とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

テスト嫌いについて

1月28日

8時過ぎに起床。

久々の青空だが、窓の外では冬の冷たい風が乱舞している。

会社へ向かう人々がマフラーを風で持っていかれないようにしっかり押さえながら急ぎ足で歩いている。

ううう、寒そうだ。

このまま暖かい布団の中でゴロゴロして過ごしたい。

ご案内のとおり、期末テストは先々週終わり、私はとうに冬休みに入っている。

したがって、ゴロゴロしたいなら好きなだけすればいいのであるが、暖かいベッドから身を剥がし、しっかりと着込んで大学へ向かう。

というのも、5日後に提出締め切りを迎える期末テストの採点がまだ2教科残っているのである。

はあ、めんどくさい。

そんなことを考えているうちに到着。

事務方の職員さんたちはまだ出勤日であるが、日本語学部のオフィスには誰もいない。

きっと成績なんてとっくの昔に提出されたのだろう。

貸切状態の事務室にてひとりきりで学生さんの答案に向かう。

赤ペンでカリカリと採点しながら、ふとテストについて考える。

『ドラえもん』におけるのび太の言動から察するに、世間一般的に言えば、子どもたちにとってテストとは嫌いなもの、関わりたくないもののようである。

また、『ハリー・ポッター』シリーズのロン・ウィーズリーを見ればわかるように、テスト嫌いは洋の東西を問わない「学生の常識」らしい。

じっさい、私の学生さんたちもテストが嫌いな方がほとんどのようである。

私の学生時代を振り返ってみれば、正直、テストはどうでもいい存在だった。

私は基本的に成績なんて気にしていなかったからである。

別に成績がとびきり良かったからではない。

私の両親が私のテスト結果について、いっさい何も尋ねてこなかったからである。

とはいえ、もしかしたら私の父や母は息子に「テストどうだった?」と尋ねていたのかもしれない。

しかし私はさっぱり覚えていないのである。

少なくとも、テストの成績で叱られたりしたことはないのは確かである(重ねていうが別に私の成績が特に優れてよかったからではない)。

親に叱られることがないとわかっている以上、成績が良いか悪いかなんて私にとっては些細な問題だったのである。

そうやって高校3年生になったある時期から、受験を控えている息子に対してあまりに何も聞いてこない両親に対して、さすがに私も不気味さを覚えるようになった。

第一、安くない模試の受験料を毎回払ってくださっている「スポンサー」に対して、その結果を開示しないのもいかがなものか。

こうして私は自分から親にテストを見せる子どもになったのである。

そればかりではない。

私はトイレに張ってあった月めくりカレンダーの裏紙を利用して、各科目における偏差値の推移を折れ線グラフにまとめ、台所に貼りだした。

そして、私の成績(5教科7科目)がいかなる現状にあり、今後どのような推移が予想されるか、家族のみなに閲覧可能な状態としたのである。

なぜわざわざそのようなことをしたのか。

考えてみれば、親だってあえて「何も訊かない」だけで、べつに「どうでもいい」わけじゃあるまい。

聞きたいけれど、デリケートな時期の息子に気を使って聞けないだけなのかもしれない。

ある日そう気づいた息子は、自らの父母の苦しい胸の内を慮り、あえて自らの成績を開示するに至ったのである。

これを成長と言わずしてなんと言おうか。

まあ、今思うと「なにやってんだ」と思わないでもないが、あれはあれで親を安心させるための私なりの孝行心だったのだよ。

話を本筋に戻すけれど、ようするに学生時代の私にはテストに対する忌避や嫌悪はなかったということである。

先に述べたような(おそらく世間一般からすれば特殊な)家庭環境もあり、私は毎週放映される『ドラえもん』を見るたびに「ふーん、そんなもんなの?」と不思議に思っていたわけである。

かといって、別に私はテストが好きだったわけではない。

私にとってテストとは盆と正月だけ顔を合わせる親戚の兄ちゃん程度の存在に過ぎなかったのである。

 

「よっ、久しぶりだな」

「あ、来たの? 久しぶりだね。痩せた?」

 

そんな感じである(お分かりだろうか)。

学生としての私とテストの関係は、ようするにそんなものだった。

好きでもないし、嫌いでもない。

きわめてニュートラルな関係だったのである。

しかし私が教師になるとテストとの関係は一変した。
私はテストを憎みはじめたのである。

理由は簡単で、採点作業と成績処理が面倒だからである。

まるで面白くない作業だからである。

誤解してほしくないが、教師としてテストを作る作業・出す作業はけっこう好きである。

まるで女の子とのデート前日にいそいそと「どこに連れて行こうかな」「なにを食べさせてあげようかな」とプランを練る高校生のように、私はテストが近づくと「なにを聞こうかな」「どんなテーマで論述させようかな」とワクワクするのである(学生さんからしたら迷惑なだけだろうが)。

そうやって自分が作って出したテストを解いている学生さんを一望しながら自分が出した問題を自分で解いてみるのも大好きである。

実際に受検生と同じ立場になって解いてみると、「おお、この出題にはこんな秘された意味があったのか!」と気づくからである(自分が作ったのにね)。

答案を回収してオフィスに戻り、「おお!」とか「ふん」とか言いながら学生さんたちの回答を読むのも好きである。

ここまではいい。

しかし、このあとが問題である。

つまり、手元に帰ってきた答案を「正解」と照らし合わせて○×を付け、配点基準に沿って集計し、成績をはじき出す作業が私は大嫌いなのである。

ほかの先生方が一日か二日そこらで終えるこの作業に、なぜか私はいつも10日前後かかってしまうのである。

採点だけならまだいい。

採点が終わったあとも苦痛は続く。

まず、科目ごとに成績をまとめて、平常成績とともにWebシステムに入力・提出する。

すると、成績一覧や平均点数などの基本データ、さらには成績分布が科目ごとにデータ化されるので、それをプリントアウトする。

印刷した紙には所定のフォーマットと、命題の妥当性やら今後の教学改善案やらなんやらについて説明する欄が逐一設けられているので、必要な所見を手書きで作文しなければならない。

それが終わると、科目ごとに参考解答を作成・印刷する。

そして先ほど記入した作文や学生の答案とともに一冊の冊子にまとめて、関係各所のサインをもらったうえで、学校に提出する。

ここまでしてやっと「あがり!」なのである。

私にとってはこの作業が拷問に等しい。

単純に苦痛だからである。

「これってなんの意味があるの?」という小学生的疑問が私に襲いかかるのである。

もちろん私のこの疑問はあくまで社会を知らない小学生的疑問であり、実際にはこのような事務処理には重要な意味があるのだと思う。

しかし、「これには意味があるのだ」とわかったところで自分が興味を持てない物事に対してはちっともやる気が出ないのが私の悪癖である。

学生のときだって、「これは試験にでるぞ」とか「これが理解できないと大学に行けないぞ」とか、つまり「これには意味があるんだぞ」という教師の説明(という名の脅し)はまったく響かなかった。

だって興味がわかないのだから。

いくつになっても根本的な性格は変わらないものである。

仕方がない。

仕方がないが、こうして大学からお鳥目を頂いて口を糊している以上、きちんとやるべきことはやらなければならない。

それは意味があるかないかとか、楽しいか楽しくないかとはまったく別の話である。

もういい大人なんだから、そのくらいはわかっている。

でも、「嫌いなもんは嫌い」もまた真なり。

こうして私はテストが嫌いになったのである。

一方、学生諸君にとってテストとはいかなる存在か。

テスト前の試験勉強が如何に大変だろうと「出したら終わり」ではないか。

なんと気楽なことだろう。

私が寒風吹きすさぶなかこうしてわざわざ大学に出て来てカリカリと赤ペンを走らせている今も、学生諸君はどこかで「あはは」「うふふ」と冬休みを満喫している。

そう想像すると、私の心は羨望と嫉妬で狂いそうになる。

羨望と嫉妬はやがて理不尽な怒りへと形を変え、腸が煮えくり返り、赤ペンを握る右腕がわなわなと震えだす。

これでは公平公正な成績審査に支障をきたすので(まあこれは冗談だけど)、採点などしてはいられない。

頭を冷やすためにも外の空気を吸いに行くことは避けられないのである。

結果として取り組みの割には採点に時間がかかり、私のテスト嫌いは拍車がかかる一方なのである。

あー。

テスト嫌い。

おいらも遊びに行きたいぜ。

思わずため息が漏れる。

そう、ご賢察のとおり。

私は現在、テストからの逃避としてこの文章を書いているのである。

早く終わんねーかな。

あーあ。

……。

天気もいいし、ランチがてら散歩行ってこよっと。