会話の「壁当て」
教科書で教えられている日本語の疑問や問いに関する語彙の種類と量を確認するために、初級の教科書から高級の教科書まで目を通し、関連するところのみを抜き出すという(バカみたいに地味な)作業を朝からやっている。
面白みがない作業だが、そのぶん普段では気にもとめないような変なことにたびたび気づく。
たとえば、さっきチェックした課の会話文では「木村さん」と「李さん」が会話をしているのだが、その中から疑問や問いに関するものだけを抜き出した結果が以下のとおりである。
木村「李さんはよく運動場へ来ますか」
李「すみません、今何時ですか」
木村「李さんは毎朝、何時に起きますか」
木村「毎朝どんな運動をしますか」
李「木村さんは」
木村「李さんは毎朝、日本語の朗読をしますか」
李「木村さんは中国語の朗読をしますか」
木村「李さんは何時ごろ、朝ご飯を食べますか」
木村「どこで食べますか」
木村「何を食べますか」
木村「パンを食べますか」
木村「何時ごろ教室へ行きますか」
木村「自転車で行きますか」
木村「授業は何時から何時までですか」
木村「どんな授業ですか」
木村「日本語の授業は週に何時間ありますか」
木村「一日に何時間ですか」
木村「何時から始まりますか」
木村「何時に終わりますか」
木村「李さんは日本語の放送を聞きますか」
木村「テレビも見ますか」
木村「日本語の新聞を読みますか」
木村「李さんは毎晩、何時から何時まで勉強しますか」
木村「何時ごろ寮へ帰りますか」
木村「大学から寮までどのぐらいかかりますか」
木村「何時ごろ寝ますか」
おいおい、これじゃまるで木村さんが李さんのストーカーみたいじゃないか。
最初はちゃんと木村さんにも質問を投げかけていた李さんが、途中からまったく聞き返さなくなっているし。
もちろん疑問に関わる文だけを抜き出しているからこうみえるわけで、実際の教科書の例文では李さんはちゃんと聞かれたこと「だけ」には答えているのだが。
お、いいこと思いついた。
試しに、上では省いていた李さんの「ちゃんと聞かれたこと『だけ』に答えている」応答部分に、李「……」を入れてみる。
するとこうなる。
木村「李さんはよく運動場へ来ますか」
李「すみません、今何時ですか」
木村「李さんは毎朝、何時に起きますか」
李「……」
木村「毎朝どんな運動をしますか」
李「……。木村さんは」
木村「李さんは毎朝、日本語の朗読をしますか」
李「……。木村さんは中国語の朗読をしますか」
木村「李さんは何時ごろ、朝ご飯を食べますか」
李「……」
木村「どこで食べますか」
李「……」
木村「何を食べますか」
李「……」
木村「パンを食べますか」
李「……」
木村「何時ごろ教室へ行きますか」
李「……」
木村「自転車で行きますか」
李「……」
木村「授業は何時から何時までですか」
李「……」
木村「どんな授業ですか」
李「……」
木村「日本語の授業は週に何時間ありますか」
李「……」
木村「一日に何時間ですか」
李「……」
木村「何時から始まりますか」
李「……」
木村「何時に終わりますか」
李「……」
木村「李さんは日本語の放送を聞きますか」
李「……」
木村「テレビも見ますか」
李「……」
木村「日本語の新聞を読みますか」
李「……」
木村「李さんは毎晩、何時から何時まで勉強しますか」
李「……」
木村「何時ごろ寮へ帰りますか」
李「……」
木村「大学から寮までどのぐらいかかりますか」
李「……」
木村「何時ごろ寝ますか」
李「……」
こうしてみると、木村さんの質問というものがいかにストックフレーズであり、相手とのコミュニケーションに応じてその場で生成して問いかけではないということが、よくわかる(李さんが応答せずともどんどん先に進んでいるあたり)。
まあ、教科書の例文だから当たり前と言えば当たり前なんだろうけれども。
でも、それでいいのだろうか。
これじゃあ李さんは存在する意味がないじゃないか。
木村さんの予期する答えに「だけ」答える役割しか、李さんには与えられていない。
よく「会話のドッジボール」というが、李さんには木村さんに「当て返す」機会すら与えられていない(「質問ばっかり、うるせえよ」ということすら許されていない)。
これはまさに「会話の壁当て」である。
もっと人間と人間の交流を、疑問と疑問、問と問、思いと思いが分かちがたく一体となって形成された会話文を例文として語学を学ぶことはできないのだろうか。
などと李さんに同情していたら、次の課では今度は木村さんが李さんの「壁」役になっていた。
なんだ、よかった。
よくできているね。