とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

雑記(1月23・24日)

23日(土)

8時起床。

カップスープを飲みながら、教科書の最後に載せる「参考文献一覧」を作成する。

今回の教科書を作る途中、数多くの文献や先行教材に目を通した。

一部は直接引用し脚注で出典を明記したが、あくまで自分で考えるときの参考とした文献はこうして最後に著作者とタイトルを挙げておく。

そうすることで、お世話になった先行著作者への敬意・感謝の意を示すとともに、学習者や教師への情報提供とするのである。

中国で出版される日本語教育関連の教材の中には、この「参考文献一覧」を省略しているものも多い。

ひどいものになると、先行教材から例文や練習問題を無断引用しておきながら出典を明かさないものだってある。

さらにひどいものになると、そうやって無断引用している教材から重ねて無断で“孫引き”しているものさえあるのだ。

そういうのってどうかと私は思うぞ。

先日目にしたとある作文教材は凄かった。

というのも、その教科書は過去20年間に出版された日本語作文関連の教科書からの無断引用だらけなのである。
私が見た限り、例文の8割近くは他所から出典の明記なしに持ってきたものである(私はこの2年間、日本語作文関連の先行教材に目を通しまくっているのですぐにわかるのだ)。
しかもそれでいてタイトルで“新時代”を名乗っているのである。
いったいなんの冗談かしら。

「開いた口がふさがらない」とはこのことである。
この教科書、前言では「編集の途中で国内外の数多くの教材や著作を参考にした。心から感謝したい」的なことを書いている。
あのさ、辞書で一回“参考”って言葉を引いてみなよ。
参考っていうのは、何かを自分なりに達成するための“一助”にすることなの。
そのために何かを引用するのは許される。

だけど引用ってのはあくまで自分の記述の“従”に過ぎないものなの(いうまでもないがそれぞれ引用につきその引用箇所の出典を明記しないなら引用ではなく剽窃だ)。
“参考”にしても“引用に”してもあくまで主体は自分なの。
そんなこともわからないでものを作っているの?
この某教科書の編者たちに言いたいことはまだある。
前言には「足りないところがあるため、いろいろな間違いや問題がある広くご指導・ご叱責を〜」的な、“ザ・前言の定型句”が書かれている。

けれど、自分に足りないものがなにか、この編者たちは自分でわかっているのかしら。
知識じゃないよ。
技術でもない。
矜持だよ。
「他人の作品を無断でかき集めて出版するなんて恥ずかしいことしたくないから、たとえつたない出来栄えになったとしても、自分で頑張ろう」って心構えだよ。
それなしにどうやってものを作るのさ。

それなしにどうやって作文を教えるのさ。

まったく、もう。

ってな小言を言いつつ、黙々と「参考文献一覧」を作る。

これらの先行作品がなければ、私の教科書はありえなかった。

「ありがとうございました」と心でつぶやきながら、作業をするのである。

 

昼になったので、いったん作業を切り上げ、リュックいっぱいの先行教材とタブレットを持って近くの喫茶店へ。

この一週間分の日記を書き、ブログにアップする。

その後、コーヒーを飲みつつ、持ってきた先行教材に目を通す。

今作っている教科書が無事に出版されたあとにはまた他の企画が持ち上がっている。

そのための下調べである。

蛯原正子・苑崇利《大学日语写作教程》(外语教学与研究出版社、2006年)にぱらぱらっと目を通す。

コラムで「使うときに注意する語句」と題し、さまざまな蔑視語をリストにして紹介している。

「ふむふむ」と眺めていて、あることに気づく。

私が愛用する「バカ」が入っていないのである

なぜだろうか(ちなみに「低能」は入っている)。

しばらく考えて気づく。

あ、そうか。

「バカっていうやつがバカだから」だ。

バカっていうやつには好きなだけバカっていわせておけばいいのである。

そいつがバカなんだから。

なるほど。

あはは。

それはともかく、「バカっていうやつがバカ」という格言を知りつつも、私が「バカ」とあえて口にするのはそれ相応の理由があるのだ。

機会があればお目にかけようと思うが、気分がのらないのでまた今度。

 

5時過ぎまで作業して家に帰る。

晩御飯を食べてシャワーを浴びたら眠くなったので、まだ9時すぎだけど就寝。

おやすみなさい。

 

24日(日)

前夜早く寝たので5時に目が覚める。

大きなマグカップにコーヒーを淹れ、昨日作った参考文献一覧を確認したのちO主任に送信。

そのあとに昨日アップしたブログをチェックし、誤字脱字を訂正する。

気づけば9時。

今日一日は何も予定がないので、なんとなくアニメ『けいおん!』を見る。

唯ちゃんがギー太の弦を交換するシーンを見て、セミアコの弦を半年以上張りっぱなしだったことを思い出したので、弦を替えることに。

よく見ると1弦と2弦が真っ黒に錆びている。

ごめんよ。

古い弦をぱちんぱちんと切ってちゃっちゃと交換。

ついでだから、弦高が高くて引きにくさを感じていたアコースティック・ベースのサドルをサンドペーパーで削って調節。

このセミアコとアコベは去年のコロナ禍による自宅待機期間中の無聊を耐えしのぐために手に入れたものである。 

うん、どちらも弾きやすくなった。 

そうこうしているうちに時計の針は1時に差しかかっている。

散歩に出ることに。

ダッフルコートに分厚いマフラーを巻いて外へ。

蝋梅のつぼみがほころびはじめている。

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春が着実に近づいているのだと実感。

買い物客で賑わう下町の路地や市場を抜けて南淝河へ。

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この時期になると路上のいたるところで苺を売っている。価格はだいたい500gあたり250円~300円ほど。


休日とあっていつにもまして賑わう川に沿って歩く。

あてもなく2時間近くぶらぶらする。

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「水深が深いから近づくな」と警告する看板。去年7月の豪雨のときにはこの看板も水面下に沈んだ。

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スマホの歩数計を見ると17000歩ほど歩いた計算になる。
さすがに疲れたので地下鉄に乗って帰ることに。

合肥の地下鉄は3年前に開通し、年々路線が増えて便利になっている。

料金も2元程度(32円ぐらい)と安いので助かる。

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帰宅。

手を洗い、台所に立って味噌汁と“剁椒鱼头”(ドウジャオユートウ)を作る。

“剁椒鱼头”とは、2つに開いた魚の頭に醤油やオイスターソースで下味をつけ、にんにく・しょうがのみじん切りと刻んだ赤唐辛子を載せて蒸した、湖南省の料理である。

日本では中国の“激辛料理”といえば四川料理が有名だが、個人的には湖南料理のほうが辛い。

四川の辛さは花椒が効いた“麻辣”(マーラー)だが、湖南は唐辛子の辛さが引き立つ“香辣”(シャンラー)である。

四川の辛さは「舌がしびれる」が、湖南料理は「唇が腫れる」辛さ。

とくに青唐辛子の辛さを強調した料理ときたら、ほんとうにお腹を壊すんじゃないかと思う(実際に一度壊しかけたことがある)ほどである。

とはいえ、私は湖南料理も好きである。

とくにこの“剁椒鱼头”は大好きなので、自分で辛さを調整しつつ作るのである。

重慶の白酒“江小白”と一緒に頂く。

うまい。

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お腹が膨れたので、シャワーを浴びたあとベッドに入り、映画『クライマーズ・ハイ』を見る。

堺雅人が若い。

悠木(堤真一)が後輩の佐山(堺)・神沢(滝藤賢一)の現場雑感を編集部上層部の嫉妬で落としてしまったあたりで眠くなったので、おやすみなさい