「過去は常に新しく、未来は常に懐かしい」
本学では今日が春節前の「仕事納め」。
会議や雑務に追われていた中国人の先生方や事務の職員さんたちも、あすから晴れて冬休みである。
私のような外国人教師はありがたいことに会議も雑務もないので、二週間前に授業も成績処理もさっさと終わってフリーになっている。
とはいうものの、平日は基本的に大学に来て教材研究やら語学やらしている。
最近は『新編日本語』(全四冊)という中国で最も一般的に使われている教科書を「頭から尻尾まで」チェックし、そのなかにある疑問形や質問表現を抜き書きする作業を進めている。
四冊全て合わせれば1600頁、単元数にして80近くある教材なので、なかなか終わらない。
自分でやり始めた作業なので愚痴を言う筋合いなどどこにもないのではあるが、たいへんつまらない。
教科書に出てくる会話や文章が涙が出るほど無味乾燥だからだ。
単に無味乾燥なだけならまだいい。
下手に「最新」や「流行」を意識して作ったため時間経過によって腐ってしまった箇所が散見される。
そういう箇所を「ふっ…」とか「へっ…」とか言いながら読む(「脳トレ」とかいつの話やねん)。
口が悪いと承知のうえで言うが、こういう言葉ばかり学んでいたら頭が悪くなりそうである。
ただでさえ足りない私の頭をこれ以上バカにするわけには行かない。
しかし、実際に言葉を身体を通すことで分析してみないことには見えないものがある気がする。
そこでこうしていちいち教科書をめくりながら、記載されている疑問表現や問いをチェックし、パソコンに打ち込んでいるのである。
おかげでこれまで日本語教科書において疑問文や問いがそのように扱われてきたか、そしてそもそもの疑問文や問いの分類や働き、意義などについて、自分の言葉が少しずつ見えてきた。
そういう意味では地味だが意義ある作業なのだ。
だからこそ誰から頼まれたわけでもなく、お金が出るわけでもないのに、こうやって春休みなのにどこかへ遊びに行くこともなく、コツコツとやっているのである。
とはいえ、つまらんもんはつまらん。
つまらんから、磊落な心が失われているのかもしれない。
教科書中にあった文章に、ちょっと「いらっ」と引っかかった。
こんな文章である。
複写機は大切な文章を書き写すという作業を無用なものにしてしまった。コンピューターは記憶の容量を一挙に拡大し、それをUSBに簡単に保存してくれるようになった。それは確かに偉大な技術の進歩である。
だが、人間の本質とは記憶で成り立っているのだ。人生とは記憶の集積なのである。そのように貴重な記憶の全てを機械に譲り渡してしまったら、人間にいったい何が残るだろうか。記憶など必要としない人々の群れ、それは歴史を失った人間であり、ただ現在だけを条件反射的に、あるいは要領よく生きる人たちと言っていい。二十世紀の恐ろしさ、そして、二十一世紀の何よりの不気味さは、そのような「ポスト・モダン(流行の先端にある)」人を着々と生み出していることになる――と私は思う。
(「二十一世紀の恐ろしさ」森本哲郎より)
中学生あたりが国語の感想文で書けば「頭が良く」みえるような論調の文章だ。
私が引っかかったのは、「人間の本質とは記憶で成り立っているのだ。人生とは記憶の集積なのである」という部分である。
文章を読む限り、著者は「記憶」とは実体を持ったソリッドなものだと思っているようだ。
「コンピューターは記憶の容量を一挙に拡大し、それをUSBに簡単に保存してくれるようになった」という認識からもそれがうかがえる。
しかし私はそうは思わない。
「人間の本質」と「記憶」について、私ならこう表現する。
人間の本質とは記憶で成り立っているというよりも、記憶を成り立たせている「なにか」が人間の本質なのである。
人生とは記憶の集積であるというより、過去との絶え間ない交流によって記憶がより豊かに創造され続けていく過程なのである。
記憶というものは実体的には存在しないものである。
にも関わらず、絶えず今の私から絶えず呼び出されることにより、その都度新しいものとして記憶は存在していくものである。
記憶とは過去のものではなく、「いま、ここ、わたし」を足がかりに過去を創造的に再構築したものだ。
過去を想うことは過去を呼び出すことである。
そしてこの過去を呼び出すという作業は、呼び出す主体としての私の態度次第でその作業自体が創造的な営みになる。
ここでいう私の態度とは常に「学ぼう」とか「まだあるんじゃない?」とか「もっと新しいものはないかしら」とか「もうそれ飽き飽きだよ」という乾きに裏打ちされたものである。
もし私がその乾きに耐えられず、なにごとからでも新しみを自ら引き出そうとすれば、ふとした瞬間に思い出される(つまり創造的に再構築される)過去の方が、乾きを覚えず何も引き出そうとしないことで成り立つ「いま、ここ、わたし」という狭窄な視点をただ単に伸ばしていくことで想像される未来よりも、斬新な印象を残すこともある。
だから「過去は常に新しく、未来は常に懐かしい」(by森山大道)のである(ご本人が込めた意味は知らないが)。
私が見る限り、著者は先の文章で単なる「情報」と「記憶」とを混用している。
「記憶」と「情報」は違う。
たとえば私は修論を書くときに大量の文献や資料をコピーしたりスキャンしてデータ化したが、その殆どはもう捨ててしまった。
それはあくまで修論執筆という、その当時の私にとってのテクニカルな問題に解答するために必要だった「情報」に過ぎないからである。
その論題をそれ以上追求する気がもうなくなってしまった以上、それらの「情報」は不要である。
手書きで複写したものでも、それが「情報」に過ぎない場合、私はそれを簡単に忘却するし、場所を取るようだったら迷わず捨てる。
それは手書きで複写したかどうかとは関係がない。
私の態度の問題なのだから。
しかし例えば、修論執筆中にちらっと目にしただけだったり、熟読したもののその場では気付かなかった資料の意味が、ふとした瞬間に全く違う文脈・意味合いにおいて「あっ、あれってそういう意味だったのか」と分かる瞬間がある。
この「あれ」はたんなる「情報」ではなく「記憶」である。
「そういう意味」が私の創造である。
そしてそのような瞬間が訪れるかどうかに、手で複写したかコピーで済ませたかという問題が本質的に関係していると私は思わない。
「あっ、これいい」と思った文章をコピーしたりスキャンしたりしてUSBに保存した場合でも、なにかの折にそれを何度も読み返して、頭の中で反芻していけば、それはたんなる「情報」ではなく「記憶」として私の一部になってゆく。
その「記憶」を繰り返し呼び出しながら、言葉にならないものを言葉にしていく作業、それが「創造」ではないだろうか。
重ねていうが、そういうプロセスが可能かどうかという問題と「大切な文章」を自ら書き写すかコピーで済ませるかという問題とは、本質的に関係がないものである。
私の態度の問題なのだから。
いかなる媒体であろうとも、それを熟読していなければ「情報」にとどまるし、とどまりつづける。
いかなる媒体であろうとも、それを熟読していれば(たとえ読んだことを忘れていても)いつか「記憶」として蘇る。
ショーペンハウアーはこう言っている。
熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
(ショウペンハウエル『読書について』斎藤忍随訳、岩波文庫、128-129頁)
彼がこの文章で何を言いたかったのか、それは私にはわからない。
わからない以上、「ショーペンハウアーが言いたいのはこういうことだ」という語り口を私は採用しない。(もしあの厭世爺さんが生きていて、そういう語り口を耳にしたら、きっと「お前みたいなバカが俺の名を騙って勝手なこと言うな!」と怒り狂うと思う)
しかし、たとえばこの文章を目にして私が「あっ、これいい」と思ったということは何人にも否定できない事実である。
だから、私はその「いいな」をなんとか自分の言葉にしようとする。
「いいな」だけだとバカみたいだからだ。
「ショーペンハウアーが言いたいのは」だと「虎の威をかる狐」みたいでやましいからだ。
「いいな」をなんとか自分の言葉にしようとする際に、私は絶えず「いいな」と思った文章を反芻し、イメージし、断片的に言語化し、それらを私の感じた「いいな」と照らし合わせながら、自分の言葉を形作っていく。
そういう感受と思考の過程を経れば、最初に入力された文章はすでに「情報」ではなく「記憶」と呼ばれるようなものである。
そして私が先に述べたように「記憶」が「今の私から絶えず呼び出されることにより、その都度新しいものとして存在するもの」だとすれば、「大切な文章」とは何度読んでもその度に新たな気づきや発見を与えてくれる文章である。
当然ながら文章が変化しているわけではない。
私の「呼び出し方」が、もしくは「呼び出す私」そのものが、その都度変化しているのである(大抵は無意識のうちに)。
繰り返すが、それは手で複写して保存するかどうか、コピペしてUSBに保存するかどうかとは、本質的には関係がない。
手で複写しようがコピペしようが、それはどちらも「情報」を「食べた」だけである。
「消化」作業そのものではない。
それとも、「いや、手で複写するということはいったん文章を読んでいるわけだから、自分の記憶や思想として消化しやすいんだよ」といいたいのだろうか。
確かに。
「消化」作業において、手で(キーボードも含めて)自ら複写する作業が大切な意味を持つということなら、私はその通りだと思う。
なぜなら、人間の思考にとって「書く」という作業は非常に重要な作業だからだ。
「書く」とは泥濘にはまったタイヤに噛ませる一枚の板のようなものである。
思考とは泥濘にハマりながら空回りするタイヤである。
いくら考えても、それを記録しておかなければ、主観的には「考えている」ようでいて、その実その場で空転しつづけているだけである。
だから、「大切な文章」とか「あっ、これいい」と思った文章を自ら引用したり抜き書きしたりすることは、言うまでもなく意義があることである。
言うまでもないということは、言われるまでもないということである。
引用した論考に足りないのは、「消化」を巡る部分である。
そして「消化」を本質的に決定づけるのは、技術の進歩や時代の潮流などではない。
私たちの態度である。
「情報」の入力とは自らの思考が伴って初めて意義を持つことであって、ただ単に手で複写すれば身になり「記憶」になるなどというような簡単なものではない。
以前見た映画「うなぎ」のなかで、刑務所から出所後自らの罪を「反省」し写経に明け暮れる毎日を過ごす男に向かって、その男と刑務所で面識があった主人公(役所広司)が「お前はお経を写すことで自己満足しているだけだろ」みたいな事を言っていた。(ように記憶しているが間違っているかもしれない)
私がここで言いたいのも同じようなことである。
著者は自らが手で複写した全てのものごとを「記憶」しているのだろうか。
そんなことはないはずである。
第一、私は「複写機は大切な文章を書き写すという作業を無用なものにしてしまった。」という認識に賛同しない。
コピー機があろうとなかろうと、私は私にとって「大切な文章」は必ず書き写す(教科書から疑問表現のみを抜き書しているように)。
コピー機を使うのは、まずは「情報」として必要としている場合である。
もちろん「情報」としてコピーしたものが「お、これはおいらにとって大切だぜ」とわかったあとは、手書きやパソコンで複写することもある。
そして目の前の文章が「情報」にとどまるのか、それとも「記憶」として昇華されるのか、それはその文章を目にしている瞬間にはわからないのである。
「記憶」の元となるものごとというものは、未来のある時点に呼び出されることによって初めて「あ、あれは記憶すべきことだったんだな」と遡及的に認知されるからだ。
「貴重な記憶の全てを機械に譲り渡してしまったら、人間にいったい何が残るだろうか」というのも、よく意味がわからない。
コンピューター時代以前から、人間は「情報」を自分の外部に存在する媒体(石とか紙とか)に保存していたはずである。
それとも著者にとって、現代人はすべての貴重な「記憶」を身体の外に位置する媒体に保存しているように見えるのだろうか(マトリックスみたいに)。
よくわからない。
もし私がこの教科書を使っている学生で、教師になにか聞かれたとしたら、とりあえず「人間の記憶は大切だと思います」とか「技術を上手く使いこなさなければなりません」とか、そういう毒にも薬にもならないような感想を行ってその場をしのぐだろうな。
なんの成長ももたらさないけれど、無難だし。
長々と書いてきたが、私が先の文章に言いたいことは二つ。
①「大切な文章」をコピーで済ませるかどうかは属人的な態度の問題であって、「大切な文章」をコピーで済ませるような人間は複写機がない時代にあってもわざわざ手書きなんかしない。
②手で複写することは理解の機会を増やすことにはつながるかもしれないけれど、大事なのは熟読してものにしたかどうかでしょ。
③そこを論じずに「やれ技術の発展で」とか「ああポストモダンは」とか言うのはどうなんだろうね。
④だって熟読せず熟慮しない人間なんて(それこそショーペンハウエルが著書の中で罵倒しまくっているように)昔からいるんだからさ。
私の目には、簡単に「時代」や「技術」のせいにしてものを考え説明するような人間こそ、典型的な「条件反射的に、あるいは要領よく生きる人」にみえる。
そういう人間が多数を占める時代は、何世紀だろうと「恐ろしい」時代だと私は思う。