とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

風邪日記。

12日(土) 
風邪を引く。 
日本にいたときは風邪など全く無縁だったのだが、中国に来てからというもの毎年必ず2回は風邪を引くようになった。 
とくに春と秋はもれなく風邪をひく。
寒暖の差が激しい内陸の都市(重慶・合肥)に住んでいるからだろうか。
4年前の3月のある日なんかは、前日の最高気温12℃に対して翌日最高気温が30℃ということもあった。
こういうギャップによる攻撃には弱い。 
不思議なことに(あるいは当然のことかもしれないが)、中国の風邪に日本の風邪薬はあまり用をなさず、現地で買った風邪薬のほうが力を発揮する。
「そういえば今シーズンはまだ風邪ひいてないな」なんて思っていたところ、前日夕刻から喉の痛みと咳が出始めたので、薬局で薬を買って帰宅。 
ちゃちゃっと夕食を済ませた後にそれを飲み、就寝。 
一晩明けると、本格的に「喉から来る」風邪を引いていた。 
今週末はとりあえず栄養と睡眠を十分とることにする。 
どのみち頭がぼーっとしているので、難しい本を読んだり抽象的な思考はできない。 
仕方がないから電気毛布と羽毛布団で完全武装したホカホカのベッドに入り、断続的に昼寝をしながら、年末に買って積んでおいた村上春樹『国境の南、太陽の西』を途中まで読む。 
最初はあんなに好感を持っていた島本さんなのに、主人公との再会以後はだんだんイライラしてくる。
そのうち眠気に襲われて爆睡。
起きたら夕方。 
相変わらず頭はボーッとするが、だいぶマシになってきた。
温野菜とチーズを中心に夕食を作り、卵酒で体を温める。
風邪のウイルスを殲滅すべく、入浴剤(ゆず)をたっぷり入れた温かいお風呂に肩まで浸かり、「クロノ・トリガー」のサントラを聴きながら就寝。 

13日(日)
9時起床。 
ほとんど全快に近い。 
窓から外を見ると久しぶりによく晴れている。 
年末から製作中の「鮭とば」を日当たりの良いベランダに移動させ、風邪ウイルスに「ダメのダメ」を押すべく、忘年会でもらった各種調味料を駆使し「野菜たくさんピリ辛麺」を作る。 
汗をたっぷり流しながらそれを食し、薬を飲む。
熱いシャワーを浴びてから、もう一度ベッドへ。 
3時すぎまで昼寝。
空腹で目が覚めたので、夕食の買い出しと宅配便の受け取りのため1日半ぶりに外へ。 
近くの「R-Mart」で野菜と魚とワインを買い込み帰宅。 
温野菜を作成し、その上にテキトーな調味料とチーズをまぶし余熱で仕上げたものと「鳥はむ」を頂く。 
健康体に戻るために前夜に続き「卵酒」をちびちび。
決して風邪にかこつけてアルコールに溺れているわけではない。 
「卵酒」で温まり、ゆっくりお風呂に入ったあと、ハービー・ハンコックを聴きながら『国境の南、太陽の西』の続きを読む。
読了。
久しぶりに心から「怖い」と思う小説を読んだ。 
「怖い」と言っても、別にどことなく幽霊的な島本さんが怖いわけではない(というより、あれはやっぱ幽霊だろ)。 
「僕」に自分の従姉妹と浮気された挙げ句捨てられメンヘラ気味になったイズミが怖いわけでもないし、ぬけぬけと浮気や不倫を繰り返す「僕」が怖いのではない。
そんなふうに自分勝手な人間だったり病んだりしている人間はそこそこ見てきた。 
それに私の過去をよく知る身としては、私だって自分勝手さにおいて彼らと大差はない気はする(浮気や不倫はしたことないが)。 
私が感じた「怖さ」とは、実体的で個人の経験に帰すことができるような属人的なものではない。
この「怖さ」は「はい、これね」と簡単に言語化し、形を持ったものとして提示できないところにある。
だからわざわざ小説一冊書き上げなければならないのだろう(作者がそれを意図しているかどうかは知らないけれど)。 
それでも私なりに言語化してみる。
この小説のどこが「怖い」かというと、自分の意志や視角では決して包括も予想もできないような「怖い」ものごとが確実に存在するのだと予期させるところである。
率直に言えば、この「怖さ」は私やあなたというそれぞれの人間に中に、未だ知られぬ火薬庫のようなものとして存在しているのだと思う。 
怖い。
そんなものが存在するなんて知らず、私たちはふつうに生活を送っているのだから。
村上春樹の作品には唐突さが意識的に描かれていると思うが、この作品の場合、単に唐突で理不尽なだけではなく「怖さ」も付随している。
それは「僕」がクズにも関わらず一生懸命生きており、むしろその一生懸命のせいで周りに害をなしていることにより「ひょっとして、私も…」とか「あすは我が身」と考えさせられることによる「怖さ」である。
加えてひとつ思ったことがある。 
それは、愚かさや賢さ、富貴の身分かそうではないかなどを問わず、自らや自らのまわりにじっと潜んでいる「怖さ」をちゃんと「怖い」と思えなくなった時点で、自分がこの小説の「怖い」人たち(島本さんやイズミや二児の娘をおいて自殺しようと考える有紀子や、なにより「不快な匂いのする中年の男」)そのものであるということにすら気づかないまま、幽霊として生きていくことになるのだろうな、ということだ。
そういうことを「怖い」となんて思わない人は、そもそも小説なんて手に取らないだろうけれども。
みずからが「怖い」存在になるかどうかと、自らに悪意があるかとか自堕落であるかとかは、まったく違うフェイズの話である。
むしろ(先に述べたように)勤勉な努力家だったり、「良い人」であろうと粉骨砕身頑張る人の方が、周りに「怖い」存在として害をなすことがある。
イズミとの再会後、島本さんへの思いや言葉をすっかりなくしてしまった「僕」は、妻有紀子にこういう。

僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても、人々の話しかける声の響きがどれだけ変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。僕にはそれがわかるんだ」(村上春樹『国境の南、太陽の西』、291-292頁)

さんざん浮気や不倫をしておいて何言ってるのと思うかもしれないが、それでも私はこの「僕」の思いは純粋で嘘偽りないものだと思う。
しかし、その思いが純粋で嘘偽りがないことと、他人や、ひいては自分自身に害をなさないということは、イコールでは結べない。
簡単に言えば、「僕」は独善的であり、ひとりよがりである。
「怖さ」はそのような人間の心態に好んで棲みつく。
「僕」の純粋で正直な思いの告白に対して、有紀子はこう告げる。

「あなたは私をまた傷つけるかもしれない。でもそんな問題じゃないのよ。あなたには何もきっとわかってないのよ」
「たぶん僕には何もわかっていないんだと思う」と僕は言った。 
「そしてあなたは何も尋ねようとはしないのよ」と彼女は言った。(村上春樹、前掲書、294頁)

「僕」に決定的にかけていたのは、根本的なところで他人に尋ねるということだ。
「たぶん僕には何もわかっていないんだと思う」という一言は無知の告白という形式を取りながら、自己に閉じこもることを自分や周囲に正当化付ける道具として語られている。
自分の目的や方向にとって必要だから尋ねるのではなく、自分の無知に関して純粋に他人に尋ねるということが、「僕」にはできなかった。
その結果、島本さんという美しくも危うい「幽霊」に振り回され、イズミを「幽霊」にしてしまうような「怖い」存在になってしまった。
でも、この物語は救いが暗示されている。

「ねえ有紀子」と僕は言った。「明日から始めよう。僕らはもう一度初めからやりなおすことができると思う。でも今日はもう遅すぎる。僕は手つかずの一日の始めから、きちんと始めたいんだ」
有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。「私は思うんだけれど」と彼女は言った、「あなたは私に向かってまだ何も尋ねてない」
「明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど、君はそれについてどう思う?」と僕は尋ねた。
「それがいいと思う」と有紀子はそっと微笑んで言った。(村上春樹、前掲書、296頁)

この小説のいいところは、登場人物全てに「怖い」余地が存在するところだ。
「僕」がやっていることが「クズ」に近いから目立たないけれど、有紀子だって父親にそそのかされ、夫に相談なしで800万動かして(不正な)株式取引をやったりしているのだ。
誰が正しいとか間違っているとか、絶対的な善悪があるとかならば「怖さ」はそうたいして恐れる必要はない(見えるから)。
でも、実際にはそういうものではない。
私たちはほんのわずかなバランスで、たまたま今は普通でいられるだけなのかもしれない。
ほんのちょっとのなにかが引き金となって、私たちは簡単に(善意や確信とともに)「怖い」存在になって周囲に害を及ぼすのかもしれない。
そして私たち本人だけは、自分が「怖い」存在になっていることに気づけないのかもしれない。
だから、やっぱり「尋ねる」という行為は大事だと思う。
「さいきん、僕怖くない?」とかね(それはそれでなんか怖いな)
怖くなったので、布団をかぶって就寝(この週末はよく寝るね)。