とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

いかにズボラでも最低限持つべき「親切心」について

3日(日)

曇り時々雨。

寒い。

日本から帰ってきてからというもの、合肥はずっとこんな天気である。

街全体の雰囲気が「灰色」だ。

こんな天気が続くと心も晴れないし、ベランダの洗濯物や「干し魚」(焼酎のあて)も乾かない。

そろそろ太陽が恋しい。

 

今日は桃の節句(ひな祭り)である。

ご存知のとおり、桃の節句は中国五節句のひとつである。

「上巳の節句」とも呼ばれ、もともとはこの時期の代表的な植物である桃の力を借りて、邪気を祓う日であった。

この日に川で身を清めるという中国の風習が日本に渡って、流し雛となり、やがて現代のひな祭りの形に発展していった(とどこかで読んだように私は記憶している)。

このように桃の節句は本来中国の伝統的な節句のはずだが、私が知る限り、現在の中国人にとって3月3日はあまり特別な日ではないようである。

だから、今日はただの日曜日。

私にとっては「いよいよ明日から新学期」の日曜日である。

この仕事を始めて6年目だが、長期休暇が明けて「さあ、明日から授業だ」という段階になると、今でもちょっと緊張する。

「久しぶりだからうまく喋ることができるかしら」と不安になるのである。

私は基本的に授業では教科書を使わないので、教壇の上で頭が「真っ白」になったら「終わり」である。

なので朝から大学に行き、先日から書き続けている原稿を仕上げながら、授業の準備をする。

原稿の方はとりあえず書き上げた。

ふー。

組版をするので出版社に送るが、原稿の変更はしばらくは可能だということなので、内容の吟味や推敲はあとあとじっくりすることにする。

内容については数日寝かせておかないと判断できないのでしばらく気にしないことにするが、語り口というか文体というか、つまり「どう語るか」の問題が気になっている。

自分で読み直して思ったが、今のままだとちょっと「教師臭さ」が残っている。

教科書なので別にそれでも構わないのかもしれない。

しかし、教科書に載っている「教師臭い」文章は学生のみなさんに読み飽きられているだろうから、このままの語り口だと「ふん」という態度でさらっと読み流される恐れがある。

かといってあまりに親しみを込めすぎた語り口を採用してしまうと、「うわ、こいつなんか馴れ馴れしい。こっちくんな」と忌避される可能性もある。

さらにいえば「日本人の筆者」感を残すか消すか、それとも思い切って「中国人の筆者」になりきって書くかという問題もある。

それらの課題をこれからじっくり考えるのである。

村上春樹が「文章を書く際に大切なことは『親切心』です(『サービス心』ではなくて『親切心』ですよ)」みたいなことを書いていた。

私はプロの物書きではないが、これは物を書くときの大切な心構えだと思う。

「サービス心」で文章を書いてしまうと、「わかりやすく書こう」と思うあまりに却って読み手を「子ども」扱いしたり、無意識に受け手を「バカ」だと想定したうえで、言葉を紡ぎだしたりしてしまう恐れがある。

それに「サービス」が目的なら、こんなにたくさんの娯楽やエンタメが満ち溢れた今の時代、別に自分で頭を悩ませて文章を書く必要性も薄いのではないだろうか。

活字離れがとやかく言われるが、テレビやらユーチューブやらが登場し、新たな「サービス」を提供してくれるようになったことで「わわっ!」と雪崩を打って本を放り捨てるような人間は、作家が「親切心」を傾ける対象にそもそも含まれていないのだと私は思う。

それに文章を書くという行為は、自分では上手く消化できない個人的な「なにか」をとっかかりとするものである。

私は作家ではないが、これに関しては自信を持ってそう言える。

現に私はそうやってここに文章を書いているわけだから。

私のなかに今の自分の手元にある語彙や枠組みでは「はい、これ」とすっきりしたかたちで取り出すことができない個人的な「なにか」が存在する。

その「なにか」をかたちにして拾いあげるために、数ある言葉のなかから「まあ、こんなものかな」と適切な言葉を選び、そうして選んだ語句を何度も何度も並びかえ、自分にとって心地よい音韻の響きを探りながら、私たちは文章を綴っている。

だから、文章を書く際に求められる「親切心」とは、まず第一に「自分の書き物の最初の読者」である自分自身に対する心配りだと思う。

その心配りのきめ細かさや度合いによって、結果として「他人に読んでもらえるかどうか」「ほかの人に伝わるかどうか」が決定的に変わってくるのではないだろうか。

すくなくとも自分の文章の読者として私は、書き手の私にたいしてそうあって欲しいと望んでいる。

そしてそれは私次第でどうとでもなるのである。

 

今回書いている文章は教材用のものなので、やはり大切になってくるのは説明の「わかりやすさ」である。

学習者にある程度深い観察や考察を促すための導入となるようなトリッキーな要素ももちろん求められるけれど、その「トリッキーさ」も、あくまで「ふふふ、でも実はもっと深いものがあるんだよ」ということをお知らせするという意味では、結局は説明なのである。

ここのところちょくちょく引用している橋本治の本の中に、こんな箇所があった。

 

 私の中には、「お前はよくそれで作家なんかやってられるなー」と思われる要素がいくらでもあるが、私は「単調な説明」が大っ嫌いなのである。そこに、なんらかの「芸」や「遊び」が入らないと、つまらないと思う。

(中略)

 「対象をきちんと書く」ができていなかったら、「それを見る私の気持」なんかは伝わらない。「説明」は小説の基本で、「説明をする」がすべてでもあるような「実用の文章」なら、これはもっと重要である。「簡にして要を得た」とは、この説明が「きちんとできている」なのである。ところがこの私には、長い間「小説家になろう」なんていう気がなかった。それ以前に、「文章を書きたい」という気がなかった。その逆の、「文章なんか書かないですむんだったら一生書きたくない」は、いくらでもあった。そんな人間が作家になってしまうから、話は面倒になるのである。

  私は根本のところで、「説明なんかめんどくさい」と思っている。作家というものを、「書きたいことを勝手に書いていればいい人間」だとしか思っていなかったから、すぐに挫折してしまったのである。「文章で説明する」という「必要」も「修行」も「心構え」も、その以前の私にはいっさいないのだから、「単純なる説明」ですむものを、私は「楽だ」とは思わず、「面倒だ」といやがるのである。

(中略)

 作家というのは、「文章で人になにかを説明する職業」なのだから、「語るべきことを相手の理解に届くように語る」は、作家の基本である。それができての「作家」で、「えらそうなことを言うから作家はえらい」ではないのである。

橋本治『「わからない」という方法』(135、138、140頁)

 

橋本の「『単調な説明』が大っ嫌い」というのは、ズボラかつ気分屋の私には非常に共感できる。 

先に述べたように、私が普段書いている文章(今こうやってご笑覧頂いている文章のことね)は、あくまで私が私の雑感や片付かない思いを私自身に説明するために書いているわけであって、別に誰かを説得しようとか世に何かを問おうとか、そういう大それたことを目的としているわけではない。 

だから、「説明なんかめんどくさい」と思ってしまえば、特に困る人間や支障が出るプロジェクトが存在しない以上、いくらでも省略可能である。 

実際「あーめんどくさ」と思うことがしゅっちゅうあるし、説明を省略することがよくある。

そういう意味では、自分に読ませることを目的として文章を書くというのは「自炊」と同じようなものだ。

自炊には「あーめんど。省いちゃえ」が許される。

自分の胃袋に収まるものを自分で作る作業だからだ。

しかし、自炊はあくまで自炊であって料理の一部分に過ぎないし、「自炊できる人間」と「料理人」も違う。

そのことを忘れてはならない。

橋本が以前抱いていたという「書きたいことを勝手に書いていればいい人間」なる作家像を拝借して比喩にかまけるならば、料理人を「食べたいものを勝手に作っていればいい人間」と捉えるのは不適切であるということだ。

「食べたいものを勝手に作っていればいい」のはあくまで自炊の話であって、料理全般に当てはまるわけではない。

自炊は自分で台所に立って自分の胃袋を満たすものを作り上げれば自分ひとりでも成立するが、料理は自分が作ったものを「これ、おいしい!」と言って食べてくれる他者が存在しなければ成り立たないからだ。

特に他人に供することを目的としているわけではなく、ただ自分の口に入れることを目的としているならば、自分の都合に応じて作業工程はいくらでも省ける。

「あ、みりん切れてる。買いに行くのめんどいな。ま、酒と砂糖でいっか。別に照りを出す必要も感じないし」とか「あーエビの背ワタ取るの面倒くせー。まあ、とらなくて別にいっか」というふうに、「あーめんど」に応じて「別に」いくらでも楽できる。

しかし今回頂いた仕事はそうはいかない。

なにしろ教材である。

具体的な受け手が存在するのだ。

「わかりにくい」と言われないためには、やっぱり「親切心」をフルに発揮して文章を綴り、推敲を重ねなければならない。

勘違いしやすいが、それは「みんなに面白いと思ってもらう」ことや「全員を納得させる」を目指すものではない。(んなもん、無理だと思う)

私なりに「エッジを効かせた」箇所や、意図して繰り出した「トリッキーさ」を、「おまえの書いていることは変だ」と思われることそのものは別に全然構わない。

「つまんね」と思われても、まあ仕方がない。 

それでも「ああ、なるほど。そういう見方もあるね」と最低限納得していただくための道筋や、あとあと「今考えればあの文章おもしろかったな」と感じていただくための可能性だけは用意しておきたいのだ。

そのためには「情理を尽くして」(by内田樹)キーボードを叩く必要がある。

とはいえ、別に「情理を尽くす」ために金を出して「超高級食材」を使ったり「プロも驚く包丁さばき」を身につけるような「サービス心」は必要ない。

今の自分に可能な範囲の「食材」と「技量」で、ベストのパフォーマンスを見せればいいだけである。

まあ、しかし、それがいちばん難しい。

「あーめんど」や「別にいっか」との戦いだからである。

私はかなりのめんどくさがりであり、ズボラであり、怠け者である。

だから、常に「あーめんど」と顔を合わせているし、結構な確率で「別にいっか」になびいている。

日常的に「自炊」するが、「めんどい」ときは「ま、別にいっか」で工程を省いたり、ひどく「めんどう」な場合には「自炊」すらしない人間である。

でも、「あーめんど」と戦いながらも、せめて人様に料理を作る際に「みりん」が切れてたら「照り」を出すためにスーパーへ走り、「臭み」を感じさせないために「エビの背ワタ」をとるぐらいの手間暇をかける人間ではありたい。

そういうのが「親切心」だと思う。

私はふだん「自炊」ばっかりなので、そういう点から言えば、このお仕事はとても良い経験である。

ただただ感謝である。