とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

深夜にパスタを茹でる惨めさについて

惨めなものは世にいろいろある。
日付が変わろうとしているまさにその時刻に台所に立ち、パスタを茹でるというのも、なかなか惨めなものである。
勘違いしないでいただきたいが、なにも夜食のために台所に立つことを惨めだと言っているなのではない。
余った冷ご飯でお茶漬けを作るとか、戸棚に買い置きしていたカップラーメンにお湯を注ぐとか、そういう「小腹を満たすため」にちょっとした夜食を準備するなんてことは、誰でも経験することであろう。
それはちっとも惨めなどではない。
むしろそこにはささやかな愉悦さえ感じられる。
しかし、パスタを茹でるとなると話は別である。
パスタを茹でるという行為は日の光の下でなされるべきものなのである。
そこには一点の曇りもない、堂々たるパスタらしさがある。
対して、世間が寝静まった頃合いに鍋にたっぷりの湯を沸かし、塩を適量入れ、パスタを投入し、ガスコンロの前でひとり茹で上がるのを待つ、これはどうだろうか。
やってみるとわかるが、これはなかなか惨めである。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
グラグラと沸き立つ鍋を眺めながら、私はそう考える。
本来ならば今頃は夢の中のはずであった。
休みで逆転してしまった昼夜を再逆転させようと、早めに夕食を済ませた今日の私は、シャワーを浴びたあと、ウイスキーをロックでちびちびやりながら害のない本を読みつつ、ベッドの中で睡魔の到来に備えていた。
それが思えば8時過ぎのこと。
しかし、眠気はなかなか訪れない。
渡辺淳一のエッセイを読み終えた私は、若き日の村上春樹のエッセイに手を伸ばした。
それがたしか9時過ぎのこと。
村上のエッセイを読み終えても、それでも一向に眠くならない。
なぜだろうか。
理由はかんたん。
空腹なのである。
あまりにも早い時間に夕方を口にしてしまったからである。
私は空腹なのである。
何か口にしたいのである(酒以外のものを)。
もちろん、ここで食べるべきではない。
私だってそれはよくわかっている。
時計の針はすでに10時を回っているし、だいたい歯磨きだってとっくの昔に済ませたのだ。
そう自分に言い聞かせ、今晩3冊目となる本(橋本治)のページを繰る。
しかしいくら活字を追っても、やはり一向に眠気が近づく気配は感じられない。
むしろ目は覚める一方である。
2時間経ち、日付が変わる。
まだ眠くならない私。
溶けてしまったグラスの氷。
嘶く腹の虫。
もう、だめだ。
耐えられない。
何か食べよう。
いや、この表現は正しくない。
私はそう気づく。
「何か」などではない。
この数時間、私はうすうす気づいていたのである。
自分の心の隅っこで、ある抑圧された欲望がひっそりと私を待ち構えていたことを。
そいつが睡魔を遠ざけていたのである。
そいつは「何か」などではない。
今ここで私に口にされるべきはパスタでなくてはならないのだ。
私はそのことをごまかしてはならないのである。
そういうわけで、私はこんな時間に台所でパスタを茹でている。
もちろんそれだけで済むはずはない。
パスタソースだって用意したのだ。
まず大蒜を粗めに刻む。
フライパンにオリーブオイルを敷き、刻んだ大蒜と赤唐辛子を1本入れ、弱火で香りを引き出す。
香りが十分にたったら、苦味を出さないようにいったん赤唐辛子を取り出し、鯖の水煮缶を投入する。
くさみ消しのため白胡椒を少々振ったあと、身を細かく砕きながら、油と鯖のエキスを馴染ませ、煮立たせる。
ちょうどパスタがいい感じに茹で上がったので、少量の茹で汁とともに投下し、よく和える。
最後にちょっとだけ醤油で風味付けをし、取り出しておいた赤唐辛子をちょこんと添えれば完成である。
ああ、なぜ私はこんな真夜中に本気を出して和風パスタなど作っているのだろうか。
これが日曜日のランチだったなら、そして一緒にテーブルを囲み「美味しいね」と微笑んでくれる女の子でもいれば、まさに晴れ晴れしく祝祭的な一連の行程だっただろうに。
それがなぜ、同じことを平日の深夜のひっそりと静まり返った台所でやっただけで、こんなにも惨めさを感じさせるのだろうのか。
うう。
こんなに旨いのに(自分で言うのも何だが)。