成り、「こちらは消防局です。本日は30℃を超える真夏日です。熱中症予防のため…」などと親切なお知らせを流し始めた。

こんなこと、昔はなかった。

「おお、親切だね」と思った。

でも、さすがにそれが連日続くと、正直「うるせえよ」と思ってしまった(ごめんなさい)。

「命に関わる危険な暑さ」というのも、エアコン嫌いで熱中症になるお年寄りとか、炎天下で水も飲ませずに走り込みさせるバカ顧問とか、そういう人を意識して出てきたものなのだろうか。

赤ペン片手にそういうことを考えながらスクリプトを眺める。

でも、「命に関わる危険な暑さ」というフレーズを、きっと中国の学生さんたちは一笑に付すだろう。

だって、そのフレーズの後に出てくる予想最高気温が、35℃とか38度とかなのである。 

もちろん何度だろうと危険なものは危険である。

しかし、中国の内陸の方では、40度超なんてザラである。

重慶なんかではただ暑いだけではなく、風が吹かないのだ。

地獄である。

日本では心地よい海風が期待できる。

夏に九州に帰ると風が吹いている日は35度とか37度でも「あー涼しい」と感じてしまう。

海がない都市はそうもいかない。

私自身、重慶で43℃、昨年合肥でも40℃を体験してしまって、暑さに関する感覚がだいぶ麻痺してしまっている。

だから、つい「おおげさな」と思ってしまった。 

 

多分このニュースを中国人に見せたら、重慶とか長沙とか南京とかあたりの学生さんは「ふん(笑)」と鼻で笑うのではないだろうか。 

 

降雪でバタバタしている東京を雪国の人が「ふん(笑)」と鼻で笑うのと同じで、それはある意味人間にとって自然な心理である。 

 

社会福祉のニュースでは、生涯未婚率が高い東京都が若者向けに開催した「結婚について知事と語ろう!」なるイベントに関するニュースが取り扱われていた。

で、そのイベントに「結婚したい若者」代表のパネラーとして安田大サーカスのクロちゃんが出ていた。 

「水曜日のダウンタウン」は中国でも見ている学生は見ているので、そういう学生がこのニュースを授業で見たら「クロちゃんwww」と吹き出してしまうかもしれない。(私は吹き出した)

 

などと、どうでもいいことを考えていて、なかなか楽しい。 

集中できず、作業が進まないのが困る。

 

31日(木)

雪。

朝起きるとそこそこ積もっていた。

 

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夕べ0時前には雨が降っていたから、「夜更け過ぎに雪へと変わった」のだろう。

仕事を進めるため大学へ。

今年の春節は来月5日だから、中国の生活感覚的にはもう「年の瀬」である。

だから大学にはほとんど人がいない。

みんな地元に帰って家族団欒を過ごしたり、どこかへ旅行や遊びに行ったりしている。

年の瀬の寒い雪の日に仕事をしなければならないのは、たしかに大変だよね。

わかるよ。

でもさ、それでお鳥目を頂いている以上、心を込めてやるべきだとは思わないか?

何かというと、外国語学院の建物を管理している警備員(おっさん)の態度があまりにも悪すぎてびっくりしたのである。

今朝いつもどおり一階のロビーに入っていくと、大声で

「おい!」

呼ばれた方向を向くと、左手だけ上着のポケットに突っ込んだおっさんが、受付デスクのうえに乱雑に投げ出されている書類を指差し、一言。

「登録しろ」

びっくりして思わず「は? なに?」と聞き返してしまった。

言われている意味を聞き返したのではない。

あまりの態度の悪さに「え、まさかとは思いますけれども、私に登録をしてくださいっておっしゃっているんですか? 別に私はあなたのお仕事に協力するにやぶさかではないのですが、でも、それって人に何かをお願いする態度ですか?」という思いを「は? なに?」に凝縮してお届けしたのである。

 

「は?」(おっさん、だれ?)

「なに?」(そのクソみたいな態度)

 

おっと、口が悪くてすまない。

おもわず中国語で「おい、その態度はなんだ」と言いかけたが、中国語で中国人と口喧嘩しても全く勝てる気はしないし、そもそもこのおじさんはかなり訛っていて、何言っているかあんまり聞き取れない。 

喧嘩したとしても“鸡同鸭讲”(鶏とアヒルが同時にしゃべる、つまり会話が全くかみ合わないことの意)である。

だいいち、誰もいない大学の冷たいロビーで、こんなおっさんと口喧嘩しても虚しいだけだ。

正直ひさしぶりにイラっとしたが、仕方がない。 

「はいはい」とサインする。 

誤解なきよういっておくが、これは「中国人はどうこう」とか「日本との違い云々」ではなく、完全にこのおじさん個人の問題である。 

だって、さきに事務室に来てたO主任も私の顔を見るなり「一階の警備員、あれ態度ひどくなかったですか?」と言ってきたし。 

そういう態度だから、そういう仕事しかできないんだよ。

あ、ここでいう仕事とはパフォーマンスのことであり、職種のことではないからね。

おもわず愚痴を言いたくなる。

とはいえ、私はここでは日本人として認知されている存在であり、私の言動はそのまま「日本人」という文脈でとられてしまう。

よく意見を言った時に「いやあ、日本人らしい観点ですね」と(褒意で)おっしゃる方がいる。

もちろん私の物の見方が多分に日本的なものに影響されていて、それで私が日本人らしい事を言っている可能性もある。 

しかし「え、俺のこんな意見を日本人らしいものとして受け取られて、いいんだろうか」と不安にもなる。

外国で外国人としての役割を本然的に期待されている仕事をしていると、ちょっと気疲れする。

たとえば、私だって嫌なことがあった時に「さっきめっちゃ態度悪いおっさんいたんだけど……。あー最低、チョームカつく、ぷんぷん!」と愚痴をこぼしたくなる時がある。 

しかし、これを学生さんや同僚の皆さんにこぼしてしまうと、それを「日本人」と「中国人」の図式で受け取ってしまわれる可能性が高い。 

いや、たんに「私」と「おっさん」との間にあったことに過ぎないんだけどね。

でも、意図せずして不快な思いをさせるような事態は、できれば避けたい。

だから愚痴は言うまい、こぼすまい。

 

気を取り直して机に向かう。

今日は教育関連の映像からチェックする。

資料のニュース映像では、英語のみが使用されている東京のインターナショナルスクールが紹介されていた。

そこに子どもを通わせている「教育ママ」たちが、「これからは英語が出来て当たり前の時代が来る」とか、「中学から海外行けばいいという今までの世界では遅い」とか、「自信を持って生きていく力、グローバルな視点、人間力みたいなものが培われるといいなと思う」などとコメントしていた。 

こういうのを見るたびに、「へっ」(by オードリー春日)と思う。

別に特定の誰かやなにかを批判する気は毛頭ないのだが、私は「グローバル」という単語が好んで使われる様子を見るたびに、なにか「それらしい」ことを言ったり「それっぽい」ことに取り組んでいるとアピールしたいだけではないだろうかと邪推してしまう。 

私が知っているある高校では、ある年から「グローバルコース」なる課程を設けて生徒募集を開始した。 

しかしそこで語られている開設理念や実体を見ても一体どこが「グローバル」なのか、私にはさっぱりわからなかった。(「旧帝大以上の難関大学合格を目指す」とか「文理の選択をじっくりできる」とか、そういうことだけはたくさん語られていたが) 

だからかどうかは知らないが、私の知る限り、そのコースは志願倍率がかなり低かった。 

受験生がそれぞれの中学校で取りまとめて願書を書かされているときに「〇〇高を受ける人は、行く気がなくても『グローバルコース』を志望コースにに書いておけ」と教師から「指導」されたと聞いている。 

高校側から中学の進路指導の先生に「お願い」があったんだろうと察する。

結局このコースは10年も持たず廃止された。(理由は知らない)

それ以来、「グローバル」と冠するものごとを見たり、「グローバル」を愛用する人と話したりして、「わあ、すごいな。頭いいな」と思った記憶が、私にはない。

たぶん私が偏屈なのであろう。

以前、日本のとある田舎に位置する大学が国外からのゲストを招いて開いた「グローバル交流のための本学のストラテジーや取り組み」みたいな場に居合わせたことがある。

そこでは主催校の担当者が、東京の有名私大がやっている「グローバル」なカリキュラムをさんざん紹介した上で、自分たちの大学もそれに倣うと自信満々な様子で語っていた。(なぜかパワポは英語で表記されているにも関わらず、日本語で語っていた)

私は「おいおい」と思った。

東京の有名私大とあなたたちの大学の置かれている状況は全然違うだろう。

それは良いとか悪いとかではなく、客観的な事実である。

それぞれの学校にはそれぞれの土地柄や文化や歴史などがあるはずだ。

そういう要素を踏まえて練り上げるのが「ストラテジー」ではないのか。

だから、日本に700以上の大学がある以上、「ストラテジー」もその数だけあるはずである。

自分たちの学校が根付いている場や学生が置かれている状況を無視して、東京がやっていることに倣って「やれダブルディグリーだ」とか「それ英語で授業だ」とか言っても、まったく説得性がない。

それは情報量や論理的整合性の問題ではない。

そんな高度な問題以前の、初歩の初歩の問題である。

それに、話を聞く限り、それって「グローバル化」というより「チェーン化」というべきじゃない?

そうやって地方で学生募集しても、結局は「二番煎じ」しか教えられないんじゃない?

それなら若い人は多少無理してでも「本家本元」を求めて地方を離れるだろう。

私は田舎の高校生だったからわかるが、田舎の高校生に足りないのは「学力」ではない。

「自信」である。

自分たちが食べて、寝て、遊んで、学んでいるその土地が(ひいてはそこにいる自分が)「客観的には価値がないのではないだろうか」と不安を覚えているのである。

そこにもって「私たちの大学では東京の一流大学でやっていることと同じことをやってますよ」とアピールしたらどうだろう。

それは「東京の大学はすごいよ」ってことではないだろうか。

「あなたたちの町の大学は自分たちでは何も考えられないよ」ってことではないだろうか。

それが「グローバル」の目指すものなのだろうか。

せっかく大学の先生なのだから、自分の頭や足を使って、自分たちにしかできない国際交流を創造したり、自分たちのいる場所でしかありえない国際性を発見することに力を使ったらどうだろうか(頭いいんだろうし)。

結局何がしたいのか、私にはわからなかった。

たぶん私が偏屈で視野が狭いからだろう。

 

私自身は「グローバルかどうか」という視点でモノを考えたり、判断したりしないことにしている。

なぜなら「グローバル」とは何かについて、私はわからないからだ。

わからないから、「グローバル」に関する問いだけはたくさんある。

だいたい「グローバル」ってなに?

「グローバル人材」ってどういう人材?

英語ができれば「グローバル」なの?

外国人と交流しなければ「グローバル」じゃないの?

たとえば、私は海外で仕事をしてもう6年だけれども、私は「グローバル」に活動する「グローバル」人材なの?

たとえば、日本の田舎町で農業をしていて、外国語は全く喋れず、外国人と接することなんて皆無だけれども、作る野菜が外国に輸出され現地でとても喜ばれている、そんな人がいるとしたとしたら(実際にいるだろうが)、その人は「グローバル人材」とは呼べないの?

そういう産業がある田舎町は立派に「グローバル」な文化を持つとは言えないの?

よくわからない。

私は偏屈だが、自分でもよくわからない言葉を使うときには、それなりの努力をするように心がけている。

だから、私なりの限られた知識や経験や頭脳の範囲で、なんとか考えてきた。

そのうえで思うことだが、ほんとうにグローバルに活躍している人とは「グローバル」なんて真新しい(でもないな、今や)言葉をわざわざ使わずとも形容できるぐらい、当たり前のことを当たり前にできる人間なのだろうと思う。

そういう人は、多分どこでどんな人とどんな仕事をしても、けっこう上手く出来て、そこそこ幸せに過ごすことができるのではないだろうか。

それは語学力とは関係がない。

マインドの問題だからだ。 

「当たり前のことを当たり前にできる」素質がなければ、語学が堪能で世界を飛び回っていても、結局はただの自己満足で終わってしまう。

私はそう考える。

別に子どもに早くから「英語」や「異文化」を学ばせてもいいと思う。(子ども自身が心の底から楽しんでいるようならね)

語学はとても有意義である。

自分の知らない言語や文化に接することで、他人への共感性とか、自分自身の唯一無二性をより学ぶことが出来るからだ。 

だからこそ、「英語」や「異文化」を学ぶことになにか人格陶冶としての意義があるとすれば、それは他者への敬意を身に付け、自らだけが担当可能な責務を発見するためになされる限りにおいてである。

「自信」とはそのような自らしか担えそうにない「責務」の発見と「個性」の自覚によって裏打ちされるものであるべきだと、私は考える。

そして、逆説的な言い方であるが、「自らにしか担えそうにない『責務』」を発見し「個性」自覚するためには、まずは自らを自縄自縛している「自らにしか担えそうにない」とか「個性」とかいう枠組みから、抜け出さなければならないのである。

語学や異文化交流は、自らの根本そのものを揺るがすようなものである限り、真に教育的である。

そのようにして得られる「自信」は、別に語学や異文化交流を経ずとも、自分の心がけ次第で十分獲得可能なものだと私は思う。

そのような視点を持たなければ、いくら複数の言語を自在に操ることができ、多種多様な外国体験を持っていたとしても、自分がすでに保持している基準を他人と共有し、その「上下」で自分を位置づけることでしか「自信」を得られないだろう。

たとえば「俺はこいつらより『グローバル』だ」とかね。

私はそう言う「自信」を「自信」だとはみなさない。

「自信」とは「自分を信じる」ことである。

「俺は他人と比べて…」は「自分を信じている」のではない。

他人と共有している「基準」を信じているのである。

そして他人と共有している「基準」で「自分」を差別化する人間を、私は「個性」的な人間だとは思わない。 

それはただの俗物である。

また、そういう俗な人間を「人間力がある」人間だとも、私は思わない。

あくまで私の一方的な主観に過ぎないけれども、このニュースを見る限り、「教育ママ」たちは、自分の子供に周りの「普通の子ども」より優れた力を早く獲得することを望んでいるようにみえる。

もしそれが、我が子に少しでも有利な条件を獲得し、無事に生存することを望む、そんな親心からなされているならば、私はなにも文句はない。 

よく理解できるからだ。(母親になったことがないので、あくまで想像だけれども)

しかし、そうやって親から国内の「普通の子ども」たちと差別化を図るよう教え諭されてきた子どもが、他人を他人そのものとして、異文化を異文化そのものとして尊重するような態度や人間力などを、果たして身につけることができるだろうか。 

この点に関しては、私は「うーん、無理じゃないかな」と思うし、もし本当に「人間性」や「自信」を我が子に望むのならば、それは却ってどうかと思う。(大きなお世話だろうが)

だって、もし私がそういう子どもだったら、小学校の英語の授業でほかの子供や教師の発音をうすら笑いを浮かべながら訂正したり、「あのね、海外ではそれは通用しないんだよ」などと「クリティカル」に指摘する嫌な子供になるだろうからだ。

これに関しては自信がある。

「いや、それはお前の場合だろう」

そうです。

私は偏屈で意地が悪いのです。

すみません。

でも、それ以外にも思い当たる事例がある。

実際にこの目で見たり、この耳で聞いたりしたのだが、「グローバルに活躍したい」などといいながら「英語が使える場所じゃなきゃやだ」とか「この国や地域には死んでも行きたくない」などとのたまう人間はいる。

彼らが望んでいるのはグローバルに活躍することではなく、自らの抱く「グローバル」なる想いを満たすことである。

異文化と接することではなく、自分の抱く「異文化」を楽しむことである。

でも、それって、結局「井の中の蛙」に過ぎないのではないだろうか。

自分に切り取られた「世界」や「異文化」は、果たしてほんとうにグローバルな世界であり、異文化なのだろうか。

わからない。

なんか違う気がする。

それに、語学の現場で働く人間から言わせてもらうと、外国語が出来れば即ち視野や世界感が広がるなどということはない。 

いくら外国語が堪能でも、自分そのものを批判的に眺め、分析し、位置づけながら、自分をすべての未知なる存在との間で作用することができるようなものとして磨き上げていこうという自覚がなければ、その人間は視野狭窄で夜郎自大な人間である。 

そしてこのような自覚は語学の堪能さとは本質的にまったく関係がないものである。

これは語学教師をある程度やって再確認した、私なりの認識である。 

バイリンガルだろうとトライリンガルだろうと、話していることが「バカ」なら即ち「バカ」である。(「バカ」の拡散経路が「グローバル」な分よりタチが悪いが)

「バカ」に関して、これまで私が目にした中でもっともクリアカットで美しい定義は、内田樹によるものである。

以下に引用する。

 

私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている(内田樹『ためらいの倫理学』、角川文庫、42頁)

この部分は、大学院1年生の頃、長崎行の「白いかもめ」のなかで初めて目にしたとき、衝撃を受けた。

わかる方にはわかると思うが、私はこの著者にかなり大きな影響を受けている。

正確に言えば、語り方の部分でだいぶ影響を受けている。

私は幼少の頃はとても素直でまっすぐに育ったのだが(たぶん…)、ある年齢を過ぎた頃からけっこうひねくれた物の見方とか、斜に構える態度を(望んでもいないのに)身につけた。 

ただ、そのことで問題提起をすることは十分にできたのだが、その問題への解答を自分の言葉で紡ぎ出す訓練や素質にかけていた。(今でもそうであるが)

さっき引用した本での著者のパフォーマンスは、私がやりたいことをはるかにスタイリッシュかつ高度になしているものだった(あるいは後付けでそう思い込んだのかもしれない)。

なんでわざわざそういうことを書くかというと、もし私が「私は完全なるオリジナルな存在として、この文章を書いている」などと思っているとしたら、まさに私は「バカ」だからである。

私は「バカ」が嫌いである。

だから私は私の「バカ」を誰よりも近くでみてきたものとして、私を嫌う。

しかしそれではあんまりだし、なにより「バカ」から脱したい。

それに私が「バカ」なら、私が話している日本語や中国語が、私の「バカ」をグローバルに拡散してしまう。 

それを防ぐためには、二つしかない。

一切口を開かずペンも取らないか、それか「賢く」なるか。

前者は採用したくない(こう見えておしゃべりずきなので)。

なので、「賢く」なるしかない。 

ということで、「バカ」を晒すのを承知で、こういう文章を書いているのである。

 

って、こんな文章書いているうちに気づいたらもう夕方じゃないか。

帰って運動して晩御飯を食べワインを飲みながら仲間由紀恵を見なければ。

はあ、仕事がすすまない(やっぱりバカじゃん)。