とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

忙しさにパンクしそうな頭で『ハチクロ』見たりスピーチ指導したりしながら考えたりしたこと(11.15~22)

 15日(金)

7時起床。

快晴。

運動のために自転車に乗って巣湖南岸を100km走る。

特筆することは特になし。

ただちょっと風が強かったのでペダルが重かったな。

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夕方には無事に帰宅。

夜は肉を焼いて赤ワインをゴクゴク飲みながらパクパク食べているうちに眠くなったので寝る。

おやすみなさい。

 

16日(土)

8時起床。

大学に行って原稿書きに勤しむ。

…はずだったが、そうして「出勤」し一時間ほど原稿を書いて小休止していたらデスクの近くに積んでおいた『ハチミツとクローバー』第一巻がなんとなく目に入る。

そして読み出したら止まらなくなってしまった。

「森田さんこのあとどうなるの? ねえ!」

オフィスには原作一巻しかないが、幸い家に帰ればアニメ版がある。

ということでそそくさと帰宅してベッドに飛び込み、途中でお昼寝を挟みながらも『ハチクロ』三昧。

「おい、原稿は?」

まあいいじゃん、天気がいい休日なんだし。

ワイン片手にカウチに寝転びながらすっかり夢中になって鑑賞してしまい、気づくととっぷり暮れて夜になっていた。

お腹がすいたのでローソンへ。

 

最近自分の運動量と食欲に正の比例関係が見られる。

「よく動き、よく食べ」なわけだから健康的で大変結構であるが、問題は体重増加にも僅かばかりではあるが正の比例が指摘できるということである。

ようは食べすぎですね。

今だってチキンを齧りながら、そんなことを書いている。

でも、美味しいんだもの。仕方がないじゃない。

満腹したので、うつらうつらする。

どこか遠くから「おい、寝るな!寝たら太るぞ!」という声が聞こえてくるが、どんどん遠のいてゆく。

おやすみなさい。

 

17(日)

寒い。

寒いので昨日に引き続き布団にくるまりアニメ版『ハチクロ』を見て過ごす。

これは長くなりそう。

メインキャラ同士の恋愛が絡んでいて、そのメインキャラ同士の視線が絶対に合わないということで物語が転がっていく点では『のだめカンタービレ』と同じだ。

しかし、今見たところまでに限って言うと、『ハチクロ』には「師」(地位や肩書としての教師ではなく、成熟に導いてくれる存在)が出てこない。

だからみんなメソメソしている。

でもメソメソしながらもみんな楽しそうだ。

したがってついつい見続けてしまう。

あくまで印象だけど、いちばん楽しそうな森田先輩が、実は心の中ではいちばんメソメソしている人なんじゃないか。

……っていう印象を持たせたまま物語が終わったら怒るよ、私は。

 

18日(月)

学期13週目。

本学では一般的に授業は16週まで。17・18週に期末テストである。

今週は奇数週なので授業が4コマ増えるし、土曜日にはスピーチ大会があるからその指導もしなければならないし、もうすぐテストだからその準備もしなければならない。

後に控えている仕事のことを考えて、ちょっと気が遠くなる。

とはいえ、今学期もあと少し。

休暇に入ったら原稿書きに専念できる。

頑張ろう。

と気合をいれ、ひーこら言いつつ6コマこなす。

疲れて帰宅。

 

疲れたので『ハチミツとクローバー』の続きを見る。

『ハチクロ』は私なんかが予測したよりも深い。
だって「こいつらいつまでウダウダメソメソ恋してんだよ」と思いながら、私は「ちっ、もう一話だけ見てやるか」というふうに、気づけば底なし沼に自分から腰まで浸かっているのだから。
たぶんアニメ版を全話見終わったあとの私は、「おお、これは素晴らしい作品であるな!」と簡単に転向し、原作漫画を大人買いしてしまうのではないかと予測する。
そう。

目敏い読者諸氏はご賢察の通り。 
私はここでそう予測しておくことで、「ほらね、『私は転向するだろう』と私が予測したとおりでしょう」と保険を掛けておくような、小さくセコい人間なのである。

……そう。

という自己言及も、「というふうに俺は俺を反省的に見ることができるぜ」という私の見栄という同根から来てるのだ。

めんどくさい男だね。

だけれども、実は私にとって、こういう救いようない「グルグル」は単なる自己弁護の手段ではない。

実は「グルグル」そのものが私にとっては堪らなく快感なのである。 
たぶん子どもの頃にある絵本(pcにうるさい人間に構いたくないのであえて書名を伏せるが)を大好きだったからだな。

「トラが木の周りをグルグル回っているうちに溶けてバターになりました」ってやつ。

私が「グルグル」することで「バター」的ななにかに昇華できるかどうかはわからないけど、別に(こうして私の雑記を読んでくれている物好きな人以外には)誰にも迷惑かけていないんだから、いいじゃんね。

 

19日(火)

8時起床。

寒い。

さっさと大学へ。

暖かいコーヒーで目を覚まそうとするが、コーヒーフィルターが切れている

仕方がないので、ネットで「コーヒーフィルター 代用 身近」と検索し、手元にたまたまあったキッチンペーパーを折りたたんでコーヒーを入れる(なぜオフィスの手元にキッチンペーパーがあるのかは謎)。

正規のフィルターに比べると通水性が悪いようで、いつもより時間がかかってじっくりドリップされる。

心なしかいつものコーヒーより味わいが濃い。

 

今日の授業は3年生の「視聴説」。

作文を書く態度にも生かしてほしいので、「仕事の流儀」(宮崎駿)をご覧いただく。

学生の皆さんには、世界のミヤザキが徹底して「意味を考えて作っているんじゃない」「作為に満ちた映画を作るのはくだらない」「言いたいことがあって作品を作るなんて信用していない」と口にしていることに注意していただきたい。

私は以前ブログにこう書いた。

「私が書きたいもの」とは「私たちに決して把握できないもの」そのものである。

だって、「じゃあ『あなたが書きたいもの』を見せて」と言われて「はい、これ」と提示することなど不可能だからだ。

仮に他人の文章を持ってきて「こういうのが書きたい」と言うならば、それは「私が書きたいもの」ではなくて「私が書きたいものに近いもの」と言うべきだろうし、仮に自分が書いた文章を持ってきたとしても、それは「私が書きたいもの」を書いた結果、つまり「私が書きたかったもの」に過ぎないからだ。

「私が書きたいこと」とは未だ存在しないし、そんなものが存在するのかすらわからない。

その点で「私が書きたいこと」とは未来的存在そのものであり、ただ「私が書きたいことがある」という予感だけがあるにすぎないのだ。

その点で未来と同じである(私たちは未来を予感はできるが把握はできない)。

だから人は言葉を綴るのであるが、その結果目の当たりにする結果は、実のところ「私が書きたかったこと」などではなく、「そんなものを書くとは思わなかったこと」である。

私たちは自分が書いた文章を「自分が書いた」としか捉えられないので、「私が書きたかったのはこれだ」と思い込んでいるだけである。しかし、なぜ書いている時の自分でない「他人」同然の読み手の自分が、「これこそ私が書きたかったものだ」などと判断できるのだろうか。

文章を書くという行為は、書く前も後も、自分を二つに割るという行為である。文章を書いている時に、文章を書いている自分と読んでいる自分を中枢的に支配している自己など想定できない。書いている自分と読んでいる自分との媒になっているのは、自分ではない「なにか」である。

このことに気づき、「なにか」に対して謙虚である人間は、決して「俺の頭の中にいま存在するものを紙の上に再現しよう」などとは思わない。 

私がここで書いている「自分を二つに割る」というというのは、今の自分という視点に固執しないということである。

つまり「今の私の目的を達成するため」ではなく、「今の私から少しでも遠く離れるため」に思考し、言葉を紡ぎ、表現するということである。

その意味において、言葉は道具ではなく言葉そのものであるし、表現とは手段ではなく表現そのものである。

このような言語運用・表現には「戦略」などない。

というのも、「言語運用・表現には『戦略』などない」ということこそが、「今の私から少しでも遠く離れるため」の戦略だからである。

宮崎が作為に満ちた作品を作りたがらないのは、そのような態度だと作品に「今の私」が充満してしまい、つまらないからではないかと私は勝手に推測する。

彼が作品を作り続けるのは、それによってしか新鮮な生を実感できないからではないだろうか。

だから、司会の茂木健一郎や女子アナが「これだけ名声を得たのになぜまだ作り続けるんですか? 大変だなと思うんですけど」などという(数名の学生さんが思わず失笑するほど)的外れな質問をした時に、宮崎が「絵描きがなんで絵を描くのか、それによって自分が存在するからですよ!」と不機嫌になったのは、まあ当たり前だと思う。

「なんでそんなバカな質問するんだ!」と。

かってな想像ですけどね。

 

授業が終わったあと、ともに指導教師を務めるK先生とスピーチ大会に出場するSさんと話し合いながら、午後いっぱい原稿を練る。

今度のスピーチ大会のテーマは「中華料理」。

そのテーマに関連する事例をSさんと一緒に探す。

今回Sさんが選んだ事例は「キャベツが入った回鍋肉」。

ある日、彼女が動画サイトで「孤独のグルメ」を見ていると回鍋肉が出てきたそうな。

するとそれを見た中国人ユーザーたちが「やっぱり日本の中華料理はニセモンだな。本物の回鍋肉にキャベツなんか入れるかよ」「は? うちでは入れるけど」などと喧嘩を始めたのだという。

それを評してSさん曰く「本物なんて決める必要ある?」

なるほど。

確かにこれはスピーチの「マクラ」としては良い事例である。

まず第一に、「中国の本物」と「日本の偽物」というわかりやすい対立構図ができているという点が良い。

第二に、「中国の本物」を巡って中国人同士で喧嘩している様子を描くことで「そもそも本物の料理などあり得るのか」という問いを提示し、深い考察へ切り込むことが可能な点もうってつけである。

ここから「本物の料理って何?」という問いを投げかけ、それを起点とする、観衆に開かれた、立体的なスピーチをすることが可能になると私は思う。

ちなみに日本でもお馴染みの回鍋肉はもともと四川料理である。

私はその本場で3年過ごしたが、あちらの回鍋肉には主にニンニクの葉や苕皮(サツマイモの澱粉から作った食材)が入っていて、キャベツは一般的ではなかった気がする。 

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苕皮回鍋肉。画像はhttp://wx1.sinaimg.cn/large/829ce305gy1fn5rndqbdoj20sg0h6793.jpgよりお借りしました。

ウラを取るためにQQやWeChatなどのSNSを駆使して重慶の教え子や友達たちに聞いてみた。

「キャベツ入りの回鍋肉ってどう?」

すると、

「絶対入れない。ありえない」

「家によるけどうちは入れない」

「うちは入れる」

「最近キャベツ入りもよく見るようになった。なんでだろう?」

などとはっきりしない。 

うーむ。

ではなぜ日本の回鍋肉にキャベツを入れるのだろうか。

これまた調べてみたところ、四川出身であり四川料理を日本に広めた陳建民さんのアレンジによるものであるそうな。

陳建民の名は聞いたことがある。 

さらに調べてみたところ、そもそものキャベツだって起源はヨーロッパ(そうだったんだ)。

中国に入ってきて100年ほどの歴史しかない外来食物なのである。

ふーん。

おもしろいね。

そんな「キャベツ入り回鍋肉」であるが、最近では中国でも普及し始めている(Sさんによるとうちの大学食堂の回鍋肉はキャベツ入りだという)。

それが日本からの「逆輸入」なのか、それとも単に中国でも一般的になってきただけなのか、それはよくわからないけれど。

「本物偽物論争」から食文化の本質を指摘し、それを異文化交流で求められる視点にまで繋げるスピーチを目指して欲しい。

頑張って!

 

ということで遅くまで指導が続き、帰宅したのは21時半。

お風呂に入ってナイトキャップをすすりながらうだうだしていたが、日付を跨ぐ瞬間に就寝。

おやすみなさい。 

 

20日(水)

オフ日だが片付けないといけないことがたくさんある週の中日。

7時起床。

シャワーを浴びたあと大学へ。

道すがら空を見上げると綺麗な冬の空。 

 

午前中は昨日に引き続きSさんの原稿作りのお手伝い。

てっきりもう書き上げているかと思ったら、まだ完成していない。

こんな土壇場になっても決定稿が出来上がっていないのは初めてである。

大丈夫かしら。

午後も明日の作文の授業のための資料作をしながらスピーチの指導を並行する。

オフィスのパソコンを使ってこまねずみのようにアセアセと原稿を書いているSさんをおいてジムに行き汗を流す。

1時間ほどで戻り、ともに指導を担当しているK先生と一緒に追い込みをかける。

指導が終わる頃には外は真っ暗。

疲れた。 

 

帰宅して『ハチクロ』を見る。

アニメ版1期15話をポテチ片手に見ていたら、あまりの展開にびっくりして思わず固まる。
いや、原作一巻の雰囲気からこれは予想できんわ。
女性漫画家の豹変の凄さって男の理屈では本当に計り知れない。
こればかりは直線モデルの「努力と成長」に囚われる男の視点では死んでも予測できない。

うーむ。

私はこれまで少女漫画は敬して遠ざけてきた。
しかしそろそろ本格的に学ぶ時期かもしれない。

 

 21日(木)

まるでサブウェイのサンドウィッチのように8時から16時まで授業がギッシリと詰まった奇数週の木曜日。

その間に挟まっているわずかな休み時間もあさってのスピーチ大会のための指導に当てる。

あさってが本番な割にSさんに危機感が足りない(ような感じを受ける)。

なのでちょっとキツめの「キック」を入れる(もちろん非物理的に)。

中途半端にやって中途半端な結果を得ると、あとで自分に返ってくるよ。

「まあ、どうせ一生懸命やらなかったし、こんなもんだよね」と。

その「こんなもんだよね」はまっすぐ「私はこの程度の人間だよね」に転化する。

「自分で自分にかけた呪いを解くのは誰にも不可能である」とどこかで内田樹が書いていた。

頑張れ。

とはいえ、とりあえず決定稿が完成。

残り時間を有効に使って本気で覚えなさいね。

 

こうしてお日様が沈む頃にはフラフラに。

家に帰って3日連続のバタンQ。

 

22日(金)

オフだが午前中にSさんのスピーチの練習。

一夜明けたSさん、昨日出来上がった原稿を暗唱できるになっている。

それは偉いし、すごい。

おいらならたとえ母語でも無理だわ。

でも、今のままだと棒読みである。なので、身振り手振りや表情、抑揚などについて、Sさんの親友のOさんも交えて話し合いながら高めてゆく。 

 

私たちが目指すのは「作為に満ちた、悲しい」(By宮崎駿)一方通行のスピーチではない。コミュニケーションとして自然なスピーチである。

「競技としてのスピーチ」や「勝つためのスピーチ」ではないといってもいいかもしれない。 

話し手と聞き手が対立的な構造として捉えられ、話し手が自身の言葉や表現を完全に御する「天蓋」として言葉を発する言語活動のことを、私は「わざとらしい」と呼ぶ。

そのような言語活動は、なぜ「わざとらしい」のか。

なぜなら、そのような言語活動では、たとえ話の内容が理解できずとも、話をする話し手の計算や意図だけは聞き手にはっきりと透けて見えるからだ。

それは私たちが「ぶりっこ」(死語だな)の奇々怪々な言動の内容が理解できずとも、そのような言動を通じて「ほら、私可愛いでしょ? ねえ『君、可愛いね』って言えよ、おう」というメッセージだけは正確に把握できることと同じである。

不自然さとは、単に状況にそぐわない言動のことを指すわけではない。

そうではなくて、話し手が言葉を差し出す時の視線が、どうやら聞き手自身にではない「なにか」に向いているような違和感のことを、私たちは「不自然だ」と形容するのである。 

対して自然なコミュニケーションとは、「良い成績を収める」などという自分の所与の目的のために言葉を道具とし観衆を手段とするような言語伝達ではない。

自然なコミュニケーションにおいて、発し手の視線は未知にまっすぐ向かう。

未知を愛する表現者は、「わからない」から言葉を紡ぎ、「わかりたい」から思考を重ね、その過程そのものを自らの表現とする。

もちろん自分の表現を「わかってほしい」と望んではいるが、それは「私がわからないものをわかってほしい」という態度を取るのであり、「私がわかっているとわからせる」という態度には決して向かわない。

したがって、彼は言葉を言葉として尊重しており、聞き手を聞き手として尊敬している。 

「言葉を言葉として」「聞き手を聞き手として」重んじるとは、ようは「言葉も聞き手も未知の存在である」という大前提を掲げた上で、表現を行うということである。

なぜそのような大前提を掲げるのか。

それは、自然な表現を欲望する話し手は、未知の存在として聞き手を設定し、そのような聞き手を未知の存在として尊重しながら即時即応的に「これ、どう?」「あ、やっぱこっちかな?」というふうに言葉を差し出していくことでしか、自らの希求する自然な表現が生成しないことを理解しているからである。 

そしてその「これ、どう?」「あ、やっぱこっち?」のプロセスにおいて、話し手は自らの差し出した言葉が秘めている可能性や潜在性が自らの世界では収まりきらないことを、自ずから知るのである。 

「私が言葉を使う」のではなく「言葉が私を事後的に形成していく」ことを、感覚で理解するに至るのである。

 

自然なコミュニケーションにおいて、発し手の言葉はひとつの世界として完成されてはいない。 

だからこそ、話し手が差し出すその世界には、聞き手が疑問を持ったり違和感を覚えたりする余地がある。

そして同時に話し手自身ですら、自分の差し出した言葉に疑問を持ったり違和感を覚えたりすることができる。

結果として、話し手は話しつつも自問自答的に思考する。

「……ってさっきは言ったけど、本当だろうか」

なんてふうに。

そうやって、ときには詰まり言いよどみながらも、自ら問い、自らに事例を引き、自らに説明し、自ら納得することを通して、新鮮な言葉に出会い続ける。

聞き手はそのあとを追う。 

もし仮に話し手が無事に「藪」を切り抜け、「開けた原っぱ」のようなところにたどり着くことに成功したならば、その開放感を聞き手も追体験できる。 

そのような没目的的・不打算的・紆余曲折の言語活動こそが、自然な言語活動であり、双方向的なコミュニケーションである。

そう私は考えている。

これは話し手の計算づくの完全な世界を聞き手の前で再現するような作為に満ちた言語活動とは全く別種のものである。 

私は教師だから、スピーチ指導にあたって重視することは順位などではない。

スピーチを通して学生さんが「一皮むける」お手伝いをいかにして実現するかである。

それは「こうすれば勝てるから、これらの基準や手法を全部覚えて、ステージの上で可能な限り完璧に再現しなさい」という指導とは異なるものである。

私は大学で日本語を教えているわけであるから、それはつまるところコミュニケーションや言語に関して深い知見を授けるという仕事に携わっているわけであり、ただ単に日本語の発音やイントネーション、表現を教えておしまいというわけではない。 

「それって言語学とかの専門家が教えることでしょ。シロウトのきみは日本語だけやってればいいの」 

果たして本当にそうだろうか。 

コミュニケーションや言語という、人間として生きるならば誰でも身近に接していることを「教える」ためには、言語学やコミュニケーション論の専門的知識がなければ、不十分なのだろうか。 

逆に言えば、言語学やコミュニケーション論の専門的知識があれば、コミュニケーションや言語について十分に「教える」ことができるのだろうか。

私はなんだか違う気がする。

さっきのような意見は、たぶん「教える」ということを学説や専門知識を「移動させる」ことと同じだと思っているのかもしれない。 

しかし、「教える」ために教師に必要な素質は、知識や技術以前に「不思議がる」ことができるということではないだろうか。 

それも「真面目に不思議がる」ことができるということが必要なのだ。 

なぜかというと、それができない人間は自らを既知と未知との狭間に放り込むことができないからだ。

ニーチェはこう述べている。

 

或る者は自分の思想の助産者を求め、また他の者は自分が助産しうる者を求める。このようにしてよい対話が生れる。

『善悪の彼岸』(木場深定訳、岩波文庫、p136)

 

私にとって教育の本質とは、知識の移動ではなく学生との対話である。

教師とは教育を行うものである。

よって教師には学生との対話が求められるわけだから、知識や技術の移転以前に求められる教師の重要な役割は、対話力である。

学生と対話するといっても、それは学生の興味関心に教師が合わせて「友達のように」おしゃべりをするというわけではない。

学生と「おしゃべり」するために大学生の間で流行っているアニメや音楽などをキャッチアップしようと必死になっている先生を時々見かけるが、私にとってそれは教師の仕事ではない。

そのような先生の努力がご本人の熱心さや優しさからなることを私は少しも疑わない。

ただ、それだと学生は教師のことを「友達」だと思ってしまう。

「友達」から学ぶことは難しい。

もちろん難しいだけで、不可能ではない。

しかしほとんどの人間にとって、「友達」の話を「先生」の話として全て傾聴し何かを学び得ることは、やはり難しいと言えるだろう。

だから人類は制度として「先生」というキャラクターと「学校」というフィクションを準備して、「先生」をあくまでフィクション世界のみにおいて作用する教壇という一段高いところに載せているわけである。

だってそうでもしなければ、我々は「あの人が言うんだから、とりあえず聴いてみよう」という知的節度を保持するのが難しい存在だからである。 

とはいえ、私は今ここで理念の話をしているわけであって、もちろん実際に教壇に立っている者の言うことがほんとうに聴く価値があるかどうかは別問題である(ああ、耳が痛い)。


話が逸れた。 

ようは私は「教師として求められる対話」と「友達として求められる対話」とは違うと言いたいのである。

空間的な表象を使って言うならば、前者は同一水平面上に位置していない者同士の間で展開されるし、後者は同一水平面上においてのみ展開される。

だって「友達」ってそういうものでしょ。平等な関係なんだから。

これが「恋愛の対話」となるとまた違う。 

「恋愛の対話」は決して平等ではない。むしろ平等ではないからこそ、その心理的位置エネルギーの差が2人の関係を(ときには2人ですらコントロールできないかたちで)ぐいぐいと展開していくのである。 

とはいえ、「恋愛の対話」においては、2人のベクトルは互いに向いている。 

「恋愛の対話」において互いが意図するものは、互いに可能な限り互いへと接近しようとすることである。

「友達の対話」が意図するものは、互いが既に位置している水平面を維持することである(そうではない「友達」というのもあるが、これは「親友」と別にカテゴライズすべきものであるので、ここでは除く)。

「師生の対話」はこのどちらとも違う。 

教師が学生に向けて言葉を発する時、その意図は学生を彼が現在位置している水平面から離脱させることにある(ピンポン1巻第9話で小泉がスマイルにやったように)。 

「師生の対話」が質的に変化した「師弟の対話」は、このメカニズムを互いに了解したうえで予定調和になされる「誤解の繰り返し」であるが、まあそれは今は関係ない。

少なくとも学校教育において言えば、教師が新しい知識を学生に与えるのは、単に学生の現在の水平面を補強するためではない。 

教師というものは、学生の現在の水平面では解決できない新たな知識を与えることで学生のうちに問題を発生させ、混沌を誘発し、迷宮へと誘うことによって、「君にはまだまだ知らない世界があるのだよ」というメッセージを送るのである。

したがって教師として求められる対話とは、なんといっても学生に問い続けることである。

私はそう考える。

そして、学生に問い続けるために必要な素質が、「真面目に不思議がる」ことができる能力なのである。

ご存知のとおり弟子に答えを与えずに絶えず問い続けることで弟子に自ら答えを発見させたソクラテスであるが、彼はそんな自らの手法を「産婆術」と称した(ソクラテスのお母さんは産婆さんだった)。

イメージ的には今にも子どもが生まれそうで息んでいる妊婦さんの手を取って「頑張れ、頑張れ!ほら、頭が見えてきたよ、もう少しだから!」と声をかけ続ける産婆さんである。

同じように教師の大切な仕事は、学生に対して「どうして? うん、なるほど。でもちょっとわかりにくいかな。ほかの表現はできない?」などと問い続けることである。

と言うのは簡単だけれど、「ふーん問い続ければいいんでしょ、簡単簡単」などと理解されては困る。

実際にやってみればわかるけれど、これってかなり難しいですよ。

まず、学生さんの蔵する豊かな可能性にもっとも接近できるであろう「問い」を教師が自ら発見しなければならない。 

これが一番難しい。

だって、そのためには、まずは教師が自分の価値観や認識を「 」で括って、学生さん自身を不思議なものとして捉えなければならないからだ。 

それをせずに最初から教師が「この学生はこういうものだ」と決めつけてしまうと、第一撃となる問いが見当はずれなものになってしまう。

学生という生き物は「自分の蔵する可能性」の詳細は自分では把握していないが、「自分の蔵する可能性」の方向性はなんとなくわかっている。

だから、教師の「第一撃」が失敗すると、「あ、こいつはダメだ」と直感的に把握し、そのあといくら教師が問を重ねても面従腹背、以後は「はいはい」としか聞いてくれなくなる。

本当にそうなのである。

なんでこんなに自信を持って言えるかというと、私自身がそういう失敗を繰り返してきたからである(ううっ、胸が痛むぜ)。

「真面目に不思議がる」とは、それほど難しいことなのだ。

だから、目の前の学生さんを常に未知なる存在として不思議がることができる教師は、それだけで教師として優れた資質があると思う。

で、「目の前の学生さんを常に未知なる存在として不思議がることができる」教師は、目の前のすべての対象を(それどころかそうやって不思議がっているそもそもの自分自身をもさえも)「未知なる存在」として不思議がることができる。 

なぜならば優れた教師は常に不思議がっているおかげで自分自身に複数の未知なる他者を共存共栄させているからである。

彼はそもそも自分自身のなかで優れた対話を実現させることができている。

自分の内なる未知性を尊重できている。

そんな人間は他人の未知性を尊重し優れた対話を実現することもできるだろう。

だから「自分自身すら不思議がることができる」人間こそ、学生さんとの間で優れた教育的対話を実現できる人間である。

私はそう考える。

やはりニーチェはこう記している。

 

根っから教師である者は、すべての事柄を、ーー自分自身をすらも、自分の生徒との関係においてのみ真面目に考える。

                        前掲書、p117

 

「根っからの教師」のコミュニケーションにおいて考慮されるのは、「自分の生徒との関係」のみである。そこに「金」とか「性別」とか「人種」とか、そういう余計なものが入り込む余地はない。

なぜならば、「根っからの教師」は「すべての事柄を、ーー自分自身をすらも」教育の場に捧げているからである。 

教育の場に捧げるとは、「不思議なもの」として学生に提示するということである。 

自分が教えているものごとに常に不思議を抱き、さらにはそんな自分自身をすら不思議がれる人間、それが根っからの教師である。

そして教師がそのこと「だけ」十分にできていれば、学生はどんな教師からでも十分に学ぶ。

そのあとの学びは学生さんの個人的な仕事である。

私は教育についてそう考えている。

というわけで、(話は最初に戻るが)「教える」ために教師に必要な素質は、知識や技術以前に「不思議がる」ことができると私は考えているのである。

 

では、「不思議がる」ために必要なことはなんだろうか。

それは未知を純粋に楽しむということではないだろうか。

ようは頭を空っぽにしてものごとを見て問を生起させるということである(まあもちろんそんな簡単にまとめられるはずないのだが)。 

そしてそれはすべての生成的なコミュニケーションに言えると私は思う。

スピーチだって、話し手が未知に謙虚であり、同時に未知へにじり寄ろうという気概に溢れているのならば、「問い」「思考」「発見」という自然な言葉の運動が生じ、観衆へと伝わるのではないかと思う。

しかるに管見の及ぶ限り、現在の日本語スピーチ大会で見かける学生さんたちに構造的に欠けているのが、これなのである。

つまり、そもそもの「問い」が決定的に見られないのである。 

以前も書いたが、あるスピーチ大会(テーマは「もし携帯電話がなかったら」)で優勝した学生のスピーチの「結論」は、「もし携帯がなかったら、私は不安で堪らず、こう叫ぶでしょう。『どらえもーん!たすけてー!』」だった。

私は思わず「のび太かよ!」とツッコんでしまった(あ、それを狙ってたの?)

「問い」がないから、自分を言語運用の確固たる主体として、言語活動の天蓋として、言葉を自己をショウアップするための「道具」としてしか扱えない。

申し訳ないけれど、そんな活動をいくら重ねたところで、大学生としての知的成長に資するところは少ないと私は思う。

「自分は知らない」ということを知ること、「自分はできない」ということが分かること、平たく言えば「自分のバカさ加減に自分で気づく」こと、それこそが成長なのだから。 

そのためには、「私が言葉を使う」という不遜な態度を一旦捨てなければならない。

 

ということを考えながら指導する。

とりあえずあすの本番までにやれることはやった。

あとは学生さんを信じるまでである。

Sさん、頑張ってね! 

 

午後は散歩に出る。

ついでにタートルネックのセーターが欲しくなったので近くのユニクロへ。

しかし売っていない。

あら、そう。

何事も諦めが肝心なので、来た道を引き返す。

日向でワンちゃんとにゃんこが揃って日向ぼっこしている。

なにやらこの二匹、ただならぬ親密さを醸し出している。

ねえ、

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君たち、いったいどんな関係なの?

 

家に帰って、あすのためにコートとジャケットを引っ張り出し、ファブリーズをシュッシュして干しておく。

明日は審査委員を担当するので、久しぶりにある程度フォーマルな格好をしなければならない。別に誰に言われたわけでもないけど、なんとなく、ね。 

あすの準備が終わったので、ちゃちゃっとご飯を作り、お酒を飲む。

アルコールの働きでいい感じに愉快な気分になったので立川志の輔の落語(「茶の湯」「壺算」)を聴く。

面白い。

あまりに面白くて寝床の上で酸欠になるぐらい笑い転げる。

聴きながらいろいろと発見があったが、それについてはまた今度。

あすに備えて早めに就寝。

おやすみなさい。