お掃除・アニメ・説教の日々(11.8~14)
8日(金)
8時起床。
素晴らしい秋晴れ。
授業がないオフ日でもある。
こんな素晴らしい天気に恵まれた今日一日をいかに過ごすかについて、布団の中でゴロゴロしながら考える。
目の前には3つの選択肢がある。
①このまま起きて大学へ行き仕事をする
②午前いっぱい家事をする
③「仕事も家事もどーでもよかけんね」と二度寝を決め込む
3番目の選択肢は私にとってもっとも甘美なものであるので、思わず食指が伸びかける。
しかし、さすがに実行する勇気が出ない。
結局2番目の選択肢を採用。
さあ、まずはお掃除だ。
家中の窓を全開にして爽やかな秋風を胸に吸い込む。
爽快。
上原ひろみのピアノを流しながら、まずは寝室を徹底的にキレイにする。
床に散乱しているゴミを片っ端からゴミ袋に詰め込み、ホコリやチリを箒で一掃し、机の上で雪崩を起こしていた本を整理・分類し、本棚に収める。収まりきらなかったものは部屋の片隅にまとめて積んでおく。
ベッドから毛布を引き剥がしてベランダに干し、敷布団と枕にシュシュッと除菌スプレーする。
こうして寝室を阿鼻叫喚の無政府状態から解放することに成功。
しかし怒涛の進撃は続く。
お次はリビング。
脱ぎ捨てられたまま溜まっていた3日分の洗濯物を洗濯機に叩き込む。
洗濯機が回っている間に、ネット購入した商品の梱包用ダンボール・発泡スチロールをひとまとめにしてゴミに出す。
そうしている間に洗濯が終わったので、ベランダに片っ端から干す。
こうして2時間ほどかけて寝室とリビングが秩序だった憩いの空間へと回復を遂げた。
ふう。
すっきりした。
さっき干した洗濯物が秋風にヒラヒラとたなびいている。
なかなか良い気分である。
まだまだキッチンとバスルームをなんとかしないといけないのだが、それはまた今度。
私は家事が嫌いではない。
ぴしっと糊のきいたワイシャツを着る機会など年に数回あるかないかなので、信じてくれる人が少ないが、実はワイシャツのアイロンがけだって好きなのである。
しかしそんなに家事が嫌いではない割に、毎日コツコツと家事を継続するということが、学生時代からなかなかできない。
なんでだろうね。
わからない。
内田樹は家事についてこう記している。
家事というのは、明窓浄机に端座し、懸腕直筆、穂先を純白の紙に落とすときのような「明鏡止水」「安定打座」の心持ちにないとなかなかできないものなのである。
お昼から出かける用事がある、というような「ケツカッチン」状態では、仮に時間的余裕がそれまでに2、3時間あっても、「家事の心」に入り込むことができないのである。
というのは家事というのは「無限」だからである。
絶えず増大してゆくエントロピーに向かって、非力な抵抗を試み、わずかばかりの空隙に一時的な「秩序」を生成する(それも、一定時間が経過すれば必ず崩れる)のが家事である。
どれほど掃除しても床にはすぐに埃がたまり、ガラスは曇り、お茶碗には茶渋が付き、排水溝には髪の毛がこびりつき、新聞紙は積み重なり、汚れ物は増え続ける。
家事労働というのは「シシュフォスの神話」みたいなものなのである。お掃除するシシュフォス - 内田樹の研究室 より。太字強調は私による。
そうそう。
家事をするのって、時間的余裕があるかどうか以上に、「家事の心」に入り込めるかどうかが大切なのよ。
私の場合、天気の良い日にベッドでゆっくりと村上春樹の小説や椎名誠のエッセイなんかを読んでいると、突然「家事の心」がむくむくと芽生えてくる。
問題は、「天気のいい日」「ベッドでゆっくり」「読書」という3要素がきっちり揃うということが、なかなかないことなのである。
言われれば当たり前のことだが、内田が言うとおり「家事というのは『無限』」なのであり、それは生活者である私たちにとって「シーシュポスの岩」や「賽の河原の石積み」のようなものである。
どんなに粉骨砕身して「岩」を押し上げ、「石」を積んだとしても、結局「岩」は奈落の底にまた落ちてゆくし、「石」は鬼に崩される。
そういう意味で、家事とはとても不条理(By カミュ)な活動だ。
しかしカミュによれば、そのような不条理を不条理そのものとして真摯に捉え、「岩」をふたたび押し上げるために奈落の底へ向い、崩された「石」をかき集め直してふたたび積み上げようとする瞬間、それこそが人間にとって真の自由が実現される瞬間であり、かような人間こそが英雄なのである。
家事に当てはめると、それはつまりゴミの山や無秩序な我が家を前にして、「よし、お片付けするぞ!」と立ち上がる瞬間こそがもっとも自由なのであり、英雄とは「お片づけ? よかろう」と無限ループを颯爽と引き受ける人間である。
カミュはこう書いている(内田さんもカミュを引用しているので私のこの引用には芸もクソもないが)。
シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。同様に、不条理な人間は、みずからの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。突然沈黙に返った宇宙のなかで、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。数知れぬ無意識のひそかな呼びかけ、ありとあらゆる相貌からの招き声、これは勝利にかならずつきまとうその裏の部分、勝利の代償だ。影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。不条理な人間は「よろしい」と言う、かれの努力はもはや終わることがないであろう。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない、すくなくともそういう宿命はたったひとつしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。人間が自分の生へと振向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、かれ自身の運命となるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変わるのを凝視しているのだ。こうして、人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目的でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終りがないことを知っているこの男、かれはつねに歩みつづける。岩はまたもころがってゆく。
カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹訳、新潮文庫、pp215-7) 太字強調は私。
これまた内田が引用元のブログで書いていることであるが、カミュは「かっこいい」。
思わず唸らされるフレーズが読み返すたびに一パラグラフにひとつはある。
今回私が「かっこいい!」と唸ったのが、太字で強調した「不条理な人間は『よろしい』と言う、かれの努力はもはや終わることがないであろう。」という部分。
仮に目の前の過酷な現実に対して、自分の設定した目標のためにイヤイヤ努力をするという態度を取るならば、その努力の末路は「目標を達成したから終わり」か「目標なんかもういいからやめる」か、そのいずれかだろう。
そのいずれにせよ、そのような努力の根底にあるのは、努力とは期限付きであり、いつでも放棄可能なものであるという価値観である。
しかし、それを本当に努力と呼んでも良いのだろうか。
そして、私たちが生きていくうえで直面する「現実」とは、そのように「目標」として意義付けられることで捉えられて良いものなのであろうか。
私はそうは思わない。
現実とは、「ここ」にはなく、「あっち」にあるからだ。
私たちがその都度目にする現実には「 」がついている。
誰も本当の現実など知ってはいない。
私たちが現実に対して取るべき態度は、「ここ」と「あっち」の狭間に引き裂かれながらも、それでも現実に少しでも肉薄する努力をすることではないだろうか。
自分自身に「そうだね」とか「そうかな」とか「それは違うんじゃない?」などと、「そ」を使い問いかけながら。
私はそう思う。
確かに私たちは現在を認識することができる。
しかし、現在即ち現実ではない。
現在の背後には現在を織り成す本質的なにかが潜んでいる。
それを私はここで現実と呼んでいる。
繰り返しになるが、現実とは「現在の私には決して捉えられない」、それ故に現実なのである。
私にだって「私が認識している現実」「私に認識できる現実」はある。
しかし、それはあくまで「私が認識している現実」「私に認識できる現実」であって、現実そのものではない。
それを混同することがどれだけ頭が悪い事態を招くか、私は自らの経験から知っている。
だから私は「俺は現実を知っている」という人間の言うことを、決して信じないことにしている。
それは彼が「自分に見えている現実」と現実を無批判に混同するほどに頭が悪いか、それともあえてパフォーマンスとして「俺は現実を知っている(お前らは知らんだろ)」と言っているか、そのどちらか(もしくはその両方)だからである。
前者はバカであり、後者はペテン師であるので、そのどちらにしてもまともに話を聞く価値などないのである。
それに真の努力とはそれ自体が目的であり快楽であるという倒錯的なものではないだろうか。
別に私のオリジナルな考えではない。
幸田露伴がそう書いているのである。
露伴は『努力論』(そのものずばりのタイトルだな)の初刊自序にこう記している。
努力は一である。しかしこれを察すれば、おのずからにして二種あるを観る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は当面の努力で、尽心竭力の時のそれである。人はややもすれば努力の無功に終わることを訴えて嗟嘆するもある。然れど努力は功の有と無とによって、これを敢てすべきや否かを判ずべきではない。努力ということが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力すべきなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのずからにして存して居るのである。
(中略)
努力は好い。しかし人が努力をするということは、人としてはなお不純である。自己に服さざるものが何処かに存するのを感じて居て、そして鉄鞭を以てこれを威圧しながら事に従うて居るの景象がある。
努力して居る、もしくは努力せんとして居る、ということを忘れて居て、そして我が為せることがおのずからなる努力であって欲しい。そうあったらそれは努力の真諦であり、醍醐味である。
幸田露伴『努力論』(岩波文庫、p23、p25)太字強調は例によって私。
露伴は努力を「直接の努力」「間接の努力」と区分しており、私が引用に際して省いた部分では、努力が功に結びつかない原因について、この2つの努力という視点から詳細に説明しているが、まあここではそのことは触れない。
露伴がここで述べている大事なことは、努力とはそれ自体が善きものであり、「意味」や「必要性」を基準にしてするかどうかが決められるようなものではないし、決して何かを得るための手段でもないということである。
そして努力のそのような本然は家事にも言えるのではないか、と私は思う(お、やっと話が本題に戻ってきたな)。
私は18の時からずっと一人暮らしだから、そのことが深く身に染みている。
一人暮らしの場合、家事労働に「意味」や「必要性」が主導権を握る余地などないからである。
やったからといって褒められるわけでもないし、やらなかったからといって怒られるわけでもない。
自分が特に気にしなければ、どんなに部屋が汚れ、冷蔵庫の中身が腐り、窓がホコリでくすみ、書架がめちゃくちゃになろうとも、家事をする「必要性」など生じないし、「意味」も感じない。
だからひとり暮らしにおいては「汚部屋」なるものが簡単に出現するのである。
しかし、だからといって家事をしなくていいとはならない(当たり前だよね)。
それがなぜかはわからない。
なぜかはわからないが、なんとなく「それじゃあだめだよね」と思う。
それはどんなグータラ人間でも「なぜかわからないけど、努力しないとダメな気がする」と薄々感じていることと同じかのように私には思える。
私たちはなんだかそこに「意味」や「必要性」とは関係なく存在する後ろめたさや不遜さを感じるのである。
こうして私たちは「マガジンのマウンテン、ボトルのリバー」(by 岡野昭仁)に侵食された自身の生活空間を復元するために、重い腰を上げる。
しかし、まさにこの「重い腰を上げる」瞬間にこそ、私たちはいかなる「意義」や「必要性」からも自由な身として私の運命をあくまで私たち自身のものとして引き受け、私たち自身の生に振り向く瞬間なのである。
私は時折かなり部屋を散らかす。
それはもう、おそらくほとんどの方には想像できないレベルで「散らかす」のである。
「のだめカンタービレ」の「のだめ」を笑って見ることができないレベルだと表現すれば、わかっていただけるだろうか。
なぜ私はそんなに部屋を激しく散らかすのか。
それは単に人生の局面において「もうどうでもいいけんね」と投げやりになることがたびたびあるからである。
ようは「だらしない」だけなの。
ただ、勘違いしていただきたくないのは、この「もうどうでもいいけんね」状態のときでも、私はちゃんと職場に出勤し、時間を守ってきっちり労働し、共用スペースのゴミに気づいたならば拾い、オフィスのデスクだって(多少本を積み上げている以外は)キレイに使っているのである(うん? 多少か?)。
つまり私が「だらしない」のは自宅だけなのだ(まあ、当たり前か)。
でも、これって「今、ここ、私」だけに視点を委ね、「他人に対しては配慮するけれど、自分に対しては配慮しなくていい」と判断しているという、悲しいほど想像力に欠けた思考の末路なのよね。
自分だって他者である。
私のなかには私だって知らない私がたくさんいるはずだし、なにより「未来の私」だって「そんなのいるかどうかすらわからんし、いるとしても絶対に理解などできない」存在であるという意味では、立派に他者としての自分なのである。
なぜ他人に配慮しておきながら、自分自身に配慮しないのか。
それは私が「いま、ここ、わたし」に「私」の全権を移譲し、未知なる私に対して圧政を引く「私」の独裁体制を築いているからである。
ようはバカだからである。
家事を「いま・ここ・わたし」の「意味」や「必要性」で捉え、「どうせ俺は困ってないし、誰にも迷惑はかけてないだろ」とのたまう私は、涙が出るほど頭が悪いのである。
いかん。
私はこのまま「頭が悪い」まま死にたくない。
だからちゃんと「このままじゃいかん」と立ち直る。
それは、あるいは単に「次にコケるため」立ち上がるだけなのかもしれないが、それでも立ち上がるのである。
この立ち直るという作業が目に見える形をとるのが、私の場合「お掃除」と「ダイエット」である(後者については今は触れない、話が長くなるから)。
しかしなぜだかわからないが、この瞬間に、つまりゴミの山を射すくめるように睨みつけ、ホウキを手に取り立ち上がるまさにその時、私はいつも謎の爽快感、不思議な開放感、言葉にできない生命感を感じるのである。
まるで谷底に向かって自ら第一歩を踏み出すシーシュポスのように。
ここから私がときどき家事を溜め込むという謎行動の説明がつく。
つまり、私はこの「重い腰を上げる」ことで感じられる「勝利」の瞬間をあまりに好みすぎていて、それを「いっぺんにドーン」と楽しむために、無意識のうちに家事を溜め込んでいるのである。
ふむふむ、なるほどね。
というのはお片付けができない自分への口実であり言い訳です。
わかってます。
カミュや露伴をだしに使うわけじゃないです。
すみません。以後ちゃんとお掃除しますから。
んなくだらないことを考え続けても仕方がないし、せっかく得がたい「家事モード」に突入したので、股下が破れたジーンズ2本と脇下が裂けた冬用コートを持って秋のキャンパスを突っ切り、近くの裁縫屋さんに行く。
自分で縫える範囲のお針仕事なら自分でやるのだが、結構派手に裂けているので諦めた。
「餅は餅屋」である。
3つで30元、「5日後に出来上がるから取りに来い」とのこと。
オッケー。
家に戻って今度はカーゴパンツの取れたボタンを縫い付ける。
これくらいのお裁縫なら私だって出来る。
気づくと12時。
予定通り。
シャワーを浴びて大学へ行き、お仕事モードに切り替え、書き物と作文の添削を夕方まで進める。
外が暗くなったあたりで買い物をして帰宅。
ご飯を食べてお酒を飲んで寝る。
9日(土)
昨日に続き澄み切った秋晴れ。
唐突にこの週末は思う存分ゴロゴロすることに決定。
結構疲れがたまった気がするので、疲労した心身を2日かけて労わるのである。
とはいえ、とりあえず最低限の運動(三本ローラー30分)だけこなす。
休む時は思い切って休んだほうがいいのだろうが、こういうあたり意外と神経質な性格である。
心地よい汗をかいたあと、ゆっくりとお風呂に浸かりながら映画を見る。
お風呂から上がったあとによく冷えたビールをちびちび啜りながら「ヒカルの碁」から「弱虫ペダル」とアニメ三昧。
見ている途中で眠くなったのでお昼寝。
起きると15時。
あわてて夕飯の買い出しに行き、またお風呂に入り、ご飯を食べながら、今度はワインをちびちび飲む。
お供は変わらずアニメ。
やっぱり「ヒカルの碁」は名作だと一人納得する。
少年漫画では、最初に出てきた「最強」キャラがストーリー展開によって格が下がってしまうことがよく起こる。
私が思うに、それは作者がそのキャラに「最強」とか「神」とか名乗らせてしまい、作品世界における天蓋的存在にしてしまったからである。
さすがに『ヒカルの碁』は違う。
この作品では、いきなり佐為、塔矢行洋という囲碁世界における「最強」キャラがふたりも出てきているにも関わらず、彼らの格はずっと下がらない。
なぜなら、ふたりとも「神の一手」を希求する打ち手ゆえに、彼らは自分で自分を「天蓋である」などとは自称できないからである。
それは原作者のほったゆみさんがこの漫画を描いた動機が「ああ、私は囲碁が弱いな。どっかに囲碁の神様みたいな人がいないかな」という自身の未熟さの自覚であることによるのだろう。
作品世界を統べる実質的「天蓋」であり「神」である作者が神の一手を極めていないと自覚している以上、物語に神が出てくるはずがないからである。
「底が割れない」面白さは、こうして成り立っているのではないかと考える。
そんなことを考えてている間に眠くなったので就寝。
10日(日)
昨日宣言したとおり、今週末の仕事は「ゴロゴロ」である。
したがって、昨日と全く同じ行程を繰り返す。
おかげでだいぶリラックスできた。
こうして有意義に「無為に」週末を過ごしたのだが、体重が2kg増えてしまったのだった。
ゴロゴロすることで、また「岩」がゴロゴロと奈落の底え落ちてゆく。
しかし私はその行先を見つめ、ふっと軽く一息ついたあと、その「岩」を追ってふたたび谷底へと歩き出すのである(明日からね)。
11日(月)
11月11日。
日本では「ポッキーの日」であるが、中国では「買い物の日」。日本でもヤフーなんかが数年前から「いい買い物の日」なんてやっているが、正直芸がないパクリである。恥ずかしいね。
それはさておき。
中国では毎年11月11日になるとオンラインショップがどこもかしこも大安売りを始める。
そこでたくさんの中国人がたんまりと買い物をするので、結果的に中国全土で流通が混雑し、普段は2~3日で届く荷物が一週間程度経って手元に届く(もしくは届かない)ことになる。
私は極度のひねくれものなので、「みんな」が並んでいる店には絶対行かないし、「みんな」が見ている映画は絶対に見ないし、「みんな」がやっていることは絶対にやらない(そして「みんな」が去ったあとに一人で楽しむのである)。
だからこの種のイベントが開催されている時に「みんな」と同じように買い物を楽しむことなどしない。
しないのだが、去年さまざまな事情から、どうしてもこの時期にネットショッピングをしなければならないことがあった。
中国の宅配業者は基本的に家にまで届けに来ることはないので(じゃあ宅配業者ではないな)、数日後に大学内にある業者の営業所に商品を受け取りに行くと、まさに「長蛇の列」「黒山の人だかり」とはこのことかというほどの数の人間が犇めき合っていた。
結果的にたった一つの荷物を受け取るのに40分(!)も列に並ばされた。
「時は金なり」
いくら安かろうが、そうやって買った商品を受け取るためだけに時間を空費するのはどこかが間違っていると思う。
なので、そんな体験は金輪際お断りである。
それにもともと中国では11月11日は“光棍节”(guang1gun4jie2、日本では「独身の日」と訳している)といって、“单身”(dan1shen1)の若者たちを記念する若者文化だったはずである。
それにアリババが目をつけて「買い物の日」になったわけであるが、今や“单身”など関係なく、恋人や配偶者へのプレゼントを売るお店だってある。
ものを売れれば(そして買えれば)口実はなんだっていいのである。
物好きだね。
ところでここでいう“单身”であるが、日本語の「単身」とはちょっと意味が違う。
中国語を勉強したことがある方にとっては常識に属することだろうが、中国語の“单身”、それは未婚であるかどうか以前に、恋人がいない人間のことを指す。
だから、たとえば授業で日本語を学び始めたばかりの学生さんに「みなさんは『独身』ですか?」と日本語で質問すると、得意げな顔をしてフルフルと首を横に振る学生さんがいるが、彼らは決して「私は既婚です」と言っているわけではなく、「お、『独身』って中国語では“单身”だったな。私にはステディーな相手がいるから、私は『独身』ではないな」と思考しているだけなのである。
以前中国に来て間もない頃、学生さんから日本語で「先生は『独身』ですか?」と聞かれたことがある。
私は当時も今も結婚していないし、したこともないので、「はい、独身ですよ」と答えたところ、彼女(19歳)はニッコリと笑って「私も独身ですよ」と言ってくれた。
当時の私は中国語をまったく解さなかったので「何を当たり前のことを!」と思ったものである。
したがって、“单身”の記念日である“光棍节”を「独身の日」と訳するのは、本当は間違っているのである。
だって「独身だけど恋人はいる」なんてザラでしょう。
などとどうでもいいことを考える。
そんな「独身の日」であるが、6時過ぎに起床。
眠い。
しかし1限から6コマ詰まっているので、気合で身体をベッドから引き剥がし、シャワーを浴びて学校へ行く。
ちなみに中国の大学では1コマ45分であり、1つの科目が2コマからなる(45分・10分休憩・45分)のが普通である。だから、日本的に言えば、今日は3コマ授業が入っているわけである。
疲れるわい。
終日授業をこなしバタンキュー。
12日(火)
美しい秋晴れ。
この日は10時から2年生の「視聴説」だけ。
ちょっと受講態度に問題があったので、説教する。
態度の問題といっても、別に授業中に私語をしたりウロウロ立ち回ったりするということではない。
いま勤務している学校はある程度の学力がなければ入れないので、そういう「論外」な学生さんは大学入試で殆どふるい落とされ、あまり存在しない。
だって「授業中に私語をする」「授業中にウロウロする」ような人の話も聞けない人間が、知識量を問われる大学受験をパスできるはずがないもの。
だから、私の学生さんたちは授業のあいだ、とてもお行儀が良い。
教師の話を静かに聞き、「この知識はテストに出るから覚えなさい」と言えば一生懸命覚える。
問題はまさにそこにある。
彼女たちは「成績」や「就職」に関係がある知識はせっせと覚えるのであるが、彼女たちにとって関係がない(ようにみえる)教科書の内容や教師の話を見聞するとなると、いっきに聞き流す癖があるのである。
それではいけない。
内田樹が、
…「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」といった一連の能力のこと…
と指摘するように、自分のちっぽけな価値観(「成績」や「就職」など)からみて「関係ない」から「意味がない」と簡単に判断してしまう知的態度を「バカ」と呼ぶのだから。
学生さんたちは学びの近道を求めたがる。
しかし、考えていただければわかると思うが、近道とはスタート地点から見て「おお、近道だねえ」とは決して判断し得ないからこそ近道なのである。
しかるに世間一般で言われる「近道」は、道を歩き切った未来の自分の視点を不当に先取りしている。
しかし、その「未来の自分」って、「こうなるだろう」という想起だし、その想起は現在の自分によるものだから、結局「今の自分」でしょ。
その「近道」、実際に歩いていないじゃん。
なんで信じられるの?
私の経験上、真の近道とはスタート点から見ればたいてい「〜なんて・〜なんか」としてしか評せない。
だから、実はタメになる話とは、注意深く聴かなければ「~なんて・~なんか」と簡単に「理解」できてきしまうのである。
そのことを自覚していないならば、人間は簡単に他人を見下し、鼻で笑い、小馬鹿にし、切って捨てる。
でも、人が知的に真摯であろうとする限り、その人が感じる「なんか変だな」は、今のその人には見えない本質的「なにか」への近道であり、「あいつらは変だ、俺は正しい」という偏見への落とし穴ではありえない。
近道と「近道」の見極めは愉快に生きるために必要な資質だが、「いま・ここ・わたし」を絶対化する人間は近道を見落とし、他人をせせら笑うだけで、どこにもいけない。
それが「近道」に潜む落とし穴だ。
という以上の言葉を私は諸君に送る。
なぜなら、これは私の経験によって私が泥だらけになりつつも発見した確かな近道だからである。
私の話が近道か「無駄」かは、皆さん自分で判断してください。
と説教をする。
疲れた。
疲れたので久しぶりに蘭州ラーメン屋へ行く。
いつもと同じだと芸がないので刀削面(生地の塊をスパスパと小刀で削りながら鍋に投入し茹で上げる麺料理)を注文。
満腹したので一時帰宅し昼寝。
2時間ほど仮眠をとり、ジムへ。
とうとう入会することを決心したので、お財布を握り締め(という修辞もスマホ決済の普及とともに字面だけになってしまったな)、このまえ案内してくれた2年生のOくん、4年生のOさん、Sさんとの待ち合わせ場所へ。
OさんとSさんも興味を示していたので、心優しい先生として私がお誘いしたのである。というのは半分ウソで、3人まとめて入会すればちょっとだけ安くなるのである。
悪い教師である。
まあ、でも2人も安くなるからいいじゃんね? ん?
入会金をお支払いし、トレッドミルで軽く30分走ったあと、インストラクターについて大胸筋と上腕三頭筋のトレーニング方法を指導してもらう。
2時間ほどみっちり鍛える。
身体がパンパン。
心地よい疲労感を味わいながらシャワーを浴び、さっさと就寝。
13日(水)
授業がないオフ日。
8時に起きて大学へ。
原稿を書く。
15時に切り上げてジムへ行き40分走る。
昨日筋トレしたので今日は走るだけ。
実は私は昨日までトレッドミル(ルームランナー)で走ったことがなかった。
そのため、「えー、部屋の中で走るのって面白くないんじゃないの?」という固定観念があった(エアロバイクにはよく乗っていたのでなおさら)。
それがやってみると、結構楽しい。
もちろん経験が少ないから物珍しさがあるのかもしれないが、あっというまに時間が過ぎる。
で、走り終わったあとになぞの「トランス感」がある。
きっとトレッドミルではペースを他者(マシン)が握っているので、それに同期して走っているうちに、知らず知らずのうちに自分を抜け出しマシンと一体化しているのであろう。
楽しい。
汗をたっぷりかき、家に戻ってシャワーを浴び、ご飯とお酒をいただき寝る。
14日(木)
学期第12週の木曜日。
偶数週なので今日は授業は10時からの「作文」だけ。
なので早起きして学校に来てから、溜まっていたいろいろな仕事をやっつける。
「作文」の授業ではちょっと小言を言う。
テーマに対して自分の頭で考えずに、ネットで散見される他人の意見や親・教師からこれまで聞きかじった一般論をかき集めた作文が多かったからである。
そしてその問題に気づいていない。
あのね、ある限定された条件下で異なる視点からなされた複数の他人の「説明」をかき集めて文章を書いたところで矛盾が生じるのは当然なの。
たとえば、文中で「西洋人は個食を好み、中国人は会食を好む」と書いておきながら、「場所によって文化は多様である」と終わる作文がある。
私はここで書かれているそれぞれの意見に異論があるわけではない。
「場所によって文化は違う」とか「西洋では〇〇であり、中国では××である」というのは、ある条件下・ある視点においては、それぞれ正しい説明として成り立つものである。
しかし、それはあくまで条件を設け、視点を限定し、自分の論点を絞った上で、自分の言葉として綴った上での話である。
そうする限り、文章には必ず一本筋が通るからである(その文章に含まれる誤謬や矛盾も含め)。
しかし、他人の説明を深く読み観察することなく「道具」として利用してしまうと、同じ文章中に視点や条件や論点が異なる文章を放り込んでしまうことになり、「文化とは場所によって異なる。西洋では○○だが、中国では××である」と平気で書いてしまうのである。
え、「文化とは場所によって異なる。西洋では○○だが、中国では××である」の問題がわからない?
だって、本当にこの書き手が「文化とは場所によって異なる」と考えているのだとしたら、なんで「西洋では〇〇」「中国では××」などと簡単に一般化できるの?
「場所によって異なる」んだから、当然「西洋でもイギリスでは○○、フランスでは××」というべきだろうし、当然「イギリスでもイングランドでは〇〇、スコットランドでは××」というべきだろうし、当然(以下省略)。
繰り返すが、「文化は場所によって異なる」も「西洋では○○、中国では××」も、それぞれの書き手が慎重に条件を付け視点を限定したうえで論じるならば、立派な説明として成立する。
しかし、設けた条件や立った視点が全然違う他人の説明を無反省に「道具」としてかき集め「私の意見」としたら当然矛盾するし、その矛盾を指摘されても説明できないに決まっているのである。
だって、自分で考えて書いたわけではないのだから。
自分で考えて書いていない以上、自分の視点も論点もないし、自分の視点や論点がない人間が自分の視点や論点が成り立つ条件や、自分の視点や論点の限界を言語化できるはずがない。
多くの学生さんが自分で考えて作文を書いていない原因は(そしてその結果このような「寄せ集め」作文が生まれる原因は)、おそらく彼らに「自分の疑問」というものが存在しないからではないかと私は思う。
「存在しない」という表現は不適当かも知れない。
それではまるで「疑問」というものが事前に頭の中に用意されていて、それが自然と私たちの前に湧いてくるかのような印象を与える。
おそらく多くの学生さんは「自分の疑問」というものが自然に湧いてくると考えていて、湧いてくるのを座って待っているのだろう。
しかしそれでは、おそらく永遠に「自分の疑問」などには出会えないと私は思う。
なぜならば「自分の疑問」とは、一見正しそうな他人の説明やこれまで自分が信じていた当たり前の常識に対して「え、ほんとうに?」「うっそー、まじで?」などというふうに、とりあえず口に出してみたあとに初めて認知される事後的な存在だからだである。
実際のところ、私たちは「わかっていないのだ」とわかるためには、自問自答を繰り返さなければならない。
そして「わかっていなかったのだ」とわかることを、発見とか創造などと呼ぶのである。
しかし「自分はわかっていると思っている人」は「本当に?」と自分に問いかけはしない。
だって「本当に?」と問いかけてしまうと、実は自分はわかってなどいないという事実に直面してしまうからだ。
だから自問自答しない人は永遠に「自分はわかってなどいない」ということをわかることはできない。「わかっているつもりの人」は疑問の言葉をとりあえず口に出すという行為が「自分を否定してしまう」と恐れているからだ。
しかし、それは「自分を否定する」ということではない。
むしろ私たちの口に出した何気ない疑問こそが、私たちを形作っていくのだ。
もちろん、ある程度「形作って」「完成した」つもりになった人間は、それをキープするために、自問自答しなくなるのだろうけれども。
それって「自殺」(By カミュ)だと私は思う。
そんなことを考える。
そんなことを考えたのでお腹がすいた。
授業のあとで近くのメシ屋に行き、「トマト卵炒め」丼をかっ込む。
「たいしたご馳走でもないのに先生は幸せそうに食べますね」
なんて学生さんからの呆れた声も時折聞こえてくるが、別にいいの。
なんでも美味しくパクパク食べるというのが私の数少ない美徳のひとつなのだから。
そうやって摂取したカロリーを脂肪ではなく筋肉に添加するためにジムに行き、軽く走ったあとに大腿筋と大胸筋をみっちり鍛える。
パンパンに張った身体にキツいながらも充実感を覚える。
明日はオフ日なので早めにご飯を済ませて就寝。
おやすみなさい。