とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

雑記(2月1日~7日)

2月1日(月)

さよなら1月、ようこそ2月。

新しい月は月曜日から始まった。

9時起床。

ベッドのなかでしばらくだらだらしていたが、気合を入れて起き出し、正午すぎに大学へ。

成績処理も大詰め。

4時過ぎにすべての成績を入力し、提出。

ようやく大手を振って冬休みである。

これで心置きなく仕事(原稿の校正)ができる。

仕事が終わって息つく間もなく「よし、これで仕事ができる」と喜ぶのも変かもしれない。

しかし事務作業は期限・手法・目的があらかじめ定められた仕事であり、教科書作りは私の自由裁量による仕事なのであって、その違いは、私にもたらす悦楽の度合いに雲泥の差をもたらすのである。

もちろん、空いた時間には好きなことをして遊ぶのである。

ベッドでごろごろしながら小説を読んだり、ゆっくりと料理を作ったり、ギターをぽろぽろと爪弾いたり……。

それが2月いっぱい続く(と書いたあとに学校から開学が1週ほど伸びる可能性があるとの通知)。

ぐふふふふふ。

楽しみだな。

何をしようかな。

あれもしたいし、これもしたいぞ。

とりあえずお腹が空いたので、7日連続となる「あの店」へいって麺を食す。

ごちそうさまでした。

腹ごなしに1時間ほど歩いて帰宅。

シャワーを浴びてお酒を飲んでいるうちにまぶたが重くなってきたので、おやすみなさい。

 

2日(火)

冬休み初日。

空気は冷たいが暖かな陽光差す朝。

7時半に空腹で目が覚める。

味噌汁(ナス・たまねぎ・キャベツ)を温め、生卵を落としたところに、茹でた“うどん”をぶちこみ、食す。

うまし。

分厚い初稿が机の上で「ねえ、まだ?」と朱入れを待っているが、とりあえず今日一日は仕事をしないことにする。

あんまり根を詰めすぎるのは良くない。

ギターをてろてろ弾いたりニュースを見たりする。

そうしているうちに、あっという間に正午。

タブレットと本を数冊持って喫茶店へ。

とりあえず先週の雑記録をアップして、 夕方まで本を読みながら過ごす。

そのあと家に帰って少し仮眠。

6時過ぎに起きだし、ちょっとご飯を食べ、シャワーを浴び、映画を見たりギターを弾いたりしているうちにまた眠くなったので、また寝る(ぐうたらだなあ)。

 

 3日(水)

10時起床。

 眠い。

意識していなかったけれど、疲れていたのだろう。

1学期分の疲れがどっと湧き出している気がする。

なので、今日も一日ごろごろして休むことに。

乾麺タイプの“うどん”を茹でて食べたあと、本を読んだり楽器を触ったり、うたた寝したりして過ごす。

気づけば夕暮れ。

まずい。

さすがに自堕落すぎる。

ということで、久しぶりに(およそ10ヶ月ぶりか?)ロードバイクに跨り、『ろんぐらいだぁす』を見ながら30分間ローラーを回す。

今年は12日が春節なのだが、一般的に春節を過ぎるとどんどんと春の暖かさが増し、自転車日和が続く。

そのころにスイスイと長距離を走れるように、今のうちから脚を鍛えておかねば。

シャワーを浴びて汗を流したあとは、街へ。

居酒屋で瓶ビール(朝日)を飲み、チキンサラダをつつきながら、店内のテレビで流れている『孤独のグルメ』をぼぉっと眺める。

リラックス。

1時間ほどでお感情。

大学近くの“小吃街”へ。

 “小吃”とは、日本語でいうと「スナック」「おやつ」のことで、串焼きやフライドポテトなどの、小腹を満たすためのちょっとした食品を指す。

“小吃街”とは、そんな食べ物を売っている屋台街のことであり、中国を歩けばあちこちで目にする。

中国的な食品だけではなくて、回転焼き(今川焼き)や、たこ焼き、寿司など日本由来の食べ物も売られている。

なかなか活気があって、ぶらぶら見て歩くだけでも楽しい。

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f:id:changpong1987:20210206165001j:plain“小吃街”ではたいてい「臭豆腐」(chou4dou4fu)なるものが売られている。

これは発酵させた豆腐を焼いたり揚げたりしたもので、文字通り臭い。

ほんとうに臭い。

どれぐらい臭いかというと、中国に来たばかりで「臭豆腐」なるものを知らなかった私に思わず「この辺、公衆トイレでもあるの?」と口走らせたほどである。

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こちらは鉄板串焼きの屋台。

看板に書かれている“鱿鱼”はスルメイカ、“章鱼”とはタコのこと(ちなみに合肥は内陸なので、ここに住む方々はときどきイカとタコの区別がついていないことがある)。

ぶらぶらするのも疲れたので、20分ほどで切り上げて帰宅。

シャワーを浴びて寝床に潜り込むとたちまち眠くなる。

日付が変わるころに夢の中へ。

 

 4日(木)

爆睡である。

なにしろ12時に起きたんだから。

12時間睡眠。

しかし身体の疲れがとれ、頭が秋空の如くすっきりした。

雲一つない。

というわけで、大学に行く。

いろいろな雑用を済ませてから、校正作業にとりかかる。

6時まで作業。

帰りに“凉菜”と“卤菜”を売っているお店で夕食を買う。

中国語の“凉菜”とは「冷菜」のことで、つまり火を通していない冷たい食品のことである。ここでいう“凉菜”とは、ジャガイモやらサツマイモから作った“皮”と呼ばれる麺状の食品や生野菜を調味料で和えた料理のこと。

一方の“卤菜”とは、肉や卵などを醤油や料理酒、各種スパイスで作った“卤水”で煮込んだ食品を指す。”猪舌”(豚タン、“口条”とも)がお気に入りなので、ひとつ買って帰る(お店の人がその場で細く切ってくれる) 。

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帰宅して夕食を済ます。

満腹。

腹ごなしに夜のお散歩。

家の周りを歩く。

途中でよさげな生ビール工房を発見する。

中国では最近こういう小さな生ビール工房がけっこうあちこちにオープンしている。

店の中に大きな金属製の樽が備え付けてあり、そこから注いだ自家製生ビールを500mlから2ℓ単位で売るのである。

試飲もさせてくれるので、飲んでみる。

うん、美味しい。

白ビールを500mlだけ買う。 

こんどからちょくちょく来てみよう。

 

5日(金)

9時起床。

夜のうちに雨が降ったらしく、地面が濡れている。

カップスープとヨーグルトで朝食を済ます。

霧のような小雨が降り出すなか、傘を差さずに大学へ。

とうに冬休みに入っているので、外国語学院のビルには誰もいない。

コーヒーを淹れ、初稿の校正にとりかかる。

先週プリントアウトしておいた原稿を赤ペン片手に読み、問題がある箇所にカリカリと書き込む。

昼過ぎに休憩したほかは休みことなく作業を続ける。

5時過ぎに切り上げ。

雨は止み、街が暮色に包まれている。

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昨日と同じく、途中で“凉菜”と“卤菜”を買って帰宅。

白酒と一緒に頂く。

ほどよく酔いが回ったのでシャワーを浴び、さっさと寝る。

おやすみなさい。

 

6日(土)

9時過ぎに起床。

外はみごとに晴れ渡った青空。

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今年の暦だと、春節は来週12日である。

私はこの季節こそ中国の最も美しい時季だと思う。

少しずつ春の足音を感じさせる気候が、一年でいちばん晴れ晴れしいイベントを迎え高揚する人々を優しく包む時季である。

夜風には花の香りが混じり、蜜蜂が梅の花々を忙しなく巡り、川面では今年生まれた渡り鳥の子どもたちが羽ばたきし、猫たちが日向で惰眠を貪る……そんなこの時節を私は深く愛するのである。

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大学へ。

校正を続ける。

とりあえず全5パート構成のうちパート1までチェック。

コンビニで夕食(名古屋風鶏の唐揚げ串とビール)を買って帰宅。

食後に散歩をし、シャワーを浴びて、おやすみなさい。 

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7日(日)

9時半起床。

昨日に負けず劣らず晴天である。

突発的に『けいおん!』第1期を見る。

10年ぶりである。

op2の「Go!Go!maniac!」が懐かしい。
リズムが速いし複雑だから難しい曲である。
それはそうと、この曲は「好きなことをする」ことについて歌っている。
「好きなことをする」と聞くと、なかには「美味しいものを食べる」とか「おもしろい映画を観る」とか「スマホでゲームをする」とか、そういうことをイメージする人がいる。
その人たちにとって「好きなことをする」とは、ようは自分の興味ある情報を「入力」することなのである。
けれど、この曲が歌っている「好きなことをする」とは入力ではない。出力である。
「美味しいものを作って食べる」とか「おもしろい映画を観てレビューを書く」とか「新しいスマホゲームを自分で作る」とか、つまり、自分なりに興味があることを形にして表現するということこそ、この曲でいう「好きなことをする」なのである。
ヒロイン唯ちゃんはこのような出力の努力を「生きてるって感じ」「幸せ」「ダメんなるわけない」と言っている。
私はそのとおりだと思う。
私たちはほんらい自分なりに「出力」することが大好きなのである。
しかし、成長するにしたがって、大人たちの干渉や、世間の評価を気にする自分自身のせいで、その素朴ながらも純粋な喜びを忘れてしまう。

これは悲しむべきことだと私は思う。
自分なりに幸福感や生の実感を感じられる「出力」を持たない人生、それは私にとって地獄同然だからである。
子どもの個性や性向は子どもの数だけ存在する。

にもかかわらず、「子どものため」という名目で何かを夢中で「出力」している子どもに「好きでもないこと」を「入力」させたがる親がいる。

私にとってそれは虐待に等しい。

そうして育てられた子どもは、自分なりに幸福感や生を実感できる「出力」作業に価値を見出さなくなってしまう。

そういうことよりも、世間一般で「価値がある」「ためになる」ともてはやされる情報の「入力」作業に重きを置くようになってしまう。

結果的に、「じゃあ、あなたただけの幸福感ってなに?」「君だけの人生ってなに?」という答えなんてない問を前にすると、絶句してしまうのである。

そんなの、自信を持って「好きなことをしているとき、幸せだし、それが私の人生なの」って言えばいいのであるが、そんな(傍から見るとバカみたいな)答えを自信を持って言うためには、「好きなことをしているとき、幸せだし、それが私の人生なの」とほんとうに感じていなければならないのである。

なんてことを考える。

 

2時過ぎに散歩に出る。

川沿いをぶらぶらする。

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途中で市場を覗く。

魚売り場で普段は見かけない魚を目にする。

お店の人にその名を聞くと“年鱼”とのお答え。

しかしネットで調べても出てこない。

もう一度聞くと、やっぱり“年鱼”とのこと。

いわく、“年年有余”(nian3nian3you3yu2)と関係あるそうな。

ここで出てきた“年年有余”とは、中国では春節を迎える時によく見聞きする言葉であり、簡単に説明すれば、「毎年、ゆとりのある生活が送れますように」という願いを込めた言葉である。

ここで出てくる“余”(yu2)の発音が「魚」(鱼、yu2)と同じこともあり、中国には魚を模した春節飾りや、その名もずばり“年年有鱼”というこの時期に食べる魚料理が存在するわけである。

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道端で売っている春節飾り(魚)。

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とはいえ、今回市場で目にしたこの魚、私が思うにレンギョ(鲢鱼、lian2yu2)に似ている気がする。

レンギョだとしたら、その発音は“nianyu”ではなくて“lianyu”であり、“年年”(niannian)にはかかっていない。

なぜだろうか。

ひょっとして、あれか。

中国の南の方では、“n”と“l”の発音を区別しないからか?(日本人がrとlを区別しないように)。

真相は謎である。

そんなこんなを考えながら歩いているうちに3時間経過。

疲れたし、喉もからからである。

いつもの焼き鳥屋へ行ってビールを飲み、1時間ほどぼんやりしたあと、帰宅。

シャワーを浴びて即就寝。

おやすみなさい。

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